《クリスチャンになろう Day 17》
「ただ一人」
を通して
祈り方のポイント3.イエスの御名で祈る
「 神様、助けて!
」と心から叫んだことはありますか。何か突然襲ってきた災難に対して、普段は何の宗教も信仰していない人でさえ、「 苦しいときの神頼み
」をすることは少なくないようです。
しかしながら、日本人が持っている神様に対するイメージは実に様々です。 一言で「神様」と言っても、一人一人が頭に思い浮かぶ神様像は違う場合が多い
のです。なぜなら、日本人の信じる神様は「やおろずの神」と呼ばれており、この「やおろず」という言葉を漢字に直すと「 八百万(やおろず)
」で文字通り、日本全国で 八百万種類の神々が崇め奉られているといわれているからです。太陽はお天道様、月はお月様と、なんでも「様」を付けて崇めてみたり、山や木や石を神様に仕立て上げ、その地域ごとに土着の宗教として、それぞれ思い思いの神々を祭っているのです。
「 いわしの頭も信心から
」という言葉を聞いたことがありますか。いわしの頭のようなつまらないものですら信心する者に とってはとても尊いものとなってしまう、というなんでもかんでも神として崇める日本人の風習を揶揄(やゆ)したものです。目の前に形ある見えるものを置いておかないと安心できないという日本人特有の性格がそこに現れているのかもしれません。
そういう環境ですから、祈るときに最も重要なことは、「 その祈りを向ける方向
」です。どれだけあなたが熱心に「 神様、神様
」と呼びかけても、 それが聖書が証する唯一まことの創造主なる神様に向けられていなければまったく意味がありません
。
何よりも偶像崇拝を忌み嫌われる全能の主は、このように戒めています。
なぜ国々は言うのか、「彼らの神はどこにいる」と。わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。 偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる
。(詩編115:2-8)
創造主なる神様は、山や木や石や金銀も造られたお方です。ですから、神様の言い分としては「 わたしが造った物を拝むのではなく、造り主であるわたしを礼拝しなさい
」と言っているのです。偶像は中身が空っぽなだけの物体に過ぎません。耳があっても、あなたの願いを聞くこともできず、口があってもあなたを慰める言葉も語れず、手があってもあなたを救い出すこともできません。
偶像の空しさをエレミヤはこのように諭しました。
もろもろの民が恐れるものは空しいもの。森から切り出された木片。木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは 災いをくだすことも、幸いをもたらすこともできない
。(エレミヤ10:3-5)
このように、幸いをもたらすくともできなければ、災いすら下すこともできない、人間が作り上げた神々に無駄に心を向けることがないようにと、聖書は教えています。
あなたの大切な祈りを、確実に天の父の耳に届けるのに絶対に必要なのが、 「イエスの御名」によって祈る
ことです。そのことを、主イエスご自身がこのように教えています。
わたしの名によって
願うことは、何でもかなえてあげよう。(ヨハネ14:13)
この主イエスの約束に従って、クリスチャンは祈りの最後を「 イエス・キリストの御名によってお祈りします
」と結びます。人によっては「主イエスのお名前を通して」とか、「イエスさまのお名前で」とか、表現は様々ですが、あなたの言葉で祈りましょう。
ですから、お祈りのプロセスを簡単に説明すると、先ず、「 天の父なる神様
」と呼びかけ、次にあなたの「 願いを告白
」して、最後に「 イエス・キリストの御名
」で締めくくります。
なぜ、イエスの御名でお祈りをしなければいけないのでしょうか。それは、このお方 イエス・キリストを通してのみ、私たちの祈りは天の父なる神様に届けられる
からです。釈迦やダライラマやモハメッドの名前を何度唱えようと、その祈りは天の父には届きません。例えそれが、キリスト信仰を持つマザー・テレサや母マリアの名前であっても、イエスの御名の代わりに代用することはできないのです。
聖書は、かつてあなたと神様は 敵対関係
にあったことをコロサイ1:21で語っています。
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。(コロサイ1:21)
ですから、その敵対関係に 和解
をもたらすために、イエス・キリストは 仲裁
してくださったのです。主イエスはその代償として十字架で尊い血潮を流してくださり、信じる者の罪をゆるし、神様との関係に 平和
を打ち立ててくださったのです。
しかし今や、神は御子の肉の体において、 その死によってあなたがたと和解し
、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。(コロサイ1:22)
さらには驚くべきことに、単にその関係に和解がもたらされただけでなく、「 神の子
」とされる、という素晴らしい約束があります。
あなたがたは皆、信仰により、 キリスト・イエスに結ばれて
神の子
なのです。(ガラテヤ3:26)
ですから、主イエスのとりなしによって、 神の子とされたあなたは、自信を持って大胆に「アッバ、父よ」と神様に呼びかけることができる
というわけです。
繰り返し言います。天の父に願いが届くのは、「イエス・キリストの御名」を通してだけです。その他の誰の名前によっても祈りは聞かれません。なぜなら、 イエス・キリストただお一人だけが、天の父との間をとりなす「仲介者」
だからです。
神は唯一であり、神と人との間の 仲介者
も、人であるキリスト・イエス ただおひとり
なのです。(1テモテ2:5)
さあ、それではご一緒に、唯一まことの仲介者イエス・キリストを人生に迎え入れるお祈りをいたしましょう。あなたの人生の支配権を、主イエスに委ねるのです。喜びに満ち溢れた豊かな人生を共に歩みだしましょう。
一人(アダム)の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、 一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる
のです。(ローマ5:11)