陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 2



美奈は、タクシーの窓から外を眺めていた。

「はぁ~。」

ため息をついた。美奈は少し眠くなってきた。

高速に入ると、タクシーのスピードが上がった。時々、ガタンガタンと揺れる車体。

だんだん、新宿の高層ビル群が見えてきた。

まだ、煌々と明かりのついているフロアーが幾つもあった。

そこで、まだ残って、デスクに向かっている人たちが大勢いる。

美奈が家の玄関の鍵をゆっくり回し、静かにドアを開けた。

母親は、いつも美奈が帰るまで、リビングのソファーに座って、ミルクティーを飲みながら本を読んだり、趣味の刺繍をしたりしていた。

「ママ、ただいま。」

リビングのドアを静かに開けて美奈は、小声で言った。

「お帰りなさい。今夜も遅いのね。たまには、早く帰りなさい。体を壊すわ。いくら、若いからって、休まなくちゃだめよ。あなたは、突き進んじゃう方だから、誰かがドクターストップを掛けてくれなくちゃだめね。ママが言っても聞いてくれないのよね。パパに言ってもらわなくちゃ。」

「大丈夫。ストップね~。今日、誰かさんに言われちゃったのと同じことを言われちゃった。自分の体なんだし、それに、もう少しで今の仕事も目処がつくわ。そしたら、ダラダラモードに変換。だから、パパに心配掛けないで。」

「そ~お。早くお風呂に入って寝なさい。」

「もういいわ、朝、シャワーを浴びるから。眠い。お休みなさい。」

「お休みなさい。」

翌朝、美奈は、さすがに目覚めが悪く、目覚まし時計にも反応しなかった。

「美奈ちゃん、今日は、遅くていいの?」

「あっ、こんな時間!朝食は、いいわ。何か途中で買っていくから。」

美奈は、慌てて着替えて家を出た。

美奈の勤めているシンクタンクは、一応、9時半始まりだったが、職業柄、それ程、シビアではなかった。

駅まで10分程の道のりだが、走って行った。駅の階段を駆け下り、丁度、来ていた急行電車に乗り込んだ。

ラッシュアワー。

ドアが開くと、人が、ド~ッと電車の中に入っていく。そして、美奈は、最後に電車に乗り込み、ドアが閉まると、ドアに顔を押しつけられた。

急行で乗換駅まで、約10分。

途中、1つ目の駅に電車が止まる。

そこで多くの人が降り、また多くの人が乗り込んできた。その波に翻弄されるように美奈は、反対側のドアの隅に追いやられた。

また顔がドアのガラスにピッタリと押しつけられた。もう、その姿勢を変えるのは、不可能というほどの込みようだった。

『痛たたたた~。足が変な方向に向いちゃった~。』

でも、動かすことができない。

書類鞄も手を離しても人と人に挟まれていて下に落ちないだろう。

乗換駅まであと5分程の辛抱だった。

その時、美奈の体に緊張が走った。

いきなり、鞄を持っていない方の手首を鷲づかみにされた。

『何?』

次の瞬間、その手の持ち主は、もう一方の手で美奈のスーツの上着の袖を少したくり上げ、下に着ていたシャツブラウスのボタンを1つ1つ外し始めた。

『何を、何をしているの?』

いつも元気で、大きな声でおしゃべりしている美奈だったが、声は出せず、それどころか体を動かすこともできなかった。

恐怖。

『誰?』

美奈の体は、硬直している。

その手の持ち主は、美奈のシャツブラウスのボタンを外し終わると、手首を握ったまま、もう片方の手で美奈のスカートのファスナーを下ろし始めた。

美奈の恐怖心を楽しむようにゆっくり、ゆっくりと。

美奈の手には、脂汗が滲んできた。

そうこうしている間にも、その手の持ち主は、美奈を責め立てるように開けたファスナーの部分から手をスカートの中に入れてきた。そして、太腿の間を上に下に手で撫でるのだった。

美奈は、ただ、ただ、身動き一つできず、されるがままだった。

声が、声が出ない。

『や、止めて!』

心の中で叫んでも、声が出ないのだ。

乗換駅に、電車が滑り込んでいくと、その手の持ち主は、美奈の体から手を引き上げた。

電車が止まると、美奈が押しつけられていたドアとは反対側のドアが開いた。

どっと、人が外に弾き出されていく。

漸く、体を動かせるスペースができた。

硬直仕切ったからだも緊張がほぐれ、美奈は、さっと振り返った。

すると、ホームから美奈を見ている男がいた。

身長が180cm以上もあろうかという背の高い男で、白いシャツにジーンズ姿。

そして、ゆるくウェーブした髪。は虫類系の顔をしていた。

その目は、細く、少しつり上がり、口元が笑っていた。

美奈は、キッと睨んだが、その口元の微笑みに、恐怖を感じた。

涙がこぼれそうになった。しばらく、電車の中で立ちすくんでいた。長い時間に思えたが、30秒ほどだったろうか。

我に返り、慌てて電車を降りた。

そして、その男の行方を追ったが、人並みの中に消え去っていた。

美奈は、地下鉄に乗り換えた。

あの手の感触、力、笑った口元が、美奈の脳裏に、体に蘇ってくる。

体が再び硬直する。

『何よ、何よ、何よ。ただのくだらない行為。チカンめ。』

でも、乗り換えた地下鉄の中でも何度も何度も美奈を襲ってくる。

汚れた手の記憶。


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