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「雨景色」(画像と掌話集)
「愛の窮地」
「由実ちゃんの浴衣と同じ色だ」と言って、康雄が腰に手をまわしてきた。そして私の耳元で「愛してる」とささやいた。「この間は、結ばれる前にオレがイッちゃったからね。由実には申し訳なかった。今夜こそ、ふたりの愛の誓いをたて直そう」
また‘愛’だ。熱っぽい手の平が、腰骨の張ったあたりを擦りつづける。おそらく彼の眼は、花と浴衣の間を往復しながら、薄い布地に包まれた裸のお尻を透かし見ている。あの生白い仮性包茎のペニスが、バミューダパンツの下でひょっくり頭をもたげているさまを、私は思わず想像した。
「なんならこの広場の真ん中で、由実をいちばん愛してる、って叫んでもいいんだよ」
三度目の‘愛’を聞かされたとき、この語彙貧困な彼氏候補を、百日紅の花の色ほどにも愛せない自分に気がついた。
「ごめん、八時から礼子の家に集まる約束があるの」
ぽっくりの下駄をわざと大きく鳴らし、縁日通りへときびすを返した。康雄に追いつかれる寸前、飴屋の店先に立つ礼子たちに合図の手をあげると、「由実、おいで」の嬌声が、私を‘愛の窮地’から救ってくれた。
「電磁的目眩」
ちくしょう、この廊下を通るたびに目眩がしやがる。
部屋を出たときは何ともなかった。昨夜の酒も醒めたはずだから、誰かのイタズラ以外に考えられない。
おっとっと。だめだ、もう立っていられない。ヒロシ、ヒロシ、手を貸してくれ。あれ、ヒロシどこへ行きやがった。
そうか、オマエか。オマエは大学でエレキを学んでたらしいからな。無学なオレから踏みつけにされるのが気に食わなかった、どうだ、図星だろう。
でもな、オレだってエレキは齧ったことがある。‘ラ製’の年間購読者で、スーパーラヂオを組みたてた経験もあるんだ。オマエの下手な仕掛けぐらい、いともかんたんに見破ってやるさ。
ほらそこ! 丸い電灯が怪しい。オマエが、あの中に、強い電磁石を仕込みやがったに相違ない。
箒の柄でもってこいつを・・・・・・やっぱり太いコイルが出でてきた。ヒロシ、オレの勝ちだ。いいかげん、出てきて頭を下げろや。
おろ? たっ、とっ、た・・・・・・なんだ、なんだ、やけに頭が引っぱられるぞ。足が宙に浮いた。いたっ、いたたた・・・・・・ぎょえ、耳から何かが突き出した。こいつはでかい、ビルの鉄骨組むときのボルトじゃないか。
ヒロシ、オマエいつの間に、しかも最初からこうなることを計算してたのか。
天才だ、降参だ、あやまる。だから、あのコイルに流れるエレキを止めてちょうだい。でないとオレは感電死してしまう――びぎゃ、びぎゃぎゃぎゃ。
「たからもの」
「しいちゃんは、ずっとここにいるよね」
三つ葉の上の水滴を見つめたまま、詩織は「うん」と答えた。
「はっぱ、きれい、きれい」
「うん、たからものみたいにきれいね。でも、さわったらきえちゃうよ」
詩織はおどろいた表情で、延ばしかけた手をひっこめた。
「おおい、クルマの支度ができたぞ」
ガレージにいた夫が、囲いの柵ごしに顔を出した。
「まって、この格好じゃ」
「パジャマに上着を羽織ればいい。どうせ病院の寝巻きに着替えるんだろ」
言われてみればその通りだ。しかし、髪は抜け、顔は青くむくんでも、女のたしなみを捨てたくない。
「次の外泊許可がいつ降りるか分からないじゃない。普段着でもいいから、洋服を着させて」
「なんでわざわざ」彼は首をかしげ、それから娘に、「しいちゃんは、ばあちゃんとおうちでお留守番ね」と声をかけた。さっきと同様、娘は下を向いたまま「うん」と小さな返事をした。
つかのまの母と子の時間が過ぎていく。もしかしたらそれが、足元のしずくよりもはかないことを、幼い詩織が知るよしもない。
「神様おねがい」
こんな寂しい場所で待ち合わせだなんて、そもそも疑ってかからなきゃいけなかったんだ。携帯も通じないし、まちがいなくミキに担がれたって訳か。
馬鹿みたいだなあ。酒飲むからって、わざわざタクシーでここまで来て、二千百円もかかったんだぞ。きっと明日はいい笑いものだ。
