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ほめていいの? コーチングの世界では、承認することの大切さ、褒めることの大切さがいわれる。もちろん頭ごなしに罵声を浴びせられるよりは遙かにいいに違いないのだけれど、ほめる・・ということに私はこの頃少し懐疑的になっている。 実は、KATAKURIが小さい頃、私は、励ますつもりで盛んに、ほめてほめて、ほめまくって育てたのだ。そのことで、彼女が思春期に達するようになって、少し疑問を持っている。果たしてあれでよかったのだろうか?と。彼女が生まれる前から、私は、「問題のないよい子が実は問題なのだ」という実例を嫌というほど見てきた。だから、良い子をであれと要求することはないつもりでいたけれど、結果として、親がいい子を要求する前に、彼女の方から親の望むいい子を暗黙のうちに察して、「先取りいい子!」を演じてしまったようだ。 「ほめるというのは、偉い人が、ああよくできたねってほめるんで、対等な横の関係の時にはほめないし、下の人は上の人をほめないでしょう」ある時、ふと漏らしたKATAKURIが漏らしたひと言。そうか、やっぱり親面をして、偉そうにほめていたのか・・と気が付かされた。あれはちょっとした衝撃だった。 ほめて育てられると、自分の内発的な欲求や関心よりは、他人の評価が行動原理になってしまう。いつも、大人の顔色を見て、「ほめられるためになにかする」「大人の望む行動をとってほめられようとする」そんな行動様式が、知らぬ間に身についてしまうのだ。 天外伺朗さんは、「完全自由化宣言」の中で、その辺のことを「他人の評価に依存する習慣を身につけさせてしまうのでよくない・・」と指摘している。 さらに「ほめることも含めて、一切の評価をせず、間違いもしてきたりせず、こども達が自分で築くようにする。聴きに来るまで、一切ほったらかし、という教育が必要だ」とも。 水道方式の遠山啓先生も、評価は最低限で、教師の反省のためにするもので、学外に持ち出し厳禁・・という考えだったのを思い出す。 自然の中でしっかり地に足をつけて、人の評価に振り回されず我が道を行け・・ということなのだ。天外さんはその辺の事情を、ディープ・グラウンティングと表現する。 こども達に必要なのは、大人からの一方的な価値観の押しつけによる評価でなく、あるがままの有り様を無条件に受け入れることなのかも知れない。ありのままの自分を受け入れられたときに、こども達は、うちに眠る宝、力が目覚め、動き出すのかも知れない。 ニールのサマーヒル学園でも、「こども達が自分自身である自由」を与えれば、独りでに立ち直り、成長してゆく」姿が見られたのだという。 「困った子というのは、実は不幸な子どもである自らの存在を否定された何らかの体験をしており、自分自身と闘っている。その結果周りの世界と闘うのだ」ニイル。 サマーヒルに入学して六ヶ月保護にはほとんどの子どもは幸福で健康になり、悪いことは何もしなくなるのだという。 その間先生達は、一切の注意や叱責をせず、こども達を導こうとせず、全面的にありのままの姿で受容し、自由を与えるのだという!! 今だに、抑圧的な上からの道徳の押しつけ一辺倒の、どこかの教育官僚に見て欲しいようだけれど・・ ほめない、叱らない、価値観を押しつけない、じっと見守る・・・そういえば、高校の教員をしていた私の父の、教育観もかなりこれに近かったように思う。 どこかでニールに出会っていたのだろうか・・。 私が子どもの頃も、父の子供観はかなりユニークな気がしたけれど、その父も亡くなり、孫が15歳になる程年が経ても、いまだに叱責や知識の詰め込みが横行している日本の学校教育の状況を考えると悲しくなるが。 せめて、フィンランドのように、教育の権限を政府の官僚から、こども達に一番近い現場におろすようにして欲しいのだけれど、どうもベクトルは逆の方に向いているらしい。教育の完全自由化宣言!
