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いろいろ考えてなんだかよくわからなくなってううう、えい!とお引越ししました。お手数かけますがこちらにお越しください。今年からの闘病編のみのお引越しになります。よろしくお願いいたします。ライターかあさんと一病息災家族 ~亡き子とともに~http://ameblo.jp/putiputiyukkii0220
2011年10月11日
「二重人格者だな…」自分で大したものだって自嘲していた「詐欺師になれそうだわ」娘の前では、普通にふるまえたつもりだ元気で前向きな娘を見ていると魔法がかかるらしい。*****きっと治るから大丈夫*****その魔法にかかったまま、娘の前では明るく過ごした家に帰るのもイヤだった家で、元気にしていなくてはいけないのがしんどかった下の子たちに心配をかけたくないけれど自分の気持ちがパンクしそうだったそれでもなぜか、家でも元気になれた車中は泣き泣きなのに家にも魔法があったみたいだ*****おねえは、ゼッタイ治るから大丈夫*****下の子たちは何にも言わないけれどおねえには、ゼッタイ的な信頼があった結果を大方知っている私は時間が過ぎていくのが怖かった染色体検査の結果が出たら娘にも事実を報告しなければならないあんなにもつらい思いをしても、薬が効かなかったと知ったらどんなに落胆するだろうそう考えただけで、ゾッとした医師から第3クールの結果と、その次に待ちうける骨髄移植の説明を聞く日が決まりその日が近づいてくるのが、何より怖かった7月17日夫は会社を休み、同席した(こういう話し合いの時、夫は必ず会社を休んだ 風邪をひいて熱があっても休まない会社 「意外と休めるんだ」ってびっくりしたものだ)夫も来て病室でドクターを待っていたが予定の時刻になっても誰も来ないドクターってだいたい時間を守らないことが多いから(いろいろ突発的なことが多いし 他の患者さんやご家族と話し始めるとむげにもできないし 処置が長引いたり… その先生の性格というより「医師業」とはそんなものらしい)今日もまたそんなものかと話していた「ドクターの30分は何時間になるか分かんないもんね~」娘もそう笑っていた小一時間たってやっと看護師さんが呼びに来た「ちょっと待っててね。 今日は移植の注意事項とかいろいろあるから 時間かかるかもしれないけれど あんまり心配しないでね」ドクターと両親の話を待たされるのがいちばん嫌いな娘にそういって、別室へ急ぐドキドキだった親はすでにあらかたの結果を知っているもう、覚悟はできているしさんざん泣いた後だから切り替えもできている結局、やるしかないのだから問題は娘にどういうか、娘がどう思うか、だけなんだ。。。。。でも、担当の看護師さんがおかしい「ママ、ゴメンネ。待たせちゃって さっき染色体検査の結果が返ってきたら 結果が良くて!!! 先生たちあわてちゃって、 もう一回、検体出してきてチェックしてたのよ」飲み込めない。何を言っているのだろう?????部屋に行く途中で、担当医にも出会った「先生なんて、もうひと泣きしたもんね。ウレシナキ」看護師さんはうれしそうだ担当医はちょっと恥ずかしそうに、ホッとした顔をしている喜ばしい結果、なんてあるんだろうか???本当に何が何だか、わからない「ぎりぎり、非寛解でした」科長のドクターはそう言った骨髄検査をして、白血病細胞が全体の5%以下になれば寛解という「染色体検査の結果、6%だったので。 でも、私たちの見た目ではもう少し悪い結果だと思っていましたので さきほどから、私と担当医の2人でもう一度見てみたのですが どうも、娘さんの白血病は異形成を伴うようで 見た目での判定はかなり難しいようです 非寛解とはいえ、 マイロターグはかなり効いてくれたようでよかったですね」地獄のような時間だと思っていたが入院してから始めて聞く「いいお話」だったこれで娘を落胆させなくてもすむ…「いい結果」を報告してあげられるそのことがいちばんうれしかったいくら効いたといっても、まだ非寛解だ移植はかなりキビシイこの時間はうれしい話だけでは終わらない「前途多難」ってこんな状況をいうんだろうな。。。どういうわけだか、そんなことを考えていた
2011年10月11日
6月中旬に第3クールが始まりマイロターグという新薬治療を試みその代表的で、最も恐れられている副作用 VODにみまわれドクターの心配をよそに思ったより早く軽快した娘VODが良くなってきたら以前の元気が戻ってきたそうなると、白血病の方はどうなったのか気が気でなくなる結局、マイロターグは効いたのか?血液検査は毎日のように行っているが白血病の判定は、末梢血では確定されない…血液は、おもに骨髄で作られそれが血管を通り全身に送られる末梢血(腕でも足でも胸のカテーテルからでも)は、骨髄で作られた数日後の形であってきちんとした判定は、骨髄の様子を見るしかないつまり、末梢血に白血病細胞がある場合は「骨髄にもある」は確定できても反対に末梢血に白血病細胞がないからといって「骨髄もきれいだ」とは言えないのだ骨髄検査はマルクと呼ばれ腰のあたりに太い注射針をずぶっと刺し骨髄から血液を採取する骨に針を打つのだから相当、痛いようだ。小児では全身麻酔をすることが多い痛みにめっぽう弱い娘も当たり前のように全身麻酔をお願いしていたが麻酔から覚めた後も「痛い」と言っていたマルクの後は普通、顕微鏡下で白血病細胞をカウントして判定が下るただ、娘の場合は判定が難しいらしく染色体検査をしてもらっていたその結果が出るには1週間くらいかかる第3クール後のマルクも「染色体検査に出したからね 判定はそれからね」担当医はにこやかにそう言っていた娘はいつものことだから「1週間だよね?」と待つしかない、といった感じごく普通の、でも、小骨がひっかかったような1週間だったマルクの翌日、夜、帰ろうと1階まで降りたら担当医とばったり会ったいつも私の隣には娘がいて聞きたくても聞けないことが多いのだがチャンス!とばかりに聞いてみた怖かったけれど、きっと、いい結果に違いないあんなに痛い思いをして今まではなかった副作用も経験してそれで今は元気になっているんだからきっといい結果に・・・「先生、マルクなんですが、見た目ではいかがでしたか?」染色体検査に出す前に担当医は必ず見ているのだ、顕微鏡でその見た目の判定は、もう出ているはずなのだ病院は静まり返っていたエレベーターの電気がぼっとついていて昼間とはまったく違う夜の静けさがあった担当医はうつむき加減に「あんまりよくなくて…」といった「ただ、ちゃんとした結果は染色体検査を待たないとわからないのですが」そのあと、何を話したのだろうそうだ「先生はよく、ドクターになろうって思われましたね ドクターなんてたいへんな仕事なのに 私は娘がなりたいって言っても反対すると思います こんなに悲しい結果を伝えるのも大変でしょ 悲しいことばかりじゃないですか、ドクターなんて」そんなヤツあたりをした気がする 夜9時を過ぎていた若い女医さんだったが本当のよく面倒を見てくれてそんな遅い時間までいつも病院にいてくれた土日だって、いつもいてくれて1日何回も回ってきてくれて話し相手にもなってくれた娘が最期まで、一番尊敬する人はこの先生だった本当に、申し訳ないヤツあたりだった帰りの車の中で私は、声を出して泣いた明日、娘と会うときはもちろんこの後、家について下の子たちに「ただいま」をいうときは普通になっていなくちゃこの車中だけ、本当にこの時間だけ思い切り、泣いた
2011年10月05日
「キレたって・・・・・?」何も言葉が出なかった何か言ってあげたいし、何か言ってあげなきゃでも、言葉なんて本当に無力だこんなときに適当な言葉なんてありえない。。。Hちゃんはずっと友だちを作ってなかったのだとHちゃんママは言う「初めての入院のときは、そりゃたくさんの友だちを作って 仲良くやってたんだけど 退院したらあわないし それに、自分はまた入院しなきゃならないし。 退院して地元校に戻れば友だちはいっぱいいるのよ。 そんなに気むずかしい子じゃないのよ。 でもね、病院って… それなのに、本当に大好きだったの 久しぶりに心を許したお姉さんだったの」うちの娘のことをそう言ってくれた本当に仲良しだったうちの娘だって、Hちゃんのことが大好きだった特に、うちにとっては最初の入院だったからなんの恐れもなく、友だちも作っていたし入院生活のあれこれを教えてもらっていた脳の血管がキレたら、あっという間に亡くなる・・・そんな勝手な思い込みがあるがHちゃんは3日間くらい昏睡状態があった初めは泣いていたHちゃんママもだんだん、笑い声が聞こえるようになってきた「辛いけど、イヤだけど でも、もうこれで 痛い目も、気持ち悪いのも、入院したり、外を歩けなかったり しなくてもいいんだよ、きっと やっと、病気から解放されるんだよ。。。」 * * * * * * * *つい最近、Hちゃんママと電話で話した親の気持ちは揺れ動く「今年の夏、3回忌だったの」そういうHちゃんママは、まだまだ立ち直れない部分を抱えていると言っていた「普段は、普通に働いているよ。 今度、お茶しよう」 * * * * * * * *Hちゃんが息を引き取る前日、私はHちゃんママと話した「こういうことがあったとき メルアド知っているとお知らせしなきゃならないでしょう。 Hが入退院を繰り返している間に 何度も、悲しいお知らせをもらったの 聞くだけでも、すごく、辛いでしょ。 だから、私は連絡先を交換しないことにしたんだ ひっそり、いつの間にか、病院から消えるから」その言葉通り、次の日、Hちゃんがいた個室は空っぽになっていた娘には、Hちゃんの死についてはずっと隠したままだった「脳外科の病棟に移ったんだって」そんなウソをついてもしかしたら、気づいていたかもしれないでも、娘は「そうなんだ~」と言ったきり何も追及しなかった * * * * * * * *今頃、遊んでいるだろうか娘が得意だったビーズをHちゃんに教えているだろうかしっかり者の2人は空の上で、弱っちい母たちのことを、心配してくれているような気がする
2011年09月30日
娘が3階の大部屋に初めて入ったとき右隣にHちゃんはいた当時、小学5年生うちの末息子、娘から見ると弟と同じ年だけど、弟より3年分くらいはゆうに大人だった「○○Hです。よろしくお願いします」はきはきした声でいちばんに挨拶してくれたこれがきっかけになり和気あいあい大部屋生活が始まったのだしっかり者、周りの大人たちはみんな、Hちゃんのことをそう言ったがHちゃんママは「メンタルが弱い」といつもこぼしていた「抗がん剤の時期になると 副作用以上に、メンタルから落ちて ふさぎ込んじゃうのよ…」親だからこその心配もあっただろうでも、このころの私や娘には想像もできなかったことをHちゃんもHちゃんママも抱えていたのだHちゃんの病気は、脳のなかにできた腫瘍が原因だと聞いている「抗がん剤はよく効くんだ。 だから、しばらく我慢すれば退院できるのよ。大丈夫なの。 でもね、その固まりが小さくはなるんだけど なくならないの。切り取ることはできない場所だし… 何度も再発を繰り返すのよ。 今回の入院で3回目……」Hちゃんも、他の子もそうだが自分の病気のことはよく理解していた。だから、治療として抗がん剤が必要なことも抗がん剤の副作用についても、よくよくわかっているはずだった。「でも、メンタルが負けちゃうのよね」Hちゃんママは、まわりからは「しっかり者、を通り越して厳しい人」と言われていた病気の子どもたちとの暮らしはえてして、親を甘くさせる。「不憫でならない」そう思うのは普通のことだろう。そんななか、自分のペースを守ろうとするHちゃんママはまわりの目には、厳しく映ったのかもしれない「連絡先は交換しないことにしている」Hちゃんママは常々言っていた。学校のママ友と同じように病院ママ友も、すぐにメルアドを交換して「何かあったとき」や「なんにもないけどヒマなとき」にメールしていた「のちのち、面倒になるのよね……」そういうHちゃんママの気持ちは娘が再発したあと、やっと納得できたのだがこの時は理解できなかった「人付き合い、嫌いなのかな?」って失礼なことを思ったものだそのHちゃんが自家移植をすることになった。自家移植とは自分の血液中の幹細胞を採取しておき大量強力な抗がん剤や放射線の治療をして徹底的にガン細胞をたたいてから保存してあった自分の幹細胞を体に戻してやる。そうすると、抗がん剤や放射線治療で骨髄がダメージを受けても後から入れた幹細胞のおかげで新しい血液が早く作り始められる。つまり、白血球0状態が短くなる。それがあるおかげで、大量強力な治療が行える、というもの。白血病患者は自分の幹細胞は病気なので、他人からもらった幹細胞を移植する。移植前の大量強力な治療は同じだが幹細胞がもともと自分のものだから適合しない、ことはなく自家移植の方がリスクが少ないと言われている。第3クールでダメージを受けた娘の移植を翌月に控え私はとてもナーバスだったそのころ、Hちゃんの自家移植の話を聞いたHちゃんママはとても不安そうだった今までの長い闘病生活がある入院と退院を繰り返してきた歴史がある今までだっていろんな治療は行ってきただろうでも、ここへきて一発逆転の自家移植不安だったに違いないでも、私は素直に聞いてあげられなかった「うちは初めから高リスク群だし 来月、移植が控えているけれど うまくいくかどうか…… うちらの一般的な移植と比べたら 自家移植はすごくリスクも低いし きっと大丈夫だよ」「大丈夫だよ」と慰めてほしかったんじゃないよね?今ならわかる。。。そのとき、わかっていなくて本当にごめんなさい。。。あの時にフィードバックしてそのセリフをやり直したいHちゃんは無事、自家移植を終えたと思っていたもちろん、私たちだけじゃなく、Hちゃんママも、Hちゃん本人も自家移植後、1ヶ月近くたった日Hちゃんは急変したのだ「今まで、すごくたくさんの抗がん剤も放射線治療もしていたから 脳の血管が予想以上に細くもろくなってたんだって。 だから、キレちゃったの……脳の血管…」私は息をのむことしかできなかった
2011年09月28日
「胃がイタイ」身をよじって痛がった翌日腹部のエコー検査を受けた検査とか処置とかいうと母は廊下で待たされるものだがエコー室には同席してもいいという「お母さんはここにどうぞ」椅子も用意してもらって検査がスタートした母が同席しているからと言って説明しながら検査が進むわけではなくゼリーを塗りぬりお腹をくるくる…検査技師さんの手元とエコーの画像を見ても私にはさっぱりわからない娘の担当医も同席していたが顔色は変わらないこの画像がいいのか悪いのか水がどうのって言ってたけれどどれが水なのか、まったくわからないなんにもわからない、不安だけの検査は30分以上かかったと思う娘は痛いところを時折おさえられてそのたび「いたっ」とうめいていた私は娘に声をかけていいものかもわからず身を固くしているしかなかった結局、娘の肝臓の血管が細くなってしまい腹部に水がたまっているらしいこの状態が長く続くとかなり怖い、みたいだ何がどう怖いのかは、この時点ではよく理解していなかったただ「時間をかけて経過を見ていくしか、 ゼッタイ的な治療法はなくて…」と言われたことが一番怖かった怖くて、痛くてそして肝臓が悪くなるととにかくだるいらしい大部屋で他の子たちの騒ぎ声が普段は何にも気にならないのにそれさえもうっとおしいほどに、ダルがっていた娘の病院には重篤な患者が多く個室はいつも満杯だったがこの騒がしさの中に置いておくのはかわいそうだということになり。。。1週間限定で「無菌室」に移動することになった「無菌室」とは骨髄移植の際に使用する部屋で使用する前に完璧に消毒をし特殊な空調設備のおかげで無菌状態を保てる部屋をいう。よくドラマなどではビニールの幕のようなものにぐるっと囲まれているような部屋そこが次の移植予定まで1週間あいているから無菌状態にはせずに普通の個室扱いで入っていいよということになったのだ「ま、移植のときの予行演習と思って 無菌室に慣れておいて」なんて看護師さんには明るく言われた静かな部屋で、痛い思いをしながら…と思いきやその週は私の母が来ることになっていた突然、肝臓が悪くなったがずっと前からの約束だったので母は予定通りやってきたのだ娘も私も肝臓の様子は気が気でなかった担当医にも看護師にもいつもいつもいろんなことを聞きたかったでも、母がいる「おばあちゃんはすぐに心配するから」娘は母を思って「それほどしんどくないよ、大丈夫だよ」という姿勢を続け担当医にもあまり深く質問せずに3日を過ごしたいつも私と2人きりが多いのだが母がいるとまた雰囲気がいつもと違って時間も早く過ぎる気がしたし。。。母が帰った日、またエコー検査があったその日も同席したがやはり何もわからずドキドキしただけの私だったが結果的には娘の腹水はかなり減っていたのだ!!!!VODはそれほどひどくならず快方に向かっていた。「おばあちゃんのおかげだね」娘と話した「おばあちゃんがいたから あまり深く考えず、いろいろ楽しく過ごしていたら いつの間にか、ちょっと良くなってた」ドクター陣はかなり心配してくれたらしいこのままVODがひどくなれば移植はあきらめなければならないし命だって危なかったらしい娘と私は母のおかげでそこまでの緊張感はなく危機は乗り越えられた・・・・・・・VODの危機は、だがゆっくり肝臓が治ってきてそう言えば、白血病の方は?マイロターグでこんなに肝臓にダメージを受けたけれど白血病には効いたの???それが一番問題なのだが
2011年09月20日
その頃の娘は第2クールでの感染症もすっかり治りとっても元気だった髪の毛もうっすら生えてきて野球少年のようだったもちろん、元気だったから大部屋にいたのだが明日から第3クールが始まるという日に個室に移動したそれまでは熱が出てから移動、だったが何も始まっていないのに、何が起こるかわからないから移動するというますます、不安になったマイロターグ自体は本当に少量だったこんな少しで、ガン細胞をみんなやっつけて体にも大きなダメージを与えるの???そんな話をした気がする少量なので投与はあっという間に終わるがそれから30分だったか、看護師さんがずっと娘の個室にいた10分か15分おきに血圧と体温を測る呼吸数や脈拍を測るモニターを4時間もつけていた本当に厳重警戒態勢だったそれでも、特に何も起こらなかったモニターもはずれたし晩ご飯も普通に食べられた。やっと安心しかけたころガーーーンと熱が出た!!一気に39℃超え「来たね、やっぱり来たね」そんな感じ私はそろそろ帰りたい時間だったが娘は高熱にうなされているどうしよう?どうなってしまうんだろう?やっぱり、キツイ化学療法を選んだのは間違いだったのか??数時間後、ステロイドが効いて熱が下がってきた娘はそのまま眠ってしまった「お母さん、たぶん朝まではステロイドが効いていると思いますから 大丈夫。お帰りになって下さいね」看護師さんの言葉にホッと一息つき私は病院を出たのだそれから翌日も熱は出なかった安心感がまた戻ってきて「私たちの選択は、間違ってなかったね」なんて言いながら大部屋に戻っていったそれから1週間それも夜9時ごろ突然、娘が「痛い!」と言いだした熱があってダルイとか、しんどいとかはあっても「痛い!」は初めてだった胃のあたりを指差している「胃が痛いの?」と聞いても、「胃ってどこ?」と娘入院前は、本当に健康優良児で胃痛なんて知らないのだその夜は、宿直の先生に鎮痛剤の点滴を入れてもらいなんとか眠りに落ちたが、その痛みは胃ではなく、肝臓だったのだ予測された副作用の一つ、VODと呼ばれる肝障害だったしかも、最も恐れていたものだった
2011年09月10日
「で、どうする?」といわれ「じゃ、こっちで!」と即答できるほど潔くも、治療について精通しているわけでもないのだが当初の予定では、化学療法を3クールしてそれから移植ということになっていたので「いますぐ移植」の道を選ぶのは……って思っていた。「すぐに結論、はむずかしいと思いますので ご家族でもよくお話しいただいてから 結論を出して下さい ご本人にも、これからお話ししますね」それまでは親とドクターの話でこれからは本人も同席するそのころは15歳だったので初めから本人同席でもいいのだがキビシイ話はできるだけ本人の耳にいれたくなくてうちは後から呼ぶパターンでお願いしていた。でも、娘はこの時間が一番怖いのだと言っていた親と先生は何を話しているのだろう自分の身に、とてつもなく悪いことが起こっているのではないか・・・・・・・いや、起こっているのだがひとり取り残されて不安で不安でうちの夫は結構細かいことでも自分が納得するまでドクターに質問するたちだったのでこの話はいつも長かった、1時間半くらい娘には地獄の1時間半だったらしいこの時も、半泣きで娘は現れた「遅すぎる……」といって大人たち、親もドクターも平謝りで娘への報告が始まる確率は伏せてもらったもちろん、本人が質問したら正直に答えるのが鉄則だが、初めから知る必要はないと私たちは思っていた知りたければ、ネットでも何でも探すことはできるもう探して知っているかもしれないでも、敢えて知らなくても。。。「えーーー、すぐに移植はちょっとムリーーー」娘の単純な一言で再度、化学療法をすることにした。「だって、こんなにすぐじゃないと思ってたから まだ覚悟ってもんが… もう一回やったら、きっと寛解に入るでしょ」あっけらかんと言ってた娘がなつかしいというわけで娘のスペシャルプログラムが決まったその抗がん剤はマイロターグと言ってある特定のターゲットだけを攻撃するらしい。そのターゲットを娘の白血病細胞は持っていたのだ。説明を聞いていたらなんとなく効きそうな気がした。副作用もてんこ盛りだったがこれまで副作用で苦労したことがないから今度も大丈夫じゃないかってとってもいい加減に思っていた。「私も初めて使います。 たぶん日本の子どもの使用例は10例あるかどうか…」50才くらいの血液腫瘍科の科長の先生がもう何千人と血液腫瘍の子を診ているという先生がそう言った。それでも「新薬だもんね」と私たち家族は明るかったが治療の日のドクターや看護師さんたちのピリピリムードに触れて急に怖くなった「何か、起こらなければいいんだけど……」
2011年09月07日
急性骨髄性白血病は子どもでは1年間に約200人が発病すると言われている。治療法は50年前、30年前いや10年前と比べても雲泥の差、らしい。その進歩を支えているものが臨床試験だと思う。急性骨髄性白血病が確認されたらこの臨床試験に参加するかどうかと親は選択しなければならない。臨床試験、なんて聞くとわが子をモルモットにするのか!!!と怒りたくなるのだがそうではなくて検査結果や最初の治療の効き具合から再発リスクの低いグループ、中間グループ、リスクの高いグループに分けてそれぞれに最適な一定の治療を行いその結果を集めて何年かごとに検証し次の臨床試験の治療方針を決めるのに役立てる、というものだつまり、わが子にとっては治療だがその結果を次代の治療改善にも役立たせるということそれには異存はない娘は臨床試験 AML05にそって治療してもらっていた * AMLとは急性骨髄性白血病の略、05は2005年バージョンということこの臨床試験=プロトコールでは第2クール終了時に約90%が寛解に入ると言われているが、娘は残りの10%に入ってしまった。この10%にはあっという間になくなる子も含まれているのでもっと確率的には低いしでも、亡くなってしまった子に比べれば、幸いなのだが・・・その結果、臨床試験=プロトコールを離脱することになった。もちろん治療の手がなくなった、わけではない。が、プロトコールというのは何人もの人が受けていて副作用も確認されていて安全に治療を受けられる。副作用がないわけではないが、苦しんでもそれが原因で亡くなる確率は思い切り低い。それがプロトコールを外れると医師が推奨する治療法はもちろんあるが最終的に判断するのは、親と本人私はすごく怖かったのを覚えている自分たちの判断が間違えて娘の万が一があったら。。。第3クールの治療について早速、説明があった・現状は非寛解である・抗がん剤は効きにくいから、移植は必須・移植の成功率は、 一般的な急性骨髄性白血病で寛解だと70~80%だが 娘の場合は、寛解からでも40~70% 非寛解からだと10~20%・このまますぐに移植に向かうのも一つの手段 再度化学療法を施して寛解を目指すのもあり・ただし化学療法といっても通常のものでは効果がなかったので かなりキビシイ治療になる。この治療のために合併症になったり 感染症になって移植できない状態になる場合もある。などなど「で、どうする??」と医師は言う。「これがおススメだけど、決めるのは親御さんだからね」そんな意地悪な言い方ではないしもちろん、一緒に悩んでくれたし本当に感謝しているのだがつきつけられた感はぬぐえなかった・・・プロトコールを離脱することの本当の意味をその後、いつもいつも痛感することになるのだ。
2011年09月01日
第2クールも大きな副作用はなく前回ほどではないが熱を出しと、入院生活にも慣れてきたころ同室の子が急変した私は帰った後だったから夜9時半とか10時過ぎとかだったと思うその子は、慢性骨髄性白血病で当時小学校2年生の女の子骨髄移植を乗り越えて、白血病は寛解=治っている状態だったけれど、移植後の慢性GVHDで肺に障害を抱えてしまったのだ。GVHDとは、移植ドナーの細胞がレシピエント(病人本人)の細胞を敵とみなし攻撃することそれにより、レシピエントは体に不調をきたすレシピエントにとっては下痢が続いたり肝臓が弱ったり苦しいのだが反面、白血病自体もやっつけてくれるGVO効果も表裏一体といわれ移植計画のなかではGVHDを軽めに誘発し、GVO効果を期待することが多い移植後すぐに起こってくる急性GVHDと移植後100日すぎてから起こってくる慢性GVHDがあるが彼女はお姉さんがドナーとなって移植し、成功もうそろそろ退院というころになって呼吸が苦しくなり調べてみたら、肺の慢性GVHDだったらしい。娘が入院した頃にはすでにその状態で、ずっと酸素カニューラをつけていた(酸素チューブを鼻につけていた)病気は人を変えてしまうどれほど明るく天真爛漫な子でも入院中、ずっと天真爛漫でい続けることはできないと思う。実際、娘も積極的で自信たっぷりの子だったが最後の方は、とても臆病な一面が出てきた。その子も何秒もじっとしてられないくらい元気な明るい幼稚園児だったらしいが私たちと会った時は言葉も少なくじっと座っていて思い切り人見知りのどちらかと言えば気むずかしい子だった。その子がなぜか、娘になついてくれ娘には自分から話しかけてくれていた娘も、妹のようにかわいがっていたのだ。その子が、その夜寝静まった病室から慌ただしく個室へと移動になったらしい。看護師さんがバタバタしドクターが駆け付け「人工呼吸」という言葉さえ聞こえたという。私は翌日、娘からこの話を聞いた。「大丈夫かな???」娘はあまり寝付けなかったという。2,3日してその子のママが娘にメモを置いて行ってくれた「心配かけてごめんね やっと回復してきたから もうすぐ大部屋に戻れると思う」私たちは大きく安心した。。。。でも、その子は大部屋には戻ってこなかった。病状は悪くなる一方でそのまま旅立ってしまったのだ。その子の誕生日は、人工呼吸器のお世話になっていたけれどちゃんとがんばってママたちは病室で誕生日を祝ったらしい娘はビーズで作ったマリーちゃんをプレゼントしたその子はマリーちゃんを見ることはできなかったけれど病院で誰かが亡くなっても他の母たちはできるだけわが子に影響を与えないように何事もなかったかのようにふるまう。看護師さんも明るく、努めて普通にふるまう。でも、あの急変の夜から知っている娘に高校生の娘にウソはつけない……担当医と担当の看護師さんと相談した結果話そうということになったウソはつかない、これが約束だったからそれからも友人が何人も旅立った今ごろ、みんなで笑っているかもしれない元々の天真爛漫な子たちに戻ってじっとしてられず遊びまわっていることだろう。
2011年08月30日
楽しい外泊もあっという間に終わりまた、いつもの入院生活が戻ってきたでも、今度は「1年」という単位ではなく「次のクールに入る前に、また、家に帰れるよね…きっと」それが希望になった。やはり「1年」は長すぎる小さな目標を積み重ねた末に、到達したい大目標にたどり着くそうでないとモチベーションは保てないそして2回目の抗がん剤投与が始まった。前回と同じキロサイドという抗がん剤を主に使った治療だが前回は長い時間だらだらと抗がん剤を投与するのに対して今回は濃い抗がん剤を一気に投与するという。 *治療や薬に関しては、私が医師からの説明を聞いて 理解している範囲で書いていますので、ゼッタイ正確!ではないと思います。 あやふやな説明、間違った受け取りもあるかと思いますので、ご了承くださいだから、投与期間は短くキロサイドは3日で終わり、ベプシドのみ5日間行った娘は前回同様、何事もなくゴキゲンに過ごせた髪の毛はごそっと抜けた前の外泊の時は「薄毛」だったが今回の治療後はすっかり「はげ」てしまった。まあ、娘もだいぶ慣れてきていたから「抜けた髪があちこちに散らばっててうっとうしい!! 抜けるなら、もうさっさと抜けきってほしい」なんて言えるまでになっていたこのころから治療の副作用ではないようだがでも、あきらかな愁訴、目立った体の異変が始まった。ときどき、顔が赤らんだり汗がどっと出たり動悸が激しくなったり「抗がん剤の副作用にしては、おかしいよね」医師も首をかしげるばかり症状はふいに出てすぐに収まるし症状が出ていないときはまったくいつも通りだし担当医に、症状そのものを見せることもできないだからなんとか医師に伝えようと言葉を尽くして説明している時に「更年期障害の症状のような……」深く考えずに、口から飛び出てきたその言葉急に発汗する急にドキドキして、すぐに普通に戻るそうして、思い至ったのだ生理が止まっている!!!2月16日に入院して第2クールが始まったのは4月22日すっかり忘れていたが生理はまったく来ていなかったのだ。早速、ホルモン関係を調べてもらったもちろん抗がん剤の働きで、生理が止まるというかホルモン系に影響を与えるものもないことはないが今使っているのはそういう影響はないはず、らしいだとしたら娘の生理を止めた犯人は……ストレス毎日ニコニコ生活しているようで生理が止まるほどのストレスを感じていたなんて本当に泣けてきた血液検査の結果も「ストレス説」を裏付けてくれ娘は、ホルモン剤も服用することになった病気が病気を呼び体のある器官が悪くなると、連鎖的に、また違う器官も悪くなるホルモンなどもそうだがなんでも適正な範囲があって多すぎてもいけないし少なくてもいけない。体は絶妙なバランスの上に成り立っているのだ。「体ってすごいね」入院中、娘と何度言ったことだろう。自然に起きてしまった不具合を人間の力で治すことができるのか……このころはまだ、近代医学を信じていたから「大丈夫でしょ」ってお気楽だったが
2011年08月29日
今日はちょっと番外編で我が家の近況報告をブログを読んでいただいている方にたいへんご心配かけているようで申し訳ありません。そして、お気遣いありがとうございます。最近の私はわりと普通の生活に戻ってきました。仕事も少しずつ再開し始めました。また「ライターかあさん」です。ブログタイトルも一病を背負った子もいれば息災な子たちもいるわけでってことで、このまま続けようと思っています。お盆に家族で海に行ってきました。私たち夫婦は海が大好きでちなみに、夫はつり人なのですがスキューバなんかもします。(彼はダイビングもします)そんな2人の子どもたちは物心がつくかつかないころから海に連れて行かれビーチパラソルの陰で昼寝したりもちろん、小さなころは海滞在3時間なんてざらでそれがやっと1日中海で遊べるようになったと思ったらあっという間に母は心配される存在になってしまいました。はい、泳力も水泳技術も体力も今となっては、母が最低です…そんなわけで毎年、2回3回と海に行っていたわけですが娘が入院してからは行けなかったので家族で海は丸2年パスしちゃったのです。とはいえ、最近中2の息子が思春期というか反抗期というかほとんど家では無言を貫いていて…汗そんなんで旅行に行って楽しめるのか、かなり不安でした。でも、旅行中はつきものが落ちたようにみんなで笑って海に癒されて……娘の好きだったチョウチョウウオやルリスズメダイなんかも見れましたきっと一緒に泳いでいたと思います、娘も。私たち家族は元気に暮らしています。ご安心を。「価値観」はかなり変わりました。「目標」はもう持てなくなりました。「今」が気持ちよく過ごせたら、それでオールOK!です。これらもまたこれから、変わるかもしれません。どう変わるかもわかりません。その都度、向き合っていくでしょう。娘から一番教えられたのは「今できることだけを考えろ」ってことだと、今は思っています。過去を悔むでもなくもし病気になってなかったら…とかなんでうちの子が…とか不毛なことは考えないように、努めています。**************娘と同じ時期に闘病していた友人が本を出しました。彼は娘より1つ上の高校生小3で急性リンパ性白血病を発病し中1で再発し高1で再々発しそのときの闘病が娘と同時期でした。娘と直接彼が話したことはなかったのですが母同志はしょっちゅう話しました。支えてもらいました。彼も過酷な闘病を強いられて娘より先に逝ってしまいました。本当に優秀で前向きで白血病の研究者になってこの忌まわしい病気を根絶してやるというのが彼の目標でした。漫画やコンピューターが大好きでかなりオタクでしたが高1からの入院中にずっとブログをつづっていてそれをまとめて、本になりました。彼がすごいことの一つは最期、もうすぐ自分の命は尽きるとさとって遺言やお葬式のやり方など亡き後の準備をぜんぶ自分で行ったことです。17歳でした。できますか?? 44歳の私はきっとできない…と思います。ぜひ、彼の生きざまを読んであげてください。こんなにももったいない人が早くに逝ってしまったことを多くの人に覚えてもらいたいと思っています。【送料無料】ワイルズの闘病記********今日はこれから息子のサッカーを見に行きます。「うぇ、来るの???」と嫌がられてますが。。。
2011年08月24日
「ヒマ」といったらガン治療をなめるなと怒られるかもしれないがとにかく特にすることはないが、回復を待つしかない時間は長い回復を待つと言っても目に見える体はすでに回復しているのだ食欲も戻り体調も普通受験勉強を途中でやめてしまった娘は大量の漫画を読んで過ごした幸い、友人が段ボール箱いっぱいの漫画を送ってくれたので読むには事欠かなかったし受験勉強後で、ダラダラしたい時期でもあった大部屋にいたというのもよかった小さな子たちのプチ保育士さんのようで横のベッドのママさんからとても喜ばれた「毎日、『ママまだ?』って言われ続けてたのに 最近お姉ちゃんが相手してくれるから、ほんと助かる」うちも助かっていたのだそうやって時間を消化して行けたのだから時間はじりじり過ぎていくのだがなかなか、血液検査のデータはよくなっていかない担当医は「この数字がちょっと増えてきたからもうすぐ…」って小さな変化を見つけて期待を持たせ続けてくれたが結果はなかなか。。。担当医いわく「本当は、白血球値が元の正常値に戻ってから 第2クールに入るのですが なかなか戻ってこなくて。 でも、今回のプロトコールでは 抗がん剤投与から50日経過したら 数値はともかく第2クールへという条項もあるので 次に進みましょう」ということになった私と娘は、2人ともせっかちで入院期間は1年以内、来年は高校に復学すると決めているのに第1クールでこんなにかかっていたら間にあうのだろうかと実は、かなり焦っていただから担当医の話はホッと一安心。やっと、次に行けるやっと、事態がまた動きだす今の悪い結果は棚上げして、ちょっと喜んだのだった。それに、とてもうれしいことがあった。外泊許可が出たのだ!!!!クールとクールの間週末とかに外泊する子は何人も聞いていたがうちの子はだめなんだと思っていた。娘自身も「1年間ずっと病院だ」と思っていた。そこに「2泊だけだけど、家に帰っていいよ でも、白血球数がまだ少ないから 家の中だけにいてね。 買い物とか行きたいだろうけど 我慢してね」外泊!!!!!家に帰れる!!!!!!それだけでどれほど嬉しかったか!!娘は久しぶりにかわいい流行りの服を着て満面の笑みで病棟を出た。小児病院なので病棟の扉には鍵がかかっている子どもたちがどこかに行ってしまわないようにというだけで大人なら手の届くところに鍵がありもちろん娘もひとりであけられるのだが家に帰る時この扉の鍵は本当に下界につながっているのを実感する私などは毎日、いや1日何回もこの鍵を開け閉めして扉を出入りするのだが「私も帰れる時があるんだ ずっと1年間、病院から出られないと思ってた」娘の一言を今でもよく覚えているそれほどの覚悟を持って入院を受け入れたんだ娘はこのときまだ普通に元気だった貧血状態でもなかったしいつものちょっと浮き気味にハネルように歩いていたこの時はわからなかったが抗がん剤を何度も投与すると体が弱ってくるガン細胞も弱るが、周りの内臓も筋肉も弱ってしまうのだ家では毎日そこにいるような雰囲気でご飯を食べ兄弟たちと過ごした生魚、生肉、生卵を禁止されていたので大好きなお寿司が食べられないのがすごくつらかったがこの時は1日目は焼き肉を食べ2日目はみんなで餃子を作って食べったっけこうやって家で少し英気を養いまた、次の治療に臨む病院に戻ると、難病患者の現実が待っているのだ
2011年08月22日
がん剤治療、と聞くとずーーーっとつらい日を送っているようなイメージがあるが実は、「それほどつらくないが回復を待っている」という時間がやたらと長い。娘の第1クールは2月25日から始まって、抗がん剤投与は3月8日までこれは結構長い方だ。その後、熱など出さなければ経過観察の日々が続くが娘は、高熱を出したので抗生物質がどんどん投与された。*************白血病の治療はざくっというと抗がん剤で骨髄の造血組織を破壊する。だから、白血球は下がり赤血球や血小板は下がった分だけ輸血に頼る。破壊された骨髄にはガン細胞も減っている。骨髄が復活したらまた、抗がん剤を投与し、ガン細胞を減らす。これを繰り返し、ガン細胞をどんどん少なくしていくのだ。ガン細胞が顕微鏡下では見えなくなることを「寛解」と呼ぶ。これは治癒に向かう目安で1回目の抗がん剤治療で「寛解」に入るか入らないかで治癒できるかどうかがおおむね、推定できる。ただ、寛解に入ってからといって、即、治癒、とは言えない。目に見えないだけでもっとミクロなところにはガン細胞が存在するからだ。このために抗がん剤治療を何度か繰り返しガン細胞の数を減らそうとする。*************娘は3月末になってやっと熱がひき、体調が安定したので大部屋復帰となった。まわりの子たちは「お帰り~」「よかったねぇ」と喜んでくれたが娘には喜ばしくない事態が起こっていた。4月3日からブラスト=白血病細胞が出てきたのだ。第1クールの結果寛解には至らず……治療を始める前にドクターから聞いた話では8割の子は寛解に入るそう言っていたのに娘は2割の「例外」の方へ入れられた。。。。そのうえ、骨髄が復活してきたら白血球が倍々ゲームのように増えてくるはずがなかなか増えてこない「骨髄の回復が遅れている」と言われたつまり、骨髄は大ダメージを受けているのに血球は少ししか作られていないのにその少しが白血病細胞だということだ。****************娘はその結果にあまり驚かなかった「だって、薬は聞きにくいって言ってたもんね」「ゼッタイ、移植すればなんとかなる!!」と信じていたから怖がってもいなかった。**************熱が下がった3月末から1日おきに血液検査して白血球の戻り具合などを観察する。数値が上がってくれば、次の治療を開始するのだ。なかなか戻ってこない数字とのにらめっこ「待ち」の日々だ。特に治療などはない。が、白血球が少なくて免疫力がないため病院からは出られない…小中学生は、学校の先生が来てくれてベッドの上でマンツウマンの授業をしてくれる。だから持て余す時間が少なくて済むのだが中学を卒業してしまった娘はそれもなくとにかく、ヒマだった。
2011年08月18日
娘はイベント好きだった入院が決まった日、事の重大さをまだ認識できないまま主治医に聞いてみた「来週、受験なんですが…」「この体調では無理かと。 それに1年近く入院することになるので 今、無理に受験しても…」「卒業式には出られますか?」「体調が良ければ… でも、難しいと思います」卒業式にも出られない…重い言葉だったが熱と格闘していたしもう、覚悟も決っていたのだろう。卒業式当日は何も言わなかった。卒業式に生徒がそれぞれもらう小さな花束は写メールで見せた。生花や植物はカビの原因になるので病室には持って入れないのだ。いつもは大好きな紅白まんじゅうはほんの少ししか食べられなかった。数日後、「あのおまんじゅうは甘くなかった」と娘それも抗がん剤の副作用、味覚がおかしくなるのだ。成績表やそのほかの印刷物は、私が学校によってもらってきた。が、卒業証書は後日、校長先生が持ってきてくれた。やっと熱が下がり、体調が比較的安定したのは、3月も終わりのころだった。校長先生は「3月中に卒業証書を渡せてよかった。 まだ今年度、だからね」といって娘の部屋の外で白いネクタイに締め直してくれた。「たった一人でも、卒業式だから。 ネクタイくらいちゃんとしなきゃね」そして、ベッドの上で正座した娘に卒業証書を読みあげてくれたのだ。娘も私もなんだか照れくさくてでも、とってもありがたかった。校長先生には、進学のことでもたいへんお世話になり心から感謝しています。でも、娘が欲しかったのは、卒業証書やその形式ではなかったはず。卒業式が終わってなんとなく涙を拭いて一緒に写真を撮ったり「また遊ぼうね」って約束したり友だちとのそういう時間は持てなかった。**************娘の楽しみにしていたイベントがもう一つ吹奏楽部の定期演奏会がある娘の通う中学は名門吹奏楽部でもなくコンクールに出て努力賞をとっちゃうような普通の公立中学のクラブなのだが30数年間続く伝統的な定期演奏会がある。といっても学校の体育館に部員がパイプいすを並べる、そんな会だが。演奏会の最後の方に毎年、3年生からの言葉がある。「3年間、つらいこともあったけど がんばってこれたのはみんなのおかげ ありがとう」みたいなことをひとりずつ言うのだドリカムの未来予想図2にのって顧問の先生は卒業生の名前を読み上げるのでいつもこの曲だけ、2年生が指揮をする娘も前年は、タクトを振っていたうちの次女は、人前で話すのが嫌いでこの「卒業生の言葉」を嫌がっていたが娘は1年生のときすでに、「卒業生の言葉が言いたいからもう引越しはしたくない」と言ったのだ。うちは転勤族で、娘は小学校を3回変わっているからだが娘の希望通り、中学からは転校せずに済んでいる。その楽しみにしていた定期演奏会も当たり前のように「欠席」になった。娘の「卒業生の言葉」は顧問の先生に代読してもらった。私は悲しくてDVDも見られなかったけれど娘は、しょっちゅう見ていた。「ここ、間違ってる(笑)」「やっぱりヘタッピ(笑)」「私の言葉だけ、みんなとちょっと違う…恥ずかし(汗)」どうしていろんなものをあきらめてしたいことを我慢してなお、笑っていられたのか今になっても私にはわからない。もちろん、当時は明るい娘にとても救われていた。親としては本当に助かった。けれど…泣きたかったのかなあ泣かせてあげられなかったのかなあと、今でも思う。
2011年08月11日
親バカを承知で申し上げるが娘は結構、アタマが良かった。中2の2学期、期末試験数学のテストで娘いわく「不本意な点数」を取った。数学の最後の問題で難易度の高い応用問題が出題されたのだ。当時、お母さん先生の個人塾に通っていた娘は「まるで見たことのない問題だった」という。「けれど、○○ちゃんは普通にできてたのよ!!!」以前からかなわないながらもライバルだった友達がさらっと解けた問題を自分は手も足も出なかった。聞けば、塾ではしょっちゅうやってる問題だという。「塾、変わる!! 私も大手の進学塾に行く!!!」さきのお母さん先生は、先生としても、先輩お母さんとしても、私はとても信頼していた方だったので不義理するのは申し訳なかったが「もっと勉強したい」という娘を止めるのもどうかと思い中2の冬休みから、大手の進学塾に通うことになった。このあたりから娘の120%生活が始まったのかもしれない。それまで、この辺のレベルに行くんだろうなと私が予想していた高校の2つくらい上の県立トップレベルの学校を娘は、進学目標に置いたのだ。クラブもやって学校でははじけるように遊んで放課後は1週間に4回も塾に通う……中3の2学期からは、1週間に5回の時期もあったほどだ。とにかく、志望校に行きたかったようだ。中3の秋志望校の文化祭にひとり、出かけた娘は興奮した様子で帰ってきた。同じようにひとりで文化祭見学に来ていた同級生となんとなく話出し2人で文化祭を見て回ったという。「そこの先輩が声かけてくれたのよ。 『ゼッタイ、あきらめたらダメだよ』って! 『今はしんどいだろうけど、あきらめなかったら大丈夫だから』って!! 制服とかガチガチの規則もなさそうだし すっごいいい感じだった! 文化祭、すっごい楽しかった」それから、何度、模試を受けても「合格確実」判定はもらえなかったけどぶれることなく、その学校を目指していた。で、その学校の受験当日、インフルエンザになったのだ(そのあたりの話は前述の日記を読んでみてください)前期試験の結果は不合格後期試験は、もう入院してしまっていたので受験を取りやめた・・・***************「あの学校、受けてたら合格できたかねえ???」入院中、娘とよくそんな話をした「合格する気はマンマンだったんだけど、ね。 あと、2週間で理社のラストスパートをかけたら 大丈夫な計算だったから…。 でも、今思うと めっちゃ綱渡りだったし なんであの頃、あんなに自信満々だったか ほんと、わからないわ」************病気のことでも同じだった娘は、自分のことは自信満々なのだ。なんの根拠もないのに。。。。でも、この自信のおかげで本人も、わたしたち家族も、とにかく、救われた**************入院後、すべり止めで合格していた私立高校に「4月から即、休学になるが それでも、入学を許可してもらいたい」と、中学の校長先生がお願いに出向いて下さった。そうやってとにかく「高校生」になれた娘。不本意な高校だったかもしれないが最後の最後までお世話になった。1年目は丸々休学して2年目に1年生をやったけど、6月からまた休学し3年目に2度目の1年生のまま亡くなった。県立高校だと規定が厳しいらしく2年連続の休学は認められなかったかもしれない。「学校に通いたい」が最後の目標だったからそれがかなわなかったら、もっと早く逝ってしまったかもしれない。それほど、娘は「希望の力」のおかげで生きていた。*************娘の通った私立高校は仏教学校で我が家と宗派が同じだった。そんなこと、入学の頃には全く考えてもいなかったがその高校の校長と副校長に、お通夜、お葬式の読経から納骨までそして、これからもずっとお世話になる。「きっと、これがご縁ってものよ。 行きたかった学校より こっちの学校の方がご縁が深かったみたいよ」娘のいる仏壇に向かって言ってみる。「そうかもね… でも、もし県立受けてたら合格してたよ、私。 自信あったんだ!!」私の中の娘は、いつもはにかんだように笑う。。。
2011年08月08日
一般的な抗がん剤は、ガン細胞だけに効くのではなく細胞分裂の早い細胞にアタックする。ガン細胞はもちろんだが血液、髪の毛やつめ、皮膚なども新陳代謝=細胞分裂が早い。だから、髪の毛が抜けるのだ。皮膚がガサガサになったり、爪もボロボロになる。抗がん剤が始まっても副作用のない娘は「髪の毛も抜けなければいいのに」なんて言ってたが10日目くらいから抜け始めた。だが、まわりは似たような病気の子ばかりなので髪の毛がない方が「普通」自分より小さな子が多い病棟で「病気が治ったら生えてくるんだから」と娘もあまり気にせずに過ごせた。抗がん剤が始まると血液中の白血球や赤血球、血小板などすべてが減ってくる。小児の急性骨髄性白血病のプロトコール(標準的な治療法)は非常に厳しく白血球が0とか100とかになる。健康な人の白血球は4000~8000くらいで数字が小さくなればなるほど、免疫力がおちてくる。つまり、白血球が0になれば、免疫力は全くないに等しい。赤血球や血小板は少なくなるたび、輸血をする。本当に輸血にはお世話になった。血を分けていただいた多くの方に心から感謝しています。白血球は輸血できないのだが少なくなったら即、何かが起こる、わけではない。白血球0でも、普通に歩けるし、笑えるし、勉強だってできる。ただ、免疫力がなくなるということはそのあたりに漂う雑菌にも負けるしいつもは共生している自分の体内にいる菌も暴れだす。そして、娘は熱を出した。39℃を超える高熱。免疫力がなくなって熱を出すと、いきなり高熱になることが多いのだ。その日は、15歳の誕生日だった。2009年3月13日看護師さんたちがいっぱい娘のベッド周りに集まってHappy Birthday を歌ってくれみんなで寄せ書きしてくれた大きなBirthdayカードをもらい病院なりの誕生日があるんだな…と思っていたが、その夕方からの発熱だった。入院して初めて、苦しそうで私は、病院に泊まることにした。目を離すとこのまま、熱が下がらずに死んでしまうんじゃないかって怖くて怖くて家に帰ることができなかった。娘の熱はその後もなかなか下がらなかった。抗生物質の点滴が続いた。毎日のように抗生物質の種類が変わった。熱が下がらない、効かないとなるとそれより1段階ずつキツイものに変えていくのだ。娘の背中が真っ赤にはれたこともあった薬疹といってキツイ抗生物質の副作用だ。娘はアレルギーがあって、そのあともいろんな薬に反応し使える薬が減っていった。アレルギーを起こす薬は危険だから使えない。。。娘は敗血症になっていた。そのとき、敗血症の怖さを私は知らなかった。「へ~、怖そうな症状ね」と思っただけだったが血液中に熱を引き起こしている菌がまわり、全身を駆け巡る。だから抗生物質もなかなか効かないし衰弱も激しい。死をも引き起こす怖い状態……ここでも、私は無知に助けられ娘がそんな危険な状態だとは認識せず明るく笑っていた。娘自身も…数日後、最後の頼みの綱と言われた抗生物質が効きやっと熱が下がった。が、中学の卒業式は終わっていた。
2011年08月02日
3階病棟に移ってすぐ、中心静脈カテーテル留置の手術を受けた。中心静脈とは鎖骨の辺りを通っている心臓に近い太い静脈のことそこに管(cv:カテーテル)を通しておきその管の先っぽは胸からぶらんと出しておく。(もちろん定期的に消毒します)その管=カテーテル=cvから、輸血したり食事のとれないときは栄養補給を行ったりする。治療中はしょっちゅう、輸血するのだがそのたびに手首に点滴を入れてたんじゃ、手首がもたないし生活するのにも支障をきたす。このcvがあるおかげで輸血も抗がん剤点滴も痛くはないのだ。移植というと全身麻酔をかけた大手術を思い浮かべる方が多いが血液のがんに対する「骨髄移植」は点滴と変わらない。すべてこのcvから体内へと流し込む(手術じゃないからつらくない、というわけでは決してないが…)その後、ずっとお世話になるcv手術が終わったらあっという間に治療が始まった。2009年2月25日白血病だとわかって、10日目だった。子どもの白血病は、一般のガンに比べて抗がん剤が良く効くといわれている。だから、治る子も多く、いまや、小児の白血病の8割は治るといわれる。というのも子どもは代謝がいいおかげで一般的な大人よりも、キツイ抗がん剤を高濃度で大量に使用できるからだ。抗がん剤注入が始まる朝は大量の水点滴が行われる。娘は体重が45キロくらいだったから1時間に120mlとか、それがずっと24時間続く。当然、おしっこは1時間に1回以上、200mlとかもっと出る。大人だとこの水攻撃に耐えられないが子どもはしゃーしゃーとおしっこを出し抗がん剤やそれによって壊れる白血病細胞の残骸を体外に出し続けられるのだ。また、抗がん剤って聞くと洗面器をずっと抱えゲロゲロ吐くイメージがあると思うがそれは10年昔の話。今は、吐き気止めの薬のおかげで実際に吐く子はあまり見かけない。「気持ち悪~」「食欲ない…」レベルでおさまるのが普通だ。だが、うちの娘は例外だった。…………まったく、なんの副作用もなかったのだ。もちろん2週間後位から脱毛は始まった。これは、お嬢にはイタイ、最悪の副作用だが月日が経てば元に戻るのであきらめるしかない。だが、抗がん剤を注入している最中に普通に食事をとり、おやつを食べ、周りのこと遊び、にこやかに過ごしている娘を見てまわりのママたちはうらやましそうだった。でも、娘の白血病は、薬物耐性がありつまり、薬は効かないかもしれないとドクターから言われていた。副作用がでないことはいいことだけど抗がん剤が効いてないんじゃないかと不安で不安で……まわりのママたちに「うらやましい?そんな楽観できないのよ。 こんなに不安なのよ うちはキビシイのよ」そう言いたかった。「以前にもそんな子がいたけど、 移植をして元気になったよ」そう言ってもらいたかった。でも、病室で、娘の隣で、私が不安そうにはできないしもし、ママたちが怖い事例しか知らなかったら…そう思って聞けなかった。ずっと、不安で不安で。。。結局、その不安は的中してしまった。
2011年07月28日
1階の学童病棟にいた1週間娘がどんなふうだったのか、どんな話をしたのか、まったく思い出せない。覚えているのはここのママたちは若くてきれいだなあって思ったこと病院につきそうママたちは疲れていて、心配でやつれていて、化粧もとれかけているようなそんなイメージがあったがここのママたちは、みんな若くて(そりゃ小さい子が多いからみんな私より若い!)きゃぴきゃぴしてて(若いからそう見えただけかも)おしゃれできれいだった(ただうらやましかっただけかもしれない)のちに1階病棟は手術などの回復期や検査入院の子が多いそう聞いて納得した。***************3階病棟では、大部屋だったカーテンでベッド回りをぐるっと仕切られてはいるがしゃべる言葉は筒抜けだし正直にいうと、うんざりだった。しばらくすると隣のベッドのママから声がかかった「うちの子が挨拶したいって言ってるんだけど カーテン開けてもいいかしら?」そうやって自己紹介タイムが始まりおしゃべりの花がさいた。「なんの病気?」「えっ?言っていいの?」私は、ドクターから「病気に関しては 自分の病名を知ってる子もいれば、知らない子もいるので お母さん方とも話さないでください」と言われていた「別にいいのよ。 子どもたちみんな、自分の病気のこと、よく知ってるもん。 うちは慢性骨髄性白血病なの」「そうよ、大丈夫。 ママたちからいっぱい情報をもらえるし。 うちは急性リンパ性白血病」本当に、ママたちからいろんなことを教わった。本ではわからない病気の実感…。ドクターは一般論を説明するから実際の話はなかなか聞こえない。けれど、ママたちはうちの子はこうだったけどあの子の時は○○だったみたいよ。●●ちゃんの時は、全然どうもなかったし生々しい実例をいっぱい知っていた。病院のことや看護師さんのこと、困った時にいくスーパーなんかも病気だけじゃない、生活のすべてをママたちから教わった。その頃の私は10時半頃病院に着き、5時半ごろ帰る生活をしていたでも3階病棟には、夕方に帰るママは誰もいない。6時の夕飯に付き添わずしてどうする?そんな空気があった。冷静に考えると、まったくその通りだ。病児1人で食事をさせるなんて、もってのほか。。。いくら中学生でも。そうやって、病棟の空気に慣れるようになじむように私の生活もシフトしていった。朝、下の子たちを送り出し洗濯と大雑把な掃除をし夜のご飯を作り置き、病院に向かう。夜は、娘と夕食をとりママたちや子どもたちと話し9時の消灯前に家に帰る。薬や治療のことをドクターから聞き、看護師さんから補足してもらいママたちからも教えてもらい家で調べてみる。そして、少しずつ娘の病気について理解していった。白血病って、すごく珍しい病気ではない。……病棟はいつも満床だった。でも、化学療法(抗がん剤治療)だけで治る子が多い中娘の病原菌は特殊で治療を始める前から「骨髄移植が必要」と宣言されていた。この時はまだ「移植のきびしさ」は漠然としたものだった。たとえ厳しくとももちろんやるしかないしそして「移植すれば治る」そう信じていた、娘自身も私も。知らないってことは恥ずかしいことだったかもしれない。こんなにきびしいのに、能天気でバカだったかもしれない。でも、そのおかげで「治る」と信じていたから怖くはなかった。だって、こんなにたくさんの同志がいる。こんな小さな子だって、健気に戦っている。だから、私たちもがんばらなきゃね……娘は「当然!!」って受験が終わったらのディズニーランドや原宿のことは何も言わず大部屋のプチ保育士さんのようになっていった
2011年07月26日
今日はちょっと番外編で、宣伝(?)を…娘のこよなく愛するNICO Touches the Wallsが7月22日から au「LISMO!」のCMソングに起用されました!!!!ばんざーーーい「うちのクラス、誰もNICOのこと知らないんだよ。。。」よく嘆いていた娘ライブに行き、大好き度200%アップで部屋にもポスターがバシリ!「なんとなく携帯でネットサーフィンしてたら見つけたんだよね 最初は、入院する前だよ でも、入院してヒマだったからさ いろいろ探してたら、スゴイ好きになったんだ」NICOは入院生活を支えてくれたひとつでした抽象的でグサッとくる歌詞もあるけれどでも、最後は明るく、今はしんどくても、最後の最後に笑おうぜってそんなNICOを、娘はこよなく愛していました今度の曲は「手をたたけ」とても印象的な明るい歌です。ぜひ、LISMO!のCMに注目して下さいね。**************娘、喜んでいると思います。生きていたらもっと喜べたのに・・・最近、ふと、「生きていたら・・・」スパイラルに落ち込むことがあります。末っ子(中2男子)が「彼女ができた」らしいって聞いた時も娘にも彼氏がいても・・・とかでも、ねそんなことを娘が今、望んでるはずもなく「今」できることに集中して行きたいと思います。ブログの続き、入院初期の話はまた。今日は勝手にNICO Touches the Wallsを宣伝しちゃいました。
2011年07月25日
入院する、と決ったらその瞬間から、娘は「入院患者」になった。病棟に案内され、娘はベッドに、わたしは椅子に座るよう言われた。ついさっきまで待合の長椅子で隣り合って座っていたのに娘は靴を脱いで、ベッドの上の人になった。最初の部屋は、1階の学童病棟にあった。個室だった。病棟の案内を受けわかったのはここはいろんな病気の子がいることおもに、小学生以上の子がいること「できることは自分でやろうね」という病棟であることそう言われても、チンプンカンプンだ。いろんな病気の子がいない病棟ってあるの?「できることは自分でやろうね」なんて当たり前だよね???それらの疑問は、3階病棟へ移ってからやっととけていくのだが。娘を残し、入院支度をしに私はいったん家にもどった娘はテレビと携帯ともう必要なくなった受験用問題集でヒマをつぶすことになった娘は受験もできない・・・あんなにがんばってたのに受験が終わったらディズニーランドって約束も○○ちゃんと原宿に行く予定も全部、なくなってしまった娘が泣いているんじゃないか?気が気でなかったが家に戻ると末っ子がいて、彼の元気な顔を見るとホッとした。でも、ホッとした自分が悪いことをしたようなずっと病院から出られない娘に申し訳ないような、後ろめたいような複雑な気分だった夫と一緒に病院に戻ったら娘は検査中だから先に病状説明をということになった外来で聞いたことを手順よく再度説明され病棟での担当医が紹介された若い女医さんだったその女医さんは、それから、そして最後まで、娘の「一番尊敬する人」になった病状説明の部屋に、娘が連れられてきた 車いすだった「かなり貧血が進んでいるので もうすぐ輸血をはじめますけど それまでは、体もふらふらするからね」車いすを押してくれていた看護師さんが説明してくれた今朝まで、普通に生活していたし貧血なんて思ってもいなかった病院にだって、もちろん、普通に歩いてきたし電車では「あいたよ、お母さん座れば」って私に席を譲ってくれたのに「貧血がゆっくりゆっくり進んだんだと思います。 だから、体が慣れていったのかもね」健康自慢、ガッツが取柄、いつもニコッとピースサインの娘そう言われて見ると、ぎこちなく車いすでこわばっていて、青白い顔をしていた「重病人みたい・・・ね」やっと口から出た言葉だったが「みたい」ではなく、まぎれもない「重病人」だったのだ。***********当時、私はやっと胸を張って「ライターです」と名乗れるようになって「さあ、仕事だ!」と意気込んでいた。2009年は年収○○円目標と大きく掲げ、連載の仕事もゲットしていた。こうなった以上……私は考えたまず、今抱えている仕事を早く終わらせなくてはならない。これから何が起こるか分からないからとにかく、今取り掛かっている仕事は全部終わらせてこれからの仕事は、すべてお断りしよう。看病と仕事を両方するのは、私には無理だ・・・今思うとそれが私の「逃避」だったのかもしれない「お母さんはとにかく今ある仕事を終わらせちゃうから ごめん、早めに帰るね」そう言って、夕方5:30には病院を出た「だって、下の子の生活も守ってやらなきゃならないし」逃避のための言い訳はいくらでもあったでも、病気を受け入れられなくて葛藤していたのは私たち親よりも本人であったはずその本人の気持ちに寄り添ってやれず自分の思いを優先させてしまったことに私はとても後悔しているその頃のことを、今年の春くらいに話したことがある「あれでよかったんだよ。私だって1人の時間が必要だったもん」娘はそう言ってくれたが…6時からの夕食9時消灯までの時間消灯したからって眠れるわけでもなくテレビも消された暗くて長い夜の時間娘は1人、何を考えていたのだろう受験が終われば、ご褒美の時間が待っていたのに「ずっと寝不足だったから 早めに寝ちゃったよ」そんな娘の言葉も、わたしの逃避を支えてくれた***************1階の病室にいたのは1週間だったその間に、いろんな検査をしてさあ、治療という段階で、3階病棟に移ることになった後に知ることになるのだが3階病棟は、血液腫瘍の子どもたちばかりの病棟だった。血液腫瘍というと白血病や再生不良性貧血など、いわゆる血液のがん。そこでさまざまな子どもたちと出会いその子たちを見守るママたちと出会いそして、病児との生活を知ることになる。「3階病棟で治療する」ことの本当の意味や「自分のことは自分で……できないときもあるもんね」って見守りや1週間の検査ででた娘の本当の病気、白血病の中での細かい分類などそのときは何も理解していなかったけど徐々に知っていくことになる。そのおかげで私は正面から、娘の病気と向き合えるようになったいや、向き合うしかないと覚悟を決めたのだ**************1階病棟にいた1週間娘は1人で友だちを作っていた2つ年上で同じ名前の女の子その1週間しか一緒にいなかったがそれからもいろんな相談をし、お互い励ましあったらしい娘の最期を知った彼女はお花をたむけて、泣いてくれた「お母さんがいなくったって 私は大丈夫だって言ったでしょ」娘のはにかむウィンクが見えるようだ
2011年07月21日
私にとっての人生最悪の日……それは娘が亡くなった日、ではない。娘が病気だと確定した日、2009年2月16日だと、今でもそう思う。娘は中3で、受験の真っ最中だった。2月4日 公立高校の前期試験日娘は、何年ぶりかの熱を出した。かなり高い。まさか、こんな日にインフルエンザ?我が家はそれまで、だれもインフルエンザにかかったことがなかった。それほど、丈夫なんだと「元気だけが取柄なのよ」と謙遜していうのが私の常であり自慢だった。38度を超える熱がありながら娘は志望校まで、予定通り自転車で行った。30分はかかっただろう。「とにかくインフルエンザを治して 後期試験にかけよう」ところが、インフルエンザがなかなか良くならない。1週間たって熱は下がったし内科では登校OKの確認ももらったのにだるそうにして起きてこない。飲みなれないキツイ薬を飲んだから胃を壊したのかもしれない。胃腸科へ連れて行ったら「胃ではなく、膵臓かも?血液検査をしましょう」ということになった2月15日娘はもうほとんど復調していたが血液検査の結果を聞きに行く日だった。このころ、わたしが体調を壊していて夫と娘とで胃腸科に行ってもらった。夫からの電話「娘は先に帰らせたが 血液検査の結果で 白血病の可能性があるって言われた」何の事だかよくわからなかった夫と2人、外で話した「血液検査なんて誤差だらけでしょ? 明日、紹介してもらったその病院行ってみるけど、 今はあんまり心配しないことにしよう きっと、間違いだよ」平静を装う声とは裏腹に震えが止まらなかったでも、間違いであると信じていた・・・・信じていたかった2月16日いぶかる娘をなんとか言いくるめて紹介してもらった病院に連れて行った見たことのない大病院そして、小児病院だけあって子どもばかりそんなこと当たり前だが「こんなにたくさん、病気の子どもっているの?」無知な私はびっくりしたのだこの病院でも血液検査をした結果は小1時間で出るという。そして、再度、呼ばれた娘は看護師さんとレントゲンを撮りに行くよう言われた私は診察室に残れとそして告げられたのだ「間違いなく白血病です」最近では8割の子は治る病気だとも言われたがわなわな震えて、何をどう考えたらいいのか・・・・でも、娘の前ではちゃんとしていなくちゃ。娘はレントゲンから帰ってきた自分のレントゲン写真を持ってそしてそのレントゲン写真のカバーに娘の名前と「病名 白血病」と書かれていたのだまだ告知もされていない子にそんなものを渡すなんて明らかにミスだけどそんなことを言っても、娘が見てしまったことはなくならない娘は「お母さん、私、この病気なの?」病名を指差して言った。「私、死んじゃうの?」「死なないよ。絶対に死なないよ。 白血病ってね、今では治る病気なんだって。 お母さんもさっき先生に聞いたばかりなんだけど 治療したら、治るから」外来患者が100人以上行き来するような待合で2人で手を握りながら泣いた。それから1時間近く泣いただろうか。「治療ってどれくらいかかるの?」と娘は聞いた「1年くらいだって」「1年か…。1年で治るの?」「そう、1年がんばれば、治るって!」「そうか…。 1年なら、がんばるよ」今でも、娘の切り替えの早さには脱帽する。たった1時間で、1年間の闘病と「白血病」を受け入れてしまった。「がんばるね、大丈夫だから」ってピースサインまでして。まさに、青天の霹靂、だった。「元気だけが取柄」の我が家が難病の子どもを抱える家族になったのだ。いや、私自身はまだ、娘の病気を受け入れるなんて、できなかった。どうすればいいのか?何をすればいいのか?全くわかっていなかった。でも、とにかく、娘が「病と闘う」って言ってくれて、ホッとしていた。「そんな病気なんてありえない。このまま死んだ方がマシ」私ならそう叫んだかもしれない。娘がそう言ったらどうしようとそればかり心配していたが娘は「がんばるね」と笑ったのだ
