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Jan 23, 2010
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カテゴリ: 劇評
現在形の批評 #101(舞台)

冨士山アネットproduce 『EKKKYO-!』

1月17日 東京芸術劇場 小ホール1  マチネ

EKKKYO-!』


伸るか反るか、どちらにせよ絡み付く制度


長谷川寧率いる冨士山アネットが主催する『EKKKYO-!』。昨年の9月のスズナリ公演に引き続き、東京芸術劇場提携公演“芸劇eyes”の一環として公演が持たれた。「演劇、ダンス、音楽等、ひとつの枠に留まらないジャンルを[越境]した団体が、ショートピースを発表するパフォーマンスフェスティバル」というチラシのリード文通り、現在の小劇場界で頭角を顕しつつある集団が一堂に会したラインナップというところだろう。出演はパフォーマンス順に、ライン京急、ままごと、CASTAYA Project、モモンガ・コンプレックス、岡崎藝術座、冨士山アネット。


この手の若手集団のショート作品を一つの公演にパッケージングする公演手法が、近年目に付くようになってきた。昨年11月にはフェスティバルトーキョーの一環として東京芸術劇場中ホールで8つの団体が出演した「東京舞台LIVE版」が上演されたし、桜井圭介がオルグする「吾妻橋ダンスククロッシング」は今やチケット争奪戦が加熱する名物イベントとなっている(事実、私は昨年9月の公演を当日券で並んで観れなかった)。舞台芸術では、JCDNが主催する「踊りにいくぜ」のように、コンテンポラリーダンス自体の普及を目的とし、全国各地を巡回しながら地域とのネットワークを広げるという、一種の運動体として試みられていたのがショーケース作品であった。演劇の分野にもこういう動きが出現してきたということは、それだけ「演劇、ダンス、音楽等、ひとつの枠に留まらないジャンル」横断が進行したとひとまず言えるだろう。だが、この公演を見渡した印象は、単なるカタログの陳列というものでしかなかった。もっとも、元々「ショートピース」の「カタログ」公演が作り手の方からあらかじめ宣言されているので、そのコンセプト事態に云々しても仕方のないことかもしれない。受け入れてくれる観客はその他に大勢いるのだから、前提が受け入れられない者は去れば良いと。それくらいには舞台芸術は活況しているかのように流通しているのだから。


そういった声がジャンルの[越境]を試みているらしい作品群から発せられているように思える。確かに、一般的な意味での、戯曲を俳優が立体化し、観客がその出来を含めて戯曲世界を享受するという「演劇」はここには少ない。どれも、演劇的なダンス、あるいはダンス的な演劇が、クラブ空間で流れるような音楽やカラフルな照明の中で開陳されている。その軽さを、意味内容を排された記号情報が無尽蔵に流通する高度資本主義・ポストモダンの反映の極みと言ってしまえばそれだけで終わってしまう。やはりここであってしかるべきなのは、根源的にアナログに拘束された舞台芸術でさえ、そういった状況に否応なしに飲み込まれてしまうことに対する戦略的な意志ではなかったか。芸術を志向する初発の原動力とは、自己存在の確たる規定という希求心を、社会状況への対応の模索に乗せて思考し、屹立させるものであるとしよう。であるならば、今作の上演には、何の抵抗やバイアスが感じられず、完全に状況に則ったものでしかない。その点に、私はこの試みの脆弱さを感じる。進むべき指針の失った社会/世界では極端な話、犯罪以外では何をやっても非難されるいわれはない。だからといって、単に近年のモードの反映のような何でもありの舞台芸術の氾濫を見せられたところで、一体に何だ
と言うのだろう。


社会状況の変化に伴って、現在の舞台状況はこれこれこういう傾向にあると指摘することは容易い。そして、うまくモードに則ればもてはやされ、市場ルートを駆け巡ることができる。だが、そういったものは往々にして所詮装飾を変えただけでその実、根底的な構造へ対する眼差しが欠如したものである。つまり、表層で戯れるばかりで演劇を規定している根っこにまで進駐していない舞台は、市場で踊らされているだけだ。そして、既成の演劇から離れようという企みとは裏腹に、根幹がいささかも揺らぐことがない演劇の制度にも最終的に絡め取られる悲劇を迎える。それを、私はCASTAYA Projectの作品に強く感じた。


HPの表記には、Enric Castaya(エンリク・カステーヤ)氏によるプロジェクトがCASTAYA Projectであり、「カステーヤ氏のプロフィール、出演者などの情報は事前非公表で上演を行う。Enric Castaya & Experienceのメンバーのプロフィールも一切非公表。」とある。これだけを見れば、そして『EKKKYO-!』で上演した『"±0'00"(0’00”No.2)』を観れば、この集団(?)の人を食ったようなアイロニカルな方法は、「作品から記名性を廃し、芸術家、作品、観客の新たな関係を提示」するために仕掛けられたラジカルな戦略とも受け取れるだろう。しかし、結果的にこの作品はまったくそういったベクトルとは真逆に作用し、表層的なモードの陳列が、かえって演劇制度の岩盤さを露呈させたように思う。以下、かいつまんでこの舞台を素描してみよう。


舞台は背景スクリーンに「演劇を始めます」と文字が大写しにされることから始まる。しばらくの後、「携帯電話をお切り下さい」と文字が投影され、そして「立ってください」という指示が映し出される。舞台は素舞台のままだ。素直にその指示に従う観客もいる。だから「やっぱり座ってください」という指示が出ると、立った観客はすごすごと従うだろう。これがちょっとしたイントロダクションだと思ったのは、再度「演劇を始めます」と表示され、カウントダウンが「20」から始まるからだ。「10」からは観客に「手拍子をしてください」と求めさえする。だが、「0」の次は「-1」「-2」…… と座標軸がマイナス方向へと進んでいくだけで、尚誰も舞台上へは登場しない。どうやら、この作品の意図は、舞台作品とはなにかについての明確な意図があるようだ。具体的には、舞台を観るとはどういうことか、そして舞台とは何によって形作られるのかという問いかけである。前者については、観客の参加(立ち・座り・手拍子)による直接的な介入により、単なる作品の享受者としての位置からの脱却が狙われているのだろうし、後者については物語という完結した世界と、それを駆動させる俳優を排することで、演劇を成立させる要素とは何かということへの意識の促しだ。


スクリーンに投影された指示に従うか否かは観客に委ねられている。そういう意味で、観客は能動的に自らの行動を決めなければならない。そしてその判断が舞台を観ることへの新たな気付きと、今目の前で展開されている、俳優のいない舞台とは何なのかへと思考が至る時、演劇そのものの問題が観客一人一人へ突き付けられるというわけであると同時に、これも演劇作品ではないですか? という作り手の主張がここには折り込まれているのだ。「選択権はあなたにあるのです」という文字をわざわざ投影するのも、そのことを伝えるための非常に分かりやすいエクスキューズである。しかし、こういった演劇スタイル自体はさして珍しくないだろう。アングラ以降の演劇、とりわけ抽象世界の表現ということで言えば、寺山修司の名を今更召還せずとも、さんざん試みられていることである。そういった歴史文脈の上で、尚且つ演劇を問うとはどういうことか、換言すれば、固定ジャンルの表層的な瓦解が進行しつつある中(この企画自体がそういった状況あってこそのものだろう)で表現するとはどういうことかというの批評的視座が抜け落ちているため、状況の補完としてしかスタイルが機能していないのだ。
(その2へ続く)





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Last updated  Jan 23, 2010 08:09:54 PM


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