陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 10




「すみません。遅くなって。お待たせしました。」

「さあ、行きましょう。」

翔は、寮の仲間たちとよくテニスをしにくると話していた。

そこは駅から歩いて、10分ほどの所にあった。運動場の隣にテニスコートが6面あった。

クラブハウスのようなところで着替えてコートへ出て行くと翔はネットに向けてボールを打っていた。

「準備いいですか?球出ししますから。」

彩子と由美子はコートの左右に分かれてラケットを構えた。

由美子も勤め帰りにテニススクールに通い出したばかりだった。

フォア、フォア、バック、フォア。

ちゃんと打ちやすいところに翔がボールを出してくれるので彩子も由美子も打ち返すことができた。

「少し休みます。」

由美子がコートから出た。

彩子は、翔と二人でコートの中に立った。

フォア、フォア、フォア、バック、バック。

彩子が変なところへ打っても、翔は彩子の打ちやすいところへ返してくれた。

フォア、フォア、バック、バック、フォア。

彩子も翔も微笑んでいる。

打っても打っても、疲れたりしない。

ずっとボールが二人の間を行ったり来たりしていればいいのに。


彼の小さな優しさに触れる


「少しサーブの練習してみる?」

「はい。」

「下からでいいよ。ゆっくりでいいから。入れることだけを考えて。」

「はい。」

翔が立つ対角線上のコートの中へボールを運ぶ。

「いいよ、いいよ。その調子。大丈夫だよ、それで。じゃぁ、サーブ打ってそのままラリーね。」

「はい。」

二人は、そのまま30分ほど打ち合った。

その間、由美子はコートの外からその様子を見ていた。

「そろそろ上がろうか。疲れたでしょう?このくらいできれば大丈夫。上がろう。」

「はい。」

すっかり彩子は翔にうち解けていた。

彩子と由美子が着替えて出てくると翔は玄関で待っていた。

「お茶でもしていこうか。」

駅の方に向かって3人は歩いていった。

「あそこのカフェに入ろう。」

翔が言うと、由美子が道路を渡っていった。

彩子も由美子の後を追って道路を渡ろうとすると、翔が彩子の腕を掴んだ。

「森川さん駄目だよ。ちゃんと見て渡らなくちゃ。」

彩子が振り返ると、翔は真剣な顔をしていた。

「はい。」

彩子はそう言われたことが嬉しかった。

彼の優しさにふれた感じがした。

心の中に、またふっと爽やかな風が入ってきた。


ま・た・あ・し・た


カフェの窓際の4人席に座った。

由美子が窓際にすわり、彩子と翔は通路側に向かい合って座った。

彩子は嬉しかったが、由美子に悪い気がした。

「二人ともお似合いですよね。」

由美子が突然口を開いた。

少しすねたような口調だった。

彩子と翔は何も言わなかったが、二人とも由美子を見た後、目と目を交わした。

二人も目は微笑んでいた。その後、何を話したのか、彩子は胸の中が熱くなるのを感じていた。

調布の駅まで歩いてきた3人は、上りのホームに彩子と翔、下りのホームに由美子と別れた。

彩子と翔は、由美子と別れてからずっと話し続けた。

ホームへ続く階段を上る時もホームで電車を待つ間も。

出身地の話?

趣味のこと?

前の仕事について?

大学時代のこと?

家族のこと?  

後から思い返しても何を話したのか彩子は全くと言っていいほど覚えていなかった。

ただ、翔の瞳の中に映る自分の顔がとても幸せそうに輝いていたことだけを覚えていた。

電車が揺れるたびに翔がそっと彩子の腕を掴んでくれる。

彩子はすっかり安心していた。

翔は明大前駅にある寮に住んでいた。

調布から二人は急行に乗った。

短い道のり。

その間、時間を惜しむように二人は話をした。

駅に電車が着いた。

二人ともまだ一緒にいたいという気持ちだったが、翔は電車を降りた。

彩子はドアの所に立って翔を見ていた。

翔はホームで、電車のドアが閉まり電車がホームを出るまで彩子の顔を見つめていた。

笑い顔の翔の口が動いた。

『ま・た・あ・し・た。』

彩子も微笑みながら手を振った。

『あ・し・た。』


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: