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ご婦人の心を、時に人生をも狂わせる炭素のかたまり。価値があるとされているがゆえに模造品も多い。
2006.01.31
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たとえば「The books you read make yourself」という言葉がふと思い浮かんだとして、これをどう訳せばいいだろう? 「読む本がその人の人格を形成する」? 堅すぎる。「あなたが読む本があなたをかたちづくる」? 直訳くさいし説教くさい。「本棚を見ればその人がわかる」? しかしその人は図書館愛用者かもしれない。「本は人なり」? 別の意味にも解釈できる。悩みに悩んだ末「読む本で人柄がわかる」あたりで妥協してしまうのである。これが翻訳なら文脈に左右されるのだけれど。
2006.01.31
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少年「人間の行為なんて、結局は自己満足に過ぎない!」父親「お前の言うことは正しい! だが、自分の欲求を満たすために人を殺めるのと、自らの命を犠牲にして他人の命を救うのとでは、天と地ほどの差があることを忘れてはならないよ!たとえ、同じ<自己満足>であってもね」――「I was born」(吉野弘)の読者に捧ぐ――
2006.01.30
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日本でヒゲをたくわえるのは「センセイ」か「ホームレス」である。したがって男たちが毎朝ヒゲを剃るのは必ずしも身だしなみのためばかりではない。出勤する前に、一般のサラリーマンには無用の長物の「我」を綺麗に刈り込んでおくためでもある。
2006.01.30
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ミステリーは壮年になってから読んだ方が味わい深い。ファンタジイは孫に読み聞かせることができるだろう。だがSFだけは――若い頃から親しんでおかないと、とてもついていけなくなる。
2006.01.29
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クジラの在庫がここ10年で倍増したのだそうです。商業捕鯨は拡大したのに、消費量が伸び悩んでいるのだとか。日本人の食卓からクジラが消えて30年。「クジラを食べるなんてかわいそう」「牛肉食べてれば良いじゃん」という主婦層、若者が増えてきたのだとか。嗚呼。「クジラって絶滅しかけてるんでしょ?」なんて誤解も。全てのクジラが絶滅しかけているわけじゃないし、人間が間引きしなければ人間の食べるはずの魚まで食べてしまうクジラもいるのです。もちろん人間自身の乱獲の責任をクジラになすりつけちゃいけませんけれどね。それでも。どうしてもこの身のうちから噴きだしてくる疑問があるのです。ブラックに展開してみましょうか。Q:国際捕鯨委員会でもっとも日本に圧力をかけている国はどこか?A:アメリカ。Q:日本人がクジラを食べるようになると困る国はどこか?A:アメリカ。Q:それはなぜか?A:BSEまみれの肉を売りさばくルートがなくなるから。半分はジョークですが、半分は本気の嵯峨山でした。水産庁のみなさん。在庫がだぶついているのなら、何とかクジラを安くしてください。日本人の食生活の伝統を守るために。今ならまだ間に合います。お願いです。
2006.01.29
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詩は箴言に似ている。――かたれどもとかず。
2006.01.28
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したくないことをさせられるのは子どものうちだけである。大人になったら、人は自分がしたいことしかすることができない。
2006.01.28
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「時間だけは一日24時間誰にも平等に与えられている」と言った人がいた。なんて優しい嘘だろう!――皮肉ではなく。
2006.01.27
