きっとどこかの物語

はじめまして







01  はじめまして



「晴れたね」
 僕の横で眠る妹に言った。本当は血なんか繋がっていないけれど、それでも、僕の本当の妹だ。
「暑いかい?」
 喋りもしない妹に、先ほどから何度も話し掛けていた。口を開くはずもないのに。たまにバカバカしくなったけれど、話し掛けていると、妹が起き上がって、いつも通り明るい笑顔で「お兄ちゃん」と呼んでくれるような気がした。
 だが、今その妹の口にはチューブがつけられている。妹は、自分で呼吸することすらままならないほどの事故にあってしまったのだ。そして、その事故のせいで、二度と僕のことを「お兄ちゃん」とは呼んでくれないかもしれない。
 妹は、記憶喪失になる可能性があった。確率は高い。最悪の場合は植物人間になるだろうとも、医者に言われた。僕は、またひとつ身近なものを盗られてしまったような気がした。
 五年前、父が飛行機事故にあって死んだ。
 二年前、父との思い出を僕と妹に話そうと、母は父とはじめてデートした海岸を歩いていたところ、波にさらわれた。帰ってきたのは、青くなり、膨れ上がった母の姿だった。
 そして今、また大切なものが、死線をさまよっている。五年前にも、二年前にも、今のような感覚があった。握りこぶしを握っても、震えるだけの手。こぶしを振り下ろしても、どうにもならない怒りと現実。そして、自分の無力。何も出来ないということだけが頭の中に浮かんできて、絶望を感じさせる。
 三度目だ。
 物心ついたころから数えると、生きてきた中で涙を流すのは三度目だ。どれもこれも、自分の無力に悔いて泣いた。泣いたってどうにもならないことくらい、父と母が死んだ時に十分承知済み。だけれど、悔しくて。
 涙のたまった目で妹を見ていると、ふと、妹の目が開いたような気がした。涙でよく見えないが、本当にそんな気がした。
 情けなく両手で涙をぬぐうと、妹は本当に目を開いていた。
 失わずに済んだんだ。
 妹は弱々しく、何度も瞬きをして、最後には立派に天井を見ることができた。僕は妹の名前を呼ぼうとした。だが、何故か呼べなかった。
 今、名前を呼ぶのが怖かった。
 記憶が消えているかもしれない。それを知るのは怖すぎる。医者は、取り戻すことはできるといったが、やはり期待薄だった。
 僕が名前を呼ぼうか呼ばないか迷っていると、妹が目だけでこちらを見てきた。
 僕は戸惑って、なんと言えばいいかわからなかった。相手は記憶がないかもしれない。そんなときにかける言葉は、何がいいのだろう。
 僕は、考えた末、一つの言葉を思いついた。妹に記憶があったら、気がイっちゃった兄貴だと思われるのだろうけれど、今はそんなこと、気になどしない。
 息をゆっくり吸って、久しぶりに目を開けた妹に向かって言った。
「はじめまして」
 精一杯、他人行儀に振舞ってみた。妹は、どんな反応をするだろうか。どんなことを思うだろうか。いつものように、ムカツクあの笑い方で、バカにしたように笑ってくれればどれだけ嬉しいだろうか。今は決して怒ったりはしないから、どうか、イタズラに笑って欲しい。
「にぃ・・ちゃ」
 チューブの下からかすかに声が聞こえた。弱々しい笑顔で妹は笑った。
僕は、はじめて自分を悔いること以外で、涙を流していた。
 そこにいたのは、妹だったのだ。




END


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