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「万葉の旅」を歩く旅
「万葉の旅」を歩く旅
(一)
三輪の駅前通りから参道への辻に入り、大神神社の境内を経て山の辺の道を南に向かう。まず目指すのは金屋の集落。古代は海石榴市(つばいち)と呼ばれ、三輪山麓の八十の衢(やそのちまた)、物品交易の市場として賑わった村だ。
途中の茶店で『万葉の旅』の本を開き、「この写真にある家並みがまだ残っていますか」と奥さんにたずねてみた。すると「私じゃ分かりませんので、お母さんを呼んできますね」ということで、出てきた七・八十歳ほどのおばあさんに、その場所と、当時の面影がなお充分に残っていることを教えてもらった。
細い道を下りつづけて二十分ほどで金屋の集落に入った。
犬養先生は‘大三輪町金屋は、いまでこそ、わびしい村にすぎないが’と書いておられ、写真からもそんな雰囲気が伝わってくるが、新旧の立派な民家が建ち並ぶ様子から裕福な農家町という感じをいだく。ただ、観光客の外に若者の姿を見かけることはできず、
紫は灰指すものぞ 海石榴市の八十の衢に 逢へる児や誰
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか
――などの歌のように、男女の洒脱なやりとりがあったナンパ・ストリートを想起することは難しい。
その通りの端に、例の家並みは現存していた。
手前の家はモルタル外装にすっかり改築されていた。けれど、その奥の軒先に少女が自転車を停めている家は、屋根が萱葺きからトタン葺きに変わっていたのみで、かんたんにそれと見分けることができた。そのまた奥の家も、流れ・軒先・庇の形にほとんど変化がない。
まちがいなくこのポイントだ。それでも、四十年前、犬養先生が立った地を踏みしめているという事実を、自分自身に言い聞かすまで少々の時を要した。
いま目の前で大屋根の家に入っていったご婦人は、写真にうつる自転車の少女ご本人だったかもしれない。当時は板塀に頭をもたれるよう傾いて立っていた「海石榴市観音」の石標は、まっすぐ地面に固定されていた。
通りがかった年配の男性が、私の持っていた本をのぞきこみ、「ここだ、ここだ」と大きくうなずいてくれた。浅くきれいに日焼けした顔とそのおおらかな態度から、古代の地に生きる人の気風が伝わってきた。
(四十年前の金屋の家並み)
(二)
金屋から大神神社まで引きかえし、「味酒(うまさけ)を三輪の祝(はふり)が いはう杉」と丹波大女娘子が詠んだ老杉の女陰のようなウロ――中には神蛇が住むという――を見る。そのあと狭井神社の前を過ぎ、三輪山の西の麓をめぐるようにして山の辺の道を北に向かう。
この辺りは眺望のひらけた台地で、斜面の畑の果樹の頭ごしに香久山・畝傍山・耳成山の三山のどれかを望むことができた。
ちなみに『万葉の旅』の写真は、三山すべてがフレームの内に収まった様子で撮られている。左手を充分注意しながら歩いたが、残念ながら、同じような絵が得られるポイントは発見できない。樹木の背丈が変わってしまったり、新たにできた果樹園の囲いに遮られたせいだろうか。
桧原社にさしかかったところで石の上に腰を降ろし、ふたたび本の頁を開く。
いにしへに ありけむ人も わが如か 三輪の桧原に かざし折りけむ
――という、人麻呂歌集の一首が紹介されている。歌の持つ情緒もさることながら、この道を語る犬養先生の文章も珠玉のように美しい。
‘わたくしたちがこの道をゆくと、よく刈草をいっぱいに背負った村の人とすれちがうが、草のすれる音が消えてしまったあとの道には、「いにしへにありけむ人」もそしてまた「これからの人」も、といった感慨が思わずものこったりする。山の辺の道はそんなところだ。’
当時の刈草を背負った村人も、おそらくみな、いにしへの時の彼方へと去ってしまったのだろう。屈託なくちらつく木洩れ日が、ふいに哀感をさそう。
その桧原社址から山裾をやや東に回ったところで、いよいよ、穴師山の稜線と車谷の村落が見えてきた。この道沿いでもっとも「名歌のふるさと」と呼ぶにふさわしい土地だ。
正午をしばらくすぎたころ、ちょうど人通りも少ない。
写真そのままの家々の屋根が、蛍光色と呼びたくなるほどまばゆい若葉におおわれた山裾に、ホログラム映像のような非実在感をともないながら浮かんでいた。人麻呂とその通う妻がいたかもしれない土地を眼下に、ペットボトル入りのお茶で喉をうるおしながらしばらくたたずんでみる。
‘車谷は、よにもひっそりした小村で、巻向川の川音と、いまもめずらしく水車の音がことりことりひびいているようなところだ。’