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歴史は、ある集団を束ねていくために必要不可欠なフィクションである。
2006.01.26
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民族の伝統にはさまざまな引き出しがある。たとえば貴族と武士と庶民の伝統はそれぞれ異なる。而して伝統を擁護する者も批判する者も、自陣営に都合のよいものをその中から恣意的に抽出する傾向がある。
2006.01.26
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自由の女神は必ずしも解放者の顔をしているとばかりは限らない。彼女はまた文化と歴史と伝統の破壊者の象徴でもある。
2006.01.25
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ホリエモン失脚…N「私、堀江さん改革者として期待してたのに。結局、彼どんな悪いことしたの?」「赤字なのを黒字だといったり、株価操作して値をつりあげたりしたからだよ」「だって、そんなのって、よそだってやってることでしょう? 完全にクリーンな会社ってあるかしら。罠にはめられたんじゃない?」「敵を作りすぎたのは確かだと思うけど」彼女、昔は孫正義のシンパだったんです。いわく、「今でも好きだけれどもう孫さんの時代は終わった」そうな。そんなことはないと思うのですけれどね。ネットでは皮肉屋の自分ですが、「メディアへの露出度」「元気度」「フレッシュさ」というモノサシに完全に洗脳されてるね、とは言えませんでした。というよりそのときはそこまで思いつきませんでした。今、その場面を思い出しながら浮かんできた感想です。耐震偽造問題といい、牛肉問題といい、ライブドア問題といい、小泉政権末期になって、「規制緩和」と「小さな政府」に潜む問題点…日本の「アメリカン・スタンダード化」に伴う矛盾点が、一挙に噴き出してきました。ホリエモンは確かに罠にはめられたのでしょう。だって、彼はあまりに日本人が考える「アメリカ人」すぎましたから。ナベツネに一矢報いたのは評価してるんですけれどね。逆にあれが命取りになったとは。車はアクセルとブレーキで前に進むものですが、今回の一連の事件が、日本にとってよきブレーキとなりますように。
2006.01.25
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ボードレールは人生の一行にも若かない。(*)「人生はボードレールの一行にも若かない」(芥川竜之介『或阿呆の一生』)
2006.01.24
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韓国は「黄ショック」で揺れています。それは別にいいのですが。釜山日報の記者さんが、黄教授を持ち上げ官民こぞってスター扱いした韓国ナショナリズムの病理と、靖国参拝を続ける小泉総理大臣を支持する日本のナショナリズムとを重ね合わせて提示しているのが気になりました。韓国からはそういう風に見えるというのはわかりますが、そういう風に見えるということと、そうであることは違うのだけどなあ、という感想を持ってしまいました。靖国参拝は国民がこぞって支持したわけではありません。国論は二分されました。このことからして靖国とES細胞は違います。はっきり言って、日本の考古学スキャンダルと同じような事件で、それをもっと国際的な規模にしたものであるに過ぎません。まあ、郵政選挙のときは似たようなお祭り騒ぎになりましたが、あれはナショナリズムの発露じゃないんですよね。よくも悪しくも、神輿に乗せられただけです。むしろ、「名声」が地に落ち、国民みんなが多かれ少なかれショックを受け、国際的なスキャンダルになったという点では、昨今の「ライブドア・ショック」の方が「黄ショック」に似ているのではないでしょうか。それでも、ホリエモンの場合、みんながみんな「裏切られた」と思っているわけではないし、ネバーランド疑惑で渦中の人になったマイケルのように「それでも熱狂的に信じる」人たちが大勢いるわけでもないようです。もっとも彼の場合は証拠不十分で最終的に無罪(ノット ギルティ)になりましたが。先進国の仲間入りを果たしつつある若い新興国家と、少子高齢化ですっかり新陳代謝が遅くなった壮年国家の差でしょうか?
