陽炎の向こう側　　浅井　キラリ

この空の下で　５４

彩子の両親が個室を取ってくれた。

彩子は、昼間、本を読んだり、テレビを観たり、天気がいいと散歩へ出掛けたりした。

そして、隆がポータブルのＤＶＤプレイヤーを買ってきてくれ、何本かのＤＶＤを借りてきてくれた。

その一つの『ラブ・アクチュアリー』を観た。

その中で、友達の恋人を好きになった男が彼女たちの結婚式でビデオを撮った。

でも、映っているのは花嫁の姿だけ。

それを彼女に観られてしまったこの男が彼女に、「君への思いを抑えるために撮ったんだ。」と告げた。

その時、遠い時間の向こうで彩子をカメラで追っている彼の姿を思い出した。

１３年前、彩子が２４歳の時だった。

忘れていた恋が彩子の心の中に蘇ってきた。

『翔さん。』

急に涙がこぼれた。

『どうして、涙が出るの。』

ＤＶＤの場面はどんどん進んでいく。

彩子は、ぼーっとその画面を見つめていた。

『どうしているのかしら。もう、私のことなんか忘れてしまっているに違いないわ。』

涙が止まらない。

心の奥底から蘇る思い出。

『会いたい。』

走馬燈のように、昨日のことのように次から次へと思い出す翔との短かった恋。

『会いたい。』

子供の名前

隆は、１週間の休だけ休みをとって帰国することになっていた。

「やっぱり、このままこっちにいるよ。」

「だめよ。ちゃんと卒業して。あなたの夢だったんじゃない。私のために、途中で止めないで。お願い、隆。」

「だって、心配で。彩子を１人にしておけないよ。」

「両親だって黎だっている。私、頑張って子供産む。そして、あなたが帰るまで頑張る。そして、一緒に戦って。お願い。卒業してきて。」

「彩子・・・・・。分かった。待っていてくれよ。」

「大丈夫。頑張るから。ねえ、隆、アメリカに帰る前に、子供の名前を一緒に考えておいて欲しいの。私、男の子だったら、翼がいいな。女の子だったら、洋（よう）。女の子で洋じゃ、ひろしって読まれちゃうかな？」

「黎と洋。いいんじゃない。翼か。何だか、これから飛び立っていく感じがいいね。」

「隆の名前も一文字でしょう。黎の時も、一文字の名前を考えたのよね。」

「そうだったね。いいよ、男の子だったら、翼。女の子だったら、洋。それでいこう。」

「いいの？本当に。」

「いい名前だよ。」

「ありがとう。」

手　　術

彩子は、左胸と胸骨傍リンパにある腫瘍を取り除く手術を受けた。

最近では、乳房温存手術を行うことが多くなってきている。

彩子も乳房円状部分切除術という、癌のしこりの周囲から２～３センチまでの安全域を取って周囲の組織を含め手癌のしこりの部分を円形にくり抜く切除法です。

手術後、回復室に入り、翌日には朝から食事が摂れ、自室に戻って自由に病院の中を動くことが出来た。

運動機能を早く回復させるため、直ぐに軽いリハビリが始められた。

隆は、彩子の手術を見届けてアメリカへ帰っていった。

彩子はもうすぐ妊娠６ヶ月に入ろうとしていた。

隆は、大学卒業の５月まで１人アメリカで生活することになる。

その頃、彩子は、妊娠８ヶ月となり、隆の帰国を待つ前に出産することになるかもしれない。

手術後、化学療法が始められた。

手　　紙

祐子が彩子を見舞いに来た。

丁度、彩子が売店に新聞を買いに行っている間に、部屋を訪れた。

「あれっ、１１時に来るって言っておいたのに、出掛けちゃったのかな？」

ふと、窓際へ行くと、小さなデスクの上に書きかけの手紙が置いてあった。

祐子は、何気なくその手紙に目がいった。

『彩子？』

その手紙は、川村翔に宛てたものだった。

－ご無沙汰しています。

突然のお手紙をお許し下さい。

ある映画を観ていたら、ふとあなたのことを思いだしてしまいました。

楽しかった思い出を。

何故か、とてもあなたが懐かしく思えて。

もう、わたしのことなど覚えていらっしゃらないかも知れませんね。

１度だけ会っていただけませんか？

来週の水曜日の午後７時にニューオオタニのラウンジで待っています。

携帯の番号：ＸＸＸＸＸＸＸＸＸ－

封筒の宛名は、翔が元いた部署になっていた。

そこに彩子が、新聞を手に持ち部屋に戻ってきた。

「祐子、来てくれてありがとう。新聞を買いに行っていて。上のラウンジにでも行く？私、着替えるわ。どこか近くのレストランでもいいわよ。」

祐子は、手紙のことは触れなかった。

「そうね。ここのラウンジでいいよ。眺めもいいし。」

「そう？じゃあ、そうしようか。結構、レストランの食事も美味しいでしょう。どこかのホテルのレストランが入っているのね。」

「へえ～。そうそう、これ、造花だけど。生花はダメだって言っていたでしょう？結構、きれいでしょう。それと、頼まれていた香水。」

「ありがとう。この間、両親の家に行ってくれたんだって？」

「ああ、黎ちゃんどうしているかなって思って。元気そうだったわ。久々にお人形遊びしちゃった。」

「わぁ、ごめん。黎が我が儘を言ったんじゃないの？」

「そんなことないよ。こっちが楽しんじゃった。」

「本当？お待たせ。じゃあ、行こうか。」

彩子は、着替え終わり、部屋の窓を閉めようとした。

『あっ。』

彩子は、翔宛に書いた手紙をそのままにして出掛けていたことを忘れていた。

『祐子に見られちゃったかしら。』

ジャンル別一覧