朝日新聞朝刊 2014年5月14日の記事です。
無菌室にいる間、仲間が応援してくれた=絵本「やさしさの木の下で」から
幼いころ、右腕に横紋筋肉腫(おうもんきんにくしゅ)が見つかった男性(32)は、地元山梨県の病院から東京・築地の国立がん研究センターに移った。1990年1月、小学1年生だった。
山梨の病院では腕の切断もありうると言われた。だが、がんセンターでは、切断せずに済む治療法がとられた。当時の主治医が力を入れていた「自家骨髄移植」。抗がん剤治療の前に自分の骨髄を取った後に体内に戻す治療法だ。
がんの進行はおさまり、同年7月にいったん退院。だが、9月に再発してがんセンターに戻った。小学6年の冬までの6年間、入退院を繰り返した。
抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け、吐き気や痛みに苦しんだ。入院中、同じ漫画を繰り返し読み、プラモデルを数え切れないほど作った。テレビゲームのやり過ぎで指にまめができた。天井のしみを数えて過ごすこともあった。「ゴールは、いつ来るんだろう」
寄り添う仲間もできた。無菌室から出られずにふさぎ込んでいると、同じ病棟の友達が「ガンバレ」と書いた紙を窓越しに掲げていた。無菌室のドアの隙間からテレビゲームのコードを通し、つないで一緒に遊んだ。
「大変ですが、一緒に頑張りましょう。入院の間の家族の住まいは大丈夫ですか」。最初に入院した時、主治医の大平睦郎(おおひらむつろう)さん(故人)は母親(58)に声をかけた。
90年代初め、がんセンターの小児科病棟の平均入院日数は約120日。その間、付き添う家族はホテルや知人、親戚の家を泊まり歩くのが当たり前だった。
男性の母親は都内にマンションを借り、がんセンターへ毎日通った。次第に同じ病棟に入院する子の母親たちと親しくなった。子どもを失うかもしれない恐怖。滞在先の確保や二重生活による出費。家族間のすれ違い。次第に思いを打ち明け合うようになった。
男性の母親らは90年10月、小児科病棟の「母の会」を立ち上げた。長期入院で学校に行けない子どもたちのために、教諭に病院で授業をしてほしいと陳情。半年後、病棟に初めて訪問学級ができた。男性もここで九九を習った。
「今度は入院中に家族が滞在できる宿泊施設がほしい」。母親たちからそんな声が上がり始めた。
患者どうしの横のつながりは大切だと思います。情報を共有・交換する、支え合うという観点からも、集団として病院などと交渉するという観点からも。
粒子線治療ができるのは日本で数施設しかないので、患者さんのなかには、遠方から来られている方もいらっしゃいました。
多分平均入院日数は、50日程度なので、ここに書かれているよりは短いですが、安価に滞在できる施設があればいいですね。
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