仕分け忘れ? 0
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前に新しいラジカセを買ったら音がビックリするほど良くて感動したと書いたが、その余談を。 カセットテープにはいろんな曲が入っていたのだが、その中で兄が編集した外国の曲の中に、ランバダのテーマ曲が入っていた。確か空耳で何かあったなぁと思い出そうとしたら、冒頭から「ソーラン節っぽい♪」と聞こえてきたので、あぁ、これか!と思い出して笑った。しかし、ランバダのテーマ曲が流行ったのはCMが流れていた1990年頃だったと思うので、本当に懐かしい。 サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」でも空耳フレーズがあったなぁと思ったら、2番のメロディ部分で「正論ばい」と聞こえてくる部分があったので、これもまた笑った。空耳の映像では、地方出身の人が集まって謎の会議をするのだが、九州の人が議題(?)に酷く納得して「正論ばい」とうなずくという感じだった。 どちらの空耳もTVで紹介されたときは爆笑レベル判定ではなかったけど、一度そういう紹介がされると、自分でその音楽を聴いた時はもうその日本語にしか聞こえなくなるので、せっかくの感動の名曲なのについ笑ってしまう自分がいる。 カーペンターズの超有名曲「イエスタディワンスモア」もテープ内にあり、サビの部分で「エビを~捨てる社員~♪」と聞こえて来て、これもまた寿司屋の店員が古くなったエビを優雅にクルクルとゴミ箱の周りを回りながら捨てるなんておかしな映像を思い出してしまった。だいぶ前だけど、仕事帰りにイデカフェに寄ったらちょうどその曲が流れていたので、思い出して一人で笑うのをこらえていた自分がいた。 名曲を聴いて感動するより空耳に先に笑ってしまう自分は、おかしいのかおめでたいのか?わからないけど、笑う事は心身ともに良い事だけはハッキリわかるこの頃だ。
2024年03月23日
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思い切り笑える動画を探すのが好きなこの頃。夫のエガちゃんねるに空耳アワード、ときメモGSの珍回答集と面白い物が増えているこの頃だ。 そんな中、昔(昭和から平成初期辺り)のTVのNG大賞がアップされていたので見たら、懐かしくも面白くて大笑いした。昔リアルタイムで見て大笑いして今でも忘れられないのは、「食いしん坊万歳!」で、料理を提供したおばあちゃんが「飯ずし」となかなか言えずどうしても「めすじし」になってしまい、一度は言い直すも、そばからまた「めすじし」になってしまい、しまいに「めしじし」になってしまったという回だ。一般人のNGは、不自然なわざとらしさがないから良いのだ。 あと覚えているのが、「なるほど、ザ・ワールド」で、冒頭の席決めでトランプマンを登場させる時に、愛川欽也が間違えて「ウルトラマン登場!」と紹介してしまった回もシンプルだけど笑った。文字数は合ってても言葉はほぼ「マン」しか合ってないのに(爆笑) なのにココ近年は、NG大賞なんて不真面目だと言わんばかりのようで、そういう特集もめっきり見かけなくなってしまった。人の失敗を笑うのは一生懸命やった人に失礼で不謹慎だろと、至って真面目な正論なのかもしれないけど、おかしいものを素直に笑う事の何が悪い?とも思うのだが。 日本人はいつからか、みんなで思い切り笑う事が嫌いになってしまったんだなぁと思うと悲しくなる。NG案件も、今ではただの「放送事故」としてネット上で大騒ぎになるような時代になってしまったのだ。こんな風に他人の失敗に目を光らせて怒ってばかりの人生って、本当にみんな楽しい?と一度問いたくなる。
2024年03月21日
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今どきの教科書事情は分からないけど、「おおきなかぶ」をよく覚えている。昔の教科書に載ってたのが桃太郎だったのは、たぶん絵本などで出回る機会が無く、話を知らない人が多かったからだと思う。
2024年03月06日
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子供の頃お祭りの知らせにワクワクしたものだけど、親は人込みの多い所へ行くのが好きじゃないのであまり連れて行ってはもらえなかった。 清水の港まつりは父親に連れて行ってもらった事があるが、パレードの音がやかましすぎて親の声が聞き取れず、楽しいというよりただやかましいという記憶しか残らなかった。帰りの電車も座れなくて大変だったけど、親切な大人が席を譲ってくれた恩は今でも忘れない。 写真1枚目にチョロッと書いた地区違いの近所の祭りにもちょっとした思い出があり、屋台の金魚すくいやかき氷など楽しく過ごしたのだが、祭りの最後にその地区の子供達対象に、お菓子の詰め合わせプレゼントをもらえるというのがあった。 何だか面白そうだなと近付いたら、その地区に住んでるクラスメイトが「その地区の人じゃないともらえないんだよ」と言われた。知らないからただ来てみただけなのに、そんな言い方ないじゃないかとクラスメイト(比較的仲は良かった)排他的な頭に凄く悲しくなって、一緒に来てくれた母に「帰ろう」とせがんだ。 が、町内会の人は良い人達だったようで、「大丈夫だよ、あげるよ」と、無事お菓子の詰めあわせを貰う事が出来た(たぶん余ったのだろう)が、仲が良かったはずのクラスメイトの排他的思考のせいで心の底からは喜べず、どうにも後味が悪い夏祭りの思い出となった。 それから月日は流れ流れてウン十年後、2018年の帰省時にその排他的思考のクラスメイトが悪い病気の闘病の末亡くなったと聞かされた。 他にも小学3~4生の時仲良くしていた元友人も病気で亡くなったと母から聞いたので、子供の頃私を嫌な気持ちにさせた人が早死や不幸な運命を辿っている事に驚いている。呪うほど嫌いだった訳じゃないけど、やっぱり因果応報的なエネルギーが働く瞬間というものが人生の中にはあるのかもしれない。私も決して完璧な人間ではないけど、改めて気を付けなければ。 もう夏祭りに行くような年齢じゃないし、暑いの嫌いな夫とも行く予定はない。けど、8月になるとちょびっと思い出す、夏の苦々しくも悲しい思い出だったりする。
2023年09月10日
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プールの思い出話を書いたら、一番行った回数が多かった大浜プールの事も思い出したので書いてみる。 狐ヶ崎ヤングランドのプールやスライダーが好きだったけど、入場料が高いので親が嫌がり、滅多に行けなかった。が、大浜プールは市営だからか入場無料という誠にありがたい施設だった。(後に出来たウォータースライダーは1回100円と有料だったが)と言っても簡単に行けるような距離ではないので、親に車で連れて行ってもらった。海と軽井沢旅行に次ぐ、夏休みの大きな楽しみだった。 大浜プールは基本子供用の浅いプールが多かったけど、ちゃんと流れるプールや大人用の深めのプール、要所要所にでっかいキノコ型のシャワーもあった。でっかいイルカ(シャチだったかな?)型の滑り台があって、それを滑るのがすごく楽しみだった。が、滑り台が石でできているので、滑り過ぎて水着が摩擦に負けてお尻が破れてしまう所までが1セットだった(苦笑) 子供用プールエリアにも小さな滑り台やグレープフルーツ型のミニプール(?)があり、ミニプールの淵に座ると堤防向こうの海が見えて、あぁキレイだなと楽しいひと時に海の青さにふと感動した。景色をはっきり覚えているので、まだ視力低下する前の小学1~2年生の頃だろう。 流れるプールも人が多くてゴチャゴチャしていた思い出しかないけど、橋の下をくぐる時や、水が勢いよく出て来るエリアは面白いのか人がこぞって集まっていて、流されないよう頑張って淵につかまってた子供(特に男子)が多くいた。 私はその横で浮き輪に乗って、一気に流れる勢いがスピードアップするのを父親と一緒に楽しんでいた。母も一緒に行ったはずなのに、荷物番担当だったからか?プールで一緒に泳いだ記憶がない。暑い中荷物番してくれてありがとうと、今ではすごく思う。 ある年のお盆に大浜プールに行った時、その日の最高気温が32度とめっちゃ暑かった(昭和の当時)と同時に、夕方にTVのニュースで大浜プールが取り上げられていた。兄貴はプールサイドでピースサインをしてかなり目立っていたのに、私は父親と一緒に流れるプールにいたのがVTRの終わりにほんの1~2秒映っただけで終わってしまい、TVの撮影に気づいていなかったのと、兄貴と比べてほんの1秒程度しか映らなかったのが悔しくて泣いた。 母親に話したら「くだらない」と一蹴された(大人になった今は自分でも思う)けど、TVに映ると言うのは、当時の子供心にはものすごい名誉な事だったのだ。 ある年には8月31日に大浜プールに行って楽しく遊んだのだが、宿題が終わっていなくて疲れた体で泣く泣く残り分を終わらせたが、前日にサッサと完結させておけば良かったと痛烈に後悔した。 楽しい思い出満載の大浜プールも、津波対策の為とかで昨年に閉鎖されてしまったのだとか。結局、管理維持費用や人件費等が捻出出来なくなったのだろう。楽しい思い出の場所がなくなるなんて、時代の流れと言えど非常に寂しいものだ・・・。
2023年08月12日