2011年07月16日
1回目のけいれんは40秒ほど。長い、と思った。娘はけいれん状態から戻ったとき、私の首にだきついてきて「怖かった~」と泣いた。「自分がどこかへ行ってしまいそうで すごく、怖かった」その夜、けいれんは3回おきた。3度目のけいれんは20分以上続いて薬の力で、やっとおさまった。薬で眠らせてもらったから「怖かった」ということもできなかった。何かを言いたかっただろう。抱きつきたかっただろう。・・・・・こんこんと眠るわが子を抱きしめておいた。けいれんの1回目と2回目の間か2回目と3回目の間かもう、記憶が定かではないのだがとても幸せな時間があった。けいれんがあったから死期が近いとかこのあと、全く話せなくなるとかそんなこと考えていたわけではないのにイマワノキワの挨拶をしたのだ。「あなたは、お母さんにとって、すごくいい子で 本当に、自慢の子だけど お母さんは、いいお母さんじゃなかったよね。 怒ってばっかりだったし もっとやさしいお母さんの方がよかったよね。 こんなお母さんでごめんね」「そんなことない。 お母さんでよかったよ。 お母さん、大好き! 本当にありがとう」今思い返しても、夢のようだ。本当に、現実に、あんな会話したんだろうか。何かがおりてきて、私に言わせたとしか思えない。けれどこの言葉をもらって今でも、本当にうれしい。私がけっこう早く立ち直れたのも元気でいられるのもこの言葉のおかげ。それほど私の宝物だ。5月22日(日)娘はずっと眠り続けた。反応がどんどん減ってきた。もう1度起きてもう少しでいいから、話をしたい!!娘は今まですごく、すごくがんばってきたんだからもうこれ以上「がんばれ」とは言えないって思っているのに気がつくと「がんばって」と声をかけている私たち親はなんて強欲なんだろう。でも、なんでもいい。たわいない話がしたかった。私の親たちが見舞に来た。意識が怪しいと聞いて大阪から飛んできてくれた。「おじいちゃんとおばあちゃんが来たよ」娘はこくり、うなずいたそして、なにやらぶーぶー言いだした。「あーあ」とか「がーがー」とかにしか聞こえないが何かを懸命に伝えようとしている。娘は必死だ。私が「薬?」「暑い?」「痛い?」・・・とんちんかんなことを言ってもずっと同じ言葉を繰り返してくる10分くらいかかったと思うやっと娘の意図がわかった「ああ、帽子だ。 いつもの帽子をかぶりたいんだ」娘はまたこくり、うなずいて帽子をかぶしてやると、また、こんこんとした眠りについた。最期まで女の子だったね。娘と意思疎通ができたのはそれが最後だった。その夜は夫が付き添ってくれた。私は1日だって1時間だって娘のそばを離れたくはなかったけれど夫にだって 娘と父だけの時間は必要だろうし家にいる妹弟にだって 母は必要だろうだから夫と私は、それからの付き添い分担表を作りこの状態がずっと続くだろうから私たちが体を壊してる場合じゃないと、よく眠り、よく食べなきゃねと話し合ったのだ5月24日(火)娘の反応はほとんどなくなっていた。2時間に1度くらい看護師さんが床ずれしないように体の向きを変えに来てくれるがそれ以外は娘と2人いろんな話をした。いや、一方的に私が話していただけだったが。病院のいろんな人たちが来てくれた。医療機械のスペシャリストさんだったり元いた病棟の看護師さんだったりお世話になっていた精神科の先生だったり違う病院に転勤になった元の主治医だったり出不精で電車に乗らない夫の母も遠路はるばる来てくれた「今日はいろんな人に会えてよかったね。 また明日ね」私は日付が変わろうとしているころ眠りについた5月25日(水)看護師さんが私を起こしている看護師さんに起こされるのは初めてだ。お昼間でも「疲れてるのよ、寝れるときにゆっくり寝てもらって」絶対に、わたしたち家族を起こさないのに看護師さんが私を起こしている何かが起きた、のかもしれない。看護師さんの緊迫した声「呼吸数が減ってきていて 今、先生も呼んでますから」呼吸数が減ってる???モニターを見たら今まで見たこともないような小さな数字が並んでいたドクターは「もうあまり長くないと思います。 お父さんも呼んで。 医療的なことは全部ぼくたちがやりますから お母さんはモニターなど気にせず お嬢さんの顔だけ見といてあげて下さい」寝ぼけているのかドクターの言葉がふわふわ浮かんだまま私の中に落ちてこないでも、とりあえず電話して夫を呼んで娘の名前を呼び続けたもう1回だけ、何か言って最後にもう1回だけ、がんばってまた「がんばって」って言っちゃったごめんね。こんな母さんでありがとう。ありがとう。急性骨髄性白血病の中でも染色体の欠損があってやたらと難治性の高い悪名高きヤツにミソメられて100%アウェイな中娘ほどがんばった子はいないと思う親バカなのは百も承知だが5月25日午前1時45分 娘は亡くなった享年17歳短くとも強くて美しい人生だったと胸を張って言えるただかわいそうな子、なんかじゃない。泣いて人生を恨んでた、わけでもない。「かわいそうだったね」ではなく「すごい子だったね」と自慢のわが子をホメテもらいたい。自慢のわが子を見せびらかしたい。だから、書きたいのかもしれない。
2011年07月15日
5月21日(土)娘はほとんどの時間を眠って過ごした私は夫と寝顔を見ながらいろいろ話した覚悟、のようなものは出来ていた ゼッタイできるはずない、と思っていた覚悟だったが**************4月高校に復学してからは娘は勉強ばかりしていたもっとラクすればいいのに…もっと遊んだ方がいいんじゃない?周囲の声を全く無視して彼女は特に大好きな数学と格闘していた「出来るはずなのに、変なところでミスしちゃうのよね…」勉強しているわが子の横で私ひとり時間を持て余していたので娘のおススメ本を方っ端から読んでいた娘の好きな作家さんは 恩田陸 さんと 重松清 さん特に「夜のピクニック」と「きみの友だち」は絶対に読んだ方がいいという「夜のピクニック」をさわやかに読み切った私は「きみの友だち」を読みすすめ本当に後悔した人が死んでいく話は・・・・ムリなんだけど・・・・でも、途中でとめることはできず病室で涙をこらえながら読んでいた最後の3章くらいは家で読んだ思い切り泣きながら 主人公には 重い病気を抱えた親友がいて 別れの時が来る 「寂しくないの?」と問われて 「寂しくない」と応える主人公に クラスメイトが「冷たいね」という。 「準備してたから。死んでしまう友だちと付き合うってそういうことだから」 重松清著「きみの友だち」より抜粋本の世界に入り込んでの涙もあったが現実社会で、娘からのメッセージだと思って愕然とした娘は「お母さん、ゆっくりでいいから準備してね」って言いたかったのだろうか?「暗いだけじゃなくって 明るい終わり方だし、いい本でしょ」っていう娘にそこまで深い思いはなかったのかもしれない。私がただ感じ取っただけかもしれない。けれどそのおかげで少しずつ、少しずつ、準備してきたんだと思う。最期になって、そう思った ****************大人というのは卑しいもので娘がこんこんと眠る横で私は夫に向かってお金の話を持ち出した「もし万が一の時のために あれを解約しようか・・・」すぐに「万が一」が来ると思っていたわけではないまだまだ先だろうけれど自分たちがしゃんとしているうちにお金の準備はしておかなきゃそう思ったのだまだ今なら余裕があるだろうって娘は変わらずこんこんと眠っていたが心拍数や脈拍数がバンと10位上がったずっとモニターをつけていたのだがあまりにも明らかに数字が変わったのをみてちょっと笑えた「お父さん、聞こえてるんだね。 ごめんね、変なこと言って。 お願い、許して!!」5分くらい謝ったり笑ったりしたら娘のデータは落ち着いた「ありがとう、許してくれたのね・・・」昏睡状態から目を覚ます子もいると聞いていたしまだまだこれからだと思っていたなのにその夜、妹と弟を病院に連れて行った娘は小児病院に入院していたので病棟へは大人(高校生以上)しか入れない。弟はまだ中学生なので原則的には入れないのだ。妹弟も「うちで会えるから」と病院に来ることはほとんどなかったのだが今日は3人で話させようそんなひらめきがあった。急に「厳しい状態だから」といわれ連れてこられた妹弟は表情が硬かった。「厳しいってなに??」だが、姉には絶対的な信頼があったどんなに厳しくても、どんなに大変だと母が言っても今まで姉は、必ず帰ってきていただから、今度もなんだかんだ言っても帰ってくるのだろうと本当にたわいのない話をしていたいつものように弟が姉2人にいじられて「こいつはバカだからさ」って笑われて何事もない普通の3人だったでも、唐突に言ってみた「せっかくだから、3人で写真撮らない?」そう言った私だが、娘が「やだよ」って言うだろうと思ってた娘は酸素チューブを付けて写真を撮ることを異常に嫌っていたからでも、「そうだね」って言ったのだ。一番画素数の高い娘本人の携帯で写真を撮った緊張した妹弟と満面の笑みをうかべた娘娘の手はいつものピース・・・・・・・ではなかったそのあと、妹弟が帰って娘が言った「お母さん、わたし、ピースが出来ない・・・」その写真を今見ると娘は「満面の笑み」ではない。とてもぎこちなく決して笑えてはいない。いつものピースサインも未完成で何かをつかもうとでもしているように、手が宙を泳いでいる痩せこけて、ガイコツのような顔これがわが子だとは思えないほど変わり果てた姿でも、そのときは本当に安心したのだ「3人で話せてよかった。 今日はいい日だった。 娘も本当に喜んでいた。 いい笑顔で笑ってたもの」あれは自己満足、ではないと思う。娘もホッとしたんだろう。妹弟が帰ってすぐ、娘はけいれんを起こした・・・
2011年07月14日
ブログタイトルに偽りアリ…ですね。いまや、「ライター」でもないし、「息災」でもないし。考えなきゃ。なんで、こんな事書こうと思ったのかいまもってわかりません。みんなに知ってほしい? いや、娘は全く望んでません。 彼女は元気な姿でしか、友達ともあいませんでした。 決して苦しんでいる姿を見せることはありませんでした。 なのに・・・私自身が「こんなに大変だったのよ、わかってよ!! こんな大変なことをやったのよ、もっとホメテ!!」って言いたいだけかもしれません。だとしたら偽善だな。でも、書こうと思います。今娘は「お母さんが書きたいんだったら書いてもいいよ。 なんとなく、書くような気がしてたし。 ただし、匿名希望!」って、照れ笑いしながら言っているような気がします。いろいろあった闘病期間、2年3ヶ月いろいろあり過ぎて記憶がごっちゃになり風化していきそうな不安だから、残しておきたいのかもしれません。読むと悲しいと思います。知らない子でも、子どもが死んでいくのは、見るに忍びないもの。だから、辛くなりそうな方は、ここで引き返して下さい。*****************2011年5月19日(木)早朝にやはり熱が出た。その週はずっとそうだった。5時30分過ぎに38.8℃ロキソニン(解熱鎮痛剤)を飲む。7時半ごろ長女は起きた。熱は薬のおかげで落ち着いている。そして、その日も学校に行くという。その頃は、こんな事が続いていた。ドクターはOKだという。「熱さえ下がれば大丈夫だろう」ドクターは余命少ない子どもの意思を最大限尊重してくれようとしているそれは分かっているそれでも、娘の「長い」人生を信じたい親はとても不安だったその日はいつにもまして、しんどそうだった玄関で靴をはきたたきを3歩ドアを出て3段おりる (階段とも呼べないような段差だが、娘には大きなハードルだった)車まで5歩私に抱きかかえられて移動する車中「今日は辛そうだから、休んだ方がいいんじゃない?」「大丈夫。もう無理ってなったら早退するから。とりあえず、行く!」娘の高校にはエレベーターがない。教室は3階、娘にとっては遠い。2階まではなんとか上がった。でも、ほとんど私の力で引っ張り上げた格好だ。2階を過ぎたあたりで、わたしがキレた。「こんな状態で学校なんて無理でしょ!! こんなひとりで歩けない子を、 お母さんはおいて帰れない」そのまま引き返した。それが最後の登校だった。その日の午後から、入院して治療してもらうことにした。ずっと「入院」状態だったが、外泊扱いで自宅にいて、病院には「通院」していた。だが、内服薬では限界があり病院で寝泊まりして点滴治療をしてもらおうと積極的な意味での入院だった。だから、彼女は数学や英語の教科書やらノートやら大量に持ち込んでいた「病院はヒマだから勉強しなきゃ もうすぐ中間試験だからね」5月20日(金)普通の病院での1日だったなんの話をしたのかどんなことをして過ごしたのかよく覚えていないお風呂には入ったような気がする今思えば、最後の入浴だった本当に普通の1日だった「明日は土曜日だから、お父さんと来るね。ご飯食べなきゃね、なんか作ってくるね」そういって私は帰ったのだ次の日も、その次の日もいつもと変わらない1日になるだろうと思って5月21日(土)朝10時過ぎ、私の携帯が鳴った娘からだった遅くなってるからだよね、早く来いって催促かしら?そんなことを思って電話をとると「お母さん、私、よくわからないけど、たいへんなことになってるみたい。 なんだかよくわからないんだけど たいへんなことになってる・・・・・・」「大変なことって?どうしたの???」「よくわからないんだ。でも、なんか・・・・たいへんっぽい」「とにかく、もうすぐ行くよ。遅くなってごめん。待っててね」そのあと、担当の看護師さんからも電話があった。その電話をとるのにはすごい勇気が必要だった。とる前から、すごく怖かった。いつもと違う、ような気がした。「意識レベルが落ちている」と看護師さんは言った「さっきの電話みたいに割と普通に話せる時もあるけれど 全く意識がなくなるときがある。 まだまだ出来ることはあるけれど 出来ないことが増えてきて ほとんどの時間は寝てしまっている」そして「おむつをつけさせてもらいました」移植後、2リットル以上の下痢をしている時でも絶対につけなかったおむつをつけている???夫と二人、車で病院に向かう間私はさんざん泣いた。もうダメなんじゃないか?何が起こったの?なんで? なんで???病院につくと娘はすやすやと眠っていた。痛みなど知らないように熱なんかどこかへいったように娘は時折起きて、私たちと少し話した。呂律が怪しい。が、その内容はいつもと変わらなかった。ドクターが言うには「白血病細胞が脳にまわったのだろう。 それを食い止めるような手立てはあまりない。 考えられる治療はあるが、リスクの方が大きい。 本人に辛い思いをさせるだけで ここから劇的によくなることは、ほとんどない」私たちは以前から話し合っていた通り娘との静かな時間を選んだ。 本当にたくさんがんばった娘だから 彼女が『疲れた』って時は 彼女の思う通りにさせてあげよう。**************やはり書き始めると、長くなりますね。今日はこのあたりで。ここまで読んでいただいた方ありがとうございました彼女の冥福を祈って下さるのも嬉しいのですが彼女はもう次の生を目指しているようでじっと静かに眠っているわけではないみたいです。なので、生前のがんばりをほめてやってください。私は、がんばった娘を見ていただけなので私のことは脇にやって彼女のガッツを称えてやって下さい。お願いします。
2011年07月13日
