AGNUS DEI    結城やすはの部屋

AGNUS DEI 結城やすはの部屋

出会い ◇◇◇ ヒュアキントス-1


スパルタ王国近くの小国ペラのピエロス王の息子 ヒュアキントスは、
近隣にも聞こえる美少年だった。
彼が生まれてから、王や王妃クレイオを始め、
近侍の者――乳母や召使たち――も真綿に包むように大切に育てた。

ある日、友人や乳兄弟を伴った散策中に、彼はみんなとはぐれてしまった。
側に従うのは、愛犬のルートだけ。
前になり、後になり犬はヒュアキントスを導くように走って行く。
木々の茂る木陰に差し掛かったところで、涼しげな竪琴の音が耳に届いた。
鳥の囀りも、虫の音も聞えない静けさの中に竪琴が響き渡る。
ヒュアキントスは、思わず、周りを見回した。木の梢には、かなりの数の小鳥がとまり、足元にはウサギやイタチ、キツネまでが座り込んでいる。
いったい何がと思うと、ルートが歩んで行く先の木の根元には一人の青年が座って、竪琴を爪弾いていた。
飾りもない、質素な衣裳を身に着けていても、その青年の輝くような金髪と際立った美貌は遠く離れていても分かった。
聞いたことの無い旋律と青年の技巧に瞬きも忘れて、
ヒュアキントスは聞き入った。
さざめく風、風が踊る梢の葉擦れ、そよぐ枝を渡る風の音、
風が遊ぶ小川のせせらぎ……
自然の音に浸るように、茫然と立ち尽くしていると、
竪琴は風に溶ける様に演奏を終った。
鳥や動物たちは我に返ったように、バタバタと飛び去り、風のように立ち去った。
そんな中、一人取り残されたヒュアキントスは、竪琴を弾いていた青年と向き合うことになってしまった。
「お客様は久しぶりだ。いつも、私のお客は、物言えぬ者たちが多い」
「それならば、僕は彼らの邪魔をしてしまったわけですね。悪いことをしてしまった」
竪琴を抱え、歩み寄ってきた青年の背の高さ、その華やかな容姿、洗練された物腰にヒュアキントスは急に恥かしくなった。
この近在の者かという問いに、何の警戒心も抱かずにヒュアキントスは自分の身分と今日のことを答えてしまった。
「友人が君を見つけるまで、しばらく私の話し相手をしてもらえないか?」
「あ、僕でよければ、喜んでお相手させていただきますけど。
何か予定があったのではないのですか?」
結局、彼はしばらく街に滞在する旅行者だと分かったが、それを教えてもらうまでにヒュアキントスは自分のことを全て、青年に打ち明けてしまった。
陽が傾く前に、青年はヒュアキントスに別れを告げたが、
もし良かったら、明日 同じ時刻にここで会おうという。
「その時に私も名前を名乗ろう…。それでは、またな」
気が付くと、ヒュアキントスは一人で野辺に立っていた。
青年がどちらの方向に消えたのか、まったく記憶に残っていなかった。
本当に不思議な人だ。
僕のことはたくさん聞いてきたのに、あの人の事はほとんど聞いていない…。
彼はそう思いながら佇んでいたが、不快感はなかった。
青年と話している時に、いつの間にかヒュアキントスの側から消えていた、ルートが賑やかに吼えながら、友人たちを連れてきた。
「どこに行っていたんだよ、ヒュアキントス」
「日も暮れてきたから、そろそろ、帰った方がいいよな」
「どうしたんだ、何かあったのか?」
友人たちは口々に彼に訊ねた。
無口になっているのは、置いてきぼりをされて、
ヒュアキントスが拗ねていると思ったのだろう。
「いや、何でもないよ。物騒だから、早く帰った方がいいよね」
彼も頷いて、友人たちと帰途に付いた。

ペラの王宮は、小高い丘に城砦として構築されていた。
高圧的な建物ではなく、市街地を守るように建っている。
王宮に帰ると中が騒めいている。
異国よりの貴いお客様が見えているという。
「あまりに神々しいお姿なので、神ではないかと言っているのです」
確かにギリシャの神々は悪戯で、最高神ゼウスも人間に身をやつして降臨されるという。
それを考えてか、いつもは落ち着いている家令や召使頭まで浮き足立っている。
先ほど野原で出会った、青年ではないかと心を躍らせて、
カーテンの隙間から覗いて見ると…
全く異なる人物だった。だが、確かに堂々たる美丈夫だ。
出て行きそびれて様子を伺っていると、父王が側の召使に何事か、
耳打ちした。
彼はカーテンの影にいるヒュアキントスに気が付いて、ホッとしたような顔をした。
「お帰りでしたか、ヒュアキントス様。陛下がお呼びです、お入りください」
「あ、今戻ったところなのだけど、お客様って、どちらの方か分かる?」
召使にもよく分からないが、異国訛りの無いきれいなギリシャ語を話すという。
入室した、彼を王は喜んで客に紹介する。
「2番目の息子のヒュアキントスです。一番末の子ですので、どうも我儘に育ってしまいました」
側で見た青年は、召使たちが騒いでいたように、身体から滲み出る雰囲気が常人とは思えなかった。肌理の細かい滑らかな膚は浅黒く、目鼻立ちの整った顔は神殿に飾られている青年神のようだ。くっきり伸した二重目蓋に、やや、吊り目気味の黒い瞳が煌めく。
青年は、ヒュアキントスの顔を見て、数瞬絶句したが、戸惑ったようにことばを続けた。
「これは見目麗しい…。国王陛下の自慢のご子息の顔が見られて、私としても光栄なことだ」
「ようこそ、ぺラへ。初めまして、ヒュアキントスと申します」
「私の名は、ファウニウス。アテナイより来ました」
「こちらには、ご旅行できたのですか?」
ヒュアキントスの問いに、青年は輝くような微笑を浮かべた。
「ペラ王国には美しい少年がいると風の噂で聞いてね。確認しに来たのだよ」
あからさまな賛美にヒュアキントスは頬を赤らめた。
「さあ、そんなところにいないで、酌をしたらどうだ。ヒュアキントス」
「兄上…」
長兄はヒュアキントスを揶揄った。
父王は磊落に笑って、召使たちに彼の席を整えさせた。
「酌なら、妹たちにさせればよいではありませんか」
恥かしそうに答えるヒュアキントスに2人の妹たちは笑って逃げてしまった。
「ファウニウス様は、美しい少年がお好きなのだとお聞きしましたから、ヒュアキントスお兄さまがお相手なさればよろしいのよ」
「そうですわ。わたくしたちはそろそろ離席させていただきます。夜更かしは美容の敵ですもの。お休みなさいませ、ファウニウス様」
家族にそこまで言われては、彼の側に座らざるを得なくなった。
トランティア産ワイン入りの壷を取り上げて、ファウニウスの杯を満たした。
 ファウニウスのする話は、巧みで面白く、ヒュアキントスは思わず引きこまれてしまった。
そして、ファウニウス自身は自分の姿にボーっと見惚れない少年を新鮮に思った。
というのは、ヒュアキントスは今日の昼間、野原であった旅人の方に心が惹かれていたのだ。
謎めいた彼の方がずっと心にかかっていたのだ。
夜も更けて、ファウニウスを客室に案内することになった、ヒュアキントスは思いの外、自分が酔っている事に気が付いた。
それに比べ、ファウニウスはほとんど酔っていないようにも見える。
「少し、酒が過ぎたようだな、ヒュアキントス? 私が君を寝室まで送った方がよさそうだな」
「……お客様にそんなことはさせられません…。さあ、どうぞこちらに…」
客用寝室に案内し、部屋付きの召使に彼を任せて帰ろうと思った、ヒュアキントスはファウニウスに呼び止められた。もう少し話して行かないかという誘いだった。
「君は不思議な少年だな。私は初めて逢った時から君に夢中になったのに、君には全くその気は無いようだな」
「え……っ、あ……ファウニウス様のようにアテナイから来られた方が、こんな地方の王国など珍しくないと思っていましたから……」
酔いで口の動きがたどたどしくなった、ヒュアキントスの手首を掴んで引き寄せられてあっという間に抱きしめられてしまった。
「ファ、ファウニウス様、いったい何を……」
「ふふふ……、初々しいな、ヒュアキントス…」
頤を押さえられて、口唇を奪われた彼はかっと頭に血が上った。
吐息も奪われるような口付けに頭がクラクラした。
彼自身、口付けは未経験ではないが、ファウニウスの巧みな口付けには翻弄されてしまった。
「このまま君を手に入れることは容易いが、私は君の心まで欲しい。だから、今夜はここまでだ」彼は、そう囁いて、ヒュアキントスを押しやった。
濡れたヒュアキントスの口唇は艶かしく、そそられたが、ファウニウスは自嘲気味に微笑んだ。
「お休み、ヒュアキントス」