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7月のような、冷房を入れてても暑くなるなんて事はさすがに無くなった(午後に室温が上がった時だけチョイと切り替えてる)けど、それでも暑い日が続くのでプールの思い出を書いてみる。 つま恋は今はもうなくなってしまったらしいが複合リゾート施設だったようで、プールにゴルフなどいろいろな事が出来たようだ。私が行ったのは3回で、初めてが昨日書いた小学4年生の時、2回目は短大入学後にあった、春のオリエンテーションイベント、3回目は20代前半のバイト先で仲良くなった仕事仲間、後の友人とだ。短大生の時は学校のイベントで強制的に行ったからか?何をしたのか全っ然覚えていない。楽しい要素が無いと、特別な場所でも記憶に残らないようだ。 ひとまず一番記憶に残っている初めて行った時の事を書いてみると、まず入場料が高くて母がぼやいていた事と、海の家みたいなゆっくり休めるスペースがないので、昼飯は店の外の花壇みたいな所で座って食べた。途中の店で買った天神屋のおにぎり&昼飯系おかずを持ち込んでいたのか、リゾート内でちょっとした物を買ったのか忘れたけど、海の家みたいに休憩中はゆっくりノンビリ出来なかった事だけは覚えている。 プールやウォータースライダーは確実に面白かった。ウォータースライダーは3本あったが、浮き輪を使わない方の2本は1人ずつ滑るからか行列がメッチャ長く時間がかかったので、やったのは1回だった。 ガンガン浮き輪タイプのウォータースライダーにチャレンジしたが、流れが止まる中間地点で他の人と勢いよくぶつかったせいか?バランスを崩して乗っていた浮き輪から落ちてしまい、再び流される前に急いで浮き輪に座ったのだが、ちょうどスライダーの境目に浮き輪があったようで、勢いよく座った途端にガン!と尾てい骨をスライダーと中間プールエリアの境目にぶつけてしまい、流れる楽しさが一気に吹き飛ぶほど痛かった。あの痛みは例えるなら、むこうずねを予告なしにブッ叩かれたかのようで、今でも忘れられない。 3回目にバイト仲間と遊びに来た時は、当時週5でガッツリ稼いだ金があったおかげで入場料もロッカーも、ランチも何一つ困らなかった。おまけに7月の平日に行ったおかげでガラガラだったから、ウォータースライダーも遊びたい放題だったのが良かった。小学生の時にはやらなかった(初回は存在も知らなかったので、後年に出来たのか?)飛び込み台チャレンジもした。2メートルでもいざ台の上に乗ると高く感じて怖かったが、足から思い切って飛び込んだ時の爽快感、深いプールの底から足をついて一気に浮上する感覚が最高に楽しかった。 こうして書いているとまたワクワクしてくるけど、そもそも今の体形で着られる水着が絶望的にない上に、視力が悪いので旧眼鏡を装備したまま遊ぶにしても眼鏡の固定バンドももうない(3回目の時には持っていたが)ので、水系リゾートにはもう行けそうにない。狐ヶ崎ヤングランドに次いで夏の楽しい思い出として、忘れずに心に取っておこう。
2023年08月12日
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明日夫が友人と一緒に新潟まで遠出すると言うので驚いた。お盆の渋滞のすさまじさは、関東地方では経験してないけど、静岡にいた頃に一度ちょびっと経験しているからだ。 小学4年生の時だったか、当時掛川に「つま恋」というリゾート施設があり、そこに出来たプールやウォータースライダーが面白そうでどうしても行きたいと親に頼み、親はお盆の時期の事を知っていたので乗り気でなかったようだけど、私はどうにかなると思っていた。 行きは大丈夫だったが、帰りで見事に渋滞にハマった。疲れて寝ていた時は何も知らずやり過ごせていたから良かったけど、目を覚ましてからが絶望的だった。しまいに「帰れないよう」と、言い出しっぺのくせにメソメソと泣いてしまったバカな私。ありがとうと同時にめっちゃゴメンナサイと、渋滞のニュースを毎年聞くたびに、この事を思い出して想像力が足りなかった当時のバカな私を許して下さいと親や兄に謝りたい気持ちになる。 昔は遠出でも、夜8時以降に帰宅することが殆どなかったが、この時だけは8時頃になった。母が夕飯をどうしたか(その後作ったのだと思うが)までは覚えてないけど、疲れた中で家事をしたのだから、本当にお疲れさまでしたと大人になった今は思う。これを境に、もうGWやお盆の時期は決して遠くに出かけたいなんて言いませんと心に誓ったものだ。親は「百聞は一見に如かず」の覚悟で出かけることにしたのだろう。人生何事も経験だと思うけど、やっぱり経験しない方が幸せな事もあるよなぁというのが正直なだ感想だ。 だから夫には渋滞と、フェーン現象によるすさまじい北陸の暑さ対策を万全にして欲しいと思っている。「荷物になるから」と言って持ち物を増やすのを嫌がる傾向があるけど、渋滞になれば望むタイミングでサービスエリアには寄れないし、水分補給も持ち分が移動中に切れたらいくら車内にエアコンが効いていても日差しで暑くなるから喉が渇くのは目に見える。 うちわと麦茶、ポカリと水マフラーは絶対に持って行って欲しい。いくら楽しくても熱中症で死んでしまったら何もならないからだ。しかも渋滞中じゃ救急車もすぐには来れない。頼むから生きて戻って来てくれと、慎重になるよう願う。
2023年08月10日
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毎日容赦なく暑い日々が続くので、少しでも涼しげな事を書いてみたいと思い、プールの思い出を書いてみる。前に学校のプールの思い出を書いたが、習い事の方でも近所のプールへ行っていた時期があるのでその事を書いてみる。 プール わたしは、きょうプールへいきました。わたしはいまきいろなのに、プールの先生が5メートルといって、でもおかあさんが、「がんばったね」といいました。 知らない人がこれを読んでも「??」となると思うので解説すると、近所のスイミングスクールはどれくらい泳げるかでクジラのマークのアップリケが帽子に付けられる。泳げる距離が5メートル以内なら赤クジラ(多分これは初期から付いていると思われる)、7~8メートルなら黄色クジラ、10メートルを超えるとオレンジか緑(だったかな?以降は未収得なのでもう忘れた)といった具合に、学校の帽子が色と線の本数で泳げる程度を示していたように、習い事の方はクジラマークの色で選別していたのだ。だから、いろんな色のクジラマークが帽子についている上級生が非常に羨ましかった。 冬から春にかけては風邪をひいてプールを休む日が多くなり、病み上がりで体がなまっている時に実力テストがあり、実力発揮できなかったのだと思う。元気な時にもう一度再テストせてくれよと言いたくなるが、結局これをきっかけにプールを辞めたのだと思う。ちなみにこれが、せんせいあのねの最後の日記となった。2~3月が絶不調なのは、昔から変わらないのがよくわかる。 ちなみに当時スクールにいたS先生(女性)はちょっと怖い人で、浮く感覚を覚える為にヘルパーという丸い浮き具を腰に付けなければいけなかったのに、当時はまだちょうちょ結びが出来ずマゴついていたら、先生に「結び方が分かりませんと言いなさい!」と感情的に注意された事だけハッキリ覚えている。 確かにそうだと思うけど、困りごとを親以外の大人にどう伝えたらいいのかわからなかった当時の自分にはすごく難しかったので、出来ない事をいきなり責めないで「困ったことがあったら遠慮なく言ってね、大丈夫だから」ぐらい言って欲しかったなぁと今でも思う。 昔、某玩具屋で働いていた時に、マゴマゴしてなかなかしゃべれない子供をチョイチョイ見かけたけど、その気持ちわかるなぁと今でも思う。だから大人は、うまくしゃべれない子供をどうか責めないであげて欲しいと心の底から思う。責められると「また怒られるんじゃないか」と怖くなって、余計に困りごとを口にできなくなるからだ。・・・プールの話からだいぶズレてしまったので、今日はこの辺で。
2023年08月03日
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夏の体調不良は今までは無縁だったけど、ここ近年はそうも言ってられず、ある年は食中毒になったり(?)腹を下したり、今年は特に食欲不振に悩まされることが多く胃薬の出番が多めになっている。 子供の頃、夏に風邪でダウンした記憶があまりないのだけれど、小学1年生の時は学校がストレスだったのか?夏風邪でダウンした日記が残っていたので書いてみる。7がつ13にちかぜのひ「きのう、うちにかえったら、あたまがいたくなって、ないてしまいました。」ページの余白に、ハートの模様のパジャマを着た自分の絵が描かれていた。なぜかこの日だけクーピーで色付けがされていて、髪色がなぜか茶色だった(笑)体調不良の割に、絵に色まで塗る余裕があったのが不思議だ。余談だけど、この時着ていたパジャマが可愛くて気に入ってた。 この後の事も日記の影響なのか?うっすら覚えていて、母に泣きながら体調不良を話したら「泣くと余計に頭が痛くなるよ」と超正論で返された。泣くほど不安で辛かった子供心をわかって欲しかったのに、私が言って欲しかったのはそういう事じゃないとすごくガッカリしたのを覚えている。或いは、言ってもいいけどせめて最初に「大丈夫、薬を飲んでゆっくり寝ればいいよ」とか、ほんの少しでも優しい言葉をクッションにして欲しいものだ。後日の日記(日にちは不明)もある。おいしゃさま「きのうびょういんへいきました。くすりをもらってかえりました。」でものどがとってもいたいです。」この時も謎の「」が付いているうえ、なぜかシメのカッコが2個付いている(爆)子供の頃はいろんな小児科へ行ったのでどこの病院だったかまでは覚えていないが、おそらく歩いて行ける近所の医院だったと思う。 子供の頃はともかく、マスク文化の無い頃はよく喉がやられるタイプの風邪をひいた。大人になってマスクのありがたみをよく知ることになるのだが、夏場だけはさすがにマスクが鬱陶しい。 昨日の仕事中も、一人で黙々と作業する時だけマスクを外し、人と話す時はマスクを復活させて熱中症になるのを防いでいた。が、除湿の影響か?夜になって喉がカラカラと痛くなった。夏場の喉ケアは熱中症との兼ね合いもあるのでなかなか難しい。ノドは大切に・・・。
2023年07月21日
