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下村文部非科学大臣の下、現在教育再生会議が行われている。数年前に行われた司法試験改革と同じような結果を招く危険性があるのではないかと考えている。
2013/11/20
ところで、先生の発音はよく言われるように美しい。ネイティブ並に綺麗な発音をされる。日本人男性でここまで綺麗に英語を話す人を私はあまり知らない。(日本人女性は英語が上手な方が多い)英語の発音で難しいのはreallyやgirlなど「r」と「l」が連続して出てくる発音だと個人的には思っている。舌を丸めてから上の歯にくっつけるまでの動きが日本人にはなかなか出来ない。あとはthの発音。上江洲先生はこれらの単語の発音も大変綺麗だ。上江洲先生は、ご自身の塾SORAの生徒さん(高校生)に対し、発音矯正も行っていると言う。また、小学英語もロカビリー先生のブログや細川先生のお話によると、大変インタラクティブに進んでいくらしい。授業内に「話す」時間を多めに取っている印象を受ける。今回の特別授業でも、日比谷高校の英語を大変美しい発音で読まれていった。そして、要所要所でさまざまな例文を出し、それらをまるで映画のワンシーンのように印象的に発音される。さらに、こうして出てきた例文に対し、関西弁で意味を添えていく。これは生徒達にとり、大変印象深い授業だと思う。 たとえば、細川先生も言及されていたが、否定疑問文の際に出した例文「Aren't I cool?」は秀逸だった。(元ネタは皆さんもご存じのアレらしい)また、anotherという単語が出てきた時には、「もう1つの別の、と覚えなさい」とズバリ言い切った。力量のある先生というのは、こうした重要単語の訳語をズバリ1つに絞って言い切る傾向が強い。(そういえば、細川先生が現代文の特別講義をやってくださった時、「逆説」の意味は、こうこうこういう風に覚えておくといいよと、やはり言い切っていた)もちろん、上江洲先生の場合は、これらの例文に「関西弁」を付け加えて、印象を強める。先ほどの「Aren't I cool?」に対し、「カッコええやろ~?」という関西弁を当てたかと思えば、anotherという単語に対しては、「またこれやっ!もうえぇっちゅうねん!」というニュアンスを生徒達に伝えた。こんな例文や訳語がすらすら出てくるところが上江洲先生のすごさだ。力量のある先生というのは、数学であれば、別解の多さ、板書の美しさ、各定理の根本からの理解、その場で問題を作成できる能力などが判断基準になるだろう。国語の先生であれば、比喩の巧みさや例示のわかりやすさということになるのだろうか。他に背景知識の豊富さも重要かもしれない。では、英語の先生の場合はどうであろうか。やはり発音の美しさと例文の豊富さに英語の先生の力量は見えてくると思う。上江洲先生は、その両方を持ち合わせている。あらゆる場面場面で、さまざまな知識や例文がスラスラと出てくるのだ。そして出てきた例文を美しい発音で生徒達に聞かせ、その上、関西弁の訳語でダメを押す。これが先生の授業の特長なのだろう。 普段から上江洲先生の指導を受けているSORAの生徒さん達はもしかしたら気づいていないかもしれない。しかし、SORAの生徒さん達にとって、英語は間違いなく武器になることと思う。それは当然のことだ。なぜなら、上江洲先生が出す例文は全てが洗練されており、それをネイティブ並の発音で印象づけ、さらにこれ以上ないほどピッタリの訳を当てはめていくのだから。生徒さん達の頭の中には、きっとどんどん生きた英文が蓄積されていくはずである。 進学塾SORAの秘密を探ろうと、全国の多くの先生方がSORAさんを訪問していると思う。しかし、SORAで使っている教材、プリント類など、そうした外面的なものだけを取り入れても、きっと同じような効果は生まれないだろう。なぜなら、進学塾SORAの合格実績や指導の秘密は教材やカリキュラムにあるのではないからだ。進学塾SORAの秘密は上江洲先生そのものにあるのだ。あの味は決して他の先生には出せないだろう。だから、私も上江洲先生の授業を聞いて、それを自分なりの色で自塾に落とし込んでいくしかない。そうすることで、またSORAとは違った自分なりの色が出てくるのだと思う。そんなことが分かった1日でもあった。 上江洲先生の塾が近くにあったら嫌だろう。きっとそれは多くの塾経営者が考えるはずだ。だが一方で、こんなことも考えるかもしれない。もし自分の子供を預けるとしたら、ぜひ上江洲先生の塾に預けたいと。良い塾の定義はいろいろあるだろう。私が思う良い塾とは、「同業者から見て近くにいてほしくない塾」であると同時に、「同業者が自分の子供を預けたいと思う塾」だ(←私は子供がいないけど)。上江洲先生の塾というのは、そうした魅力に溢れている。今回、先生の授業を拝見し、その思いを強くした。 上江洲先生。今回は本当にありがとうございました。先生の日比谷高校の英語解説を受けることが出来た当塾の塾生は本当に幸せです。重ね重ねありがとうございます。また、お会いできる日を楽しみにしております。それまでまた修業の日々です。 ※自分自身の指導を見つめ直すために、上江洲先生の授業とは関係のないことも書いたため長くなりました。実はまだブログ原稿は残っているのですが、細川先生のブログと重なる部分も多いですし、今回はここで終わりといたします。赤虎先生の次回作にご期待ください(ジャンプ風)
