第9回オフ回(古川佐賀県知事)


 ここの場所は非常に思い出がある。私が3年半前に長崎県総務部長を辞めて、佐賀県知事選挙に出馬しようとしていた時に、中学校の同級生が数十人を集めて、「佐賀県をどうするのか聞く会」という会をやってもらった場所である。公務員の身分ではなかったし、「私は知事選挙に出ますので是非1票下さい」という様な露骨な運動はしていないのでぎりぎりセーフだろう。ここでウケなければならないと思い、漫談みたいな話ばかりしていたら、終わった後に「あいつで大丈夫か」と心配された。
 今日の課題図書は「県庁の星」である。実はこの映画ロケの招致を佐賀県で行おうと思っていたが、残念ながら岡山と香川で終わっていた。「何故佐賀県に話が来なかったのか」聞いたところ、佐賀県のフィルムコミッションが昨年8月出来たばかりで、その数日前に照会が行われ、当時佐賀県は該当なしとなっていたらしい。もし実現していれば存分に佐賀県庁を使ってもらって良かったと思っている。
 私は19年6ヶ月県庁及び国の役人をやってきた。辞める時になって感じたことは「やはり自分は役人だな」という事だった。19年6ヶ月で辞めると年金が貰えない。たまたま当選したからよいが、当選しなかったら基礎的年金だけでこれから学齢期を迎える3人の子供を抱えるのは正直きついと思った。あと1期くらい待った方がよいかもしれないと思い、前知事に「もう1期どうですか」と言おうかとも考えたが、仮に4年足しても25年まであと2年足りない。では2期とすれば「86歳までやって下さい」となり無理だなと思い、では出るかとなった。まあ、冗談だけど。
 自分では計算高い人生は嫌だと心の中で思っていても、いざ自分がそういう立場に置かれると意外にもそう考えてしまった事に驚いた。
私と皆さんとの間は共通点も多いと思うが決定的に違う事が一点ある。それは公務員を辞めた事だ。いざ辞めるとなると19年間お世話になった自治省を辞めるわけで感慨もあり、きっと官房長あたりから労いの言葉と辞令をもらうのかと思っていた。しかし会計課に電話すると極めて事務的で、「来てもらわなくてもよい」と辞令が郵送されてきた。誰も感傷的に受け止めてくれない。永年勤続で退職される方は恵まれていると思った。
辞めて初めて気づいたが無年金状態になった。当然国民年金に移行しなければならなかったが、退職金約960万円もすぐに選挙費用に消えてしまい無収入であった。退職後任意継続すれば1ヶ月当り数万円、3ヶ月で十数万円となり1月は暮らせる金額だった。誰も3ヶ月病気しないだろうと家庭内で議論になったが、我々は年金加入を推進してきた立場でもあり未加入は選挙の際に問題となってもいけないと思って、加入しない訳にはいかないと話し、結局任意継続加入した。
 選挙の途中で子供が腸炎になり加入していて良かったと実感した。これまでは組織に任せていれば良かったが、全て自分でやらなくてはならず、いかに自分がありがたい立場にいたのかを痛感した。
もう1つは名刺に肩書きが入らず名前のみの記載になったという事だ。皆さんは「市役所はつまらない、県庁は馬鹿だ」と言っているが、言っている事の8割5分くらいは右側に書いてある重さで何とか聞いてもらえている。それが無くなり、無職かつ無肩書きは非常に厳しい扱いを受けた。名前のみの名刺で役場回りを行い、「選挙に出ることにしました」と言うと公選法に抵触する可能性もあったので、「今度知事選の関係でお世話になります、古川です」と言うと、印刷業者と間違われた。だいたい役場は1階に市民課があり、2階に企画課、総務課、助役室、町長室があるので2階に上った。しかしガードが固くてなかなか会わせてくれなかった。肩書きがあった時代に大事にして頂いた事とそれがなくなった時の世の中の冷たさを両方経験した。だからこそ、政治家になった人は、選挙を戦ったという奇妙なシンパシーは党派を超えても大きいのではないかと思う。
 そのような経験をして今3年目を迎えている。私は19年間公務員をやってきたが、公務員という職業が非常に好きだ。私の3女の夢は公務員になること。なぜかと聞けば「お父さんが公務員だったから」と言う。私はゆりかごの時代から「いかに公務員が素晴らしいか」を説いていたのでこうなったのだと思う。皆さんも是非言う事を聞いてくれそうなお子さんがいる場合には是非勧めて欲しい。
 なぜ私が公務員を好きなのか。国、県庁、市役所は違うが、もう少し前の時代に県庁を辞めるくらいの生活だったら本当に幸せだっただろうなと思う。ある程度保障があり、それなりに頑張れば出世でき、地域に帰ればそれなりに尊敬され、親戚に見守られ一生を終える、そういう温かみのある人生はいいなと思った。皆さんが一緒に働いているトップは、県庁や市役所が好きな人と嫌いな人とに分かれると思う。何人かの知事に仕えてそう思った。私は圧倒的に前者。だっていろいろな初めての、しかも人様のお役に立てる経験をさせてもらったのだから。