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毎年7月7日は雨の日が多いけど、今年は珍しく星空を拝めそうだ。・・・と言っても、都会近郊は夜中でも街灯のLEDライトが明るいので天の川までは見えないのが残念だ。アパレル倉庫正面口近くに、七夕飾りが置いてあって風流だった。七夕をやったのは折り紙遊びが楽しい小学生の時までだったなぁと、懐かしく感じる。七夕は自分の願いを聞いてもらえるビッグイベントだと思っていたので、子供心に楽しみにしていた。そんな子供心を書いた日記が残っていたので書いてみる。 たなばたのひ しちがつしちにちにおとうさんとわたしとささのはをとりにいきました。おうちにかってからさいしょにかざりをつけました。おりがみでたんざくをつくってかきました。 この日も楽しかったからか?だいぶ間違いが多い上に、謎の段落分けがある。笹の葉を取りに行くにも「一緒に」が抜けてるし、おうちに「帰って」だよなぁと今更だけどツッコんでしまう。 昔、家の周りは茶畑やキウイ畑などが広がっていて、時季ごとに農薬をまいて換気時に臭く感じたり、収穫の時に刈り取り機の音が響いたりしたものだ。今はすっかり住宅地や駐車場になってしまい、その面影はもうない。笹の葉も近所に竹林(雑木林?)があり、そこから1本いただいて来た。笹の葉はだいたい1週間で枯れてしまうけど、それでも折り紙の飾り作りや短冊書きがすごく楽しかった記憶は忘れない。 短冊にどんな願いを書いていたかと言えば、シーズン的に水泳のノルマを達成出来るよう祈ることが多かった。 最初は赤帽子に線が1本から始まり、ダルマ浮きからけ伸び浮き、バタ足5メートルから7メートルと泳ぎノルマがそれぞれにあった。クリアすれば線は3本まで増える。毎年1本ずつ増えれば良しと言った具合だった。 次は白帽で息継ぎなしの面クロールに逆飛び込み、息継ぎアリのクロールが25メートル泳げるようになれば、白帽3本マスターになる。 そして6年生で黒帽、クロール100メートルに平泳ぎ200メートル、背泳ぎ25メートルに立ち泳ぎ1分だったが、黒帽はプールの閉会式までにクリアできたけど、本当に短い期間しか使わなかった。ちなみに最難関の黒帽線2本になるには、泳ぎのタイムをクリアしなければいけないので、クリアしたのはスイミングスクールに通ってる子だけだった。 小学生の頃の記憶、細かい所までよく覚えているよなぁと、自分で書いてて感心してしまう。でも、それほど水泳ノルマをクリアするのに毎年苦労したからだろう。特に4年生の時の逆飛び込みが、大浜プールの飛び込み死亡事故を聞いたせいか?どうしても怖くて腹打ちになってしまってたのが忘れられない。 七夕から水泳の話にそれてしまったけど、今七夕に願い事をするなら、夫の試験が無事合格して、今後の転職もうまく行きますようにと祈るばかりだ。
2023年07月07日
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明日は結婚記念日兼誕生日の外食をしに、金町のサンセールへ行くので楽しみだ。食べるのは明日なのに、既に迷っている。自分でも気が早いなぁと思うが、サンセールは6月の次は夫の誕生日がある9月までおあずけになるので、後悔のないように食べたいのだ。 1年生の日記にも、レストランへ行く楽しみを書いた文が残っていたので載せてみる。 レストランにいくこと今日レストランにいくから、うれしいです。おにいちゃんは、エビフライが、たべたいといいました。ぜいたくだなぁとわたしは、おもいました。けどわたしも、たべたくなりました。 句点の位置が地味におかしいけど、1年生なのでしょうがない。当時、登呂の辺り(だったかな?)洋食レストラン「とにお」があった。後で聞いた話では、外食をしに行こうと母が提案したら、父がブーブー文句垂れて不快な気持ちになったと言っていたのを覚えている。昔はアマノジャクの塊だった父親らしいやり方だ。とりあえず否定して、仕方なく付き合う雰囲気を醸し出すモラハラ作戦だったのだろう。 レストランの話に戻るが、ここはメニューにジャンボエビフライがあり、時々ローカルCMでもやっていた。今の胃袋加減なら喜んで食べに行くのだが、残念ながらもうこの店はないようだ。母の話によると、子供の頃の兄は外食で遠慮なく高い物を頼んで、親の財布をヒヤヒヤさせる傾向があったそうだ。寿司屋でカウンターで食べた日には冗談団抜きの冷や汗ものだったとか。私は幼稚園児だったのであまり覚えてないけど、空気を察したのか?かっぱ巻きなど安い物しか食べなかったそうだ。 文章の内容からして日記はレストランに行く前に書いたのだろうか?先生のコメントは「うれしいね。プニツムリちゃんはなにをたべましたか」と花丸と一緒に書いてあった。ちなみに日記には書いてないけど食べた物は覚えていて、新幹線のプレートに盛られておもちゃのオマケがついているお子様ランチセットだった。大人になってからはメニューの問題でなかなか食べる機会がないけど、いろいろ少しずつ入ってるプレートは今でも好きだ。
2023年06月09日
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これと言ったネタがない日は、子供の頃の日記をネタにしてみる。2ページ目は7月6日。しかし、「月」と「日」をまだ漢字で書けず、「7がつ6にち」と書いてあった。この日の文章は至ってシンプルでタイトルも無く、 きょうはじめてかおをおみずにつけられました。残りの余白は、プールに立ってる自分の絵が描かれていた。この日は日記の文章をどう書くか、地味に困った日ではなかろうか?と思うような、下に消しゴムで消した別の文が一部残っていた。よーく見たら、タイトルが「はやおき」で、2列目も最初の4マスぐらいまで何かが書かれていたようだが、これは判別不能だった。たぶん自力で早起きできたのは良いが、何を書いたら良いのかわからず詰んで書くのを止めたのだろう。 実家帰省した時にこの事を話したら、母が「アンタ、顔に水がかかるのをすごく嫌がったから、髪を洗うのに一苦労だったんだよ」と言っていた。確かに青いシャンプーハット等、風呂場で母と一緒に入って髪を洗う時に「嫌だ」と言ったら、「嫌じゃない!」と言われてますます嫌になった事をうっすら覚えている。歯磨きの仕上げ磨きの時も、母の磨き方は歯茎がすごく痛くて嫌だった。「こうしないとキレイにならないでしょ!」と言ったが、痛い思いをさせて歯磨きを嫌いにするやり方が正しいとは今でも到底思えない。(今はちゃんと歯磨きも歯間ブラシも使っている)←念のため。母は当時なりに必死だったのだろうけど、こういうデリケートな子供心を理解してうまくやると言うのが下手だったようだ。 話はそれたが、その後どうなったかまでは覚えてないけど、後日兄と一緒に入った時、車の洗車をお勧めするガソリンスタンドの人のようになり、まずはシャワーの優しい水洗いから勧めて来た。その後、シャンプーを使うとよりキレイになりますよと言うので、勧められるがままに兄に洗ってもらったら、いつの間にか水嫌いを克服出来たようだ。母が苦労した事を兄が遊び感覚でアッサリとクリアさせてくれたので、この件は今でも感謝している。これがなかったら、今でも水関連が嫌いだったかもしれない。 この後の日記で兄の話がたまに出てくるので、小学生の時は兄の経験話が役に立った事が良くわかる。今の仕事でも、経験者の話を事前に仕入れておくのは大事だなとつくづく感じる。
2023年05月30日
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明日も仕事があぶれて入れず。本当は某有名倉庫の募集があったようだけど、受付業務ありきなのとハードな作業場に放り込まれるのが嫌すぎて見送った。思うように仕事に入れず腐っていてもしょうがないので、今日は夕方にラベンダーの種をまき、日が暮れてから窓のゴムパッキンの掃除をした。20年以上使って穴が開いたボロタオルで掃除したので、これで思い残すことなく捨てられる。最後までご苦労様でしたと言った感じだ。 静岡の実家帰省時に、小学生の頃に書いていた日記を懐かしいついでで持ち帰って来た。今でこそ誰が読んでもわかる文章をちゃんと書けるが、未熟だったとはいえ子供の頃の文章力の無さ加減が何ともおかしい。 最初の1ページ目は日にちが書いていないが、次のページが7月のプール関連の事が書かれていたので、恐らく6月頃だろう。恐らく学校で鉛筆の正しい持ち方を始め、やっとひらがなの書き方を全制覇した頃と思われる。「きょう ともだちの。」「いえであそびました。」ごじのちゃいむがなったから、かえりました。 初めて書いた文だからか、句読点や「」の使い方がメッチャ間違ってるし、数字の5までご丁寧にひらがなにしてあるのが泣けて来るけど、接続詞は間違っていないからか、その日何をしたのかは大まかでも今の自分が読んでもちゃんとわかるのが良い。先生も「かえりました」の所に、ひらがなに1個ずつ小さい丸がついていた。当時はなぜここに〇が付いているのかわからなかったけど、今思えば、帰宅時間をちゃんと守れて偉かったねと言いたかったのだろう。 でも、何をして遊んだのかもうチョイ具体的に書いておけば良かったなぁと思う。この後の日記も何をしたかは書いてあっても、肝心な部分が書かれていない分が多く、我ながら思い出せず歯がゆく感じる。 余白には絵が描かれていて、家の中に自分と友達、友達の家にあったテーブル(友人の勉強机?)とイスと積み木っぽい四角いオブジェが描かれていた。たぶん当時マンション向かいに住んでる幼稚園時代から仲良くしていた友達と遊んだと思うのだが、何をして遊んだのかは未だに思い出せないままだ。あの向かいの友達は今どうしているのか、今はもう知る術もない。
2023年05月25日
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みんな桜や景色に夢中になってるけど、たまにはこういうので歴史の一端を学ぶのも悪くない。
2023年03月27日
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ここ近年すっかり平和に過ごせていると思ったのに、あんな輩に引っかかって悔しいのなんの。そう思っていたら、小学生の時はチラホラその手のトラブルがあった事を思い出した。 まずは1年生の時、仲良しの友達と別のクラスになったせいで友達が出来ず、登校拒否する時があった。毎朝熱を測って、平熱なら母は「それ行って来~い」と、当時の私の心情など知ってか知らずか、呑気なものだった。 しかしある時、連絡帳か何かで登校拒否を先生に相談した時、両親と先生2対1で話す時があったようで、その時に先生がとある宗教を勧めて来たとの事。父親はその手の免疫がないのか、「いいですね~」と返事したせいでその後母親と大喧嘩になったとか。(私自身はまるでその時の事を覚えてなく、後で母から聞いた)結局事なきを得たけど、今考えてみても「先生がそれやっちゃダメでしょ、下手すりゃクビ案件じゃない?」と思える。あの先生はご健在なのだろうか・・・?今や知る術が無いけど、忘れられない出来事だ。 もう一つが5年生の初夏の時、ソコソコ仲良くしていたクラスメイトの一人から「親の会社のイベントで、子供達がたくさん集まれるバーベキューパーティーがあるんだけど行かないか?」と誘われた。それは面白そうだともう一人の友人と一緒に行ってみたら驚いた。 最初の集合場所が某宗教の施設だったのだ。気乗りしないながらも中に入ったら、奥の方で祈祷らしき儀式をやっていたようで、不気味な念仏が聞こえて来た。友達に祈祷をやって行かないか?と誘われたが冗談じゃないよと思い、「私は祈祷をする為にここへ来た訳じゃないから」と、キッパリ断った。気が弱いもう一人の友人は断れなかったようで祈祷を受けに奥へ入って行き、子供心に「あんな不気味な空間よく行けるなぁ」と祈祷が終わるのをひたすら待っていた。 このことが尾を引いたせいでせっかくのイベントも心の底から楽しめず、子供イベント担当のお姉さんのマイクパフォーマンスによる紹介や気遣いがあっても内心すごく白けていて、かなり無愛想な対応をしていた。みんなで踊る「アブラハムと7人の子」ダンスも普段なら楽しくやれるのに、この日は仕方な~くやったなんて悲しい事ばかり覚えている。 高校生の時に友人に誘われて行ったコミケに参加するまで、ずっとイベント関連が苦手だったのは、きっと小学生時代にあったこの出来事が、無意識のうちにトラウマになっていたからだろうと今では思う。こう考えると、宗教やって幸せになるのは信者本人だけで、周りの人や勧誘された人は嫌な思いをしたり、下手すると不幸になってるよなぁとつくづく思う。私は家の神棚に祈りをささげて毎日謙虚な心と感謝を忘れないようにするか、正月の初詣ぐらいで十分だと思う。
2022年11月28日
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旅行に行く事が決まった時にこのファイルを見つけていればいろいろ参考になって良かったのかもしれない、本当にズレたタイミングで見つかったものだ。・・・自分で保管していたのにも関わらず、すっかり忘れてしまう自分もどうかと思うが。片付けの最中だけど、当時の自分が何を書いたのか見てみた。 まず1日目に行ったのが広隆寺に野々宮神社、二尊院に金閣寺と、バスで巡ったからか1日目でもいろんな場所に行っていた。当時の使い捨てカメラ、写ルンですで撮ったせいか、とにかく写真の撮り方が泣けてくるほどヘタクソで、クラスメイトに撮ってもらったのも指先が写っていたりした。 自分のカメラ(写真)なのに肝心の自分が写っていなかったりして、楽しいついでで随分お人よしをしていたなぁと思うが、「私も写してくれる?」と頼めなかった当時の不器用な自分の象徴みたいにも見える。でも、写真に写っているクラスメイトは決して嫌いな人達ではなかったので、友達付き合いはなかったものの、それでもみんなでワイワイ楽しくやれてたんだなぁとつくづく思う。 2日目のお寺巡りは、三十三間堂は入口に団体客がいたのか?待つのに時間がかかりそうだから入るのを諦めたと書いてあった。閉館で諦めたのは短大生の時だとやっと思い出した。清水寺の景色の写真は見て驚いた。今回夫と2ショットで撮った場所まるっきし同じだったのだ(ブログの方はまだ未掲載)。あの時は一人で何となく撮ったのが、今は夫と一緒に撮れたんだなと思うと、時の流れを感慨深く感じた。 今回は入れなかった自主神社からみた景色の写真があり、コメントには「私にはまるで縁(←なぜかひらがな)がなかった。なぜなら、えんむすびの神様だからだ。私にえんを結ぶ相手ができるのはいつのことか・・・。」と書かれていた。恋なんて漫画の世界だけで十分だと思っていた頃の自分だから(何せ女子校だったし)、7年後にちゃんと恋も結婚もするだなんてまるで想像がつかなかったのだろう。人間キッカケがあれば変わるもんだ。 しかし自主神社の神様もきっと、あの時クラスメイトと何となく一緒に清水寺に来た中学生が月日が流れに流れたらこんなに強くなるとは思いもしなかったのではないか?と思う。でも、成長ってそういうもんだよなと拙い当時の文章力や写真の構図を見て感じた。
2022年11月18日
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この写真を撮った21年後、観覧車自体がなくなってしまうとは思いもしなかった。一度きりになってしまったが、今となっては夫との懐かしい遠距離恋愛時代の貴重な思い出だ。
2022年11月18日
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スマホの機種変をする時は、支払い方法の都合でいつも夫と同時になる。今回は私のスマホは電池の消費が激しいこと以外問題ないのだけれど、夫のスマホは一度電源が入らない不具合が起きて以降、スマホ画面に黒い線が入っていよいよ見づらくなってしまっているので、これはアカンと買い替える事に。 あと1か月チョイ粘ればちょうど3年になったのに、実に惜しい!・・・けど今は、長年使い続けたからと言って新スマホで何かがお得になるわけでもないのが残念だ。 前回は2019年のお盆の時期に柏のスマホショップまで行って申し込みをし、新スマホへデータ移行が終わるまで1時間程しばらくノンスマホになるので、食事をしたり、それ以外の時は本を持って待ち時間を過ごしたりして、スマホがなくても過ごせるようにした事を思い出す。 今回もまたそうなっても大丈夫なようにと事前準備をしてから、夫と共にショップへ向かった。が、店の作りは至ってシンプルで、小さな机とイス、スマホの見本があるテーブルくらいしかなかった。昔のように行列していた頃はどこへやら。(そもそもショップは予約がないと行けない仕様になっている) 前は店でやってくれていたスマホの画面保護フィルム貼りもデータ移行も、全部1から自分でやらなければいけない事がわかってガックシ。後でネット検索などすればわかる事だけれど、格安スマホもサービスがずいぶんシビアになったなぁと3年弱の時の流れを感じた。 画面保護フィルムやケースも店舗では品切れだったので、仕方なく近くにあったノジマまで足を運んで買った。こうなってくると、店舗のありがたみが今一つわからなくなってくる。品切れでなければ、その場ですぐにスマホの本体を受け取れる所だろうか? 結局事前準備して金額を預けたsuicaも、帰りの電車の為にまた戻す羽目になり、余計な手間がかかっただけに終わった。今は何でもネットでできる便利な時代になったけれど、スマホの機種変更も例外でないようだ。確かに便利だけど、何となく味気ないような気もする。
2022年07月09日
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2008年のコンサート初参加時、実家の両親にもチケットを渡して東京ドーム1日目分をプレゼントした。その時の感動を忘れないでと追加プレゼントしたのがこのオルゴール。しかし、目の前に柱があって見づらかったと言っていたのがちょっと残念だった。一度きりの参加なら、スタンドの最前列に当たって欲しかった・・・。 この日の夜は当時住んでたアパートに両親を一泊させて、翌日両親を見送ると同時に2日目のコンサートに夫婦で行った。ちなみに今のマンションに引っ越してからは両親は一度も来ていないので、もう一度遊びに来て欲しいと思っているのだが、家の事情を考えると今はそれも難しそうだ。
2022年07月02日
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タイトル通りだけど、今日は懐かしい祖母の家の夢を見た。母方の祖母の家は実家と同じ市内にあったので、何か用事があるたびに(たぶん祖母の差し入れや取り寄せの米を取りに来いコール)父の車に乗って祖母の家に行った。 急いでいる時は玄関のみで済ませてしまう事もたまにあったけど、だいたい上がってお茶を飲んで、祖母と母は話をしていて、追加で揚げる物が出て来ても「いいよいらない~」と物嫌いな母は大概断っていたので、とりあえずもらっておけばいいのに勿体ないなぁと子供心に思っていた。 トイレが薄暗い上に汲み取り式(俗に言うボットン)なので子供心に怖かった部分はあったけど、帰り際に時々お小遣いやお菓子をもらえてラッキーと喜んだ記憶があるので祖母の家が大好きだった。 そんな祖母の家も平成に入ってから家を継いだ叔父家族と同居する事になり、家の建て替え工事をしたらすっかり昭和の面影と呼べるものはなくなってしまった。建て替え工事をする当日、祖母の家に行って家を壊す直前の写真があったので、だいぶ前に行った実家帰省時に見つけて懐かしくなった。 話の本題まで随分かかってしまったが、夢は今この成長した状態で祖母の家に上がる夢で、夢の中でも「懐かしい~」とリアルに喜んでいる夢だったのだ。 残念ながら夢の中は祖母はおろか誰も出て来なかったけれど、狭い玄関口までの砂利通路、薄暗い北側の部屋に置いてあった鏡台や10キロの米が置いてあった物置き部屋、入る機会は一度もなかったけど、五右衛門風呂のような木の桶のある風呂場、そして自転車の置いてある砂利だらけの小さな庭とザボンのような酸っぱい実がなる木が生えてる縁側、ゴザにちゃぶ台のある居間と、記憶で出来ている風景のはずなのに見た映像がものすごい再現度だったのだ。台所が夢で一度も出て来なかったのは、恐らく祖母が訪問するたびいろいろもてなしをしてくれるので、わざわざ自分が祖母の台所に行って何かする事が一度もなかったからだろう。(あっても手洗いぐらいだっただろうか?) なぜ今こんな夢を見たのか分からないけど、祖母から「もう少し年寄りの心を思いやってやれ」というメッセージだったような気がしてしょうがない。世の中を嘆いてばかりの母はきっと、大好きだったコーラスの集まりもコロナのせいで全然出来なくなったせいか?寂しいのだろう。感染対策を万全にして、早く会を復帰すればいいのにと願う。コロナなんかより、精神面が本当に心配になってしまう。
2022年03月20日
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基本私は服に興味がないので、他人がどんなブランドを着ていても知ったこっちゃないのだが、母の服に関してだけは写真があるせいか?何故か一部覚えている事がある。 今回シミが付いててやむなく捨てた服は、昔夕飯の最中に醤油のついた何かをこぼして服に付いてしまった事をなぜか思い出した。 よくある日常の光景なのに、なぜかその事だけ覚えていたのはきっと無意識に「いい服でよく似合ってるのに、汚して勿体ないなぁ」と思っていたのかもしれない。私ならお気に入りの服だったらすぐに脱いで、ピンポインしみ抜きしてシミが残らないようにするけど、母の場合はなまじ服がたくさんあるが故にあまり大事にしなかったのかもしれない。 たくさんもらった服の中には、母がコーラスのイベントで着た服も入っていた。直接イベントを見に行ったことは小学生のバザーの時以外全然ないけど、イベント時の集合写真が電話帳の写真ポケットに入っていて毎日見ていたから覚えていたのだろう。 その中でも特に赤いカーディガンと、黒の上下薄手ツーピースは特に映えていたのでよく覚えている。赤いカーディガンの方は今の母でも充分似合うので勿体ないなぁと思うけど、今は他にお気に入りがあるのかもしれない。ちなみに今現在これを上着代わりに着ているが、なかなか暖かいので助かる。なまじ色が派手なので、外出着にする勇気はないのが残念だ。 これからの季節に着られるようにと、薄手や七分袖の長袖を洗濯した。が、某有名倉庫はヒラヒラした生地やフリルのついた服はNGなので、仕事で着て行く機会はかなり少なそうだ。こうなったら、勿体ないけど部屋着に昇格させようかなぁ?と考えるこの頃だ。
