酒と映画と歌と、酒と映画と歌と、酒と映画と歌と、酒と映画と歌と、

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紹介:水谷八重子(初代)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用

水谷八重子(みずたにやえこ、本名・松野八重子、1905年8月1日-1979年10月1日)は、大正・昭和期の女優。

東京牛込区神楽坂(現・新宿区神楽坂)に、時計店の娘として生れる。幼少時に父が死去し、母と共に義兄の水谷竹紫の元に身を寄せる。やがて、島村抱月に招かれて、芸術座の創立に竹紫がかかわった関係で、舞台に端役で出演する。それを小山内薫に認められ、1916年、帝劇公演『アンナ・カレーニナ』に松井須磨子扮する「アンナ」の息子役で出演する。1918年、雙葉高等女学校(現・雙葉高等学校)に入学する。1920年、畑中蔘坡が主宰していた新協劇団の公演『青い鳥』で好演し、本格的に女優の道を歩むこととなる。この舞台で共演した友田恭助と親しくなり、2人で「わかもの座」という劇団を作り、野外劇などを上演する。その頃、畑中が監督として招かれていた国際活映から誘われ、1921年、畑中が監督した『寒椿』で井上正夫と共演し、映画デビューする。ただし、高等女学校からの圧力により、名前を出すことが出来ず、「覆面令嬢」として匿名での出演だった。

女学校卒業後、「研究座」に入り、新劇、大衆劇双方から引っ張りだこになる。関東大震災後、水谷竹紫が第2次芸術座を1924年に創立すると、その中心メンバーとして活躍し、1935年の竹紫の死去を乗り越え、1945年の解散まで、屋台骨を支えた。その間、井上正夫と一座を組み、本郷座で公演するなど、新派劇の隆盛に尽力する傍ら、松竹などの映画にも出演した。私生活でも、1937年、十四代目守田勘弥と結婚し、1939年に娘・好重(現・二代目水谷八重子)を授かる。

自宅を焼かれ、熱海で終戦を迎え、女優引退を考えていたが、松竹社長大谷竹次郎に促され、1946年、東京劇場に出演し舞台復帰した。以後、夫と共演し(しかし14代勘弥とはのちに正式離婚、好重は八重子が引き取った)、地方巡業に出たりしていたが、1949年、花柳章太郎らの「劇団新派」の結成に参加する。

以後、劇団の看板を花柳と共に支え、次々と、名女形が没していったのちは、彼らの残した新派演目の女主人公の芸をも継承した。また、新劇の演出家、菅原卓の指導の下、滝沢修、森雅之らと共演するなど、新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。
1962年、舞台『黒蜥蜴』直後の癌発病と1965年の花柳死去を機に新派の舞台に専念し、娘の水谷良重(当時)や菅原謙次など若手の相手役を勤め、その育成に心血を注いだ。
その後再発・他部位への転移など度重なる癌の逆境にめげず自身の舞台活動・新派の後続世代の指導に精進、1974年、舞台生活60年を記念して『大尉の娘』の露子、『皇女和の宮』などあたり役の中から10種を選び、「八重子十種」として記念公演を持った。
1979年、公演中に倒れ、10月1日、乳がんのため死去。

[編集] 受賞歴
NHK放送文化賞(1953年)
日本芸術院賞(1956年)
菊池寛賞(1957年)
紫綬褒章(1958年)
大阪府民芸術賞(1963年)
芸術院会員(1967年)
文化功労者(1971年)
朝日賞(1973年)


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