2006.01.23
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蓄財そのものは決して悪徳ではない。罪悪があるとすれば、蓄財する過程の中の話である。
2006.01.22
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障害は個性ではない。老病と同じ、属性である。その属性とどのようにお付き合いしていくか、そこに自らの個性を発揮する余地がある。障害者は天使ではない。悪魔でもない。ただの人間である。
2006.01.21
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ぼくらなかよしよにんぐみよつごのようになかよくてよるひるかまわずかけまわるあるひどこかのまちかどでみつけたカンバン「交番」のもじあるふぁべっとで「KOBAN」とかいてあったのでGはじじじとこれをながめて「Oのもじのうえにかさをかけてあげよう」とぼくらみんなによびかけたAはえええとくびをかしげて「いやいや、むしろOとBのあいだにHをいれよう」といやらしそうにふくみわらいSはそしらぬふりをして「ここほれワンワンこばんがでるぞ」とどこからかつるはしかついできたわいわいがやがやさわぐうち「交番」「KOBAN」のとびらがあいてとまとになったおとこのひとが「おまえら、ここでなにやってんだ!」ぼくはあわててみんなをのこしふうふうふうふうふうふうふう。ここにかけこんできたわけなんです、もりのしろくまおまわりさん。
2006.01.20
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白樺派の中では、有島さんは繰り返し読みたい作家のひとりだ。自然主義派がどんなに彼を攻撃しようとも、自分は武郎の荒削りだけれども詩的な、魂のこもった文体を賛美する。武者小路さんのシンパには申し訳ないが、実篤の小説はどれも一度読めばたくさんだ。そういう意味では、赤川次郎に似ていると思う。これは、趣味の問題である。「小さき者へ」は、妻を失った作者が、残された愛児に向かってその胸のうちを切々と語りかける、涙なくしては読めない佳品である。読みながら気がついてみれば『夕鶴』を連想せずにはいられなかった。このような古いタイプの日本女性はもうこの国にはいないだろう。けれどもこの短い小品が、時代を越え国境を越えて人々の琴線に触れる哀しさとうつくしさに満ちていることは、誰しも認めるに違いない。「生まれいずる悩み」これもモデル小説である。小説中つねに二人称で語られる、北海道で漁師にならざるを得なかった青年。その彼の、生活上の必要と絵に対する情熱との相克が、作者を思わせる第三者「私」の眼を通してよく描かれている。文学嗜好のKとの交友も心に残る。哀しいかな、たとえ死後の話であっても、だれもが田舎に居て宮沢賢治になれるわけではないのだ。
2006.01.20
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古典や名作を通して人生の真実にふれるなら、まだ十代の感じやすい時期がよい。酒の味を覚えてから接する文学は、ただの慰安乃至趣味に過ぎぬからである。
2006.01.20
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どんな立派な他人の箴言も、自ら取捨選択したものでなければ用をなさない。ここに書き綴っているのは箴言ではない。そのときどきで表層に浮かんでくるこの不具の意識の断片を、おっかな手探りですくい上げている、ただそれだけのことである。
2006.01.19
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自分の意見に対する反論を、自分自身に対する攻撃と受け止めてしまうような人とは、決して議論してはならない。
2006.01.19
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お互いのデータベースが異なるにも関わらず、共通言語を話すがゆえに同じだと錯覚してしまうのが、人間関係の喜悲劇の源である。
2006.01.19
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福島正実氏の『未踏の時代』に、作家北杜夫氏を口説き落として何とかSFのショート・ショートを書いてもらう約束を取り付けるくだりがあります。で、当初は「雪は生きている」かと思ったのですが、初出が違いました。産経新聞だったのでした。そのほか、「こども」(SSというには長すぎますが)「奇病連盟」(同)と色々それらしいのはありましたが、発表誌が『新潮』だったり『オール読物』だったりするんですね。で。・SFである。・ショートショートである。・福島正実が編集長をしている『SFマガジン』が初出であるの条件を満たしているのは、全集中、たった2篇しかありませんでした。というか、最後の条件だけでもうすでに2篇しかないんですけれど(苦笑)。「童女」は赤ズキンちゃんのパロディ。「うつろの中」は竹取物語のパロディ。どちらも、地球を侵略/調査する宇宙人のお話です。発表はどちらも昭和38年。どちらがどうとはいえないのですが、とりあえず、より短いほうをとって暫定的に「うつろの中」として、調査を終えたいと思います。
2006.01.18
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自己否定即自己肯定即自己陶酔即自己否定即…これは、この不具が過剰な自意識に悩まされていた頃の自画像である。「若い頃はよかった」というのは、畢竟青春を失った人の幻想的追憶に過ぎない。
2006.01.18
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火星にも生命は存在した。しかし所与の条件が地球より劣悪で、知的生命が発生する程長期間は良好な環境が保てなかった、と考えられる。生命が宇宙のどこでも条件さえ与えられれば自然発生するものならば、その進化の速度も一定であると仮定することができる。地球人類は宇宙の海に船出するには程遠く、いまだ波打ち際で戯れているに過ぎない。もしもUFOが真に宇宙人の乗り物であるならば、彼らは我々よりもずっと古い種族であろう。そのように進化した超科学をもつ宇宙種族が、仮にこの惑星上に「不時着」したとしても、アメリカ軍部などにやすやすと摂取され、貴重な情報を明渡したりするであろうか? 到底まともには受け入れがたい妄想である。第一そのように進んだ知識がアメリカにあるならば、極東の有色人種の国などとさまざまな分野で技術提携などする必要はない。もっともこのようなファンタジイにも、軍事大国アメリカの威信に華を添えるための幾許かの風説的神話としての効用があることは認めざるを得ない。…
2006.01.17
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念願の子供が生まれた中年夫婦。しかし妻はまもなくガンで死んでしまう。後に残されたイラストレーターの夫は、独身の妹とふたりで、残された子供を育てるのですが…実はこのお父さん、無精子症だったんですね。で、こどもは人工授精児。で、なんとか愛情を注ごうと努力するのだけれど、なかなか思うようにいきません。またそれを頭のいい(親に似ない)こどもが敏感に感じ取り…ラストで父親は男の子に重大な告白をするのですが、信じてもらえませんでした、というお話。最初はSFかと思いましたが、読後感は純文学でした。初出は「新潮」で、全集にも純文学で分類されています。もっともこれが「人工授精」が実用化されていない戦前に書かれた小説なら、立派にSFとして成立するのですけれども、ね。
2006.01.16
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かつて世界中の諸民族がそれぞれの神々を所有していた。しかしながら三大宗教の浸透力はすさまじく、世界のほとんどの地域で現地の神々は抹殺されていった。今ではわずかに神話の中にその痕跡を窺い知るのみである。インドを除く文明化された諸民族のうち、ほとんど日本の神道だけが「生きている化石」として今も現地の神々とともに、在る。天皇はその象徴である。すなわち日本は神(々)の国であるのだ。近代史において神道を歪めてしまったのは必ずしも日本ばかりの責任ではない。あれは、欧米列強の帝国主義・植民地政策に対抗し国をひとつに纏め上げるために必要な措置でもあった。布教の名のもとに数々の諸民族を虐殺・虐待・差別したキリスト教に、なぜ神道ばかりが責められなければならないのか? 勝てば官軍という思想ほど、卑しいものはない。もちろんこれは、仮にあの戦争に日本が勝っていた場合にも言えることではあるのだが。…
2006.01.15
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都市は生きている遺跡である。自分は高層ビルをテレヴィジョンで眺めるたびに、巨大な蟻塚を――あるいは巨大なスズメバチの巣を思い浮かべずにはいられない。いったい人々が都市に棲息しているのだろうか、それとも都市が自分たちの繁栄と発展のために人々を飼育しているのだろうか?文明史はまた諸民族の栄枯盛衰の歴史でもあった。しかしながらその間人類は寸毫も進歩していない。ただ都市だけが科学の発展とともに進化している。いつの日か人間は都市にとって無用の長物となり、ロボットがそれにとって代わる日が…来ないともいえないかもしれない。
2006.01.15
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人のこころには二種類ある。お金で買えるものと、そうでないものと。
2006.01.15
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最近変なトラックバックやコメントが多いので、トップページの表示項目から外すことにしました┐(´∀`)┌ヤレヤレそのうちいちいち削除するのが面倒になれば、コメントもトラックバックも一定期間あるいは永久にできないようにするかもしれません(・∀・)ケーコク!!。しかし世の中、暇人が多いですね(´∇`)ファァーイ
2006.01.14
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一夫一婦制は必ずしも男性の性欲のみを調節するものではない。一妻多夫をはじめ、多様な結婚の在り方を社会的に認めないための便宜でもある。多数のパートナーを同時に愛していて、なおかつ「そんな自分を愛してくれるたった一人のパートナーが欲しい」と願うのは男性よりも女性である。一夫一婦制に縛られているのはむしろ女性の方かもしれない。
2006.01.14
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日米関係は夫婦の間柄に似ている。対等のようで対等でない。アメリカはヤンキーな暴力夫である。日本はそれでも夫の包容力と甲斐性を信じ、中国に寝取られることを内心怖れながらつくす専業主婦である。ただし中国が性転換手術をしたあかつきには、日本はアメリカを捨てるかもしれない。
2006.01.14
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能力制は生老病死に似ている。もてはやす者はその生の面ばかり強調し、老病死の刃がやがて自分に向かって復讐するなどとは寸毫も考えていない。すでに片足を棺桶に突っ込んでいるような人でさえ。…
2006.01.13
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こういう記事を読むと、ニートやフリーターに多少同情したくなります。一「身障」勤労者としては「甘ったれるんじゃねえ!」「プライドを捨てろ!」といいたくなるのですが、しかし、まったく理解できないわけではありません。「ニート」の産みの国イギリスでは、金融ビッグバンの後所得格差が鮮明になって、働かない、教育を受けてない、職業訓練もしない若者が増えたといいますが、日本もほぼ同じ道を突っ走りつつあります。その一方で。生活保護の国庫負担率問題が決着したと思ったら、<生活保護費>基準額下げを検討ですからね。社会のセーフティネットはこれからどうなっていくのでしょう。景気回復の掛け声など、どこ吹く風。小林先生の予言が実現しそうな日本です。そうは言っても。自分は別に彼らの母親じゃありませんから、ね…。
2006.01.12
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詭弁の中にある苦い真実を直視することなしに、現実的な諸問題を解決することはできない。
2006.01.12
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信ずるべきは誰それの言ではない。誰それの言に感応する自らのセンスであるべきである。疑うべきは誰それの言ではない。誰それの言に感応する自らのセンスであるべきである。
2006.01.12
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法律や学術論文はさて措き、公に発表される文章は人の目を楽しませるためにある。すくなくとも「表現する」とはそういうことである、と信じている。
2006.01.11
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人々が秩序とともにある限り、その名で呼ばれるかどうかは別として、総体としての芸術が滅びることはあるまい。ただ殆どの作品は時代精神による風化乃至劣化を免れ得ないだろう。あまりに洗練されすぎた作品にすら、同時代の人間は芸術の冠を被らせるものであるから。
2006.01.11
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自分は彼の近年の作品を、現代日本人のエトスに対する民族的良心の発露乃至防波堤と捉えている。自分は氏の意見に敢えて反対の立場を表明するときでさえ、彼の「正しさ」を認めないわけにはいかなかった。スペシャル本を含む『新・ゴーマニズム宣言』シリーズは、また現代日本人にとってリトマス試験紙でもある。氏の思想的作品を読んでその価値を全く認めない人のセンスを自分は信じることができない。勿論センスと人格は別の話であるが。
2006.01.10
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私は度々こう言われている。――「徒然草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸にも「徒然草」などは、未だかつて愛読したことはない。正直な所を白状すれば「徒然草」の名高いのも私には殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。以上、文藝春秋に連載された芥川竜之介の『侏儒の言葉』からの引用である。しかし氏はこの連載中別の項(「政治的天才 又」)で、徒然草の逸話を引用している。するとこの文章自体、中世の世捨人の無常観と同一視されることを嫌った厭世主義者の矜持の表れとみなすことができよう。その矜持の表明にもかかわらず、彼の作品は『侏儒の言葉』も含めていずれも「中学程度の教科書に便利」な程「わかりやすい」ものである。厭世思想や懐疑主義・冷笑主義は、一見思春期の反抗精神に通じるものがあるからかも知れない。芥川は又彼の身辺小説で同時代の作家O・ヘンリイに対しても間接的に軽侮の念を表明している。しかし氏の初期小説における機智は、アメリカの短編作家のヒュウモアとペエソスに通じるものがある。われわれはつい文学史を縦軸で捉えてしまいがちであるが、横軸の文学史を考慮してみるのも、一興ではあるまいか?
2006.01.10
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『文芸的な、あまりに文芸的な』を読むと、最晩年の彼が「筋のない小説」に惹かれていたことがよくわかる。彼は無論「筋のある小説」の価値を否定していたのではなく、彼独特の懐疑主義、厭世主義、冷笑主義から「雑駁」なストーリーによって薄められた小説中の「詩的精神」に不満を覚えていたのだろう。純粋結晶として抽出された作品を前に、皮肉な微笑をたたえながら「これぞ文芸だ、芸術だ」と言える「確信」が欲しかったのに違いない。…谷崎潤一郎に彼が惹かれるのはよくわかる。志賀直哉に惹かれるのもよくわかる。しかし武者小路実篤の「楽天主義」まで賛美しているのには恐れ入った。これでは谷崎から「(君と僕の論争の焦点は)体質の問題に過ぎない」と言われても仕方ないだろう。いったい、芥川の唱える「筋のない小説」とはどのようなものだろう。志賀直哉の『城の崎にて』のような短編か、アナトオル・フランスのような掌品か。あるいはアンデルセンの『絵のない絵本』のようなものだろうか?彼なりのコギト・エルゴ・スムの結果、芥川が到達した文芸上の極北、それが『河童』『或阿呆の一生』『西方の人』『侏儒の言葉』『歯車』などの緒作だった。小説家はジャアナリストとよく似ている。暴露するのが真実か事実かの違いだけである。イエスもまた既成のユダヤ教の矛盾を敏感に感じ取り民衆に向かって人生の真実を突きつけた「詩人兼ジャアナリスト」であった。芥川は自ら任じる「詩的精神」の矜持により、決してこのように解説しないし断言しない。にもかかわらずイエスを「詩人兼ジャアナリスト」と呼んで憚らない彼自身の最晩年の相貌は、まさしく「河童」そのものである。…それでも自分は芥川の最晩年の作品を、初期の機知に富んだ作品群とともに偏愛してやまない。少なくとも黒澤明、ルノワール、ハインラインの最晩年の諸作を思い浮かべるとき、彼らのように長生きしなくて幸いだったとつくづく思う。亡くなったとき、彼はまだわずかに36歳、この不具よりも若かったではないか?
2006.01.09
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自然と人間との関係は、親と子の関係に似ている。後者は前者に逆らわなければ生きていけない。同時に、前者の恵みを得なければ生きていけない。しかも前者は必ずしも後者に恵みばかりを与えるわけではない。
2006.01.08
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用意するもの・春の七草セット・レトルト白粥パック・花かつお・昆布茶・しょうゆ・梅干準備・春の七草をよく洗い、大根と蕪の根っこをわけます。・根っこはいちょう切りに、菜っ葉はざく切りにしておきます。・梅干は種を抜いてちぎっておきます。作り方・鍋でお湯を沸騰させ、花かつおと昆布茶を適量入れ、根っこを入れます。・レトルトパックの白粥の中身を鍋の中に入れます。・菜っ葉とちぎった梅干を入れ、煮立ったところで火を止めます。・お好みに応じてしょうゆで味付けをして出来上がり。お粥を作ったり、出汁をとったりするのが面倒な人向けのメニューでした。
2006.01.07
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人が人を理解するのは殆ど不可能事である。にもかかわらず誰かが誰かを「理解した」という言葉を使うとき、使う本人の意思がどうあれ、それは殆ど「評定した」という言葉と同義である。
2006.01.06
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この日の日記の末尾で取り上げた『アンドリューNDR114』の同名映画です。原作となったアシモフの中編『バイセンテニアル・マン』(200周年を生きた男)を読んだときは感動のあまり落涙しました。シルヴァーヴァーグが同小説を長編化した『アンドリューNDR114』もそうでした。では本映画はどうだったか?涙は出ませんでした。観終った直後は、なんとなく物足りない感じさえしました。けれども、映画には映画の文法があります。自分は決してその道の専門家ではありませんが、印象に残るシークエンスを思い浮かべながら、印象批評を試みてみたいと思います。マーチン家の召使ロボットとして購入されたアンドリューは、最初、長女の「ミス(MISS)」から、2階から飛ぶように命令され、従います。その結果、変調をきたしてしまうのですが、自分で修理しました。自分で。続く海辺のシーンでは、アンドリューは次女の「リトル・ミス」からガラス細工のペガサスを受け損ないます。