2021年04月29日
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3度目の正直で、大手町の銀行へ。駅構内のダンジョンも、さすがに3度目ともなるとさすがに迷わない。ひとまず途中にあったマーキュリー像に感謝だ。 前回は戸籍謄本が足りなくて出来なかった解約も、コレが目に入らぬかと言わんばかりに出したら(いろいろ書類を書かなければいけなかったので時間はかかったけど)、今回は無事に解約することができた。 旧姓のまま残っていたのが、精神面で今ほど安定していなかった昔は最後の切り札として大きな存在だったけど、絶望を乗り越えた今となってはもう過去の自分の弱さの象徴でしかなくなったのだ。 派遣の仕事を始めたおかげで、見知らぬ所にも臆せず行けるようになったのもかなり大きい。(地図アプリの影響もだけど) この通帳は20歳になった記念として母が通帳を作ってくれて、その後結婚するまで貯金に大きく貢献してくれた。結婚で貯蓄額がゼロに近くなった時、入籍する前にサッサと解約しておけばこんな面倒な手間発生しないで済んだのになぁと、都内までの往復交通費に手数料諸々含めて、今になって後悔している。 過去にはもう、何の未練も迷いもない。ただ安定した老後に向かってひたすら突き進むのみだ。
2021年03月19日
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小学生の時、同じマンション内に住んでいた先生が遠くに引っ越すまでの2年間、ピアノを習っていた。この楽譜本は2冊目で、黒鍵盤をよく使う難しい曲以外8割方制覇していた。先生が引っ越さなければ、よその先生の所で続けていれば全部弾けるようになっていたのだろうか?と今でも思うことがあるけど、遠い過去に未練はないので、今年でこの本ともおさらばした。 2枚目の沖縄そばは、松戸駅の期間限定アンテナショップ内でゲット。やっぱり沖縄と北海道フェアは心が揺れる。しかしそば本体のみでスープの素がついてないので、高くてもいいから素直にスープ付きを買えば良かったと未だに公開している。
2020年12月30日
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スマホでブログを見ると、だいぶ過去の文章ネタや写真がトップ10に来ている事がある。1~2年位前ならすぐに思い出せるけど、それ以上になると自分でも「こんなん書いたんだ~」と自分で感心してしまう事があるので面白い。 特に夫との修羅場になる前の2015年夏以前(自分では脳味噌がお花畑だった頃と思っている)はもう、子供時代レベルに遠い過去のように感じる。特に昔の仕事ネタは読めば読むほど、「なんでこんなムダに長年我慢し続けてしまったんだろう?」と不思議でたまらない。昔の自分は「緩やかだけど貯金はシッカリ増えているので、わざわざ長時間勤務で無理する必要がない」と思い込んでいたようだ。 本当は某玩具店で働いていた頃からタウンワークを見て、派遣の倉庫内作業の募集を見ては「短時間勤務もあればいいのに」とため息をついて諦めるの繰り返しだったのだけど、今にして思えば、週2でもいいからサッサとそっちに切り替えれば良かったのだ。 特に風邪を引いてダウンしたり、風邪リーチでダルいのに残業を引き受けたりとアンチ我慢になった今ではありえない事までしていた。若さって愚かで怖い(爆)治った風邪がしょっちゅうぶり返してる辺りから見ても、向いてない仕事を続けて免疫力が相当ダウンしていたように思える。この時代に今のコロナが発生したら、間違いなく一発アウトだろう。 あの家庭の絶望修羅場は二度と経験したくないけど、本当の自分を知るために、一歩踏み出す勇気の為に必要な事だったと今では素直にそう思える。あれがなかったら、未だに私はストレスのアレコレを周りにグチってばかりで踏み出せないダメな女でい続けただろう。夫がもたらした絶望は決して消えることはないけど、強くなれたならそれでいいと思える今の心身共に平和な状況に心から感謝したい。
2020年09月09日
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金曜日のお出かけ時にサンダルがブっ壊れてテンションが一気に下がったと書いたが、ついでに過去に起きた夏のサンダルトホホな話を書いてみる。 まずは幼稚園時代。サンリオキャラのタキシードサムのサンダルを買ってもらってよく履いていたある日、清水のフェリーで夜の景色を回遊するイベントがあり、連れてってもらった。 が、帰り道途中で靴ずれを起こして親指と小指が痛くてしょうがない状態になり、父親におんぶしてもらって駅までたどり着いた。この時父親がいなかったら、間違いなく裸足で歩く羽目になっただろう。今のように薄い靴下でもあれば防げたのだろうけど、時代が悪かった(泣) もう一つは比較的最近で2016年7月、義弟の結婚で家族親睦会の話が持ち上がり、都内の料亭でほぼ全員集合した。(この話は当時書いた記憶があるけど) この時は母からもらった滅多に履かないオシャレ系サンダルを久しぶりに履いたのだが、行く途中でかかとを止めるパーツが足の土台から外れてしまい、右足だけミュール状態になってしまった。席は靴を脱ぐ座敷なので助かったが、帰りに靴の修理屋に寄っても直しの対象外だと言われて泣く泣く諦めて靴屋に行き、楽に履けそうなサンダルを購入した。 派遣の仕事を始めて以来夏の間忙しくなり、おしゃれして出かける回数がほとんどなくなってしまった。サンダルはともかく、仕事には着て行けない夏のおしゃれアイテム全般も8割要らないような気がしてきた。秋以降に仕事が暇になったら、こっちも一斉断捨離しようかなぁ?
2020年09月01日
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鬼のように暑かった8月も今日で終わり、コロナのせいで本当に何もない寂しい夏となった。(普通の時でもお出かけしなかったけど)今日は仕事で平和な8時間で特に書くことも見つからないので、遠い夏の思い出話を書いてみる。 小学校1年生の時は旅行&夏イベントラッシュで、あんな楽しい夏休みは後にも先にもなかった。狐ヶ崎ヤングランドプール(だいぶ前に文章ネタで書いたけど)に静波での海水浴、1泊2日で戸田のフェリー移動&お泊り海水浴に、最後は軽井沢の保養所2泊3日と、もしかしたら記憶の年度が前後して全部じゃなかったような気がするけど、本当に盛りだくさんだった。 今回は戸田のお泊り海水浴の思い出を書いてみる。 父と母どちらが企画したのかはわからないけど、戸田へのドライブはともかく初めて乗ったフェリー移動が楽しかった。兄が船内にあったガチャガチャでスーパーボールを入手し、デッキエリアで跳ね飛ばして遊んでいたのが羨ましかったことと、船内にいるのが退屈なので殆どデッキを歩き回って景色を見ていた。 夫との旅行でもフェリーに乗った事があるけど、船内での過ごし方は子供の時とあまり変わらなかった。 戸田の海水浴は遊泳エリアがかなり限定されていて、兄は奥のイカダまで1人で泳いで行っていたようだが、当時の私はろくすっぽ泳げなかったので、浮き輪と一緒に父と浅瀬でちゃぷちゃぷ遊んでいた。泳げるようになったら絶対イカダの所まで行こうと思っていたのに、残念ながら戸田の海水浴はこの一度きりになってしまった。 帰りもフェリーに乗るはずだったのだが乗る時間に間に合わず、結局車で普通に移動して帰った。父は、「どっちが早いか競走だ!」と言って沼津の海側特有のクネクネ道を頑張って走らせていたが、結局どちらも大差なかったようだった。 母が具合悪くて海水浴に参戦できなかったのも残念さに拍車がかかったが、何より覚えているのは、旅館の部屋にあったクーラーが壊れてしまい、クソ暑い中扇風機で一夜をしのいだのだ。 大人になってから聞いた話では、この時母は重い生理(腹の痛みも含む)でダウンしていたらしいので、暑さダメージも含めて相当辛かっただろうなと思う。何せアルバムの写真を見るたびにその話が出てくるのだ。私にとっては楽しかったカテゴリに入るけど、母にとっては体調不良が半端ない、暑さも含めて忌まわしい最悪の旅行の思い出になってしまったようだ。 私も2010年旅行時の生理バッティングの辛さを未だに忘れられないでいるので、男とは違う意味でこういう時女って本当に大変だよなとつくづく思う。
2020年08月31日
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今週は古い物とおさらばする時のようで、長年使い続けてきた物にガタが来た。 まずは菜箸、これは厳密に言うと結婚前から夫が一人暮らし時から使っていた物らしいので、たぶん18年以上だろう。とうとう先っぽが欠けてボロボロと木の繊維が露出してしまったので、寿命を感じておさらばした。長い付き合いだからか?戦友とおさらばするような気分になり、料理好きな主婦として心がキュンと痛んだ。 菜箸は100均で買った物が何本かあるので捨てても困らなかったけど、旧菜箸は滑り止めのギザギザがあるので使いやすく、気に入っていたのだ。やっぱり100均一じゃない所で、ギザギザ付きの菜箸を買い直そうかと考え中。 もう一つは本棚の目隠しカバー。昔夫が持っていた本のコレクションを来客時に隠すために購入した。マジックテープ式で取り外しも簡単で気に入っていたけれど、引っ越しで本棚を隠す必要がなくなったり、夫がコレクションを一斉処分してからは、台所のタオルワゴンのホコリカバーとして使っていたが、長さが合わず下を引きずるような形になってて不本意だった。 経年劣化で変色にシミや汚れ、元の白い色もドコへやら?な色合いになってしまったので、これもおさらばすることにした。長年ホコリカバーにしていたけど、毎週夫とコマメにホコリ取り掃除をするようになってからはそんなにモッサリとホコリをかぶる事もなくなったので、今となっては必要なくなった。 昔は必要だと思って買ったけれど今はそうでない物、これ以外にも本当はあるんじゃないかと思っているけど、日頃の忙しさに駆られてなかなか判断できないでいる。が、いずれわかる時が来るだろう。
