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コーチングの世界では、承認することの大切さ、褒めることの大切さがいわれる。もちろん頭ごなしに罵声を浴びせられるよりは遙かにいいに違いないのだけれど、ほめる・・ということに私はこの頃少し懐疑的になっている。
実は、KATAKURIが小さい頃、私は、励ますつもりで盛んに、ほめてほめて、ほめまくって育てたのだ。そのことで、彼女が思春期に達するようになって、少し疑問を持っている。果たしてあれでよかったのだろうか?と。
彼女が生まれる前から、私は、「問題のないよい子が実は問題なのだ」という実例を嫌というほど見てきた。だから、良い子をであれと要求することはないつもりでいたけれど、結果として、親がいい子を要求する前に、彼女の方から親の望むいい子を暗黙のうちに察して、「先取りいい子!」を演じてしまったようだ。
「ほめるというのは、偉い人が、ああよくできたねってほめるんで、対等な横の関係の時にはほめないし、下の人は上の人をほめないでしょう」
ある時、ふと漏らしたKATAKURIが漏らしたひと言。
そうか、やっぱり親面をして、偉そうにほめていたのか・・と気が付かされた。あれはちょっとした衝撃だった。
ほめて育てられると、自分の内発的な欲求や関心よりは、他人の評価が行動原理になってしまう。いつも、大人の顔色を見て、「ほめられるためになにかする」「大人の望む行動をとってほめられようとする」そんな行動様式が、知らぬ間に身についてしまうのだ。
天外伺朗さんは、「完全自由化宣言」の中で、その辺のことを「他人の評価に依存する習慣を身につけさせてしまうのでよくない・・」と指摘している。
さらに
「ほめることも含めて、一切の評価をせず、間違いもしてきたりせず、こども達が自分で築くようにする。聴きに来るまで、一切ほったらかし、という教育が必要だ」とも。
水道方式の遠山啓先生も、評価は最低限で、教師の反省のためにするもので、学外に持ち出し厳禁・・という考えだったのを思い出す。
自然の中でしっかり地に足をつけて、人の評価に振り回されず我が道を行け・・ということなのだ。天外さんはその辺の事情を、ディープ・グラウンティングと表現する。
こども達に必要なのは、大人からの一方的な価値観の押しつけによる評価でなく、あるがままの有り様を無条件に受け入れることなのかも知れない。ありのままの自分を受け入れられたときに、こども達は、うちに眠る宝、力が目覚め、動き出すのかも知れない。
ニールのサマーヒル学園でも、「こども達が自分自身である自由」を与えれば、独りでに立ち直り、成長してゆく」姿が見られたのだという。
「困った子というのは、実は不幸な子どもである自らの存在を否定された何らかの体験をしており、自分自身と闘っている。その結果周りの世界と闘うのだ」ニイル。
サマーヒルに入学して六ヶ月保護にはほとんどの子どもは幸福で健康になり、悪いことは何もしなくなるのだという。 その間先生達は、一切の注意や叱責をせず、こども達を導こうとせず、全面的にありのままの姿で受容し、自由を与えるのだという!!
今だに、抑圧的な上からの道徳の押しつけ一辺倒の、どこかの教育官僚に見て欲しいようだけれど・・
ほめない、叱らない、価値観を押しつけない、じっと見守る・・・
そういえば、高校の教員をしていた私の父の、教育観もかなりこれに近かったように思う。
どこかでニールに出会っていたのだろうか・・。
私が子どもの頃も、父の子供観はかなりユニークな気がしたけれど、その父も亡くなり、孫が15歳になる程年が経ても、いまだに叱責や知識の詰め込みが横行している日本の学校教育の状況を考えると悲しくなるが。
せめて、フィンランドのように、教育の権限を政府の官僚から、こども達に一番近い現場におろすようにして欲しいのだけれど、どうもベクトルは逆の方に向いているらしい。