2013/11/17
上江洲先生の授業技術で「ここが決定的に他の先生と違う」というものは何だろうか。答えを1つに絞るのは難しいが、あえて言えば「発問の質」に上江洲先生の凄さは集約されている私は思っている。先生の発問は1つ1つが大変工夫され、練られている。 よく塾のチラシで、「共演授業」「双方向の授業」というキャッチフレーズを見ることがある。簡単に言えば、講師から生徒への「発問」が多い活気のある授業のことを指しているのだろう。しかし、力量のない先生が行う発問は、単なる時間稼ぎであったり、生徒の退屈しのぎであったり、あるいは居眠り防止のためだけになっていることが多い。また、発問の多さをアピールするあまり、「発問すること」それ自体が目的になってしまっている先生もいる。そのような先生の発問は、「発問がたくさんある授業にするための発問」になっていて、決して悪いとは言い切れないのだが、こうした発問には思想と意図がない。上江洲先生の発問には思想があり、意図がある。先生が授業中に行う発問は、その全てが生徒の頭を回転させるという明確な目的を持っている。生徒が反射的に答えられるような質問、頭を使わずに答えられる質問、単に知識を問うだけの発問はほとんど行わない。生徒が頭を働かせないと答えられないような発問を次から次へと繰り出してくる。そればかりでない。その発問と生徒からの応答を積み重ねた集合体は、長文読解と設問解答の要諦へときちんと結びついているのである。ここまで書くと、徐々に上江洲先生の授業がどのようなものが明らかになってきたと思う。要するに上江洲先生は英語という教材を用いて国語力と思考力を鍛える訓練をしているのだ。英文を訳すのではなく、脳を回転させながら読解する。その際、1つ1つの単語のニュアンスに敏感になり、どんな意味が含まれているのかを考えさせる。こうした作業を通し、本文全体のテーマを正確に読みとっていく。これを国語の授業と言わずして何と呼ぼう。 上江洲先生の特別講義。使っていた教材は紛れもなく日比谷高校の英語であった。しかし、私が目にしたのは、間違いなく国語、いや言語の授業と呼ぶにふさわしいものであった。上江洲先生は、英語の授業を通し、物事を理解する上で最も大切で本質的な部分を指導しようとしていたのだ。この事実に気づいたとき、「あ~、やはり上江洲先生は神江洲先生であったか」と思わざるを得なかった。
2013/11/17
上江洲先生は授業中、常に「机間巡視(キカンジュンシという業界用語)」を行う。本日は問題演習中心の日ではない。生徒が事前に日比谷高校の問題を予習してきており、その「解説授業」という位置づけの日だ。こういう授業では、先生がずっと黒板の前に立ち、解説中心の授業を行うことが一般的ではないだろうか。だが、上江洲先生は違った。この日、先生は常に机間巡視を行いながら授業を進めたのである。一人一人の答案をのぞき込み、生徒達を指名しながら授業を進めていく。生徒が答えやすいような「空気作り」と「声かけ」を行い、決して「正解だけ」を求めるようなことはしない。うちの塾生から出てくるイマイチな解答(笑)も全て採用し、それをもとに解説を進めていく。そうしているうちに、いつの間にか長文の内容が明らかになっていくという仕組みだ。ところで、「机間巡視」というのは、小中学生対象の塾では基本的な授業技術の1つである。中位から下位の子の学力を大きく伸ばしている塾では、質の高い机間巡視が行われている。机間巡視の存在しない塾、あるいは机間巡視していてもただ単に講師が歩いているだけの塾では、おそらく中位から下位の子は劇的には伸びない。それほど机間巡視というのは、集団指導において大変重要な役割を占めており、質の高い机間巡視が出来るかどうかが一流講師とそうでない講師の分かれ目と言っていいかもしれない。 生徒が演習している間、先生がずっと座りっぱなしの塾は結構ある。中には先生が自分の事務作業をやっていたり、テストの採点をしていたりする塾も多い。しかし、このような「机間巡視なしの授業」(予備校型授業や映像授業)で伸びるのは上位15%程度だろう。ごくごく僅かな層だ。したがって、生徒の平均偏差値や学校内申がある程度上位で固まっているような場合を除き、机間巡視は必ず行わなくてはならない。そもそも机間巡視をしないのであれば、それこそ映像授業をやっているのと同じだ。わざわざ通塾するメリットがほとんどない。(長くなるので、理想的な机間巡視の方法については省略)私の塾が1クラスの定員を絞っている理由の1つも、「机間巡視を行うため」と言い切っても良い。とりわけ、各学年とも春先(新学期)は入念に机間巡視を行う。また、新入生に対しても入念に行う。それこそノートの書き方、テキストへの記号の入れ方、姿勢などを含め、事細かに注意を与える。こうした「ささやかなこと」というのは、注意しすぎてもしすぎることはない。ここは生徒と先生の「戦い」でもある。 机間巡視の目的の1つに「ルールの厳守」というものがある。演習のやり方には、塾ごとに「決まり」がある。その決まりを守らせるために、机間巡視は不可欠なものだ。先生が設定したルールを先生側が諦めてしまうケースは多い。しかし、これは良くない。クラス内にルールが徹底されないという問題ももちろんあるのだが、何より生徒達の中に、「この先生は甘い」という認識が出来てしまうことが一番まずいことだ。ルールというのは、生徒が出来るようになるまで繰り返し繰り返し指導することが大切だ。この「繰り返し」こそが教育の基本である。子供という動物を定義することは難しいが、あえて言えば、「子供とは失敗し、間違う動物である」ということである。何度も何度も間違え、そして失敗する。できるようになったと思ったら、そのすぐ直後に失敗をしたり、過ちを犯す。そんな生き物が子供である。たとえば、普段何気なく使っているお箸にせよ、普段ごく自然と身につけている靴下にせよ、これらを使えるように(あるいは身につけられるように)なるまでに、実は子どもたちは何年も何年もかかっている。この事実を我々は忘れてはならない。お箸の使い方や靴下の履き方を身につけるのに何年もかかるのが子供、いや人間という動物なのだ。これは生まれた瞬間から親と一緒に行動する他のほ乳類や魚類とは明らかに異なる。人間というのは、大変成長速度の遅い動物である。まして、問題集の使い方なんて、たった1回や2回言ったきりで改善されることはまずない。だから、我々は何度も何度も指導する。その指導の際に必要不可欠な方法が机間巡視というわけである。うちの塾も、詰め込もうと思えば机も椅子ももう少し入るのであるが、机間巡視できるスペースを確保するには、今の人数が限界。経営よりも大切にしたいことがあるから独立した。うちが少人数クラスを保っている理由はそこである。(もう1つ。行列が来るほど問い合わせが来ないというのが最大の理由だったりもする)上江洲先生の机間巡視には、机間巡視の基本が詰め込まれていた。「生徒の観察と把握」という目的を達成するための要素が、それこそ「てんこもり」であった。ただ教室を巡回しているのではない。それでは単なるパトロールだ。上江洲先生は、生徒の答案を見つめ、生徒自身を観察し、生徒の学力を引き上げる机間巡視を行っていた。その証拠に、上江洲先生が授業を行っていた僅か90分ほどの間に、先生は塾生の実力を的確に把握された。授業後、細川先生と3人で飲みに行ったのであるが、そこで生徒一人一人の名前と癖がぽんぽん出てくる。あの僅かな時間で、性格まで掴んでしまった子もいる。これらは机間巡視のなせる技。机間巡視というのは、生徒の実力を正確に把握する重要な手段である。また、机間巡視には、授業の速度やレベルを臨機応変にギアチェンジさせるという目的もある。生徒の作業スピード、答案、解答、その他ノートの使い方や文字を見ることにより、生徒達の学力をおおかた判断することが可能だ。そうして得たデータを元にし、授業の展開方法や内容をリアルタイムに微妙に修正していく。上江洲先生の机間巡視は、まさにこうした技術の集合体。机間巡視のお手本であった。事実、ある生徒に感想を聞いたところ(←上江洲先生が褒めていたIくん)、「ずっと回ってくれるので良かった」という声が聞かれた。生徒だって先生のことをちゃんと見ているのだ。ここでも上江洲先生は「生徒」と「私」の両者に対し授業を行っていた。対生徒という面では、机間巡視によって緊張感と集中力を生み出し、授業のレベルを微妙かつ上手に修正されていた。私に対しては、「これこそが理想の机間巡視だ」というメッセージをくれていたように感じた。
2013/11/17
閑話休題 さて、上江洲先生が「超一流」と称された日比谷高校の英語。上江洲先生は、日比谷高校の入試問題がどれほど素晴らしいのか、それを三流の入試問題と比較しながら、生徒達に説明を始めた。ここまでで3分が経過した。いよいよ日比谷高校の解説に入っていく。先生が注目されたのは第1パラグラフである。一流の英文は第1パラグラフが濃い。そして、一流の先生は第1パラグラフをじっくり説明する。一流の第1パラグラフを一流の先生が解説することによって起こる化学反応。その化学反応が生徒の頭をビンビン刺激する。そんな光景をこの後、目の当たりにする。 上江洲先生は、この第1パラグラフを丁寧に2回読解するよう指示された。そして、じわじわと第1パラグラフを解きほぐしていく。解きほぐすといっても、SやVを緻密に分析し、正確な和訳を付けていく・・・というのではない。そうではなく、1つ1つの名詞に注目しながら、まるで歌の歌詞でも理解するかのように・・・いや「感じる」かのように第1パラグラフをイメージ化していった。一方、日比谷高校の英文も、そうした上江洲先生の授業に応えられるだけの奥行きを持っていた。教室は、英語の授業ではなく、まるでコンサート会場や映画館のような感覚に包まれる。いつの間にか、生徒達の頭の中に、第1パラグラフの情景が浮かび上がる。生徒達は「入試英語長文」ではなく、英語で書かれた「小説」の中へ誘われていった。それは普段、オーソドックスな英語授業を見慣れている私にとって、まるで夢の中にでもいるかのようであった。奇跡と呼んでも言い過ぎではない。英語を苦手とする生徒達が、まるで映画でも観るかのようにスッと長文に入り込んでいる。不思議な時間であった。 随分長い時間が経ったようでもあり、あっという間のような感覚でもあった。第1パラグラフの数行が終了した。第1パラグラフ開始から26分が経過した。そう、上江洲先生は、たった数行の第1パラグラフになんと26分間もかけたのだ。ところで、この「26分間」という数字は私自身が計っていたわけではない。上江洲先生が「第1パラグラフの解説だけで26分間かかってしまいました」と「わざわざ」生徒に伝えたのだ。だから、私の記憶に「26」という数字が明確にインプットされている。25分ではない。26分である。おおまかに「25」ではなく、正確に「26」と言う必要があったのだ。もちろん、これも重要な授業技術のうち。今回の上江洲先生の授業には、いくつもの「英語の極意」と「授業技術」が混在していた。それを細川先生はブログで「てんこもり」と表現している。 極意の1つに、もし入試当日、「読めない!つらい!」と思ったら、どのように対処していけばいいかというものがあった。その際に必要不可欠なのが第1パラグラフへの対処である。その重要性を強調するために、先生はわざと「26分間」という数字を口に出したのだ。(おそらく)第1パラグラフを読むに当たって、先生はイメージ力や品詞への注意力を強調された。今年の中3生の国語力と英語力が弱いことは既に述べたが、上江洲先生はそれらを同時に引き上げるための絶好の方法を実演された。訳すのではない。イメージする。これが先生の授業の特長である。たった1枚の写真や絵からでも、様々なことをイメージできる。先生はビートルズのyesterdayを気持ちよさそうに歌いながら(笑)、イメージすることの重要性を強調された。yesterdayという歌詞に込められた想い。それが英語の持つ特性であり、魔法でもある。 第1パラグラフが終了。先生は、難解な長文読解に立ち向かうための「極意」を生徒に伝え、それを生徒に印象づけるための「授業技術」を私に伝えた。 そう。この日の上江洲先生は「私の塾生」と「細川先生&私」という二者を相手に授業を行っていた。二種類の相手に対峙し、同時に勝負する。武器は先生の培ってきた経験だけ。まるで、その勝負の先に「新しい自分」が待っているのを知っているかのようでもあった。私は第1パラグラフ終了と同時、今更ながら上江洲先生の覚悟と挑戦心を感じ、震えが止まらなくなった。
2013/11/16
入試問題というのは、作問している段階で、「模範解答」が作問者の頭の中に出来上がっていることが多い。このことは実際に入試問題や模試を作ってみると分かる。例えば、国語の傍線部問題を作る際、その傍線部の解釈や理由が出題者の頭の中に既に存在しており、その上でその部分に傍線を引くのだ。これは、何も入試問題や模試の問題を作るなんて大げさなものでなくてもいい。たとえば、国語の授業中、文章を読んでいてふと気になる部分に出くわすことがある。指導者は「生徒達はこの部分の意味わかってるかな?」と頭の中で考える。そして、それを確認するために、「この部分の主人公の気持ちが分かる人いるかな?」と生徒に発問する。この時、先生の頭の中には「模範解答」が浮かんでいるはずである。これだって立派な作問だ。塾講師というのは、授業中、あらゆる場所で「作問」を行っている。それを「発問」という形で生徒に提示する。もちろん、その全てに解答が存在しているとは言い切れないが、多くの場合、講師の頭の中に「模範解答」に近いものが出来上がっているはずである。入試問題においても、問題作成者が作問した段階で、自然と解答例が出来上がっているという事実は、それほど不思議なことではない。むしろ、そのように考えるのが自然だ。そもそも、模範解答がなければ客観的な採点が出来ない。 つまり、日比谷高校の英語にせよ都立中学の適正検査にせよ、解答例を出していない学校は多いのだが、「それでもやはり模範解答は存在する」と考えることが受験指導の肝なのである。1つ前のブログで述べたが、このタイプの入試問題は大変おそろしい。なぜなら、指導者の力量がそのまま入試結果に結びついてしまうからだ。最近、入塾面談でこんな話を聞くことが多くなった。「(小学校の時に通っていた)塾の授業や模擬試験では良くできていたのに、都立中入試で不合格になってしまいました」というものだ。もちろん、本人が入試当日のプレッシャーで力を発揮できなかったという原因もあるかもしれないが、実はそうではない場合も多いと私は見ている。入試当日、本人には手応えがあった。塾で指導されたように答案も書いてきた。しかし、それでも不合格になってしまった。このケースでは、塾側の指導が間違っていた可能性を疑わないとならない。数年前、都立中高一貫校の指導をしている先生方とお話する機会があった。二人の若い先生であった。たまたま雑談中に見ていたテキストの問題で、お二方が資料の読み取り方を誤解していたので、僭越ながらアドバイスをさせて頂いたことがあった。当塾は都立中高一貫校の指導はしてないのだが、実際の入試問題と、その塾で使用されている教材の解答を見て、少々模範解答に疑問を感じた次第である。都立中側が求めているであろう解答は、おそらくその塾で指導されている解答とはずれているだろう。そう直感した。 これは大変大きな問題を示唆している。すなわち、その塾やその教材でいくら頑張っても、そこの塾生は合格できないということを意味しているのだ。同様のことが、都立高校の推薦入試指導でも起こっていると私は予想している。 ところで、塾・予備校業界では、論述・記述問題の指導について、次のようなことがよく言われる。「受験生は制限時間内に答案を作らないといけない。だから、小論文や記述問題の指導で、講師が入念に予習して作った完璧な解答例なんて意味がない。あんなもん受験生には作れやしないさ」というものだ。確かに、この主張は間違ってはいない。その通りだと私も思う。しかし、だからといって、塾の先生は入念に精査した模範解答を作らなくていいという理屈にはならない。指導者であるならば、じっくりと入試問題を分析し、満点(近くになるであろう)答案も1つは作っておくべきだと私は考えている。満点答案を目指して解答作成しなければ、大学側・高校側が要求している解答が分からない。もしその解答を作るのに数時間かかるなら、それでも構わないと思う。時間短縮は後から考えるべきことだ。スポーツでも勉強でも、最初から時間短縮をすることなどありえない。まずは正しいフォームを身につけ、その後時間短縮を目指すことが、物事の道理であると私は考えている。それに入試問題を作る側は膨大な時間を作問に費やしている。それに立ち向かうためには、我々だって膨大な時間を費やし研究を行わねばならない。そうでなければ互角に戦えない。 都立中高一貫の適性検査は、採点者によって合否に有利不利があると言われているが、実際はそんなことはないだろう。そんな運不運によって、優秀な受験生を逃すことなんて学校側だってやりたくないはずだ。おそらく都立中学も都立自校作成校も、採点は「合議制」によって行い、客観的に合否が決められている。そして、その際、明確な採点基準は間違いなく存在しているはずである。都立中入試や日比谷英語の恐ろしいところ。それは、塾で習ったとおりに解答を書いても、それが学校側の用意した「解答例」と大きくずれている可能性があるということだ。だから塾講師は研究を重ねねばならない。生徒が1勉強するなら、指導者は10勉強しなければならない。上江洲先生の授業を拝見し、上江洲先生と授業前後にじっくり話すことによって、そんな思いを強くした次第である。
2013/11/16
自校作成校の一部や都立中学の多くで模範解答を出していないという事実。これは非常に「おそろしい」ことだと思う。上江洲先生のお話を伺い、私はその思いをいっそう強くした。その理由を述べたいと思う。 模範解答というものは、学校側(出題者側)が出してしまうと、基本的には誰でも(営業活動で忙しい専任講師や経験の浅い学生講師でも)受験指導が出来てしまうようになる。なぜなら、高校側や中学側の求めている解答が一目瞭然なので、過去問を入念に研究しなくても解答が分かってしまうからである。また、解答から逆算し、学校側が求めている模範解答を指導することも可能になる。ところが、そうではない学校もある。都内で言えば、日比谷高校や新宿高校の英語、あるいは都立中学の多くは、「オフィシャルの解答」を出していない。私は数年前、都教育委員会や都立中学に対し、模範解答例を出すべきである旨を伝えたことがあったのだが、それでも頑なに拒否された。つまり、都立中学や日比谷高校の受験生を担当している指導者は、みずから模範解答を作成しなければならないのだ。同時に、もう1つ重大な事実があることも忘れてはいけない。それは学校側は、間違いなく模範解答例を持っているという事実である(←ここが重要)。超一流の入試問題とは、アドミッションポリシーが存在している問題であることは先程述べた。また、日比谷高校の英語は超一流であることも述べた。すなわち、日比谷高校の英語は「こういう風な解答が書ける受験生が欲しい」という強烈なメッセージ性を持った入試問題と言えるのである。要するに、模範解答はオープンにされていないのだが、だがしかし、模範解答はそれでも確実に存在している。私が「おそろしい」と表現した理由はそこである。上江洲先生は1年分解いただけでその点に気づかれた。そして、先生の特別授業と黒板に書いた模範解答は、その点に十二分に留意した最高級の品質と言えるものだった。(この項つづく)
2013/11/16
ところで、超一流の入試問題とは何か。ある人は次のように言うかもしれない。「難しい問題が一流で、簡単なのが三流だよ」と。また、ある人は次のように言うかもしれない。「超一流の問題?それはね、基本事項はいくつも積み重なっていて、一見すると難しい問題に見えるんだけれども、解きほぐしていくと簡単な問題に変化するものだよ」と。私が考える「超一流の問題」とは、「その学校がどんな生徒を欲しているのかを明確に感じ取れる作問になっており、同時にその作問方針が学校の教育方針とずれていない問題」である。もっと言えば、「うちが出題する問題を、うちが望んでいるような考え方で解答できる生徒が入学してくれれば、3年間鍛えあげて志望大学へ導いてあげますよ」というメッセージが感じ取れる問題、それこそが超一流の入試問題だと考えている。つまり、「アドミッションポリシー」(その高校がどんな生徒を欲っしているのというメッセージ)を入試問題を使ってきちんとアピールできている入試問題のことである。 そうした点で日比谷高校の入試問題は、他の自校作成校と比べて「ワンランク上の質」と言えるかもしれない。すなわち、入試問題にメッセージが隠されているのである。上江洲先生はその質の高さとメッセージをたった1年解いただけで見抜かれた。もうこれだけの上江洲先生のすごさが分かるというものである。上江洲先生と電話でお話している際、先生が何度か指摘されたことがある。それは、日比谷高校の英語は、模範解答に「略」が非常に多いということだ。つまり、高校側は「公式の模範解答例」を出していないのである。これは多くの「都立中学」と同じだ。実はここに大変重要な問題が隠されている。(この項つづく)
2013/11/16
上江洲先生の日比谷授業が始まった。冒頭、上江洲先生は日比谷高校の英語を「超一流、一流、二流、三流に分けたうちの超一流である」と述べられた。まさしくおっしゃる通りで、自校作成校の入試問題は「超一流」の問題ばかりだ。それは英語も数学も国語も全てである。そして、「超一流」であることに指導者が気づけないまま指導すると、自校作成問題は、ただ単に「長いだけ」「難しいだけ」の問題に陥ってしまう。 話を戻す。「日比谷高校の自校作成問題は超一流である。」授業開始時の最初の一言として、上江洲先生は上の言葉をお選びになった。私は当初その意図が分からなかった。なぜ上江洲先生は冒頭の一言に上記の言葉をお選びになったのだろう。他にもいくらでも選択肢はあるはずだ。「では、日比谷高校の解説を始めます。」「日比谷の問題を解いた感想はいかがでしたか?」「この話の意味が分かった人?」「何分かかりましたか?」などなど。しかし、こうした当たり障りのない言葉ではなく、上江洲先生の選んだ言葉は「超一流の問題」という一言。私は考えた。上江洲先生のお言葉の意味を。そして、この言葉が大変重く、深い意味を持っていることに気が付いた。そう、この一言は生徒に向けられたものではなかったのだ。では、誰に向けられて発せられた言葉なのか。 「日比谷高校の問題は超一流である。」 それは、東京で塾講師をやっている私自身に向けられたメッセージだったのだ。私はそう感じた。そして、その感覚は日が経過するにつれ、確信に近いものに変わっていった。(この項つづく)
2013/11/16
上江洲先生の授業は静かに始まった。それは、まるで静かな交響曲のようでもあり、壮大なスケールの映画や小説のようでもあった。大きなクライマックスを迎えるストーリーの始まりはいつも静かなものである。そして、その静かなプロローグと印象的なエピローグがピタッと線で繋がる。良い授業とはそんなものであることを、細川先生と私はこの後、目にすることになる。上江洲先生は、他の多くの先生がそうであるように、まずは自己紹介から始めた。そして、そのまま授業に入っていくのかと思っていたその瞬間、上江洲先生は私が想像もしていなかったことを言い始めた。「じゃあ、ちょっとみんなで「上江洲先生~」って呼んでみてください」 それはまるでコンサートにおいて、歌手が観客にお願いするかのような仕草であり、言い様であった。しかし、歌手と上江洲先生との間には決定的な違いがある。それは上江洲先生はアウェイの環境にいるということだ。繰り返しになるが、上江洲先生はあくまでもゲストである。そこに上江洲信者はまだ一人もいない。サッカーで言えば、アウエイの環境での授業だ。しかも相手は最も恥ずかしがり屋な世代である中学生。この状況下で、「ちょっと私の名前をみんなで呼んでみてください」と言い出せる講師が、果たして世の中に何人いるだろうか。私が驚いているのも知らず、上江洲先生は続ける。「さん、はい!」すると、生徒達が一斉に「かみえすせんせーい!」と元気よく応える。 上江洲先生は続けた。「もう一度お願いします。さん、はい!」生徒達「かみえすせんせーい!」さらに元気の良い声が教室に響く。 これはなかなか出来ることではない。この瞬間、教室は上江洲先生のコントロール下に置かれていた。安倍首相が五輪招致のスピーチで言った「アンダーコントロール」とはまさしくこのこと。こうして上江洲先生の授業は開始された。ここまででちょうど1分が経過した。※なお、きちんと「かみえすせんせーい」と大きな声で言えるうちの塾生達もなかなかのものであると思っている。手前味噌で恐縮だが、あの場で「かみえすせんせーい」と全員で話せる中3クラスは、全国にもそう多くないのでは・・・。
2013/11/15