 翌日、出かけようとしていたヒュアキントスの元へ、父王からの呼び出しがあった。
兄も外出してしまったから、ファウニウスを町へ案内して欲しいというのだ。
昨夜の事を薄らと覚えている彼は非常に気まずい。
いったい、どういう顔をして逢えばいいのだろう、と。
ぎこちない様子の彼に、ファウニウスは微苦笑を浮べた。
自分を意識しているのが、見え見えだ。
意識するというのは、無関心ではないということ。
恋愛は意識する事から始まる。
「国王陛下が私に気を使ってくれたらしいが、君には予定があったのではないか?」
「え、ええ、まあ……。途中までのご案内でもよろしいでしょうか?」
ヒュアキントスのそわそわとした様子に、誰かと逢うのだろうかと
ファウニウスは思う。心を炙る嫉妬の熾き火。
「君の代わりが早々、勤まるとも思えないが、召使で我慢しよう。
だが、今夜は部屋に来てくれるね?」
地中海を思わせる不思議な眼に熱っぽく見詰められて、
ヒュアキントスは微かに身を震わせた。
 2人は召使の少年を1人伴って、城を出た。
そして、昨日の青年は昨日の場所で、やはり竪琴を爪弾いていた。
野の鳥や獣たちに囲まれて。
「ヒュアキントス、彼が君の相手か…」
囁くような声にギクリとするヒュアキントス。
その微かな動きを感じ取ったように、青年が顔を上げた。
太陽に煌めく黄金の髪とサファイアのような瞳が、ヒュアキントスからファウニウスに静かに流れて、一際輝きと鋭さを増したように感じられた。
「ごきげんよう、ヒュアキントス。そちらのご人はどなたかな?」
「こんにちは。こちらの方は、僕の父のお客様で、ファウニウス様です」
「なるほど、ファウニウス殿というお名前か。私の名はリキュオス。
デルフォイからの旅人だ」
静かな応えに反って、ファウニウスの方が苛立っている雰囲気も伝わってきて、ヒュアキントスは妙に落ち着かない。
「まさか、お二人とも、お知り合いですか?」
「まさか!」 異口同音に二人は叫んだ。
「どうして、そのように思われるのか、ヒュアキントス?」
「お互いの名前さえ、存じ上げていないのに、
どうしてそのように思われたのか」
ヒュアキントスには、心底憤慨している様子が伝わってたのが、
また、奇妙な事に思われた。



10000hits 記念の短編の第1章を UP します。
どうも、結末が悲劇と分かっているものの文章は筆が鈍ります。
修行不足な人間で申し訳ないです。

【登場人物の補足説明】
ファウニウス……西風の神ゼフィロスの別名
リキュオス ……太陽の神アポロンの別名   となっております^^

神々が自分の名前を堂々と名乗って、人に近付くとは思えませんので。


第2章は2008年5月下旬に UP 予定できればいいなぁ(´・ω・`)


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: