朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。
≪2016年1月19日の記事≫
兵庫県洲本市で暮らしていたSAちゃん(当時4)に異変が現れたのは、2011年の暮れだった。トイレに行ってもときどきおしっこが出ない。走ると転ぶようになった。母親のSTさん(40)は「冬だからトイレが近いのかな」と思った。転んだ時も「ちゃんと、足上げて走りよー」と声をかける程度だった。
翌12年2月4日。SAちゃんが「おしっこが出ーへん」と言って泣いた。近くの泌尿器科を受診したが、膀胱(ぼうこう)に異常はなかった。医師に言われて、片足で立つとふらついた。「すぐに、小児科に行ってください」。かかりつけの小児科医も異常を認め、紹介状を書いた。父・SHさん(43)が運転する車で、60キロほど離れた兵庫県立こども病院(神戸市)に急行した。
CT検査など一通りの検査の後、両親は診察室に呼ばれた。医師に「脳幹神経膠腫(のうかんしんけいこうしゅ)の可能性が高いです」と伝えられた。命に関わる脳腫瘍(しゅよう)だ。SHさんは頭が真っ白になった。STさんは「なんかの冗談ではないか」。涙が止まらなかった。トイレに入って目の周りを冷やした。その後、別の場所で待っていたSAちゃんを抱っこした。顔を見られないようにしながら。
6日後、MRI検査の結果が出て、主治医の河村淳史(かわむらあつふみ)・脳神経外科部長から詳細な診断名を告げられた。「びまん性橋(きょう)神経膠腫」。脳幹の「橋」という部分に腫瘍ができ、運動神経や排尿に障害を起こす。1年生存率は50%未満。放射線治療ができるが、完治は望めないという。両親は「治療の可能性があることは何でもお願いします」と伝えた。
この日は、夫婦の11回目の結婚記念日だった。前年の記念日は家族で淡路島内のホテルで過ごして祝った。「娘さんの人生のためにできることをしてあげてください」という主治医の言葉がSHさんの胸に刺さった。
放射線治療が始まる前、SAちゃんは寝付けないでいた。STさんは自分の動揺がSAちゃんに伝わっていると感じた。だから決めた。「これからは笑っていよう」
私は59歳で2回目のがんを発病し、放置すれば余命数週間から数ヵ月と言われました。それはショックでした。抗がん剤も効く見込みは20~30%と言われましたので、短命を覚悟しました。まだまだたくさんやらねばならないこと、やりたいことがあるのにと非常に無念でしたが、それまでの59年間、失敗も多かったけど、一生懸命生きて、世の中にもそれなりに貢献してきたという気持ちがあったので、たとえ余命少なくても満足感ある死に方ができるかなと思いました。
今回のシリーズのように子供さんの「がん」の場合、これからの人生が何倍も長いわけで、その精神的ダメージは想像もつきません。
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