2020年08月27日
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実はこれ、結婚前に夫と一緒に買った品。結婚後に夫がビンゴ大会の景品でドライヤーをもらってから出番が無くなったのだが、使い続けたドライヤーが壊れるたびに、つなぎの予備として活躍してきた。買おうと思うと夫が何かのイベント等で入手するので、結婚後は出番が極端に少ないまま今に至る。
2020年06月17日
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今日二度寝してたら、日本平の頂上へ行かなければいけないのになぜか山の中ではなく、室内アスレチックのようなフワフワした中に石や岩があり、狭いトンネル内をくぐりぬけて行くという夢を見た。 実家にいた頃は近所で、幼稚園や小学生の時は遠足等チョイチョイ学校行事でお世話になった場所だ。大人になってからは、日本平ホテルで兄貴の結婚式に結婚1周年記念お泊り以来全然行ってない。なぜだかわからないけど大人になって日本平が縁遠くなってから、たまに夢の中に日本平が出てくることがあるので、ちょいとばかし思い出を書いてみる。 幼稚園の時に虫取り遠足で山に行った時、虫を探すのに夢中になりすぎたからか?昼飯集合の合図が聞こえず、みんないないなぁと心細くなって戻ったら、とっくに他の人は神社で昼飯タイムに入っていた。虫を取った楽しさよりも、「なんで置いて行くんだよ?」と半べそかきながら昼飯を済ませた事の方が記憶に残ってしまった。 今でもやってるのかどうか知る由もないけど、小学5~6年生は日本平近くの中学校をスタート地点に、遠足用の荷物が入ったリュックを背負って頂上付近まで山登り競走する(断郊競歩と呼んでいた)という根性試しのような行事があった。4年生の時に応援で行った時、「本当にこんなの来年やらないといけないの?」とゲンナリしたのを覚えている。 転びはしなかったけど、当時の体育着は半袖&ブルマだったので、よくあんな危ない格好で悪路の山登りさせたなと悪い意味で感心する。(平地のマラソンだけならともかく) しかも6年生の時にはそこそこ仲の良いクラスメイトと着順が近かったせいで、「一緒に走ろうね」結託でゴールしたんじゃないかと担任の先生から疑われ、クラスのの女子の半数位は白状していた。が、私はそんな事してなかったので「本当にただの偶然です」とキッパリ言い切った。今になって思うと、純粋に頑張った順位を疑うなんて失礼な話だ。しかし、あの長距離&暗くて狭い道の山登りじゃ心細くなって「一緒に行こうね」したくなるのも無理ないよなぁと、大人心で思い出しても凄い行事だったなぁと今は思う。
2020年05月02日
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世界中現在進行形でコロナウイルスで大騒ぎなのに、呑気にこんな話を書いていいのか迷ったけれど書いてみる。 小学2年の時にひいた風邪では、子供部屋で寝るのが心細い(ベッド上段を使っていた兄にうつるといけない点も然り)ので母と一緒に寝ていた。その時に見た夢が、白黒で薄暗く何もない所に母がいたのだが呼んでも呼んでも遠くへ行ってしまうので必死に追いかけたと言う子供心に怖い夢だった。 起きた後で泣きながら母に話したら、「大丈夫だよ、どこにも行かないから」と言ってくれて再び寝ることができたけど、あの白黒夢の恐怖は(いつもカラーの夢なので)大人になった今でも忘れられないでいる。この時だったか別の時かまではハッキリ覚えていないけど、母の話によると夜にひきつけを起こしたとの事。本人(私)はまるで覚えていないけど、それ1回きりで済んで良かったと思う。 次は2003年、結婚に向かって仕事を頑張っていた頃にひいた風邪の話。冬にひいた風邪は、熱を出した翌日に当時遠距離恋愛していた夫の所に会いに行く予定が入っているという、絶妙に嫌なタイミングだった。こんな時に限って38度台の熱が出て明日になっても下がらなかったらどうしよう?と泣きたくなってたら、母親から怖い顔で「明日行ったら殺すよ」と言われた。 翌朝熱を測ってみたら、ちゃんと平熱に戻って体も楽になっていたので、母に体温計を見せて「これなら文句なしでしょ!」と驚かせた。熱の出る風邪をたった2日で治したのは、後にも先にもこれ1回きりだ。若さと恋の力恐るべし。 4月に結婚準備などで忙しくて再び風邪をひいたのだが、この時の風邪は熱が下がった後もやたらしつこく咳が続き、完治まで2週間くらいかかった。職場でも当時騒がれていた「SARSじゃないの?」と社員から疑われるほどだった。 この時はまだマスクする習慣なんてなかったのに、よくみんなうつらなかったなと不思議でたまらない。あのしつこい咳の苦しさも未だに忘れられないでいると同時に、本当にサーズだったのかも?若かったからあの程度で済んだ可能性大だったりしてとも思っている。
2020年04月07日
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写真を見る限り、「どこも壊れていないのに、なんで?」と思う人が大半だと思う(実際夫も言うまでわからなかった)。右に写っているゴムパッキンをセットしないまま閉めてしまったせいで、セットし直そうと必死で開けようとしたがピクリとも動かず、夫に頼んでお湯で温めてから夫のバカ力で回してもダメだったので、泣く泣くおさらばする羽目になった。
2020年03月29日
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TVのコロナウイルス関連のニュース諸々に振り回され、ビビり続けるのも、仕事があぶれてふてくされているのもいよいよバカらしくなってきたので、「笑って免疫力アップ作戦」を続けているこの頃。 過去の空耳アワードを見ていると、やっぱり大賞を獲ったのが一番面白いと素直に思うけど、中には「候補に入って十分面白いのに選ばれなかった」ものもある。いつ放送されたか、誰が歌っていたのかまではハッキリ覚えてないけど、記憶に残っている面白いのをいくつか書いてみようと思う。♪「あ~あ~あ~、あっち行け、あっち行け(×2)やっぱ戻り戻り」♪「あんパンを 今 食べ~~~~、あぁ~~~」♪「あのいぼ~痔~あのいぼ痔~、あぁぁぁぁ」♪「温泉で~コケて~頭痛てぇ」♪「海女下痢で海に出れねぇ、今朝も下痢で」♪「白便 黒便 和田弁」♪「アホな放尿犯~」♪「津津津津ワオ津! 冬と言えばよぉ~、津軽津軽津軽津軽」♪「ならできないじゃない!」♪「餃子~水餃子~、の~り~た~まぁ」 全部書くとウルトラ長文になりそうなので、10個に厳選。(だいぶ迷ったけど)こうして文章で書いてみると、「映像でツボった」と思えるのもある。でも、今はしこたま笑って免疫力を上げた者勝ちでいいんじゃない?ということで・・・。
2020年03月14日
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数週間前に「梅郷の某倉庫に勤めていた頃の給料データをエクセルに入力した」と書いたが、1年半分と量が多くて1日で全部は入力しきれなかったので、暇を見てチョイチョイ入力していた。そして今日、やっと残り半年分になったので、一気に入力を済ませてしまった。 まず日にち、最初は火水金曜日に週3出勤していたのが、いつからか火木金(木曜日が忙しいからと言われて替えた)になり、そして最終的に鬼忙しい月曜日に変更し木を含めて週2になるも、残業ほぼ確定という流れになった。2017年の12月に至っては、月木で体力を限界まで使っているのに短時間出勤にまで協力したのだから、本当に花丸ものだ。 時々定時出勤していなくて差し引かれた分は、電車が遅れて送迎バスに乗れず、仕方なく徒歩30分を歩いて現場まで行ったり、アーバンパークが電気系統の故障で完全に動かず、タクシーの相乗りをしたら近くまで同乗した男性にお金を払ってもらったメッチャありがたい出来事まで思い出した。あの男性に、その後何か良いことは起きただろうか?知る術はないけど、幸せでいて欲しいものだ。 給料明細には記録がないけど、残業をギリギリまで頑張ったら支度が遅れて送迎バスに乗り損ねてしまい、近隣を走るバスも目の前で行ってしまったので、仕方なく暗い雨の中を水たまりとデコボコした道に苦戦しながら歩いて帰った事も思い出した。ピッキングで激しく歩いたのにまた30分かけて歩いて帰るなんて、当時の私は本当にガッツがあったなぁと感心する。今だったら、素直に休憩室で送迎バスが来るまで待つだろう。 当時働いていたメンバーは今どうしているだろう?これも知る術ないけど、自分さえ楽できれば良いズルメンバーなんかどうなろうと知ったこっちゃないが、大変な内容でも真面目に頑張ってた方のメンバーは、どうか幸せでいて欲しい。 余談だけど、仕事帰りに夫と一緒に行った当時の「いきなり!ステーキ」の旨さも忘れられない。激しく体力使った後の肉は、本当に美味しい。外食のありがたみは、仕事後特に感じる。
2020年02月29日
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人形服を断捨離し、中野ブロードウェイで懐かしいおもちゃのアレコレを見て思ったのだが、やっぱり断捨離は「人に言われてするよりも、自分で決めてした方が良い」とつくづく感じた。 子供の頃持ってたおもちゃは、遊ぶ回数が少なくなると決まって年末の掃除時に母親から「遊ばないなら捨てなさい」と言われて、しぶしぶ捨てたのは数知れない。ハウス系おもちゃは場所を取るので仕方なく諦めたけど、ぬいぐるみだけはどうしても捨てられず結婚後も何年か持っていた。(さすがに飾るだけだったけど) 引っ越し時に「大人にならなければ!」と思い立ち、感謝の意を込めてプレゼントバッグ&リボンをかけて別れを告げたので、全然後悔していない。むしろボロくなった上に、大人になって遊ばなくなってからもそのままいてくれてありがとうの感謝しかない。満足するまで持っていたおかげで、後悔の念は1ミリもない。 しかし、母親から言われてしぶしぶ捨てたおもちゃは、未だに悔恨が残る。昔からトランクルームが存在したなら、お年玉つぎ込んでそこに保管しただろうになぁと思う。 大人になってからも人形撮影で実家に持ち込んでいたら、ある時「いい加減そういう趣味は卒業しなさい」と言われて頭に来た。母親は、たぶん「人形=子供が遊ぶもの」としか認識していないのだろう。しかし、この時はもう我慢しなかった。「何で趣味にまで口出しされないといけないの?誰かに迷惑かけてるんじゃないなら、好きにさせてよ」と一蹴した。 さすがに母親もそれ以上は言わなかったが、たぶん母親の理想としては、私にあまり子供っぽい趣味や物を持っていて欲しくなかったのだろう。しかし、私はあくまで自分の意思を持つ人間であって母親の理想の人形じゃない。母親は事あるごとに「私を1人の人間、別人格として見る」と言ってたけど、そうでもないフシは確実に存在したなぁと今になって思う。母もまた一人の完璧でない人間なので、今更怒ってなんかいないが。 近所の遊び仲間に貸して壊されたおもちゃやぬいぐるみのことを思い出すと、「なんであんなに無駄にお人よししてたんだろう?」と後悔ばかりするが、それは優しさも相手を選ばないとロクな事にならない教訓として、心に根付いている。おもちゃや人形の出会いと別れは、今でも人生の教育の一環だと考えている。でも、買いこみ過ぎに気をつけねば。
