そう大声で言って飛び起きる彰人。その額やこめかみからは冷や汗が流れ落ちていた。
そして、荒い息を整える間もなく、彰人はナースステーションへと走った。
ドアをノックして部屋に駆け込み
「すみません、田崎先生は?!」と大声で尋ねる。すると1人の若いナースが駆け寄ってきて
「日高さん、どうかされましたか?すごい冷や汗!」と彼の汗をガーゼで拭おうとした。
だが彼は、それどころではないというように
「あの、田崎先生はいらっしゃらないんですか?」と先ほどにも増して強い口調で言う。
「ごめんなさい。先生はまだお見えじゃないんですよ。具合が悪いのでしたら、今別の先生をお呼びしますけど」
「いえ、そうではなくて…ゆきは、僕と一緒に運ばれてきた七瀬ゆきさんは大丈夫なんですか!?」
「あ、それは…」
ナースはさっと部屋の奥に行くと、婦長と少し言葉を交わし、すぐに婦長が彰人の前に現れた。
「七瀬ゆきさんは、運ばれてこられたその夜に亡くなられました」
婦長は真剣な面持ちでそう告げた。
「亡くなった…」
彼は力なく言い、その場に唖然と立ち尽くしていた。
信じられなかった。それを信じ、心に受け入れてしまったなら自分自信が消えてしまいそうだったから。彼女が、ゆきがもうこの世にいないだなんて…。
嘘だ!何かの間違いに違いない…。
ナースステーションを駆け出し、廊下を駆け抜けて行く彰人。ただ只管にゆきのアパートを目指した。
見慣れた彼女のアパート。合鍵でドアを開け、彰人はゆっくりと室内へと足を踏み入れる。
「ゆき?…ゆき?」と彼は、以前彼女が住んでいた時同様に、彼女の名を呼びかけながら奥の部屋へと進んで行った。
全く人の気配はなく、以前配置良く並べられていた家具やインテリアなども全て取り払われ、室内はがらりと一変していた。
部屋のベランダに面した大きな窓に視線をやると、ゆきがオレンジ色の陽光を浴びてたたずんでいるのが見えた。彼女は、その窓から美しい夕焼け空を眺めているのだ。
窓辺に立って振り返りそして彼女は
「ほら見て!すっごいきれいな夕焼け!」と柔らかな笑みを浮かべた。
彰人が急いで、カーテンの外された窓辺へと歩み寄るが、それは幻想ですぐに消えてしまう。幻の夕焼けは脆くも砕け散り、窓の向こう側には高く澄んだ冬空がどこまでもどこまでも広がっているだけだった。そして、虚ろな瞳で景色を見つめながら
「ゆき…いないのか…」と寂しげにつぶやく。
「絶対に1人にしないで」
よく君は僕にそう言ってたね。だけど、僕は約束を守れなかった。僕が君を1人にしてしまったんだ。
「1人にしないで」
君はもういない。僕が君を守りきれなかったから…。
彰人の胸に、言葉にならない想いが込み上げてくる。力なくその場にうずくまると、嗚咽とともに涙が止めどなく溢れ出し、フローリングの床に落ちて行った。
「なんでゆきなんだよ…なんで俺じゃなくてゆきがこんなことに……!」
どんなに泣いても彼の心の傷が癒されることはなかった。
それから3週間後、僕は退院した。腕の怪我は治っても、僕の心にぽっかりと開いた大きな穴は塞がることはなかった。
それでも時だけは、何も変わることなく過ぎて行く。僕は、ただ生きているにすぎなかった。毎日、息をして、朝は食事もせずにマンションを出て職場に向かう。砂色に変わり果ててしまった世界の中で、僕は必死に仕事だけをこなし、また夕方になれば満員電車に揺られて家へ帰ると言う日々が続いた。
彼女のいない生活は僕にとって、まさに生き地獄としかいいようのないものであった。