2008年03月06日
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のんびりしよう後悔先に立たずこぼしたミルクはもどらない昨日のことは時効だよ昨日のことを思い悩んでもなーんにもならないそうは思いつつふっとああすれば良かった・・というほろ苦い思いが胸をよぎることがあるわたしにとってのほろ苦い思いとは子どもを信じてもっと もっとのびのびと幼い日々を過ごさせてあげれば良かったという思い現代人の多くがそうであるように私もまたあくせくと頭でっかちに肩に力をいれて生きてきたあわてないで焦らないで力を抜いてのんびり幼いものに寄り添えたら良かったのに頭ではわかっていた「教えてはいけない」「発見を待たなくてはいけない」「親のペースに子どもをまきこむな!」でも頭で分かることとこころで気が付くことには天と地ほどの隔たりがある理屈は理屈親が教えなくとも理屈万能の世の中でそんなものは自然に身について行く早く早くと幼いこころを競争にあおりたて・・もちろんそんな自覚がないところが一番困ったところなんだけれどもういちど幼い子どもに寄り添って生きることが出来たらこんどこそ理屈抜きに温かい皮膚を抱きしめてあげようわかい 幼いいのちはたくさんの事をおしえてくれる学ぶのは私自身だったのだ
2008年03月01日
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社会力が危ない! 今、こども達を取り巻く問題で一番問題なのは、社会力の低下だという。社会学の門脇厚司・筑波大学教授は、1980年代から、こども達の世界の社会力の低下を訴え続けてきた。 私が、こども達の変化、特に幼い子どもの変化に気が付いたのがちょうどこの頃だったような気がする。私は、以前から、電車の中などで、まだ言葉も十分でないこども達と、表情で、コミュニケーションを交わし会うということを良くやったのだけれど、ある時期から、赤ちゃん達の表情がとても乏しくなったのだ。人に興味をむけない、関心のないこども達がとても多くなった気がする。 以前は、子どもにほほえみかけると、かなり小さい赤ちゃんでも、あるいは小学生くらいの子どもでも、にこやかな良い笑顔で答えてくれたものだったけれど、80年代以降くらいから。こども達の表情が急に乏しくなった気がする。 ちょうど同じ頃から、お母さん達の表情もとても貧しくなった気がする。身内の、親しい人とは、異常な接近の仕方で等々とおしゃべりを続けるのだけれど、すれ違った人間に対して、興味や関心を抱かない人が多い気がする。 赤ちゃんをだいている様子を見ても、以前は心からかわいくてたまらないという様子で、ほほえみかけながら赤ちゃんをだいているお母さんがほとんどだった気がするけれど、最近は、お母さん自身がとてもいらいらして、うるさい厄介者を抱えるような感じで、子どもを抱いている人をよく見かける。 少し前には、祖父母がそばにいたり、おじさん、おばさんが至り、隣近所の自然なコミュニティーが機能していて、赤ちゃんはごく自然に、いつの間にか、温かな人間関係に支えられて、他人に対する興味や関心をはぐくんでいたのだろう。まず、大人達の社会に、コミュニティー感覚が希薄になって、家族が、それぞれの家の中で孤立して生活している。 子どもの社会力を育てる、人への興味、関心を育てる2は、三歳までの豊かな人間関係が必要なのだという。その意味では、人間はとても不自然な生活の仕方に陥っているのかも知れない。子どもも、その親の世代も、人間関係を出来れば避けて通りたい鬱陶しいもの、嫌なものという感情が蔓延しているのではないだろうか。 子どものことばかりは言えない。大人達も、人との付き合いが希薄になり、人とのやりとりが少なくなってしまっている。 その間隙を縫って入り込んだのが、ゲーム機とテレビだろう。コミュニケーション能力を育てる大切なチャンスは、一方通行の機械に遊んでもらう生活の蔓延でますますやせ細ってしまう。大人の生活でも、昔は、ちょっとした買い物でも、近くの商店街でのコミュニケーションがあったけれど、今は、一日中ほとんど口をきかなくても、過ごせてしまう。 さらに、受験の低年齢化に伴って、小学生から夜遅くまで(お弁当を2回分も持ってゆく子もいる)塾に通い、人間関係を学ぶ時間を、受験のための知識の詰め込みに奪われてしまう現実も見逃せない。 ヨーロッパのことわざに「子どもを育てるには村(コミュニティー・地域社会)が必要」というのがある。子どもにとっては、地域が、より大切な学校なのだ。産業化・物質文明化・都市化が進む中で、こども達の(あるいは大人も含めて)非人間化が進むとしたら、意識的に、人間らしい地域のコミュニティーを作り上げてゆくほか無い。 特に、最近の子どもの人間関係で問題なのは、仲間から外れるといじめの対象になる・・ということの不安感からくっついていると言うだけの、信頼関係のな射、「ひとりぼっち」に対して、「みんなぼっち」と言われる状況が、蔓延していることです。孤立することの不安から、表面で必死につながりあっている・・。 かつては、日本のこども達も、素朴な人なつっこさを身につけていたけれど最近のこども達は、大人に対し、関心を持たず、警戒して近づかない。大人の方でも、そんな最近の日本の子どもにむしろ慣れっこになってしまっているけれど、外国を歩いていると、子どもが本来持っている、大人に対する好奇心、興味、信頼を失わずに、明るくほほえみかけてくる子ども達に出会って、あらためて、日本の社会の病巣の深さを感じさせられる。 大人も子どもも、生活や人生が、狭い自己完結した世界で営まれている人が多く、社会に窓が開けていない。自己完結した世界に閉じこもっていると、人間の最も大きな価値である、社会の中で生きてゆく喜び・・社会との相互的な働きかけの中で充足感を手にしてゆく・・という喜びがいつまで経っても手に入らなくて、自己充足を求めれば求めるほど、空しさの中に取り込まれてしまう。 フランクルの言う、現代社会の「生きる意味の喪失感による苦悩」というのは、まさに、社会力の希薄化と同じ根の問題なのかも知れない。社会力再興 子どもの社会力 学校の社会力「ひと塾リベラ」松井幸子 info@lumoscoaching.jp
