陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 47



「おい、時々、休めよ。それ、今週中でいいから。」

「分かった。」

美奈は、誠二に負い目を負わせまいと明るく振る舞った。

「ありがとね。」

「ばーか。」

「何よ。人が心からお礼を言っているのに。」

「笑ったな。お前の泣きっ面なんか見たくないからな。」

「まったく!」

「頼んだぞ。」

毎日、6時には帰宅するようになった。

土曜日の朝、美奈は、ドレッサーの中の自分のを見つめていた。

ブラシで長い髪をとかし、少し甘めの香水を首筋に差した。

「大丈夫か?一人で。」

「うん。タクシーで行くし、今日は、気分もいいし、体調もよさそうだから、美術館にでも寄ってこようかな。」

「美奈ちゃん、大丈夫?体調がいいからって無理しちゃだめよ。」

「そうだ。無理は、禁物だぞ。」

「分かっているって。ダメなら帰ってくるから。」

タクシーで病院に向かった。

今日は、診察番号は、最後から2番目だった。

「失礼します。」

名前を呼ばれて美奈は、診察室に入っていった。

「その後いかがですか?」

「先生のおっしゃるように目の前のことではなく、少し先のことを考えるようにして、心が少し晴れました。体調がよくなれば、これから、まだまだ色々なことができるなって思えてきました。小さな穴の中に入っていたみたいです。その中で、もがいていた感じがします。」

「よかったです。気持ちが、前向きになって。薬はどうですか?まだ、日常的に頓服を必要としていますか?」

「朝、起きるのは、相変わらず辛いです。夜は、不安になることもあります。頓服を朝昼晩と飲んでいます。予防的に。」

「このまま、疲れもとれてきて、目標をしっかりと持てるようになると、治っていきますよ。」

「本当に?」

「大丈夫です。安心して。まだ、患者さんがいるので、この間のレストランで待っていてもらってもいいですか?」

「ええ。先に行っています。」

美奈は、タクシーで外苑の銀杏並木沿いのレストランへ向かった。

森口は、最後の患者を診察し終わって、後片付けをしていた。

「田淵副部長。」

ドアが開いて、精神科診療副部長の田淵が入って来た。

「ちょっといいかね?」

「はい。」

「川口君から聞いたんだが。特定の患者と個人的に親密になっているそうだが。」

「彼女は、1人の患者として診察しています。」

「彼女?森口君、入局以来、君を見てきて、真面目で仕事熱心なのは分かっている。だが、君にも分かっているはずだよ。精神科医として踏み込んでは行けないラインを。確かに、その患者は、君を信頼し、頼り切っているのも分かる。恋愛に似た感情を君に抱いているのかもしれない。しかし、君は、1人の精神科医としてそれを受け止めなければならない。そうだろう?」

「はい。私も、そのつもりでこの患者と向き合っています。早川君にはそういう風に受け取られてしまったのは、私の至らない行動のためだと思います。」

「そうなんだね。君を信頼しているよ。君には、期待しているんだよ。その期待を裏切るようなことのないようにしてくれ。」

「はい。ご心配を掛けて申し訳ありません。」

副部長は、部屋を出て行った。

森口は、自分が精神科医として超えてはいけないラインを超えてしまっていることを分かっている。

そして、美奈は、自分に恋愛感情に似た感情を抱く感情転移していることも分かっていた。

しかし、自分は、それに対して、逆転移ではなく、美奈に女性として惹かれていることも分かっていた。

『わかっているんだ。』


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