たいへん、ごぶさたしています。いろいろあってずっと「放置」していました。いろいろ…が終わったのでそろそろご報告、そしてぽつりぽつりと書いてみようかなと本当に久々に、ブログに向かっています。うちの長女、5月25日に亡くなりました。17歳でした。2年3ヶ月前の2009年2月16日急性骨髄性白血病だと診断されて即入院。最初、8割の子は治る病気だからといわれましたが検査を経るごとに難治度が悪化娘の白血病は、非常にムズカシイ種類のものだったようです。それでも骨髄移植の結果も良好で2009年11月26日無事、退院。体調的にはつばを飲み込むのも痛いくらいひどい口内炎や夜寝られないほどかゆい皮膚炎なんかもありながらそれでも「治った」喜びをかみしめていました。もちろん「がん」ですから5年間再発しなくてやっと「完治」といえるのですがうちの娘のかぎって再発なんてない!!って思いたかった。。。骨髄移植後の口内炎や皮膚炎はGVHDといって本人にとっては困ることでしかないのですが原病を抑え込んでいる証拠でもありドクターたちは歓迎することなんです。だから、こんなにGVHDで苦しんでいるんだから再発はないだろうって思っていました。もちろん、本人もそれが2010年5月に再発。2009年11月末に退院してお正月を迎えてGVHDに苦しみながらもやっと2010年4月に高校に入学できたのに1回目の中間テストが迫ってくるそんなときに再発の宣告を受けました。特に体調に変化があったわけではなくいつもの定期検診ですでに末梢血に白血病細胞が出てきていて・・・2010年6月22日から再度入院。この時は肺炎を併発していてずっと電気もつけず息も絶え絶えでもう一度骨髄移植なんてできるのかって本当に心配しました「夏祭りに行きたい」って娘が言いました「去年は入院していて行けなかったら今年こそは浴衣着て、友達と夏祭りに行きたい」酸素マスクがはずせなくてほとんど起き上がることもできないのに7月15,16日の地元の祭りに行くというのです。ドクターもナースさんたちも「行こうね、がんばろうね」っていうけれど誰もが「かわいそうだけど無理だろう…。酸素ボンベもって車いすでなら…」って思っていたようです。それでも奇跡的に(本人は「行きたいところに行けた!」だけだったけど ドクターたちからは「奇跡だ」といわれました)本当に、浴衣を着てたった1時間だったけど私の付き添いもなく友達とだけで祭にいきました。本当にうれしそうで楽しそうでこの時の浴衣姿の写真を遺影にしました。その後、2回目の骨髄移植今度は臍帯血バンクよりいただきました。「もう無菌室から出られないかもしれない」とも言われました。このころ引越しをした新しい家には「帰れないかも」ともいわれました。でも、2ヶ月くらい何も食べられないほどでしたがなんとか移植を乗り越えて一度はちゃんと治ったんです。新しい家にも帰って自分の部屋のカーテンを買いに行ってじゅうたんを選んで好きなバンドのライブにも行ってファンレターを書いたりその後もほんとうにいろいろなことがあり再発や再再発や脳への転移や思いだすとぞっとするほどたいへんなことだらけだったけど娘は「医者になるわ」と言いました。「私にしかできない医療があるでしょ」って2011年4月まだ病を抱えたままの状態でしたが3月から始めた新薬での治療も良好で高校にも2度目の復学を果たしました。本来なら高3の年齢ですがもう一度高校1年生。2つ下、妹の同級生たちとクラスメイトになり最初はかなり戸惑っていたり悩んだりしていましたがやっと本当にやっと「学校が楽しくなってきた」って言い始めたのにあっという間に亡くなってしまいました。5月18日まで学校には通いました。最期は痩せて、本当に皮しかなくていつもの半分にも満たなくていつもの4分の1も食べられなくてそれでも「医者になる」って勉強していました。先日、納骨を済ませました。私は寝てばかりいましたがだんだんと普通の生活を送れるようになってきました。妹や弟を学校に行かせなきゃなりませんからご飯を作り、掃除をし、洗濯をし。テレビを見て笑い、息子の運動会で応援し、娘とバーゲンに行き。でも、本当はもっと楽しいはずなのに心の底からは笑えていない、ような気がします。いろいろありました。本当に、知らなかったことだらけでした。こんな勉強はしたくなかったけどこれから、少しずつ吐き出していこうと思います。亡くなった娘が「お母さん、心の底から楽しんでいいんだよ。 もっと、笑ってよ」って言ってくれているのは分かっています。でも、まだ・・・自分の心を整理するために少しずつ書いていきます。よかったら、お付き合いください。
2011年07月11日
長女の入院、闘病、そして退院して・・・私の考え方や価値観、いろんなものが変わりました。もう仕事なんてできない。自分の軸がどこにあるのか分からない。なんて考えた時期もあったのですがゆっくりと時間が、私の気持ちをまろやかにしてくれたようです。とはいえ、たまに更新するこのブログも長女の体調や家族のイベントなどがほとんどでそういえば、ライター修業なんてストイックな気分のかけらもないなあ…はたと気づいたわけであります。ならば、何か……こういうとき、「コピー下手」はツライ。。。だけど長女が病気になってなんとか、また、元気になってくれたたぶんずっと、その病気とはお付き合いしながら生きていく私たち家族も病気の心配はしつつも、ぎゅっと心の底にしまいこんでみんな、将来を夢見ながら、明るく生きてほしい!生きていきたい!元気になれなかった子たちの分まで精いっぱい、自分の人生を満喫してほしい。私もそうありたい。私は、これからもライターを生業にしたいけれどでも、以前のようにがむしゃらにはなれないしライター道を極めたい、とは思えない。日々、小さな発見を探しながら、足元の大きな幸せを感じていたい!うちの家族は無病息災、はかなわなかったけれど一病息災、でいこう!今、とても幸せで、世界中に感謝しています。という気持ちをこめて、「ライターかあさんと一病息災家族」です。これからもよろしくお願いします。
2010年04月27日
ご無沙汰しています娘、無事に入学式を終え、思った以上に元気に通学しています。「なにより~」と安心する反面「いやいや、少しブレーキかけなきゃ! 疲れをためたらタイヘン」と心配したり行ったり来たりの日々を過ごしています私の感情や気持ち、価値観・・・少しずつ復活してきています。昔のようには戻れない!と思っていましたがその頑なさが、ちょっとずつ和らいできました。時間ってすごいものです。* * * * * * * * * * * * * * * * *娘が入院中、毎日車で40分くらいの病院に通っていました。最初はCDなぞ聞いていたのですがさすがに毎日だと飽きるし、新しいものをGETするのも難しい・・・ずっとFMラジオのお世話になっていました。夏ごろ、どんな歌が流れていたのか全く覚えていません。流行っていたのは嵐かな・・秋の終り頃だったか、ラジオから流れてきた音楽を聴いて突然、泣いたことがありました。それまでずっと不安ばかりだったのですがやっと、なんとかやっと、退院の見込みがついたころでした。 ♪ 今年の春はどこ行こうか 今年の夏はどこ行こうか 春の桜も夏の海も あなたと見たい あなたといたい ♪先のことを考えられるって、とても素敵です。そして、あの頃考えた春の桜も家族で見ることができました。とてもありがたい、有り難いことです。* * * * * * * * * * * * * * * * *昨日、一人でバタバタと歩き回ったせいか今日は疲れて、1日ダラダラしていました。「ま、明日でいいか・・・」昼間は深く考えず、そう思ったのですが 明日も、今日と同じような平和な元気な日が続く 私もやっと そう思えるようになったようです。いえ、心を引き締め貴重な今日を大事に過ごさなきゃ。。。* * * * * * * * * * * * * * * * *うちには3人の子供がいますが今年は末っ子も中学生になりふと気付くと夕方6時くらいまで私、家に一人!!!ダラダラしてないで仕事しなくちゃね。。。GWあけたら、ごあいさつまわりから始めようっとみなさん、ご無沙汰していますがお時間ある方は誘ってくださいませ。 ・・・仕事関係でなくっても・・・娘の学校復帰を見届けたので私も、社会復帰への道、始めます!
2010年04月22日
娘が退院して4カ月が過ぎました。退院当初は、 半日出かけたら翌日は寝続けるそんな基礎体力のない毎日でしたがなんとか、やっと、「普通」に近づきました。とはいえ、まだまだ不安が付きまとうのですが無事、入学式を終えました。桜咲く季節に、制服姿を見られて本当に有り難くて・・・感謝、感謝です。この感謝を忘れないようにこの有り難さをずっと覚えておくように肝に銘じなければならない、そう思っています。 * * * * * * * * 娘の病気は原因が分かりません。まだ分かっていない、といった方が正確かもしれません。それでも毎年、何人か、いえ日本全国で見ると何万人かが発症します。これがすごく多くなることも、全くゼロになる年もありません。必ず一定の確率で、誰かが病を得ます。治る確率、というのも闘病中はよく聞かされます。この治療法だと○○%、これだと××%・・・これらは確率論ですから本人が治る、治らないとはまた別次元だと、ずっと言い聞かせていました。娘はおかげさまでなんとか今に至りますが確率論を考えると娘がこちら側に来たということはあちら側に誰かがいるわけで・・・なんというか、ツライです。 * * * * * * * * 病に克つ。いや、自らが克つだけでなくこの病自体を地球上から追放する!そんな目標を持つ闘病仲間が今、窮地に陥っています。ただ叫んでいるだけでなく本当に頭脳明晰で、思慮深く、ちょっとオタクだけどそんな彼が、どうして・・・この理不尽をあきらめるしかないのでしょうか。 * * * * * * * * 娘の元気の陰にはきっと見えないところで病と闘う誰かが、たくさんいるんです。健康が当たり前だと思っていた1年半前の私はまったく分かっていなかったけれど誰かが引かなければならないハズレくじ、といった医師もいました。先述の彼は、天災にあった、と言っていました。ハズレくじとか天災とかのことをたくさんの人が少しずつ覚えていていただけるといいなあと思います。私は絶対、忘れません。 * * * * * * * * 私には何もできない。わが子を見守ることしかできない。不安を隠しながら、ただ見続けるだけ。でも小さな小さな力も結集すれば・・・多くの人に、素晴らしい春でありますように
2010年04月10日
いろいろ思うことはあるのになかなか書けずにいます。でも、時間は確実に流れていますね。その流れが、いちばんの頼みの綱です・・・娘は11月末に退院しましたが去年末は、なんだかんだと不調を訴えていました。原病にかかわるような重大なものではありませんがいわゆる不定愁訴ってやつです。それにつられて私もバタバタがたがたしていました。退院してもうすぐ4ヵ月になろうとしています。そういえば年末よりはずいぶん元気になったなあ娘の闘病を経て、私は今までの価値観が大幅に壊れてしまいました。何を信じたらいいのかどれが正しいのか果ては、神様は本当にいるのか、とか思考のよりどころを失っていました。なんとなく順調だった人生でいちばんの試練でしたから何かが変わるはず何かを変えなければいや、以前の私には戻れないカタクナに考えていました。でも・・・どんなに気持ちが急いでも、娘の体はついてこず私の中にカラマワリが閉じ込められジンマシンが出たこともありました。それでも、やっぱり時間は流れていて年末と比べるとずいぶん元気になったなあと思うわけです。4月から娘は学校生活をスタートさせます。でも、いきなり「毎日」は無理だろうなあ体育は来年からかなあ留年、するかもなあそれも好し、としましょう。わたしは決してのんびり屋さんになったわけでも焦らなくなったわけでもありません。結局、元のわたしがほとんど戻ってきました。もう、以前のようにがむしゃらに頑張る、ことはできないかもしれないけれどベストを尽くす、最大限努力するのがこれからも信条です。娘の高校生活が少し落ち着いたら仕事も復活したいと思っています。また、0から修業の再開です。時間のおかげで娘にも、我が家にも、わたしにも「普通」が戻りつつあるようです。
2010年03月16日
娘が入院して知ったことがたくさんあります。その中のひとつが医療費助成について娘のように、入院が長期にわたる特定の病気の子たちの医療費は国が助成してくれます。つまり、皆さん方の税金でうちの子たちの医療費をまかなっていただいたのです。そのおかげで経済的な不安はほとんどなく娘の看護や、下の子たちのこと、自分たちの生活だけを考えることができたと思います。ドクターも病気にいいこと、考えられる手だてそのほとんどを尽くしてくださいました。入院中に聞いたこと「大人の患者さんはたいへんなんだよ。 有効だけど高い薬が多くって… 頻繁に使ってたら、医療費がすごいことになっちゃうでしょ。 小児には医療費助成があって そんな心配をせずにドンドン使えるから 本当によかったね」それまで、税金がそんな風に使われていたなんて知りませんでした。うちの娘はみなさんに助けていただいたそんな思いがあります。だからこそ今度は私が助ける番です。少しでも働いて税金を納めよう!輸血をたくさんいただいたから、献血にも行かなきゃ!困っている方がいたら、できるだけのことをしよう! * * * * * * * * * * 昨日、知人のブログでさやちゃんのことを知りました。突然、病気になり、心臓移植しか延命の手だてがない…そんな難病とたたかっているそうです。日本では15歳以下の臓器移植はできないので、渡米して移植手術を受けたい。そのためには、当然、莫大な資金が必要です。国家予算かと思うような億単位のお金でも、きっと小さな善意が集まれば、大きな助け合いの輪ができると信じています。小さなことしかできないけれど、何もしない、ではいられない。小さな行動を起こすことが助けていただいたみなさんへのお礼につながると思っています。私にできることは少しだけれど募金をよせることそれに、一人でも多くの方にさやちゃんのことを知ってもらうことだと思ってこれを書きました。さやちゃんについて詳しくはさやちゃんを救う会 http://saya-sukuu.com/?eid=6をご覧ください。
2010年02月13日
現状があまり動かなくて、イライラがたまってきたので映画を観ました。気分転換ってやつ・・オットが観たがっていた「オーシャンズ」海は大好きだし人間ってちっぽけだなあって感じられたらいいかなあってきれいな映像でした。自然はやっぱり偉大で、素敵で、やさしい・・・反面、とても厳しくて残酷でした。アザラシのお母さんがわが子を抱く。心からいとおしそうにやさしくて、あたたかくて。ウミガメの赤ちゃんが孵化してすぐに海に急ぐ。小さい体全身で急いでいる。空から鳥が狙っているからだ。狙っている、なんてナマヤサシイものじゃない。次々に急降下しては、ウミガメの赤ちゃんをくわえていく。そこで、流れるナレーション・・・ウミガメの子が全部食べられてしまうことは決してありません 自然は大いなるバランスを保って・・・・ * * * * * * * * * * * * * * *人間は自然のバランスを壊しているそれはよくわかるかといって自然のバランスに従っていたら娘は、今、いない自然のバランスに抗い続けてくれた歴史のおかげで娘の今があると思うと、私は今、どうしたらいいのだろう * * * * * * * * * * * * * * *映画の後半で、底びきだか巻き網だかよくわからないがとにかく、大型の網で魚を根こそぎ取ってしまう漁の描写があった。大型のサメなどもかかっている。漁師はサメがかかるとヒレだけをあっという間に全部切り取り、それを干す。サメは尾びれも胸びれも、ヒレは全部取られたまま海へと捨てられる。生きている。エラは動いている。でも、泳ぐことはできない。ヒレがない。ただ沈んでいく、海の底へ。海底で体をゆすっても、どうもがいても、泳げない・・・ * * * * * * * * * * * * * * *自然のバランスに抗う歴史をもう、元に戻すことはできない、と思う。が、こんなむごいことまで・・・でも、高級なはずのふかヒレが結構、手ごろな値段で売られていて、それを喜んで買ってくる。そのかげでヒレをもぎ取られたサメが海底に捨てられているのだ。これらはすべて、私たちの望んだこと。私たちの責任だ。人間は、どこまで抗ってどこまで自制すればいいのか・・・・とにかく「感謝」しようでも、「感謝」することしかできないのか・・・ * * * * * * * * * * * * * * *先週は前の日記でも書いた「風のかたち」を観た。聖路加国際病院の細谷先生が主体となって小児がんの子どもたち、退院した子たち、克服した子たちを集めてここ10年くらい、毎年していたキャンプ「世間からの偏見や、つらい過去や、将来への不安・・・ そういった子どもたち自身の思いを 同じ病気をした仲間たちと、思う存分吐き出すことで 気持がほぐれることがあるかも」と始まったという。その10年間のキャンプに密着して撮りためた映像をまとめたものだ。今、日本では、25,000人に1人の子が、小児がんになるという。細谷先生は「はずれくじ」といった。誰かが、このくじを引き当てる。でも、映画の中の子たちはみんな明るくて、強くて、未来を生き生きと語る。中には、いなくなってしまう子もいるが。「家族のだれか、じゃなくて、私でよかった 私は結構、がまん強いから・・・」笑いながら答える中学生「いっぱい助けてもらったから 人の役に立つ仕事がしたい」多くの子が言う。やさしい。強い。しなやかだ。 * * * * * * * * * * * * * * *でもね・・・こんなこと言っちゃいけないことはわかっているんだけど強くなくてもやさしくなくてもぐうたらでもよかったんだよ・・・。 * * * * * * * * * * * * * * *たくさんの方に観ていただきたいと思います。風のかたち応援ブログにて上映スケジュールが分かるかも?これ以外にもあちこちで上映されるようです。ぜひ、チェックしてみてください。私は、また1年後くらいに観たいと思います。
