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上江洲先生の授業技術で「ここが決定的に他の先生と違う」というものは何だろうか。答えを1つに絞るのは難しいが、あえて言えば「発問の質」に上江洲先生の凄さは集約されている私は思っている。先生の発問は1つ1つが大変工夫され、練られている。
よく塾のチラシで、「共演授業」「双方向の授業」というキャッチフレーズを見ることがある。簡単に言えば、講師から生徒への「発問」が多い活気のある授業のことを指しているのだろう。しかし、力量のない先生が行う発問は、単なる時間稼ぎであったり、生徒の退屈しのぎであったり、あるいは居眠り防止のためだけになっていることが多い。
また、発問の多さをアピールするあまり、「発問すること」それ自体が目的になってしまっている先生もいる。そのような先生の発問は、「発問がたくさんある授業にするための発問」になっていて、決して悪いとは言い切れないのだが、こうした発問には思想と意図がない。
上江洲先生の発問には思想があり、意図がある。先生が授業中に行う発問は、その全てが生徒の頭を回転させるという明確な目的を持っている。生徒が反射的に答えられるような質問、頭を使わずに答えられる質問、単に知識を問うだけの発問はほとんど行わない。生徒が頭を働かせないと答えられないような発問を次から次へと繰り出してくる。
そればかりでない。その発問と生徒からの応答を積み重ねた集合体は、長文読解と設問解答の要諦へときちんと結びついているのである。
ここまで書くと、徐々に上江洲先生の授業がどのようなものが明らかになってきたと思う。要するに上江洲先生は英語という教材を用いて国語力と思考力を鍛える訓練をしているのだ。
英文を訳すのではなく、脳を回転させながら読解する。その際、1つ1つの単語のニュアンスに敏感になり、どんな意味が含まれているのかを考えさせる。こうした作業を通し、本文全体のテーマを正確に読みとっていく。これを国語の授業と言わずして何と呼ぼう。
上江洲先生の特別講義。使っていた教材は紛れもなく日比谷高校の英語であった。しかし、私が目にしたのは、間違いなく国語、いや言語の授業と呼ぶにふさわしいものであった。上江洲先生は、英語の授業を通し、物事を理解する上で最も大切で本質的な部分を指導しようとしていたのだ。この事実に気づいたとき、「あ~、やはり上江洲先生は神江洲先生であったか」と思わざるを得なかった。
上江洲先生特別講義13(最終回) 2013/11/17
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