陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 18



美奈は、麻紀に話してよかったと思った。少し、気持ちが楽になった。自分のことを理解してくれる人がいるという安心感ができた。

『やっぱり、明日から、2日くらい会社を休もうかな。今、これ以上悪くなったら、新しいプロジェクトから外されちゃうかもしれない。絶対に、外されちゃう。』

翌朝、美奈は、会社に風邪をこじらせたので、後、2日くらい休むと連絡した。

早速、誠二から、携帯に電話が掛かってきた。

でも、美奈は出なかった。

喋りたくなかった。

あれやこれや聞かれるのが嫌だったのだ。

次に、メールが来た。

『おい、大丈夫か?風邪をこじらせたんだってな。十分休め。じゃあな。』

誠二らしい、文面だ。

『メールありがとう。大丈夫だから。』とだけ書いて、返信した。

昼過ぎには、涼子からも携帯に電話があった。

「もしもし、涼子?」

「どうしたの?田中君から聞いたわよ。風邪、こじらせたんだって?」

「う、うん。ちょっとね。今度、話すよ。たいしたことないから。ゴメン、心配かけて。」

「いいんだけど。元気なあんたが、休むと、田中君が心配するのよ。勿論、私もよ。何だか、声にも張りがないし。本当に大丈夫?ちゃんと治してから、出社した方がいいよ。」

「分かった。ありがとう。」

「じゃあ、あんまり、話していると、体に触るといけないから、切るね。お大事ね。」

美奈は深いため息をついた。

『私、どうなるんだろう。』

同じ言葉が心の中に浮かんでくる。

前の見えないトンネルの中にいるような気持ちになる。

二日間、美奈は、ほとんど外にも出ず、自分の部屋で好きな音楽を聴いて、以前買っておいたまま読まずにいたイギリスの女性作家、アニタ・ブルックナーの本を読みふけった。

アニタ・ブルックナーは、神経症を煩っていた。

何故、彼女の作品に興味を持ったのかと言えば、以前、付き合っていた健がイギリスに赴任が決まった時、本屋で何げなく、イギリス文学コーナーで彼女の本を手にしのだ。

一冊目の『Latecomers/異国の秋』を読んでからその作風に引き込まれていった。過去の無数の傷を内包して成り立っている幸福を精妙に書かれている。ようやく手に入れた幸福が描かれている。

この本を読み、彼女の作品を何冊か買っておいたが、健との苦い別れで、書棚で埃をかぶることになった。

ふと、彼女の作品を思い出したのだった。健が美奈を抑えようと抱きしめてきたあの感覚がまだ体に残っている。

『そんなこともあったのね。』

リビングへ行くと、母親が掃除をしていた。

「あら、お茶にする?」

「うん。」

「何を飲む?この間、頂いた、美味しい最中があるから、日本茶にしようか?」

「いいわね。ゆっくり日本茶を飲むのも久しぶり~。」

「そうよ。あなたは、毎日仕事で遅くて、お休みの日は、お昼近くに起きてきて、お友達と出掛けて行ってしまって、本当に、家にいない人なんだから。」

「じっとしていられない質なのね。パパ似かな?いつも、何かやっていなきゃ落ち着かないのよ。」

「パパは、お休みには、家で読んだり、ママのおしゃべりの相手をしてくれたり、一緒にお買い物にも行ってくれるわよ。」

「それは、最近のことじゃない。私が、就職する前は、休日出勤やゴルフに行っていたわよ。」

「そうだったわね。あなたが、子供の頃は、ママと美奈だけで遊園地や動物園へ行ったのを覚えているわ。美奈は、パパ似なのね。でも、ほどほどにしなきゃ。男の人と違って体力もないのよ。神様が少し、休みなさいって美奈に言っているのよ。」

「そうね。まさに、ドクターストップ。リングにタオルを投げ入れられたって訳ね。」

掃除機を片付けて母親はキッチンへ行った。

お茶を入れてきた。

美奈は、開けられていた窓の所に座って外をぼんやり眺めていた。

庭には母親が丹精込めて世話をしている色とりどりのバラが咲き誇っていた。

「お茶が入ったわよ。」

「ありがとう。」

「綺麗に咲いたでしょう?バラの世話は大変なのよ。美奈が子供の頃より、世話が掛かるのよ。」

「やだ~。私とバラを一緒にしないでよ~。でも、そんなに大変なんだ。」

それだけ大変なのよ。あなたの方がずっと育て易かったわ。だって、自分で何でも決めちゃうし、好きなものも嫌いなことも直ぐに分かっちゃうし。単純明快だから。」

「それって、褒められているのかけなされているのかわからないわ。」

「褒めているに決まっているじゃない。真っ直ぐに生きられる人はそんなにはいないものよ。あなたは、自分にも他人にも正直で、誠実よ。」

「そんなふうに言われるのもくすぐったいわね。自分の親から言われちゃうのは。」

「お茶が冷めるわ。」

美奈は、室長の川原にチェックしてもらった報告書をFaxで送ってもらっていた。

昼食後、自分の部屋の窓に面した机で、目を通した。

やはり、仕事のことが頭から離れない。

単純な入力ミスから用語、内容に関するものまで様々なチェックが入っていた。

『納期は、来週の月曜日だから、まだ、時間はあるわ。明後日から、出社すれば、大丈夫。』


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