塾、予備校の先生は、大きな声を出して授業をする先生と普段通りの声で授業を行う先生がいる。上江洲先生は、どちらかと言えば後者のタイプの先生である。 私は以前の塾で新人研修する際、原則「大きな声で」授業を行うように研修をしていた。理由は、多くの若い先生にとってその方が安全だからである。とりわけ小中学生対象の塾であるならば尚更である。大きな声で授業を行う方が活気が出るし、少なくとも「声が聞こえない」というクレームがくることはない。また、自信がありそうにも見える(笑)一方、普段通りの声で行う先生もいる。私もそちらのタイプ。これは小さな声というのではない。普段通りの声である。但し、普段通りの声で授業を成立させるためには条件が3つある(と思う)。1つはその先生の声がよく通る声であること。2つめは、生徒の側に「聞く力」(聞く意欲+聞き取れる学力)があること。3つめは講師側に教室をコントロールできる技術があること。この条件が揃えば、私はむしろ後者の方が良いと考えている。だが、大手塾において、この3条件が揃うことは大変難しく、したがって若い先生方は大きな声で授業を行うのが一番安全ではある。多くの大手塾でそのような研修が行われている背景にはそうした事情があるのではなかろうか。私が普段通りの声で授業を行っている理由はいくつかある。一番の理由は、大声で怒鳴っていると、声を出す方にばかり気を取られ、私自身の頭が働かないということがある(笑)。レベルの高い問題を解いている時は、高校受験とは言え、ちょっとした知的作業が必要とされる。授業中、順を追って論理的に説明している際、大声で話していると何を話しているのか自分自身で分からなくなってしまうのだ。他にも理由はある。講師が普段の声で授業を行うことが最も自然な状態であると考えているからだ。この状態が、生徒の頭を最も働かせることができ、知的好奇心をも喚起でき、さらに入試会場で問題を解く時に最も近い環境を作り出すことができると考えている。多くの大手塾で行われているパフォーマンス型の授業は、普段子供達が勉強する環境と比べると、あまりにも異空間。「塾だとやる気になるのだけれど、家だとサッパリ・・・」という受験生は多いが、これは塾の空間があまりにも日常空間とかけ離れていることも関係している。こうした事情もあり、私は普段通りの声で授業を行う派である。
2013/11/15
上江洲先生が到着して、塾の中を見てもらいながら(と言っても狭いので一瞬で終わり)、しばし雑談。その中で、上江洲先生が本日解説される「日比谷高校の英語」について、ある一言を述べられた。それもサラッと。参った。上江洲先生が来てから時間にして10分程度。この時点で上江洲先生が「本物」であることを私は実感した。上江洲先生がさらっと言った一言こそが、自校作成問題英語の秘密の1つである。これは日比谷高校に限らず、自校作成全般に言える「秘密」なのであるが、私はこの秘密を発見するのに2年かかった(←遅っ)。しかも、15校ある自校作成校の入試問題をおおかた解いた後に気づいた。しかし、上江洲先生はその秘密を僅か日比谷高校1年分を解いただけで気づかれた。さすがである。(もちろん、言われてみればごくごく当たり前のことであり、私自身が気づくのが遅すぎということもあるが・・・)自校作成校の入試問題はボリュームがあり、設問も大変よく練られている。そのため、試験時間内に解答を出すことが難しい問題も散見される。しかし、「あること」に気づくと実は答えが若干見つかりやすくなる。あくまでも「若干」ではあるのだが、そのわずかな差が受験生の心に余裕を生み出し、もしかするとその一問が合否を分けることもあるかもしれない。だから、些細なこととは言え、上江洲先生がおっしゃった一言は大変重要な一言なのである。それを上江洲先生はさらっと指摘された。 その後、上江洲先生は本日の授業準備(最終的な仕上げ)を行うために教室へ向かわれた。もちろん、上江洲先生は事前に問題を解かれているし、新幹線の中でも英文を確認されてきたそうだ。その上での最終確認である。 そこで、私も本日の授業の最終確認を始める・・・。すると、教室から上江洲先生の声が聞こえてきた。遠くからでも分かる流暢な英語である。上江洲先生は、本日の授業で扱う日比谷高校の英文を音読されているのだ。授業開始30分前になる。ここでもう一人のゲスト細川先生が登場する。細川先生は大学受験予備校で現代文を指導しながら、自身の個人塾「進学塾uine」を開かれた凄腕の塾長さんである。3月に一度、当塾に見学(および授業)にいらっしゃったのだが、今回は上江洲先生の日比谷解説を見たいとのことで、再びいらっしゃった。 時間は15時。授業開始は15:30なので、生徒達が続々と塾に集まり出す。普段遅刻にはとりわけ厳しくしている当塾であるが、さすがに「今日は遅刻しないで来てくれよ」と私は一人緊張していた。特に男子生徒で遅刻しがちの子がいるので、気が気でなかった(笑)。私はたとえお客様がいようと、遅刻した子はその場で帰宅させる。もちろん激怒した後に。せっかく上江洲先生と細川先生がいらっしゃっている日に、私の怒鳴り声で雰囲気を壊してしまうのが嫌であった。だから、全員が時間前に揃った時は、いつも以上にほっとした。全員教室に着席し、いよいよ上江洲先生の授業が始まった。