 たとえば今の救急車は昔に比べると背が高くなりいろいろな資機材を載せるようになった。これによりかなりの救命措置を救命救急士が行えるようになった。しかしこれは当然になったわけではない。昭和61年4月に消防法第2条9項が改正され、救急の役割に応急の手当てができるようになった。それまで救急はほとんど法的根拠がなく医療行為を行っていた。何故法的根拠無く行っていたのかと言えば、行わなければ死んでしまうので死ぬよりましだという事で、状態悪化を緩和する事は緊急避難的に違法性阻却性事由があるとして行っていた。命を掛けて行う行為に法的根拠がないというのはおかしいという事で改正することになった。
 当時も規制緩和の流れがあり消防法も改正する事となり、上から「ついでに改正するものはないか」と聞かれ、当時の救急救助室の補佐が「本当はこんな事が出来ればいいですが」と書いた数件の内の一件がこれだった。思いつきみたいに始めたが、調べれば調べるほど正しい事だと分かった。救急隊員は損害賠償請求で訴えられたら負けてしまう状況でやっていた。これは何とかしなければならないとして本格的に取り組む事になった。
 今国の法律・制度改正を行う場合は審議会を作り、2、3年審議した上で答申をもらい改正を行うのが普通。しかしこの消防法の改正を行った時は審議会も何も無かった。基本が思いつきであったので、1月4日の御用始めの飲み会の中で上司からの「何かないか」、「こんなのはどうでしょう」との会話が基で4月には条文になった。これは我が国の立法史上稀なケースであった。警察も救急業務を行っていると主張していたので「消防の専管事項ではない」と警察庁が大反対した。調べてみると年間4、5人の怪我人をパトカーで搬送していた。以前は消防も警察業務の一部であったという意識があるためか違和感があったのかもしれない。
 私は本当は救急の担当課ではなく隣の課にいたが、人が足らないという事で3ヶ月間ほとんど家に帰らずにこの仕事を行った。そして法律が通り、現在の救命救急の制度になっている。今もその当時のメンバーで集まることがあり、この制度改正により何人が助かったのか話すことがあるが、年間50人程度助かっている。10年間では約500人になる。制度改正がなかったらこの様な措置は出来ず助からない人も多くいた。我々は役人だから人の命を助けることが出来た制度改正に命をかけた事で人の命を救う事が出来た、なんといい仕事だったのだろうと本当に気持ちが良かった。こんな仕事がやりたいという思いが私の人生の基になっている。
 皆さんにも大なり小なりこういう経験を沢山して欲しい。こういう事を感じられる事は本当に素敵な事だと思う。パブリックな部分で貢献できるのは人間社会にしかない事ではないかと思っている。そういう可能性を持った場所に皆さんがいるという事を感じて欲しい。
 その後御巣鷹山に日航機が墜落した時にも手助けで現場に行った事がある。防衛庁は夜中ヘリで捜索すると言っていたにも関わらず、現地に地図が無く、サーチライト付きのヘリが無いのでやらないと言い出した。東京消防庁にはサーチライト付きのヘリがあったのだが。では「最近の戦争は夜やらないのか」と聞いたら「戦争だったらやるが、いるかいないか分からない人命救助はやらない」と言った事が非常に印象的であった。本当は消防庁を行かせたくなかったのではないかとも思う。
 良い経験で言えば、日本で初めてのPKOに日本代表としてアフリカのアンゴラに行った。アンゴラでは選挙のために行ったが、開票所が狙われるという理由で帰国命令が出て帰ってきた。日本の総合商社はそこでもTシャツを売っておりさすがだと思った。彼らがいよいよ危険だとして逃げようとした時、アンゴラには日本大使館が無かった。ジンバブエに合ったが危険で行く事が出来なかった。当時は邦人救出のための自衛隊機、政府専用機を派遣できる法律が無かったため、日頃から気脈を通じていたイギリス空軍機で離脱した。Tシャツを売る経済力はあるが、日本人の安全を守るという最低の国家の義務を果たしていない。パスポートに「関係の諸官に要請する」と記載しているにも関わらず自分達の職責は果たせていない。邦人救出をしっかり出来ないと日本人が安心して世界中で働くことが出来ない。
 「世紀の愚策」と言われた地域振興券の制度も私が作った。不満があれば私が全て受けたいと思っている。
 このようにいろいろな仕事をさせてもらって、「公務員とはこんな仕事をさせてもらえるのか」と思い、現場はそれぞれ違うが「いろいろな経験ができるよ」と言いたい。




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