彼女に限らず、この街の連中は当てにならない。平気で約束を破る。もっとも彼らにすれば、オレと約束なんかしたつもりはないんだろう。先輩いわく、‘田舎の納屋から出てきたブタのオモチャ’だもんな。からかわれて当然と思わなきゃ。
それにしても、どうやって今夜を過ごそう。寮の連中には、お泊りデートと大見得きっちゃったし、ゲームセンターかサウナ行くしかないか。ああ、公園の灯がわびしいな。わびしいけど、どことなくなつかしく見える。
子供の頃、暗くなるまで遊んで帰ると、田んぼの向こうに家の灯がこんな風に見えたっけ。怒られるとわかっていても、その時はほっとした。
……やっぱり、帰えろうかな。寮じゃなくて田舎へ。無理に美容師になったって、‘ブタのオモチャ’じゃお客がつかない。親父といっしょに、ハウスでシクラメンの花でも育てるか。
なんて考えたら、急に眠くなってきたぞ。あの光が妙にやわらかいせいだ。まあいいか。明日から学校へ行かなくていいし、今夜はここで野宿しちまおう。
あ、そうだ。オレって、よくよくついてない男だから、アイツらがこないようにお祈りしなくちゃ。この間も、飲んだ帰りにスポーツ公園の駐車場で袋叩きにされたもんな――神様おねがい。どうか、暴走族のお兄さん方がきませんように――これでよし。おやすみなさい。
「妻子幻影」
なるべく時間がかかりそうな料理を注文した。そのあと玄関と座敷を仕切る衝立に目をやった。目隠しの和紙が裏から張られたガラス面に、十数年前の彼と妻、幼いふたりの息子たちが映し出された。
下の子は、いかにも眠たげな表情を浮かべ、妻の膝に頭をのせていた。上の子は、買ってもらったばかりのミニカーを函から出し、畳の上で走らせていた。
「なかなか料理がこないね」と彼が言った。
「すぐにこない方がいいわ」と妻が応えた。
「どうして」
「この時間がつづいてほしいから」
いったん間合いをとるように、夫婦ともぬるくなったお茶に口をつけた。
「もうすこし家の中に気を遣っていたら、おまえの具合も悪くならなかったろうに」
「ううん、わたしが弱かったのよ。あなたはあなたで、お仕事たいへんだったもの」
そう話しながら次男の頭を撫でる手の甲が、妙に蒼白く透きとおっていた。その生気のなさに気づいた彼は、ありえない、思いつきの話をせずにはいられなくなった。
「部長が、早急におれの異動先をあたってくれるって。営業じゃなく、内勤の仕事。出張も減るし、今よりは早く家に帰れる」
「そんな、無理しなくてもいいのに」
「でも本音はうれしいんだろ。おそらく今年の夏休みがつぶれることはない。徳島のお義母さんに、やっと孫の顔を見せられる」
「・・・・・・うん、ありがとう。わたしもがんばって、いまの体調を維持していくわ」
お膳を提げた店員が、彼らのいる卓に近づいてきた。配膳の邪魔になってはと思い、ミニカーで遊ぶ長男の名を呼んだ。息子は顔を上げ、「おとうさん、このクルマ、へんだよ」とうったえた。「どこが、へんなの」「ドアがどっちもひらかない」「もともと開かないようにできてるんだ」「そんなことない、おかあさんといっしょのクルマだよ。あれはちゃんとうしろもひらくのに」「しょうがないなあ、貸してごらん」――
店員の「おまたせしました」という声が、父と息子のやりとりを遮った。本来の座敷を振りかえると、卓の向こうにいた妻子の姿は見えなくなった。目の前には、一膳きりの料理が置かれている。彼はなおしばらく箸をとらず、帰らない三人のことを想いつづけた。
「お説教」
好き、嫌いじゃなくて身近な異性を信じるのがこわい。不意の災難でそっちが倒れても、わたしはあんたの背丈を見あげてなきゃいけない。そんなときに心残りがあったらみじめでしょ。だから、あんたの蔭には抱かれない。
あらいやだ、なにメソメソしてるの。近くの好意は突きはなす、遠くの好意は引きよせる、それがオトナのバランス感覚ってもの。こんどの夕立でアタマを冷やしたら、ぐるり野原の周りを見渡してごらんなさい。こんなウサギのつくりものより、あんたにふさわしいスマートな美樹が、きっと手招きしてくれるから。
いい、あんたそれくらい色男なの。そろそろ図体相応の度胸をもって、恋のかけひきもおぼえなきゃ。でないと、振ったわたしの方こそつらくて泣けちゃうかもよ……。
「雨景色」
風はなかった。朝から勢いのない雨が降りつづいていた。
「和樹は――」夫が口にした名前を聞いて、妻はさりげなく目をふせた。
「和樹は元気にしているだろうか」
「元気に跳びはねてますとも。あの子は五歳のままですから」
「あれから三十と何年たったかな」
「三十六年です」
「道理でおまえが泣かなくなったわけだ」
雨傘を高くかざし、夫は対岸の廃屋に視線をおくった。
「不思議なことだが、あいつのことを思い出すたびに今日のような雨が降る」
「あなたもそうでしたか。実はわたしも・・・・・・」
「また雨が降る日には、和樹の話をしてもいいか」
その言葉に、妻は何かを思い切った表情でうなずいた。
あいかわらず雲が流れる気配もない。堰堤に近い川岸に、日の暮れまでふたつの傘が並んでいた。
「地上の天使」
彼女に言った。「この空を飛んでやるよ」
「へえ、できるかしらん」
「やると言ったらやる。僕は、この世のできごとに意味を見出せなくなった。空を飛んだつもりのまま、命を捨てた方がましだ」
「ふうん」とニヤつき、彼女は僕の股間に手を伸ばした。「じゃ、ゆうべ私としたことも、あなたにとって意味をなさないできごとなの?」
彼女の指がさわさわと、ジーンズの上から僕のものを擦った。するとたちまち、空気をのんだカエルのように、それはむっくり膨らみはじめた。
「だって、あれは」
「男のくせして、あんなに気持ちよさそうによがったくせに」
耳に息を吹きかけられた。こりゃまずい、彼女の手の感触を通じて自分のかたちが判るほど、愚息が愛撫をよろこんでいやがる。
「どうする、ほんとうに飛んでみる?」
すこし荒くなった息を抑えて僕は答えた。「……いや、またこんどにする」
「こんどって、いつ?」
「もういっかい、やってから」
「あなたって、しょうもないひとね」
彼女はあっけなく僕からはなれ、車の助手席側に回ってドアを開いた。そして座席に腰かける前に、「飛ぶんだったら、やらせてあげないわ」と舌を出した。
‘そばに地上の天使がついてるうちは、飛ぶに飛べないニワトリ状態だ’なんてグチりたくなる。けれど、このセリフもまた、彼女の前ではヘタな冗談に化けてしまうだろう。
そう、いつも、こんな風にすべて軽く受け流してくれるおかげで、僕は、死神の鎌にふれずにすんでいるんだ。
「姉妹」
妹は、ついに故郷に帰れなかった。
樹木の間から、ウメは西の空を仰いだ。
「五人きょうだいでのこったのはワシひとりか」
報せを受けたのは、告別式が済んだ五日後のことだった。団地の自治会が執りおこなってくれたらしい。遺品整理の際にウメの住所が判ったそうだ。
「最期まで身寄りがないと思われとったんか。かわいそうになあ。だがワシも、そんな遠くまでよういけん。ここでかんべんしてくれ」
するとその呼びかけに応えるよう、手前の山の斜面から一条の靄が立ちのぼった。
「そうか、帰ってきとったか」ウメは合わせかけた手をおろし、笹薮を分けながら峪側に歩みでた。「そら、気がつかんで悪かった」
ざっと何かがすべる音と同時にキジが飛んだ。笹原に呑まれたみたいにウメの姿は見えなくなった。
しばらくしてもう一条の靄が、峪間を去って同じ雲にまぎれた。
「やわらかい水」
「まだここにいたのか」と男が声をかけた。「いいかげん機嫌をなおせよ」
女は応えず、樋の前にしゃがみこんでいた。
「できごころだったんだ。あんな小娘よりおまえの方が百倍もいい。これでよくわかった」
男にしては白く華奢な指が髪にふれた。とたんに女は前のめりになり、流れ落ちてくる水を頭にあびた。
「おい、どうした。気分がわるいのか」
「洗いたい。あんたのいやらしい匂いを洗いたい」
「くるった真似はよせ。他人に見られたらどうするんだ」
襟首をつかみ引きずろうとする腕にあらがって、女は水路の端に居座りつづけた。
「くそ、勝手にしろ」みずからの非力を癇癪でごまかし、男は足早にあぜ道を引きかえした。