2020年01月28日
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北の部屋の掃除をしてたら昔の写真が出て来たので、一枚載せてみる。インスタントカメラを持ち歩いていた頃のおかげで、こうして昔の首里城を見ることができた。
2019年12月29日
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懐かしい写真その3。これも今となっては貴重な一枚だ。
2019年05月08日
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懐かしい写真その2。こういうバックグラウンドな場面が面白くて好きだった。今はもうないのが残念。
2019年05月08日
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懐かしい写真が出て来たので。今行っても見られないディスプレイだ。
2019年05月08日
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かこさとしの絵本で有名なのといえば、だるまちゃんシリーズか「からすのパン屋さん」あたりだろう。しかし、我が家にあったのは「とんぼの運動会」という絵本の方だった。これに限った話ではないが、有名な絵本作家で人気の本はあまり我が家になく、「こんな本があったの?」と思える有名でない方の本がたくさんあった。 たくさんのとんぼ達が空でかけっこやくす玉割り、綱引きをして無事運動会が終わった後、家に帰ろうとすると途中でギャングコウモリに捕まってしまうのだが、くす玉割りの要領で閉じ込められている袋から脱出し、紐の袋でギャングコウモリをのをくくって綱引きの要領で引っ張り出し、しまいにコウモリを樹木にくくり付けてしまうという勧善懲悪話だ。 途中のセリフに出て来る「トンボを擦って紅茶にしてやる」(ギャングコウモリ)も、最後のトンボ達のセリフ「インスタントコーヒーのコウモリがべそかいてるぞ~」も、どっちも気持ち悪いわ!と緑茶大好き市民として真面目に子供心に思っていたけど、このブーメラン返しのようなセリフが作中で一番好きだ。 「日頃やっていた事がここぞの時に役に立つ」という展開が、アニメのパーマンの話とよく似てるなぁと今になって気が付いた。が、仕事をしている今となっては「前に経験した事が後になって役に立つ」という展開が本当にあるので、なるほどなぁと大人になって絵本やアニメに今頃感心するこの頃だったりする。
2019年01月27日
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今は黒人のデリケートな問題で販売されていないらしいが、静岡の実家にお下がりの絵本「ちびくろさんぼ」がある。 子供の頃は漠然としか読んでいなかったので、虎が4匹もいる所に住んでるなんて怖いなとか、山盛りのパンケーキが美味しそうだなぐらいしか思わなかった。4匹の虎が威嚇しあう声の表現が、ひらがなで「ぐるるるるる」と書かれていたので、虎がヤシの木の周りをグルグル回る時の音だと大人になって読み返すまで勘違いしていた。 オノマトペ表現は難しいのかもしれないけど、できれば「ぐるるるぅぅぅ」と書いて欲しかったなぁと思う。 この前実家でふと読み返した時、虎がわざわざちびくろさんぼに向かって「お前を食べちゃうぞ!」と警告するなんて、随分お優しい虎だなと今になって思うけど、本当の目的はちびくろさんぼではなく、「ちびくろさんぼの持っていた服類」だからわざわざそう言ったのかなぁと推測している。ちびくろさんぼが目的なら、警告しないで容赦なく草の陰から飛びかかっているだろうと思うので。 アニメもそうだったけど、大人になると子供の頃わからなかったアレコレがわかって来るので、絵本もお気に入りに限っては取っておくもんだな(全部は無理だとしても)思った。
2019年01月24日
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数多くある藤子不二雄アニメの中で、個人的に一番好きなのがこの「エスパー魔美」だ。 リアルタイムで見ていたのが小学校4~6年の時だったのだが、その時は高畑さんの言っている難しい事がわからずアタマが「?」マークだったが、後半で何かと危険に巻き込まれてハラハラする展開がすごく好きだった。 余談になるけど、モデルでしょっちゅう裸になる場面が出てきて、見えてはいけない部分が何かで隠れる事もなくモロに描写されているので、女だけど子供心にもドキッとしたものだ。今の感覚で見ると、「そういう時はせめて手で隠しなさい、恥ずかしい!」と思うが、家の中だと気持ちがオープンになるのはしょうがないのかな?とも思ったり。 大人になってから見ると、高畑さんの言ってる事は尤もらしくて的を射た賢い発言ばかりだ(たまにふざける事があるけど)。子供の頃は「高畑さん慎重すぎ!」と助言を鬱陶しく感じたけれど、今見ると「高畑さん正解!」と素直に思える。高畑さんは魔美と同級生だけど、どんだけ頭が大人なんだと本当に感心する。頭脳明晰設定ゆえなんだろうけど、うらやましい。特に魔美ではなく高畑さんナイス!な話もあるのが好きだ。 子供の頃は超能力もあったらいいな~と憧れたけど、テレポートと予知能力以外は特にいらないなと今では思う。 アニメのように非常ベルで毎日どこかへ呼び出されてばかりじゃ生活が成り立たないし、テレパシーだって知りたくない心の中まで知る羽目になったりしそうで気分が悪くなりそうだ。物を動かすテレキネシスは、仕事時に力仕事も楽勝でいいなと思うけど、秘密にしなければいけないのでは人前で使えず役に立たない。体調不良時の能力低下やクシャミでの拡散テレキネシスで服等が破れてしまうのでは、花粉症シーズンが地獄になる 話がそれたけど、一番好きな話は「雪の降る街を」(時空を超えてテレキネシスが発動するから)「くたばれ評論家」(魔美パパの神レベルな器の大きい考え方に惚れた)だ。後者の方はまだ無料動画で配信されていないけど、すごく楽しみだ。
2018年08月11日
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腹トラブルの話が連日続いたので、今日は違う話を。 子供の頃夕方6時30分から(だったかな?)放送していたパーマン、動画でまた見られて嬉しい。余談になるけど、子供の頃あんなに欲しかったパーマンセットのおもちゃのCMはyoutubeで見られた。パーマンになりきりたいのではなく、バッジの光&音声ギミックで欲しくなったのだろう。お年玉ゲット後デパートまで買いに行ったが、見本以外売り切れで入手できずじまいに終わって悔しかったが、やっぱりお菓子のラムネケースで我慢して良かったと今になって思う。(その写真が残っているので覚えている) 子供の頃は「パーマンセットとコピーロボットいいな~」と羨ましく思うぐらいしかなく、たまに出て来るパーやんと妹のガンコちゃん、バードマンが子供心にあまり好きじゃなかった。当時はパーやんに対して「ズル賢い奴」ぐらいの印象しかなかったけど、今大人目線になって見ると非常に効率的で賢く、パーマンメンバー中で知恵役として必要な存在だからバードマンが選んだんだろうなと理解できる。(ブービーは癒しキャラかな?)子供の頃は「バードマン厳しすぎる!」と思っていたし、登場のBGMを聞くと緊張したものだけど、今見ると厳しくともなかなか理想の上司&父親キャラ設定じゃないか?とひそかに尊敬できるものがある。 妹のガンコちゃんも今見ると、「生意気な女の子あるある」を地で行ってる感があって「年下でも、口と態度だけは達者なんだよな~」と大いに理解できる。 何の話だったかまでは覚えてないけど、パーマンメンバー全員で飛行機の片輪代わりになって飛行機を支えながら滑走路を全力で走る場面と、みっちゃんが悪者に誘拐されて捕まる場面の話が未だに忘れられないでいる。配信が切れる前に毎日見ているが(仕事の日は除く)その話を見られる日が待ち遠しい。
2018年08月09日
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買い物カテゴリを仕分けするようになって4日目、仕事の無い日は1日20ページチェックしているので今の所順調だ。このペースなら20日強で仕分け終了できそうだ。それでも数が多いなら、お菓子とそうでない物に更に細かく分けるしかないかも? 今日は2016年春頃の買い物カテゴリまでさかのぼった。派遣の仕事を始めた頃のこと、富山旅行時の小田和正コンサートに都内の友人と再会してレアアイテムやパワーストーンを買った事など、懐かしい話がたくさん出て来た。2年前なのに、すごく昔のような出来事のように思えてしょうがない。 でも、あの頃よりも断然心身共に強くなったことは確かだ。歩く速度は速くなったし、重い物も少しぐらいなら平気になったし、メンタル面は内容によるけど、「命にかかわることでなければ、だいたい何とかなる」精神で大概の事はやってのけている。 人間には無限の可能性が有るとまでは思えないけど、必要とあらばそこに絶望があろうと何だろうとどんなに時間がかかっても変われるものだ。あとは今まで当たり前だと思っていた概念を捨て去る勇気と覚悟があるか、肝心なのはそこだろうと思う。 結婚して15年目、10年目以降はさまざまな絶望を味わうイベントが多いけど、それでも私は今までと一味違う価値観のある幸せに向かっていると思いたい。
2018年06月18日
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半年強かかったけど、やっと長年溜まった未分類を全仕分けする事が出来た。 思えば最初は人形メインの写真館にしようと思っていたのに、いろいろ忙しくなってだんだんそれが出来なくなり、普段気に入ったアレコレや旅行写真を載せていったらそっちがメインになる始末。結局人形よりも、買い物カテゴリの方が圧倒的に多くなっていた。 買い物カテゴリもずいぶん数が増えすぎてしまったので、明日からはこの買い物カテゴリを食品とそうでない物以外に分ける予定。そうでないといかんせん見づらいと思うので。 明日の仕事は予想通り?またあぶれてしまった。やっぱり今月は土日メインで働くしかなさそうだ。でも諦めないで木曜日も出勤希望を出す予定。
2018年06月12日
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4000近く溜まり続けたカテゴリ未分類をここまで処理するのに半年ほどかかったが、1日20処理(仕事のある日は10)と、毎日根気よく処理し続けて良かった。 残りの未分類は2007年12月分だけになった。20世紀森の広場に行った写真が出て来たが、あれは夫がまだ楽団に所属していた頃の話だ。自転車であそこまで行ける距離に住んでいたという事実だけでも懐かしい。今の家からでは素直に電車を乗り換えた方が楽なので・・・。でも、コンサート等用事が出来なければ今後そこに行くことはたぶんないだろう。 最近平日の仕事はあぶれ祭りが続いていたが、ダメもとで明日仕事希望を入れたら見事にヒット。閑散期は土日出勤でしのぐ作戦で行こう。(日曜日だってどうなるかわからないけど)
2018年06月08日
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カテゴリ未分類も順調に減って、やっと400を切った。2008年の春先まで来たが、この頃はまだ文章ネタがやけに丁寧語な上、たまに桜など植物系の写真が載っていた。この頃はまだPCやスマホ(当時はガラケー)を使う時間が短かったので、人形写真や洋服作り等時間に余裕があった。 何より昔は仕事が秋冬以外短時間勤務だったので、精神面でも大いに余裕があったのがよくわかる。都内在住の親友ともまだ交流があった頃、それぞれのコレクション人形写真のコラボがあったりして非常に懐かしい。すっかり連絡が来なくなってしまったのが寂しいけど、元気でいるだろうか? しかし今はあの頃と比べて状況が大きく変わった。 旅行時に人形を持って行くのは変わらないけど、PCやスマホを使う時間は昔よりずいぶん長くなったし、何より1日勤務の仕事後休みの日に長時間遊んで着替えた服や小物類を種類ごとに分けて片付けるのもだいぶ億劫になってきた。もうあの頃と同じように、ノンビリ遊んでいる暇とエネルギーがなくなってしまったようだ。 毎年作っていたサンタ服も、だんだん時短&手縫いで簡単にできる作りになっていったのがよくわかる。いろいろ作ったけれど、結局最初の年に作った赤のサンタ服が一番気に入っている。 手作りの人形服も一時期はものすごい勢いで作っていたのに、ドールショウに行くようになってからだろうか?ほとんどの服が自分で作らずとも入手できるのを知って、だんだん手作りへの情熱が薄れて行った気がする。 状況が大きく変わって人形と接する時間が減ったのに、コレクション数が思うように減らないのは考えモノだ。自分のコレクションなら、何かの機会になおさらケジメを付けないとと使わなくなった食玩や増えすぎた人形服類を見て思う。
2018年05月23日
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昔の写真が編集中に見づらくなってしまったが、画像管理で記憶を呼び起こしてどうにか編集している。 ちなみに編集は最近の方から順番に、昔の方は2~4件編集(分類)する形をとっている。今は2008年の5月頃を、昔の方は2007年の10月下旬まで追いついて来ている。1日10~20件ペースで減らしているので、順調にやり続ければ6月中旬頃に未分類はゼロになるだろう。 始めた当初は人形写真メインで、文章ネタも写真の解説だけで敬語を使っていた。やがて、たまに時事ネタを挟みつつ人形解説するようになり、秋の旅行をはさんでから写真の種類が増えて、文章もだんだんくだけてきたようだ。 ブログを始めた当初は、こんなに長く続けられるとは思っていなかったので、未分類もそのまま放置してしまったが、やがて編集で画面が全然出て来ない(数が多過ぎるせい?)トラブルに見舞われたので、ちゃんと当時から分類しておけば良かったとえらく後悔した。 で、やっと旧画面で写真を見ながら編集出来ると喜んで編集していたのに、旧画面が4月で終わってしまった。本当に、なんであっちの方が圧倒的に便利だったのに止めてしまったのか不思議でたまらない。 文章ネタを読んでみると、楽しい思い出ばかりではないけど当時は当時なりにいろいろあったんだなぁと懐かしくなる。ここ近年は、昔のトラブルなんか可愛いもんだと思える頭の痛い出来事がアレコレ降りかかっている。でも、未来の自分はきっと「あの時は確かに辛かったけど、やっぱり何とかなったわ」と言える自分がそこにいるだろう。そう思いたい。
2018年05月13日
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旧編集ページが使えなくなる前に未分類を全部カテゴリ分けしようと思ったが、結局間に合わなかった。でも、画像管理で過去の写真自体はほとんど見る事が出来たおかげで、何とか苦労することなく今でも毎日10~20記事ほどコツコツとカテゴリ分けしている。 タイトルで何の写真か大体わかるので間違える事はそうないと思うが、2007~2008年あたりで変なカテゴリ分け写真があったらゴメンナサイ。 でも、最初の頃は写真載せ&文章ネタは写真の解説のみだったのに、いつからか随分変わったなぁと文章ネタだけさかのぼっても感じる。しかもメッチャ遠慮気味の敬語モードだった所が懐かしい。最近は人形ネタもとんと少なくなったので、10年ひと昔で生活環境やリズムはおろか私自身も変わったなぁと思う。 SDカードは捨てないでいるので、もし見つかれば画像管理に入っていない写真も再掲載できるかもしれない。10周年記念を忘れてしまった代わりに、今年6月25日は消えた写真リバイバルをしてみようかな?と思う。出来なかったら、忘れているかSDカードが見つからなかったのどちらかってことでお許しを・・・。
2018年04月15日
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毎日カテゴリ未分類を地道に仕事のある日は10件、そうでない日は20件から30件ぐらい今あるジャンルの中に振り分けている。 カテゴリ未分類を続けていた最後の日から順番に遡ってカテゴリ分けし、やっと2008年の10月辺りまでたどり着いた。 折しも旭川~札幌旅行に行った年だったようで、相変わらず関連写真がたくさん載っていた。今はもういない人形の写真があったりで、いろんな意味で懐かしい。旭川は2008年と結婚前(行った年は忘れた)2回行ったことがあるが、 まさか10年後に夫が仕事のために住むことになるとは夢にも思わなかった。 夫本人はおろか、誰も想像していなかっただろう。 ブログを始めた年である2007年6月末からも未分類をいくつか見てみたが、当時写真の容量オーバーで致し方なく写真を削除しなければならなかったせいで、貴重なスタート直後から9月の中旬あたりまで人形写真がまるまるなくなっているのが悲しい。(文章ネタは残っているが、写真の解説だけなので虚しい) 当時の技術と容量ではその程度が限界だったのだろう。今の容量になるまでは有料オプションとか楽天写真館など、容量の少なさをカバーするためのサービスが過去に色々あった。有料オプションは利用しなかったが、楽天写真館には随分助けられた。 数年後写真館のサービスがなくなるのを知って、再びメール更新を再開した。しかし楽天写真館には、消えても構わないと思える写真がいくつかあるので、その写真を消して初期の頃撮った写真に入れ替えたい気がする。データが消えてしまった今となっては、どうすることもできない話ではあるが・・・。
2018年03月24日
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小4の時から使い続けていた「うちのタマ知りませんか?」のキャラクターであるタマ&ポチの目覚まし時計がとうとう電池切れを起こした。 電池の蓋を開けてみたら、長年使い続けたせいなのか電池が液漏れを起こした跡があり、ずっと使い続けるのは危険だと判断し、やむなくおさらばすることに決めた。 目覚ましの設定をオンにするとポチの鼻の部分が5分間ピカピカ点滅するのだが、30年も使って経年劣化したからか、数年前にこの部分のパーツの接着が外れて内部へ落ちてしまった。 次に電池がなくなった時が捨て時かなと思ったが、ついにこの日が来た。 子供の時から使って旅行時にも持って行ったほどだったし、今は亡き伯母さんがくれた物なので愛着はあるが、時計の設定が非常に面倒くさいのが難点だった。 昔の製品だからか、設定時にボタン長押しで時刻の進みが早くなるという便利な設定がないため、昔懐かしの高橋名人が如く?時刻設定ボタンを連打し続けなければならなかったのだ。 一応「UP」「DOWN」のボタンもあったが、電池の入れ替え時にリセットがかかって12時表示になるので、設定したい時刻が30分前後辺りだと非常にめんどくさかった。 今の時代、目覚ましの機能ならスマートフォンでもできるし、そもそも今は基礎体温計にもアラーム機能があるのでそっちを使えば特に問題はない。時計の見やすさだけなら、数年前に誕生日プレゼントで買ってもらったベル付きの時計もある。 さすがに30年愛用したのでそのままゴミ箱にポイするにはかわいそうだと思い、ちょっと可愛らしいデザインの買い物袋に入れて、「長い間ご苦労様でした」と一声かけてからゴミ箱の底にそっと置いた。 「昔から持って、使い続けていたから」という理由だけでなかなか捨てられないものがたくさんあるが、今とこれからの自分をしっかり生きる為に、昔にこだわり続ける自分ともおさらばしなければならない。そんな気がしてしょうがないこの頃だ。
2018年03月21日
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