さすがに水車の音はもう聞えず、電動木工具の音がけたたましく鳴りわたってはいても、この村落の景色と、人麻呂も耳にした巻向川の瀬音に、いにしへにありけむ人の恋ごころも解し得るような予感をいだいた。
(水車の音が響いていたころの車谷の眺め)
(三)
万葉集の初句索引によると、集中、「まきむくの」で始まる歌が五首、「あなしがは(巻向川の別称)」で始まる歌が一首ある。計六首の数字が、この小さな山里がいかに古代人の郷愁をあつめていたかをものがたっている。
その巻向川も、車谷の集落入口あたりでは、岸も川床も無粋なコンクリートでおおわれていた。架かる橋さえ、これまたコンクリート桁に鉄骨脚というそっけない造りで、のんびりと重い水車を回す「山辺とよみてゆく水」の流れをしのぶには、やはり『万葉の旅の』の写真と文章に頼らざるをえなかった。
集落の中を歩く。川筋が家並みの背にかくれた方が逆に、瀬音がさやかに耳になじむ。白壁の旧家、何気なく窓をかざる型ガラスや、その棧の割付けがおそろしいほどしゃれている。庭を彩るハナミヅキの紅白は、春先の匂いたつ梅の花におきかえたい。
これらの家のどこかの敷地内に、人麻呂を迎えた女性の居所があったはずだ。
ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き
‘この歌にしても、妻のところにでも泊まった時か、深々とした夜が刻々にふけてゆくころ、家の裏の川音の急に高くなってきたのを耳にして、山から吹きおろす風のはやさを思い、夜のしじまのなかへ、深く心をしずめてゆく瞬間がほうふつとしてくる。いまの穴師の川べりに住む人にも同じ感慨にひそかなわびしさをおぼえるものもあるかもしれない’
自分は先の歌から、一つ床のなかで無心に寝息をたてる若妻に手枕しながら、ゆくさき不安な恋におびえる男の心中を推し量る。
ぬばたまの夜は山中では死者の時間だ。歌聖とはいえ、古代の粗末な小屋を揺るがす風の中で「夜のしじまのなかへ、深く心をしずめてゆく」ほどの気強さを、このとき彼は持てただろうか。この箇所はいくら読んでもうなずけたことがない。恥かしいことだが、「やはり先生は東京の方だ」と、田舎者のひがみを心でつぶやいてしまう。
(かって穴師で撮られた巻向川、この場所は判らずじまいだった)
(四)
山の辺の道をゆくあいだ、大和を離れて近江京に向かう額田王の心中を詠った歌(あるいは井戸王の代詠とも言われる)を、ずっと頭の中で繰り返していた。
ふもとの大神神社の主神は大物主神だが、乳房のごとく女性的な山容を持つ三輪山には、「母なる山」という尊称がよく似合う。金屋の家並みを教えてくれた茶店のおばあさんは、それこそ娘時代にかえったような数音高い声で、
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや
――と詠じてくれた。それは、山を尊ぶというより、まるで山に甘えているかのようなうたい振りだった。
‘雲のかかる三輪山に「あのようにも隠すものか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい、それをあんなにも隠すことがあるだろうか。」と訴える気持は、作者はもちろん、大和をはなれるみんなの気持でもあった。’
「せめて雲だけでも思いやりがあってほしい」という願いは、古代の一女性の心から発して万人の身の上に重なり、万人それぞれの想いとして一千三百年の時を生きつづけてきた。
この地から他国へ嫁いだ女性たちも、この歌をひそかに胸にこだまさせ、昨日まであたりまえだった景色を振りかえりつつ、母なる山のふところから巣立っていったのだろう。
帰り際、自分も駅舎越しに三輪山を望んだ。しかしホームの向こうに建つアパートらしき建物の上階にさえぎられ、南の稜線の一部を目でなぞるのみにとどまった。雲ならば、ここで‘情(こころ)あらなも’と呼びかけるところだが、人工の建築物を相手では、退くことを期待するほうが無理というもの。むしろ、この場所にこの建物をこしらえた人間に、「こころあるのか」と訊きたくなった。
最後の最後にきて、『万葉の旅』発刊後四十年のうちに喪われたものが何であるかを思い知らされた。それでも旅行記を書くなら三輪山の歌で締めくくろうという決意は、一抹のさみしさを伴って電車に乗り込んだあともけっして変わることはなかった。
了
(三輪山の遠景を掲げた『万葉の旅』の頁』)
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