2010年02月01日
もう15年たちました。当時10ヵ月だった娘はもうすぐ16歳・・あの時、私たちは兵庫県宝塚に住んでいました。大阪で生まれ育った私は、地震というものをほとんど知らず・・揺れたとき何事が起ったのか理解できませんでした。 地球が壊れるの? トラックでも突っ込んできた? いや、こんなに長いんだから地球崩壊の日?うちは地盤がよかったのか震度4くらいは揺れたものの建物に損害はなく、グラスひとつ割れませんでした。すごく長い揺れの後外に出ても意外とシーンとしていて・・・家は、停電していました。まだ水とガスは生きていましたが電気が止まると灯油のファンヒーターも使えないってその時知りました。寒くて、寒くて私は10ヵ月の娘を自分のダウンコートの中で抱いてとりあえず何かを食べたような気がします。夫は会社も大変らしいと車で出社心細くて、怖くて、大ケンカして・・・そのうち、ガスも水も止まってそして高台から黒い煙が見えていました。けれどテレビも見れずどこが燃えているのかもおぼろにしかわからず・・・何が起こったのかも、よくわかりませんした。翌日、大阪の実家に逃げました。10ヵ月の乳飲み子を抱えてライフラインの止まった家では暮らせない・・・・当時はそれが当然だと思いました。大阪では、地震の恐怖はあったものの壊れた家もなく普通の暮らしができました。震災の情報も、毎日、ワイドショーにもニュースにもあふれるようでその後、3月に夫の関東転勤が決まり関西人夫婦は、初の関東暮らしに必死で何となく聞こえてくる震災のニュースを遠いことのように耳にするだけ・・・あの頃、確かに心を痛めてはいたけれど何もできなかったいや、何もしなかった・・・・それが今になって罪悪感のように響いています。自分だけ逃げて他人事のように傍観して15年、忘れていたわけじゃないけれどあの時の心残りを教訓にしていかなきゃと思います。ここにいても、自分にも、できることを探そう
2010年01月19日
少しだけ、娘の入院生活のことを書こうと思います。病気を発症したとき、娘は14歳11か月、中3でした。私の住む埼玉県では中学生は小児科になるようで娘が入院したのも子どもの病院でした。初めて見る小児の総合病院は、とにかく大きい!総合受付で一般の病院なら椅子がずらっと並ぶ場所にじゅうたん敷きの遊ぶスペースがあって看護婦さんはみんな動物柄のエプロンをつけていました。病棟には赤ちゃんから幼児からとにかく子どもたちがいっぱい。みんな笑顔なのに、この子たち全員病気なの?ってびっくりするくらいたくさんの子どもたちです。そして、基本的にみんな自分の病気のことをよくわかっています。「私は○○病で、1年くらい入院するの」「今は××って薬のせいで調子が悪いけど、あと3日くらいしたらすっきりすると思う」大人だったらあんなに明るく前向きに、自分の病気を受け入れるなんて難しいと思います。私なら何が悪かったのかって今までを後悔したり悲劇のヒロインになりきって自暴自棄になったりすると思う。でも子どもたちは「ダイジョウブ!がんばる!!」っていうんです。どの子もみんな・・・娘が入院していたのが、子どもの病院で本当によかった。あと1か月遅かったら高校生になってからだったら一般の病院でした。明るく前向きな仲間に支えられてみんなで一緒に笑いながらの入院生活、すごく幸せでした。闘病中でも、みんな普通の笑顔たっぷりの子どもたちです。どこかのドラマで見るようないつも泣いていてかわいそうな子どもたちではありません。 * * * * * * * * 昨日の朝日新聞でステキな映画があることを知りました。「風のかたち」埼玉県川越で上映されるようです。http://k-scalaza.com/next/next.html私も観に行こうと思っています。
2010年01月14日
前回の日記で 信じて焦らずに待つ、大切さを思い知ったと書きました。(エラそうに、ねえ・・・)コメントを拝読したり自分自身を振り返ったりして本当に、私は焦らずにいられたのだろうか?考えてみました・・・ * * * * * * * * * 娘の病気のことでいえば「焦ることすらできなかった」というのが真実かもしれません。親なんて本当に無力でそばにいて見ていることしかできずとにかく、信じて祈るだけ、でした。娘に「運」があったのかなにか「偶然」の成り行きなのか有り難いことに、娘は今日も元気です。私は信じて待っていただけ、だけど、思いはかなったというところ * * * * * * * * * ですがこれがひとたび、自分の問題になると「焦らずに」なんて悠長な気持には、なかなかなれません(汗)不安、です。ま、今はどうしようもないのですがそれでも・・・つのります。どうして比べたがるんでしょうね。。。(by マッキー)「焦らない」のはムズカシイけど、「ゆっくり、ゆっくり」を呪文のように今までとは一味違う自分になろう、そうなるしかないと思っています。
2010年01月12日
ご無沙汰しています。昨年はご心配をいただいた皆様、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。娘は2月より入院しましたがその後は色々ありまして・・・まあ、山あり谷ありでした。ですが、おかげさまで昨年11月末に退院することができました。これもひとえに直接は、病院の先生方や看護師さんなどスタッフの方々間接的には、多くの励ましをいただいた皆様のおかげだと思っています。ありがとうございました。* * * * * * * * * * * * *今まで当たり前のように健康に生きてくることができて生まれて初めて「家族の入院」という事態に至りました。知らなかったこと、初めて感じることがたくさんありました。娘はおかげさまで退院することができましたがそうでない子たちを何人も送りました。みんながんばっていたのに・・・不条理、としかいえません。* * * * * * * * * * * * *去年まで「元気だけが自慢」の家族でした。その「元気」がどれほど貴重だったのかを今、改めて感じています。それを「当たり前」だと思っていたのが間違いでした・・・なにかで「感謝」の反対は「当たり前」であると読んだことがあります。本当は有り難いことなのに、それを当たり前だと感じるその傲慢さが、感謝の反対なんだと。これからは、決して「感謝」を忘れず暮らしていこうと思います。* * * * * * * * * * * * *私は今、さまざまに混乱しています。書きたいことも話したくないこともたくさんあるのですが何から、どうやって・・・これから、私自身を整理するためにも少しずつ気持ちを吐き出していこうと思います。* * * * * * * * * * * * *2010年の始まりですね。まずは、家族そろってお正月を過ごせたこと「普通」のお正月に最大限の感謝をしてゆっくりと焦らずに行こうと思います。そうそう・・・娘の入院で一番の収穫は信じてあせらずに待つ大切さを思い知ったことかもしれません。だから・・・いままでと少し、変わった、私ですが今年もどうぞよろしくお願いいたします。
2010年01月07日
皆さんにご報告があります。個人的なことなので、書いた方がいいのか迷いましたが40caratのこともあり、書くことにしました。実は娘が長期入院をすることになりました。私はいろいろ考えた末、いったんすべての仕事を白紙にさせていただくことにしました。そして、娘の看病と健康な妹弟のケアに専念しようと思っています。そのためあんなに大きく宣言していた40caratも中断することにしました。楽しみにしてくださっていた方には申し訳ありませんが心中お察しいただけると幸いです。ブログはひょっとしたらまた書きたくなる時が来るかもしれないのでこのまま残しておこうと思います。でも、エロコメントの削除などできないと思いますのでコメント欄はなくしてしまおうと思っています。励ましのお言葉など気にかけていただける方もいるかもしれませんが当分はお返事もできないと思いますので。突然のことで、私も動転していますが娘自身がとてもポジティブで助けられています。娘の傍らにいて彼女が病に打ち勝つさまを応援しようと思っています。皆さんには突然のご報告で申し訳ありません。きっと「大変だったね」と笑いながらこの場に戻ってこようと思っています。そのときにはまた1からライター修業を再開します。
2009年02月22日
先週、長女がインフルエンザになりました。うちは「誰もインフルエンザにかかったことがない」っていうのがちょっとした自慢で・・それなのに人生初のインフルエンザを第一志望校の受験日にかかるなんて長女はど根性の持ち主だったらしく(この件で思い知りました。。。)40度を超える熱があるのに自転車で片道20分、自力で受験しに行きました。(まわりの受験生の皆さん、ごめんなさい どなたにもうつっていなければいいのですが。。。)・・・試験の方は、もちろん(?) ダメでした。 とはいえ、こちらの公立高校は前・後期2回受験できるので 今月末に再度、受験します!!・・・試験は2日間だったのですがその2日間は仕事は入れておらずが、試験で気合が入っていたのが、終わった瞬間、ドッと出てしまい熱は下がらないしせきはひどいしせき・たんのおかげで寝られないしという症状が押し寄せてきて・・・・とうとう。取材を1件、代わってもらうことにしました。こちらの社長さんは、ライターとしても母としても先輩!常々「何かあったら言ってね。取材は交代できるように私の予定は開けてあるから」と言ってくださってました。でも、仕事に行きたい!子どもを理由に休むなんて、プロ失格!そんなことばかり考えてでも、つらそうな息遣い、ゴホゴホせきはひっきりなしだし、熱ももう3日間、40度越えが続いている極めつけは、長女の「大丈夫。一人で寝てるから、仕事いっていいよ」の言葉。全然、大丈夫じゃないのは、誰が見てもわかる!!でも、そういう娘に甘えてもいいのか???悩んだ末にやっぱり休ませていただくことにしました。予定を開けてあるとはいっても外出する予定がないだけで中での仕事は詰まっていたはず。取材後、ライティングも思わぬ仕事だったはずそれでも「うちの娘もよく『大丈夫だから行っていいよ』って言ったのよ。 本当は一緒にいてほしいのに。 長女気質ってそうなのよ。 私は、そんなときについていてあげられなくて自分を責めてきた。 だから、ついててあげて」といっていただいて、涙が出ました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。この社長からの仕事でなければきっと、私は仕事に行っていたでしょう。気持ちを裂かれても娘に我慢させたと思います。だからって死ぬようなことはなかったと思いますが休ませて頂いて娘に辛い思いをさせなくて、ほんと、よかったです。ただ、今もどうしたら一番良かったのか本当に仕事を代わってもらってよかったのか仕事に行った方がよかったのかわかりません。きっと、ずっとわからないままなのだと思います。子どもがそこそこ大きくなってから仕事復帰した私は今まで、子どもの病気で仕事を休まなければならない状況になったことがなく子どもの健康には感謝するものの何の対策もしていませんでした。まずは、これを大反省!健康管理はもとより万が一の病気のときの対策を急ぎ、考えなくっちゃ!!その夜、夫が仕事から帰ってきて「上司が風邪で遅刻してきて・・・」という話を始めました。気難しい上司なので、ま、いつものかるい愚痴なのですが私は、急にぶちっ!!!「サラリーマンは会社に守られているんだから あなたが休んでくれたらよかったのに!!!」職場結婚だった私は、夫の職場もよく知ってるしそんな都合よくいかない会社だってこともわかってるけれどでも、でも、・・・・なんか考えることがたくさんありました。娘はやっと回復して(薬の弊害か今は胃が痛いらしいのですが・・・)明日から学校にも行けるようになりました。こうやって「普通」「日常」が戻ってくるとまた忘れてしまいそう・・・なのでココに書いておこうと思った次第です。みなさんは、こんなとき、どうされていますか?
2009年02月11日
40carat皆さんからあたたかい声をいただきやる気に燃えています。・・・・・まだ、手は動いていないのですが・・・・さて、40代女性=アラフォーなどといいますが実感として、今までの40代とは違う!と漠然と思っていました。じゃ、どう違うの?私たちより若い氷河期時代の人とも違うじゃ、時代の影響?そんな疑問に答えてくれる本に出会いました。満足できない女たちこの本によると、一口にアラフォーといっても3つの世代に分けられるようです。まずは元祖アラフォー「均等法世代」男女雇用機会均等法は1985年に施行されたのだが、この前後に就職した人現在は43~45歳でも第1次均等法は、ある意味「努力目標」だったので企業による温度差が激しかっただからこの年代の人でも、均等法の恩恵を受けた人は少ないのが現実だ次は真性アラフォー「バブル世代」現在43歳くらいまで子どものころから男女平等の中で育ち就職する頃には世間には均等法がありそして時代はバブル!とにかく行け!行け!GO!GO!まさしく私がこれ!!そして「就職氷河期世代」37歳くらいまで彼女らをアラフォーに含めるのはかわいそう!だと私は思うが・・・この就職氷河期世代は苦労が多かっただろうだが、「女性が企業で男性と同等に働く」のは当然という価値観が浸透していたので元祖アラフォーや真性アラフォーよりもナチュラルに生きていると著者は述べているこのうち、私が思うアラフォーは均等法世代とバブル世代現在の年齢は38~45歳くらいかな~とにかく新しい価値観が導入される時期に直面してきた私たちアラフォーが何を悩み、どう生きてきたかが詳しく考察されているこの本うん、うん。うなづきながら読んでしまった。その中で一番納得したのは・・・・アラフォーというと「働く女」のイメージが強いが実は、専業主婦がほとんどだということ均等法は施行されたがお飾りであることが多かったし世間も、自分たち自身も、「結婚したら、子どもができたら、仕事はやめるもの」という価値観をまだ変えられなかった人が多いのだううう・・・私もそのひとりだ!!そしてたとえ働き続けていても専業主婦になっていても「自分の選択が間違っていたのではないか」という自問自答をし続けているのだというなるほど!私も「どうして私は仕事をあんなに簡単にあきらめたのか?」と思い続けていたし「あの時、働き続ける道を探していたら」と後悔し続けていたそれが私ひとりの想いではなく私たち世代に、ある意味共通の想いだったんだ!!やっぱり、40carat いいんじゃない!!きっと集まってみんなで話せば、いろんなことが納得できるはずそれに、一番多いといわれる専業主婦だって「何か」を始めている人はたくさんいるしこれからだって「何者か」になれるんだからやまみーさんのように(←前回日記のコメントを見てください)働き続けてきた人だって同じ種類の想いを持っているかもしれないしいろんな立場の人と話せば視野だって開けてくるはず!!!先日受けたriccaさんのカラーセラピーで自分の想いを多くの人に届けたい!という思いが一番に出た私(仕事のこともめちゃ考えているのに、ね)riccaさんには、とても力強く背中を押していただきました。それにいつもお世話になっている物語ライティングのライター陣とドリームマップも作ったしちっとも手は動いていないのですがやる気は満ちております。4月オープンに向けて40caratご期待ください!!