2013/11/15
上江洲先生のことは今さら説明するまでもあるまい。奈良県の最大手塾で20年近く指導をされ、奈良県公立高校入試が終わった後は、テレビで入試問題解説も務められていた関西圏トップクラスの講師である。東大寺をはじめ、県立奈良や県立畝傍高校に多数の合格者を輩出している奈良県トップレベルの先生。もちろん、合格者数だけではなく、その指導方法の多彩さ、引き出しの多さも先生のブログを読めば一目瞭然。日々教育技術の研鑽を積まれている職人である。私が普段懇意にしている関東圏の多くの先生方の中にも上江洲先生を尊敬されている方は多い。もちろん、技術だけではない。上江洲先生の技術には、常に「思想と精神」が宿っている。そのあたり小手先の技術に頼りがちな私のような講師とは一線を画す。上江洲先生の持っている技術の裏には思想があり、なぜその技法が生み出されたのかの理由を探ってみると、そこには必ず先生の思想なり信念なりが横たわっている。進学塾UINEの細川先生が、上江洲先生のことを称し、「カリスマ」と表現されていたが、多くの方が上江洲先生にカリスマ性を感じる所以も、先生の背後にある思想性、宗教性が関係しているのではないだろうか。上江洲先生は自らの指導技術の集大成の場として奈良県に「進学塾SORA」を創設された。当時、上江洲先生が独立し、塾を創られたことは、多くの塾講師の心を揺さぶった。「あの奈良県の上江洲先生が独立される・・・」。これに刺激を受けた塾の先生は私の周りでも多く、全国で大手塾を辞め、自らの塾を創設した先生は私の知るだけでも数名存在する。そうした意味で上江洲先生は、細川先生のお言葉を借りれば「個人塾界の巨人」である。(ちなみに私は阪神である。) さて、その上江洲先生。どういう訳か私が行き詰まっていたり、人生の分岐点にいたりすると決まって電話をくれる。独立する際も、独立後も、節目節目で必ずお電話をくれるのである。(もちろん、ただ単に好きな漫画について語って終わる場合もある)今回もちょうど私が最終盤の英語の進め方について考えていた時の電話であった。今年の子達は、昨年の子に比べ、少々平均偏差値が低い。大体5程度低い。原因は国語の力である。国語が出来ないがために、社会や英語の偏差値も下がっており、そればかりでなく数学の応用問題も出来なくなっているという状況だ。私の塾は選抜テストもなく、先着順に入塾して頂いている。特に新中1や新中2の春は、学校成績で2がなければ入塾可能であるため、オール3程度で入塾してくる子がほとんどだ。そして、学校成績でオール4に届かない子はほぼ例外なく国語が苦手である。その国語力が足を引っ張る形で全体の成績が低迷し、さらには「意欲」まで下げてしまっているのである。(国語力と意欲との関係はいずれ書きたいと思う)また、先着順入塾のため、年度ごとに力のバラツキも大きい。昨年のように学年1位がクラスの4分の1(16人中4名)を占める学年もあれば、そうでない学年も当然ある。今年の中3生は、中2時代から勉強面以外の修正点が多い学年で、学力も当初はそれほど高いわけではなかった。ここに来て偏差値は随分上がってきて、「塾生全員の偏差値60以上」まであと1名という状態まで来ている。しかし、いかんせん国語の力が弱い。その対策を考えていた矢先の上江洲先生からのお電話であった。 上江洲先生は電話口で次のように言われた。「先生の塾に伺ってもいいですか?」私は独立してからこの瞬間を待っていた。独立するとなかなか他の先生方の授業を見る機会がなくなる。他の先生と交流する機会がなくなると、どうしても自分自身の成長度も弱まってしまうもの。こんな機会はめったにない。生徒達にとってもきっと有意義な時間になるに違いない。私は電話で快諾した。というより、正確にはお願いしたと言った方が正確かもしれない。
2013/11/15
9月16日...。祝日のため、この日の塾は休み。ただ、休日といっても、大抵は仕事のことを考えている。特に受験生のことを考えることが多い。彼らの学力と志望校との距離を考え、その差をどのように埋めていくか、そんなことを考えながら過ごしていることがほとんどだ。そうこうしているうちに、あっという間に休日が終わってしまうということもしばしばである。この日もそうだった。前日までの残務を塾で片づけ、帰宅したのはちょうど夕食の頃。食事を済ませた私は、妻とテレビを見ながら(そうそう、ブログを休んでいる2年の間、私事ですが結婚いたしました)、流れてくる映像とは全く関係のないこと、すなわち受験生達の最終盤プロジェクトを「アーデモナイコーデモナイ」と考えていた。携帯電話の着信音が鳴ったのはそんな時であった。進学塾SORA塾長、上江洲先生からである。
2013/11/15
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2013/11/13
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