ペガサスは、こなごなに砕けてしまいました。つまり、「落ちたら壊れる」(死ぬ、ではない)という共通項によって、アンドリュー=ペガサス=モノであることが暗示されているわけです。ところで、ペガサスを壊されたリトル・ミスの悲しみを察知したアンドリューは、彼女のために木彫のペガサスを創ります。それも何かをコピーしたのではなく、自分で本を読み、学習し、創作したのでした。リトル・ミスの提案によって、アンドリューは人間並みに銀行口座を持ち、創作家として、自分の「作品」の代金を受け取るようになります。リトル・ミスはまたアンドリューにピアノを教えます。幼い彼女とロボットとがピアノをデュエットしているシーンは、いつのまにか成長した女性とロボットとのデュエットシーンに変わっていきます。永遠なる一瞬です。リトル・ミスは適齢期を迎えていました。彼女は本当はアンドリューが好きなのでした。けれどもアンドリューはロボットです。リトル・ミスがアンドリューの工房に入ってきて愛するロボットに声をかけたとき、仕事中だったアンドリューは親指を切断してしまいます―去勢、あるいは一人前の男性でないことの暗示です。リトル・ミスはアンドリューに、結婚式のときにタキシードを着てくるように「命令」します。彼女はどこまでも彼を人間として扱いたかったのでした。式のとき、幸せそうに見える新郎新婦をみつめる淋しそうなロボットの双眸は大変印象的でした。披露宴の終わった後、アンドリューは家主の「パパさん」マーチンと同席し、父親が新婦と踊ったラスト・ダンスのシーンを再現してくれるよう頼まれます。メモリーバンクから記憶を取り出した立体映画に見入る一人と一体は、まるで二人の人間―愛するものを失った二人の人間のようです。涙ぐむパパさんにアンドリューは言います。「ずっとおそばにいます」。それは召使の主人への忠誠心だったのでしょうか、それとも愛する女性を「失った」男性への共感だったのでしょうか?さらに月日がたち。マーチンの膨大なる蔵書を読み尽くし、「自由」の概念に目覚めたアンドリューは、自分が「召使いロボット」ではなく人間と対等な存在として認めてもらいたいと思うようになります。このとき彼が着ていたセーターの色は赤、つまり革命の色でした。服を着る自由ロボットは、次第にもっと人間に近づきたいという欲求が高まってきます。自分と同じ「個性あるロボット」を探す旅に出、発見し、技術者に頼んで自分の外見を人間そっくりに変えてもらいました。人間そっくりの外見になってリトル・ミスの家に帰ってきたとき、アンドリューはリトル・ミスそっくりの孫(ポーシャ)を、リトル・ミス本人と勘違いします。喜びのあまり、人間は歳をとるということをすっかり忘れていたのでしょう。勘違いに気が付いたとき、アンドリューはポーシャに「嫌いだ」と宣言します。その実それは、自分自身に対する嫌悪の情の反映だったのですが。ポーシャと仲直りするとき、アンドリューは自分が飼っている犬を連れて行きます…ロボットと犬。実にぴったりな組み合わせです。どちらも人間の友であり、人間に忠実でありときには家族として遇されながら、けっして人間と対等な存在にはなれないのですから。アンドリューはどんどんポーシャに(あるいは電子頭脳に刷り込まれたリトル・ミスの幻影に?)惹かれていきます。リトル・ミスの死後、より人間に近づくために感覚機能を持つように改造させ、ついには食事やセックスも出来るようになりました。けれども、アンドリューとポーシャの結婚は認められません。。「なぜですか。あなた方は私が特許を持っている人工臓器のおかげで長生きしているのではありませんか。すなわち、あなた方は部分的にはロボットであり、にもかかわらず存在としては人間です。私もまた部分的にはロボットですが、心は人間なのです」法廷でこのように弁明するアンドリューに裁判官は宣告します。「人間は死なないロボットの存在には耐えられる。だが、死なない人間の存在には耐えられないのだよ」もっともではありますが、発言したのは白人でした。このシークエンスは映画を観るものに次のようなシーンを連想させずにはおかないでしょう…「なぜですか。あなた方は私達黒人の血液や臓器や角膜によって社会復帰を果たしたのではありませんか。すなわち、あなた方は部分的には黒人であり、にもかかわらず存在としては白人です。わたしもまた部分的には黒人ですが、心は白人と同じ、人間なのです」小説では、アンドリューはこの「宣告」の後、自分の体が「老化」するように改造しますが、映画では違いました。アンドリューはポーシャと正式に結婚しないまま、それでも「幸せな」蜜月を送ります。アンドリューが「死」を決意したのは、ポーシャが75歳にって「私は、人間よ。いたずらに死を遅らせるのは嫌。そのときが来たら自然に死にたいの」と言ったときでした。「僕は君なしでは生きていけない」。