2009年01月31日
「明けましておめでとうございます」とご挨拶して以来また更新が滞っておりました。この間に、仕事をしセミナーに出かけコミュニティサイトの名前を決めました★(後ほど発表します) * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * まずは仕事では・・・某雑誌に初の記名記事が出ます。うふ・・・でも、「棚ぼた」でございます。ラッキー♪って感じ。。。そして教訓・・・仕事は追いかけると逃げ、忘れたころに帰ってくる 恋の駆け引きとおんなじか・・・でも、恋少なき私には 難解! * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *セミナー1 しなやか骨盤塾神奈川県にまで足を延ばしてでも受けたい!と思っていた骨盤塾とうとう、行ってきましたこの方が主催してくれました。ありがとう。ユイさんそして、お邪魔したのはnanea cafe講師のkiwaさんは明るく大らかででも真摯に骨盤と向き合うすごい方!骨盤触っただけでその人の性格までわかっちゃうというから、コワイ!私の骨盤君は、内向きで小さいそうです。イヤ、決して細くはないのですが・・・自分では立派な大きな骨盤のつもりがほかの参加者さんの骨盤を触りっこしていたらなるほど!!骨盤ってこんなにも違うものなんだとびっくりしました。内向き骨盤君は「まじめで視野の狭い人」だそうで・・・・アタリなんともはや・・でもね、女子は骨盤や生理や妊娠・出産や・・・大事にしないといけません!当たり前と思うかもしれませんが「ああ、また生理だ。うっとおしい」とか「もうなくなっちゃえばいいのに!」とか思ったことありませんか?これからは禁句ですよ。生理や女性性に感謝して過ごしましょう。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *セミナー2 起業女子トークライブこれもホントに楽しく参加しました珠玉の言葉たちを少しだけあな吉さん ワークライフバランスとか世間では言うけれど、私にとってはライフはワーク仕事は人生そのもの亜莉さん 常に進化し続ける毎日同じ作業をしていても、いかにうまく、いかにはやくと考えながらしていると、ルーティンなどあり得ないライチさん 「目標」があるから始めるのであって目標は後から立てるものではないう~ん、納得!私にとってはライフがワークかというと、まだまだ疑問が残るワーク以外にも大切なものがたくさんありワークも絶対に必要なものではあるけれどそれがライフすべてではない・・・なあ全部ひっくるめてのライフを満喫したいってところ午後の分科会は ライチさんのモチベーション・チームワークがテーマのところにその後のライチさんの日記には、いたく感動しました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *コミュニティサイト名前決定!!前述のライチさんのチーク考を踏まえて、発表させていただきます。まず名前は・・・・・・40carat にしました。以前、名前が決まらない~と嘆いたブログにコメントを頂いたやまみーさんの案をいただきましたありがとう!!やまみーさん40カラットなんてそんな大きなダイヤモンド持てないけれどでも、私たち自身がそれほどの輝く存在なのよ!!それに、まだまだ原石でも、ダイヤモンドのようにこれからますます光るわよ!!!そんな思いを込めて、名付けました。40carat をどうぞよろしく!!さて、40carat は結婚・出産を機に仕事をやめたり、仕事を減らしたりした人がもう一度、仕事に就き元気に頑張っているあるいは、もう一度仕事に就きたいと思っているそういう女性たちのためのサイトです。わたしを含め、アラフォー世代ってちょうど子どもの手も離れさあ、これから!!って人もたくさんその反面、もう私なんて・・・っていう人も40caratでは 「私なんかどうせ・・・」は禁句です。(笑)M字曲線を地で行く私たちは働き続けた人たちとはちょっと違った戸惑いや不安や悩みがあります。それを、「そう!そう!」といい合える。でも、「これってちょっといいよね~」とうれしいことだって共有できるそして「みんな頑張っているから、私もがんばろ!!」って思えるそんなサイトを目指します!!そんな仲間が増えていけばいいなあ。みんなで会えたらたのしいだろうなあ。そして、「私なんて」ってちょっと自信をなくしている人が「やっぱりがんばってみよう!」と思ってくれたらいいなあ。これからの若い人たちが「私たちもがんばろう」って。私たちには経験がある子育てをふくめて、経験すべてが財産です。宝です。これらを大事に、これからも歩んで行きましょう!!そして、40carat に集まってくださる皆さんを大募集します。どうやって集まるの???ってサイトを構築しながら考えますから(汗)もうしばらく待ってくださいね~久々に書いたら長くなってしまいました。40caratについてはまだまだ書ききれないので、また今度、続きを!!はい、近いうちに必ず・・・汗
2009年01月19日
前回、仕事上の目標を書きだしました。こんなに明確に、数字までアップしたのは初めてです。。。叶うか、かなわないか・・・年末にまた検証したいと思います。でも、どうしてこうまで具体的に書くのかそれは・・・イメージの力を信じているからそして、オープンにすることで自分を追い込みたいからあはは・・・皆さんの力を頼っています。どうぞ見守ってやってください。さて、今日はプライベート編これでも、高校受験を控えた娘(今日、併願校に願書を郵送しました)思春期どっぷりの次女やたらと自己主張するようになってきた息子3人の母でもありマイダーリンにとっては妻でありなんと言ってもまだまだ枯れたくない女性なわけです!!!ならば、今年の目標はみずみずしい女性になること好奇心をたっぷり持ち流行に敏感ででも、流されない芯を持ちカサカサしない女になる文字通りの乾燥肌も治したい~~!!!!ウェートコントロールも必要ですますます女っぷりをあげられるよう楽しみたいと思いますみなさん、楽しいお誘い、お待ちしていま~す
2009年01月06日
あけましておめでとうございます。去年はいろいろな紆余曲折にお付き合いいただきありがとうございました。本年も浮いたり沈んだりさまざまなことが起こると思いますがなにとぞよろしくお願いいたします!!さて、みなさんはどんなお正月だったでしょうか?私は久々にpcから逃げ続け穏やかなぼや~んとした日々を過ごしました。受験生である長女は、年末も年始もなく毎日、塾に通いつめ私は毎日、おべんとうを作っておりました。ホント、正月から弁当作って・・・と文句を申しておりましたがいちばんがんばったのは本人。じゅうぶん、褒めてやりたいと思います。受験ももうすぐ!本人の望む結果になるよう、親は祈るばかりです。。。。さて、私は・・・なんと、ハリーポッターを読み返しておりましたなんて・・・のどか・・・・最終刊を読んでいなかったのでこの休みに読みたかったのですがややこしくなってきた5巻「不死鳥の騎士団」からもう一度読もうと・・・これがおもしろいけれど肩がコルあはは・・・だらけたお正月でした。毎日、お弁当と5人家族の洗濯はやめられず結構、主婦していました・・・・のんびり家族で(長女の居ぬ間に)トランプなどやり・・・ほろ酔い気分でございました今日はまだ。。。もっと休んでいたい!!!が、気合いを入れて始動しました。さあ、2009年です!!!!本ブログのトップも書き換えてそこに今年の目標を書きこみました。まずは、HPの構築そしてライターとしては1 一つ一つの仕事をていねいに2 仕事をスピードアップし、量を増やす3 新しい出会いを増やす努力する4 レギュラーを2本GET5 新しい仕事先を2社GETこの5つを掲げ、どこまで目標達成出来るかやってみようと思います。今年もどうぞよろしくお願いいたします
2009年01月05日
もう、12月29日ですね。あっという間に今年も終わろうとしています。いつもと同じ、夜寝て朝が来るだけなのでこの年末っていうのは気分が改まりますよね。というわけで、今年を振り返っておこうと思います。2007年から師匠の紹介で女性週刊誌で仕事をさせていただきました。楽しかったなあ~っていうか、今思えば、鼻高だかでした。「私、胸張ってライターって言えるし、いい仕事してるでしょ~」でも2008年に入ってそれ以前から掛け持ちしていたムックの編集補助がどうにもこうにも立ちゆかなくなり・・・一時的に週刊誌をお休みしてムックに専念することにしました。2月は悲惨でした。毎日、終電・・・・子どもたちはどうやって過ごしていたのでしょう。。。私は毎朝、子供を送り出し洗濯をし、夜ごはんを作って11時ごろには出勤。昼過ぎから仕事をはじめ、終電まで。3日か4日くらいは始発で帰ったこともありました。子どもも夫もよく協力してくれました。ま、末っ子はちょっぴりさみしかったようですが。。。3月ようやくそのムックが出版されたのですがお休みしていた週刊誌にはもうしばらくお休みをいただくことにしました。なんせ、1ヶ月半くらい休みなく働いたのでそんなことは人生初だし。腑抜け状態だったのです。ぼちぼちと4月から週刊誌を復活。ですが、うまくいかないことが続きました。取材依頼しても受けてもらえないことが続き・・・焦りがちになります。5月、週刊誌編集部で異動がありわたしを使ってくれていた編集さんが何人かが、別の媒体に移ってしまいましたそれから、じりじり減ってくる企画私から企画提案してもなかなか通らず・・・6月ごろから仕事がなくなって行きました。仕事は毎週やっているメルマガとごくたまに頂けるチョコっと仕事だけ。。。このままでは、また専業主婦に戻ってしまうどれほど落ち込んでどれほど焦ったか友人には、今は休む時と励ましてもらったけれど私は、やはり「仕事」がしたい!わたしを必要としてくれる「仕事」が欲しい!悶々とした時期、結構長かったです。そういう時期なのだと言ってくれた友人もいました。今が底だから、10月からはちょっとずつ上がるよ・・・と彼女の九星気学&コーチングには救われました。ありがとう!!それからは、本当に少しずつ仕事をいただけるようになりました。媒体で言うと春先にやっていた週刊誌ほど知名度はないけれどでも、心のこもった仕事 (もちろん週刊誌も心をこめていましたが、これらの仕事もそれ以上に心をこめて)そして、いろんなことを教えていただきました。スキル的なものもたくさんそうですよね。私はまだライター歴丸2年ですからもっともっと学ばねばならないことがたくさんあるんです。そんな当たり前の基本に立ち返らせていただきました。ありがとうございました。さあ、2009年は!!ライターとして、この基礎を固め「着実」にスキルアップしていきたいと思っています。そしてこのブログでぶちあげた大構想同世代のがんばる女性のためのコミュニティサイト構築に向けて母としても妻としてもまだまだ忙しいけど全力で動きたいと思っています。今年一年、お世話になったみなさま本当にありがとうございました。御縁のあった方みなさまに、お礼申し上げます。今後ともぜひぜひ、よろしくお願いいたします!!!まだリアルにお会いできていない方もぜひ、2009年はお会いしましょう。。。皆さんとお会いできるのを楽しみにしています。今年は、関東地方では初日の出が見られるお天気だといいます。みなさま、いいお正月をそして素晴らしい2009年でありますように!!世間が不景気な時ほどハリキッテがんばっていきましょう!!!!来年もよろしくお願いいたします。
2008年12月29日
先日、ハー・ストーリィさんからのご招待でトヨタ「パッソセッテ」という新車の発表会に行ってきました。いやあ、本物です!!マスコミ向けの発表会って、きらびやか!!ステキなモデルさんやタレントさんも登場して私なんか、すっかりノマレテしまいました。。。。これでもマスコミの末席にいるつもりなんですがまったく別世界!!ですね。。。。かわいい車でしょ?この車のCM、素敵でした!なんてったって、女性、しかも主婦で、ママで、そして女である人がテーマなんです!!今日、出演されていたモデルさんたちがCMでも素敵な笑顔を振りまいてられますが皆さん、ママだとか!!あまりにキレイ過ぎて、どびっくりです。。。。一般的なママたちにそこまで望むな!とは思うけれどキレイをあきらめてはいけません。たとえ、アラフォーでも!!!がんばってきれいでいたいという気持ちを持ちましょう!!トークショーも・・細川茂樹さんも家電俳優さんぶりをいかんなく発揮!さすがです。。。森山中の村上さんは「ラブラブ光線」出まくりでした新婚さんですものね。。。あの頃が懐かしいですそんなラブラブな2人にもこれからラブラブになりたい2人にもいや、もう一度ラブラブしてみようっかなっていう2人にも(うちか?)もってこいの車!!なんだって。。。7シーターで、ベンチシートってちょっとおもしろいですよね。。。。うちの愛車もワゴンですがあれでベンチシートってどうなってるんだろう???興味津々ですにぎにぎしく終わった発表会ですがもっと車を見てみたいなあという思いを持って帰ってきました。ちょっくらショールームに行ってみようっかな???それに・・・あのCMが流れるのは、いつなんだろう?かなり楽しみ音楽もちょっぴり懐かしく、でも今風のアレンジで私たちにうれしい!!!皆さんも期待しててくださいね好感度、満点ものですよ~~時代は、私たちに向いている主婦で、ママで、そして女!!!ありきたりだと思ってきた私たちの時代が来るかも~~うふ、何を見ても「時代がきてるぞ!!!」とこぶしを突き上げたくなるのは私の最近のくせですね。。あはは。。。。
2008年12月25日
今朝、ご近所さんと話していた時のこと小学校2年生の課題で「将来の夢を書く」の話になりましたうちの息子は、そのころ(3年前)漫画の「ナルト」にはまり始めたころで上記の課題に「忍者になる」と大真面目に書いたのでした。私も、1人目ならば「何言ってんの?」とあわてたのかもしれませんがなんせ3人目ですからくっくっくと笑いをこらえながら「へえ~っ、がんばってね」と答えました。幸いにも、当時の担任もいいお爺ちゃんで息子の突拍子もない発言に「それいいねえ~。でも、どうして?」と。それに答えて、息子いわく「忍者はがんばれば、空だって飛べるし、水の上だって歩ける。がんばれば何でもできるなんて、すごい!!」改めて思いだして、子どもにはその気持ちが大切なんだと思いました。がんばれば、なんでもできる!!それを聞いていたご近所さんは「うちの息子の夢は何だろう?」といい始めそこまではなんてことなかったのですが・・・・「今活躍しているアスリートとか卓越した才能を開花させている人って小さいころからの英才教育の結果、である人が多い。普通の家に育って、普通に小中学校時代をすごしそれから自分の意志でがんばった人が少ない。だから、今の子どもたちは夢を持ちにくいんだとおもう」そういったのです。。。。「ごめんね、私は違うと思う」といいました。もちろん彼女の言い分が全部違う!というのではありませんが子どもに影響を与えるのはテレビで見るアスリートよりも、目の前の親。私たち大人です。「今の子どもが夢を持てないでいるとしたらそれは、今の大人が夢を持たないからだと思うんだ。子どもに夢を持ってほしかったらまずは、大人が夢を持たなくちゃ!!」彼女にどこまで伝わったのかはわかりませんが私はそう思っています。まずは大人が夢を持つ!! その夢に向かって頑張る姿を、子供に見せる!!そういう大人になりたいと思っています。そういう大人が集えるWEBサイトを目指しています!!とはいえ、今からHPなんてできるのか・・・不安でいっぱい~~
2008年12月17日
名前が決まらない!という泣きごとブログにたくさんの書き込みを頂いてありがとうございます。まだ書きこんではないけど、考えてみたのよ!って方もありがとうございます。もし何か妙案が浮かんだ方はこちらまで 送ってください。まだまだまってま~す*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…いただいたアイデアの中からいくつかのキーワードが見つかりました。ありがとう!!40代は・・・・しなやかに強いナチュラルで美しい色気もあったりしてどこから見てもダイアモンドの輝きを放つ母や妻や嫁や・・・という役割を超越した自分自身でありたい!なんかいい感じ~!!それに・・・皆さんのコメントにレスを書いているうちに何となくコンセプトが煮詰まってきました。当初、自分が専業主婦を脱することができてそれがうれしかったので、みなさんも・・・と思っていましたがいろんな立場の方がいますよね同じ世代でも結婚している人もしていない人も子どもを産んだ人も産んでない人もこどもがもう大きい人も赤ちゃん連れも・・・そんないろんな立場があっても、私の一番言いたいことは・・・どんな立場の人でも自分自身を愛し自分自身の力を信じること「どうせ私なんか・・・」とか「だって女だから・・・」とか自分をさげすんで、初めからあきらめるようなことを絶対にしない!!ちょっと単純すぎるかも・・・?でもコンセプトの元の元はできたような気がします。それからあまり40代にこだわりすぎるとすぐに卒業ってなことにもなりますしまだ若いから私は無理ね。。とかってこともあるし年齢はだいたいこんなもん、自称たのしいアラフォーということで行こうかなと思います。*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…そういえば、ずっと以前ライタースクールにいたことからこんなことがやりたかったけど、まだまだ私ができてないし・・・と二の足を踏んでいました今もまだ、自分は確立できていないのですがこの時代の風に押されて、立ち上がりましたこれだけ大々的に宣伝していますからやらないわけにはいかない!!!私にはホームページの作成という大きな宿題が肩に乗ってます。。。。でも、少しずつカタチが見えてきそうで楽しい!!みなさん、これからもぜひぜひよろしゅう。。。。ご意見、アイデア、サポートの申し込み、激励などこちらまで待ってま~~す
2008年12月12日
日々、何やかや追われております。細かな仕事 原稿出したと思ったら、校正!とか いろいろアリマス娘の受験 やきもきしても仕方がないので、本人に任せています 私は塾の時間までにご飯を作る! たったこれだけが、意外と大変。。。息子のサッカー もう5年がメインの季節になりました 週末は練習試合のオンパレード へとへとです、本人 負け続けているので・・・今年はクリスマスツリーも出せていないこんなのは結婚以来、初めてかもしれません。。。去年はもっと忙しかったような気がするけどエイヤって気分転換にIKEAで生ツリー買ったし今年は中途半端に忙しいのかもなどと、ばたばたしながらも掃除機かけながら、ご飯作りながらwebサイトのことを考えていますながら思考は得意です!大まかなコンセプトとしては結婚や子育てを経てもう一度自分を見つめてみようと思うこのごろ40代同世代の仲間が集まって「がんばってる?」「元気?」といい合える場であり「主婦だったんだけど、もう一回チャレンジするわ!」だったり「これが好きだから、もっともっと頑張るの!」だったり【私ががんばる!】人を応援しよう!!「これ、悩んでるんだけど・・・」や「私も。あなたはどうした?」や悩みや疑問や困ったことも話し合いたい!そして「どうせ私なんか・・・」「もういいのよ、年だから・・・」を追放する!!ざっくり言うとこんな感じです・・・これももっとすっきりわかりやすく コンセプトとしてまとめなくっちゃで今、 いちばん悩んでいるのは、ネーミング なんですね楽しい40代だからこそ家庭や仕事とのバランスを保ちつつももっと自分を楽しもう! もっと自分をがんばろう!! 今までの結婚生活や仕事ライフや育児の経験すべてを自分の肥やしにしてそれもこれも全部、自分のキャリアにしてさあ、もっと羽ばたこう!!って感じなんですけどああ・・・ライタースクール時代からコピーの授業は地獄でした。。。。でもって、みなさんにいいアイデアがないかとははは・・・ちょっと助けを求めています。。。。こんなのどう??ってブレスト気分でいっぱいご意見お待ちしています。ってシーーーーーンとするのはいやよ名前候補、ご意見何でも、書き込んでね~~お願いしま~す
2008年12月10日
今年の流行語大賞「アラフォー」が受賞これを聞いて、私たちの時代だ!!と叫んだのは私だけではなかったようです。。。でも、それを見た若い人から「元気ですね~さすがバブル時代人・・・」と言われ?????なんで?????と思いました。やっぱり、私たち世代って能天気なのでしょうか??能天気、いいじゃない!!明るい未来を信じられるのって、今となっては貴重なことかもしれませんそれを何のためらいもなくできるって素晴らしい!!今、40代の仲間と話すと40代って楽しいね~って言葉が出てきます。ほんと、その通り!もっともっと、楽しみましょう♪40代!!楽しい方はもっと楽しくまだ楽しめていない方は、楽しめるように集まってみませんか?今、WEBでコミュニティサイトを構築すべく考えています。結婚や子育てや・・・いろんな経験を経てきた今、40代だからこそもっと楽しく!仕事に、社会活動に、外へ外へと羽ばたいてみませんか!羽ばたいている人、集まって その思いを伝えてみませんか?私なんか・・・もう年だから・・・!!なんて逃げないでwebサイトについてはまだまだ妄想だらけで何も形になっていません。それ、いいじゃない! やろうよ! やってよ!!という方、一緒にアイデア出してください。webの知識ある方も募集中です。ぜひよろしゅう来年4月オープンを目指して!!!あ~ぁ、言っちゃった。。。。もう逃げられないなあ・・・
2008年12月09日
用事があって、新宿御苑に行った寒い日重い空どうしてこんな日に・・・足取りは重くああ、冬の景色だなんてスッキリしてるんだろうあのカモは優雅だなあひとり、凛としてるひとりっていうのは変か・・・でも、きりっとしてるよいつもの景色が遠い私はここに、こんな人もまばらの緑の場所にいる方が似合っているんじゃないか雑踏の中には、似合わない、かもなあ~ そんな迷いやぐだぐだをこの寒い空気が洗ってくれたぴんと張った冷たさがバカ野郎~!!ってシャンとしろ!!ってさあ、がんばろうっと。。。
2008年12月04日
今日発表された、流行語大賞なんと「アラフォー」でしたね夕方のニュースで見て、チョイとびっくりしました。。。ですが、ですが!!これぞ、キタ~~ッ!! って感じじゃないっすか ↑ おしくもベスト10に入らず。。。われら、アラフォーの時代ですよ!!来年は、アラフォーの皆さんが終結できるようなサイトを立ち上げようと思っています!中身は、今、練ってますから。。。もうしばらくお待ちくださいwebの勉強をしなくちゃいけないのがいちばん頭が痛いのですがでも、幸先良いお知らせで!!うれしい!!!われらアラフォーよ!!今こそ、立て~~~~
2008年12月01日
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