シチリアの晩鐘事件(マフィアの日) シチリア(英語名はシシリー)島は昔からあちらこちらの領土争いに巻き込まれていました。現在はイタリア領ですが、13世紀頃はフランス国王の叔父であるシャルル・ダンジューの苛酷な支配下にありました。 1282年のこの日は復活祭の翌日の月曜日でして、晩祷のために教会の前に市民が集まっていました。そこへフランス兵の一団がやってきて、その土地の女性に手を出そうとしたため、その女性の夫はいきなりその兵士を刺しました。その場に居あわせたほかの市民もフランス兵に襲いかかり兵士の一団を全員殺してしまいました。そのとき晩祷をつげる晩鐘が鳴ったことから「シチリアの晩鐘事件」と呼ばれます。 この反乱は全島に拡大し、フランス人は見つかり次第に殺され、その数は4000人以上におよびました。この反乱の合言葉「Morte alla Francia Italia anela(全てのフランス人に死を、これはイタリアの叫び)」の各単語の頭文字を並べると「マフィア(mafia)」となります。 シャルル・ダンジューのアンジュー王家はシチリアから追放され、代わってシチリアの支配者となったアラゴン王家との間に20年におよぶ戦争が起こりました。これが終結するのは1302年9月24日の「カルタベロッタの和約」です。シチリアはこれ以降も、イタリア、フランス、オーストリア、スペイン、ドイツなどに支配されていきます。