やわらかく注ぐ水に濡れながら、「いやだ、いやだ」と女はうめいた。草いきれをふくんだ風が、その文句をしぶきごとさらって吹いた。
「さかしま」
死んでしまいたかった。つまらないヤツだ、と罵る先輩の声が、両耳の間を行ったり来たりしていた。
用水路の側に立ち、水面に映る草葉をながめた。そして、さかさまの世界、俺みたいなノロマが尊敬される世界を想像した。
――嘘つきが信用される、働かないヤツが金を儲ける、みずからの身体を酷使しないヤツが手柄を誇る――逆さまな常識を並べたてていくほど、いま自分が在る世界と変わらない気がしてきた。
ひょっとしたら、要領のいい先輩たちより、ウスノロ扱いされる自分の方が、地に足をつけて生きているのかもしれない。
かすかな自惚れを抱いて顔を上げた。工場の煙突は、鋸刃型の屋根の下で働く人々のため息を集め、青い煙を吐きつづけている。
テレビ・コマーシャルのような幸福に、手が届く日はこないだろう。でも、本当に俺がつまらないヤツかたしかめるために、もう一日生きてやる。死ぬのはそれからでもいい。
「ムシトリナデシコ」
――つまらん花のくせにきれいだ。忘れられんために咲いとるんだろうか。なになに、忘れてもらうために咲いとるのか……あいにくこっちも老い先みじかい身だ。執念ぶかくおまえを思いつづけるぞ。
「おじいちゃん」と呼ぶ声に、老人の独白は断ち切られた。「またお墓でひとりごと? いまにご近所の笑いものになるわよ。お家に帰りましょ」
仏頂面をつくってから、老人は腰をあげた。彼に背を向けるついでに、嫁は、かたわらのムシトリナデシコの花枝を手折った。
「きれいなのに、どことなく縁起が悪そうね」
玉砂利の上に投げ捨てられた花を、老人は、どうしてもまたぐことができなかった。数歩あゆんでふり返った嫁が、その姿をおもしろそうにながめてから、意地悪い口調で言い放った。
「ぐずぐずしてると、お墓に忘れて置いていくよ」
「裸」
女は歩きつづけた。 「すくいようがない。どうにもすくいようがない……」
呪文のようにつぶやく言葉が、ときおり葉擦れの音に交じって風に流れた。
やがて高い峠にさしかかった。長く眼を閉じて立ちつくしたあと、意を決したように身につけたものを脱いでいった。
さいごの下着も丸めて峪に投げ捨て、全裸で陽光に対峙すると涙があふれた。昨晩、あれほど厭わしく思えたみずからの乳房を抱いて、「ごめんなさい」とやさしく詫びた。
「もう、あそこには帰らない。おまえたちを、だれかの慰みものに差しだすこともない。身体とこころの別なく、自分が自分でいられるところへ行こうね」
涙はすぐにおさまった。ふたたび衣服を手にすることなく、彼女は裸のまま歩きはじめた。鳥たちの声を跳ね返すように胸を張り、あらわな恥毛を艶光りさせながら、太陽に挑むよう、次の高みをめざして進んで行った。
「イノチのタネ」
「あのイエは、どうしてこわさないの」息子が聞いた。
「イエのヒトたちが、また戻ってこられるようにのこしてあるんだ」と父親が答えた。
「イエのヒトたちはどこにいるの」
「ヤマにいるんだよ」
「ヤマでナニをしてるの」
「木になって、白い息になってソラに上り、雲になって、それから雨になって、またヤマに戻ってくるんだ」
「イエに戻るのはいつ?」
「お彼岸だよ。お彼岸には、ソラとヤマがいちばん近づくからね。みんな、そこでお休みをとることになっている」
「あのねえ……」と言いながら、息子は少しもじもじしてみせた。
「なんだ」
「ヒトが死んだら天国に行くって聞いたけど、あれウソなのかなあ」
「ヤマは天国じゃないかもしれないけど、チの底でもない。だから、ヒトがあたらしいイノチをもらうにはちょうどいいんだよ」
「じゃ、タマシイって、イノチのタネみたいなもんだね」
父親は、はじめ嬉しくて、つぎに哀しくなった。今から帰る街の気ぜわしさが、この会話の記憶を我が子から奪うにちがいないという確信に胸を衝かれ、彼は、故郷の峰々をふり返った。
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