そうして彼は老化と死のプロセスを迎えるための最終手術に踏み切ったのでした。すっかり年老いて再び法廷に立つアンドリュー。「私は、そういうわけで、不死身ではなくなりました。どうか、私を人間として認めていただき、ポーシャと結婚を法的に正式に承認していただきますようお願いいたします」このときの法曹関係者はほとんど有色人種、それも黒人でした。裁判官は心を動かされますが、「時間をくれ」と言います。結局二人の結婚が正式に承認されたのは、アンドリューが二百歳になってポーシャとともに「死」を迎えようとしているその時でした。しかも彼はその承認を聞く直前にこときれてしまいます。そばにいたポーシャは全てが終わった後、付き添いの看護婦に自分の生命維持装置をはずしてくれるよう「命令」します。その看護婦は実はアンドリューと同じタイプの「ロボット」だったのでした…原作には勿論、ポーシャは出てきません。小説の中のアンドリューは、最初から最後まで自分のアイデンティティーの問題にかかずらわっているように見えます。したがって一見するとこのエピソードは映画監督の純粋な創作のような印象を受けるかもしれません。しかし、アシモフの原作でもシルヴァーヴァーグの改作でも、実はアンドリューは最後に「リトル・ミス…」と呟きながら死んでいくのです。つまり、本物のアンドリューも「彼女」を愛していたのでした。映画はそれに、新しい角度から光をあてることに成功したのです。確かに、小説に見られるような「文学性」をこの映画に期待するのは無理でしょう。しかし、最初に申し上げましたように、映画には映画の文法があります。この小文でそれをどれだけ解明できたか忸怩たる思いは残りますが、原作のテーマは映画にも引き継がれています。すなわち、アンドリューの物語は現代の『トムじいやの小屋』であり、『ハックルベリイ・フィンの冒険』であり、『猿の惑星』シリーズと同じように、世界中で差別されているマイノリティのための「聖典」としてとらえることも十分、可能です。念のため。自分は「可能だ」といったのです。本来は、エンターテイメントとして楽しむのが、もっとも自然な鑑賞法だと思います。あしからず。
2006.01.05
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新年早々する話ではないのかもしれませんが。しかし、タイムリーに話すわけにもいきませんので。救急車で運ばれてくる患者さん。ときには「心中」というケースもあります。『曽根崎心中』の昔から美化されてきた心中ですが、現代の心中は親子心中(未遂)が殆どです。「この子を残して死ねない」という親心は、あるいは外国、ことに西洋の人から見れば親のエゴのように聞こえるかも知れません。自分もまた「バカヤロウ」と心中叫びながら、しかしその「バカヤロウ」の刃を親御さんに向けてしまうにはあまりに日本人的であるようです。親御さんの行為を正当化はできません。けれども、どうしてもそこに「哀しさ」を感じ「同情」を―「共感」ではなく―感じてしまうのです。昔はこのような「人柱」になった家族がたくさんいました。戦後60年、現代日本もようやく還暦を迎え、まがりなりにも福祉は充実し…と思っていたのですが。社会が悪い、と声高に叫ぶつもりも資格も自分にはありませんが、財政難で削られゆく福祉の谷間で、このような「生贄」が生じているのもまた、否定できない現実の側面ではないでしょうか?願わくば、かの人たちがひっそりと闇から闇に葬られることなく、「人柱」として将来の日本の礎にならんことを。南無阿弥陀仏…
2006.01.04
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日本には、スポーツ選手同士のカップルって、あんまりないな、と思いました。スポーツ選手、とくにプロ野球の選手って、どうして女子アナウンサー等と結婚しちゃう例が多いのでしょうか。福原愛ちゃんや室伏兄妹をみても、アスリート同士のかけあわせによる優性遺伝効果は、はっきりしてると思うんですけれどね…自由恋愛だから仕方ありませんけれど。P.S去年の日記は後で書きます。三が日の日記よりまともです。
2006.01.03
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新年早々、エレベーターで降りてきた老婦人に「化けましておめでとうございます」と言ってしまった(聞こえてしまっただろうか?)。
2006.01.02
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初春や春こひねがふ花の枝
2006.01.01
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