2008年02月29日
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使えない学力 かなり前になるけれど、英語に関しては間違いなくトップクラスという評価をうけている大学の、英文学の教授が嘆いていた。 「受験英語はパーフェクトに出来るんだけれど、実際に入学してから使い物にならない学生が激増している」のだという。 受験でパーフェクトに近い点数をとる学生が、実際には読解力が非常に低い。翻訳をやらせてもめちゃくちゃ。その原因として教授は、日本語での読解力の不足を挙げる。日本語できちんと本が読めない学生が、いくら受験英語を詰め込んでも、本当の外国語の力は身につかないのだという。あらためて、日本語の本を読むところから始めなくてはならないのだという。日本語がきちんと身についていなければ、英語も身につかない・・ということなのだ。だいたい、日本語の力がいい加減で、入試で高得点できてしまう、そんな日本独特の受験英語なる物が、ゆがんでいるのだ。 京都大学の理学研究科・上野健爾教授の「学力が危ない」によれば、京都大学の理学部の学生でも、わかっていないことが自分で判断できない学生が少なくないのだという。京都大学に入学してくるような学生ですら、「本当に理解できて回答しているのか疑いたくなるような答案が激増しているのだという。 上野教授によれば、「多くの学生は、高校時代、数学の問題を理解して解いてきたのではなく、回答のパターンを丸暗記して、意味はわからないままに、先生に、正しいかどうかを判定してもらって過ごしてきたため」であるという。 数学の問題を解いてから、解きっぱなしではなく、必ず答えが、矛盾した者になっていないか、とんでもなく考えられないような数値になっていないか、解を吟味するはずだし、少なくとも一回は別解で確かめをするものだと思うのだけれど、理解せずに、覚え込んでくると、自分の間違いにも気づけないのだという。 そこで、分かっていることと、分かっていないことを区別する作業を、高校時代、あるいはそれ以前にさかのぼってする・・そこから、大学の勉強を始めなくてはならないので、理科系であるにもかかわらず、数学や物理の講義が成り立たないのだという。天下の京都大学でこの調子だから、ほかの大学がどんな状況かは容易に想像がつく。 真剣に自分で考えて、゜腑に落ちた経験”をすることの大切さを指摘しておられるけれど、小さい頃から本当に「分かった」・・という喜びの経験が、欠落しているのかも知れない。子どもが一生懸命自分で考えて、「やったー」という歓声を上げる瞬間の笑顔は最高なのだけれど。そういう学びの喜びの原点になる経験が乏しくて、ひたすら知識を注入されるとしたら・・背筋が寒くなる思いがする。 特に、生涯を通じての学ぶ力としての学力の低下は、日本の社会の将来を揺るがしかねない。 小学校の課程での基礎が理解できていない・・わからないのに、正解を求める技術だけを覚え込む癖がついて、高校生になり、理解できないままに、とにかく入学に必要な点数だけをかすめ取るテクニックばかり身につけると、一流大学に入っても、使い物にならない学力しか身につかないのだ。 使えない学力を山ほど押し込んでも、何の役にも立たない。まず学ぶ力としての真の学力と学ぶことの喜びを、小学校時代から身につけないといけない。学力があぶないひと塾リベラ 松井幸子info@lumoscoaching,jp
2008年02月27日
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自分で考える 日本人のオリジナリティーのなさは、昔から定評がある。そして、悔しいけれど諸外国を見渡すと、やはり認めざるを得ない気がする。 英語のeducateはもともと、学ぶ者のうちにある良いものを引き出す、という意味なのだという。でも、明治時代にそれに「教育」という訳語をつけてしまったところに、そもそもの間違いがあったのかも知れない。高見に立って、権威ある者が、無知な者に教え込む・・そんな出発点でのボタンの掛け違いを感じる。 江戸末期には、様々な分野で、自由で自発的な学びの流れがあったのだけれど、明治にはいると共に、上から管理され、教えられる・・という、堅い、教え込みの教育が定着してしまった。 国の決めたカリキュラムを、教える。教わる方は、その中身をそのまま素直に(無批判に)ひたすら覚え込むことが、学校の教育の中心的なありようになってしまった。 戦中を知るある先生が「今の管理的な教育は、戦争中よりも自由がない」といっておられるのを聞いたことがある。そうかも知れない。戦後の管理主義教育は、教育から人間性を奪ってしまった気がするのだ。こども達も、教師達もどちらも管理の対象となり、本来の人間らしい扱いを受けていない。人間が、学ぶこと動物の調教は違うのだけれど、いつもまにか、日本の学校教育は動物の調教に近いものになったしまった。教育の根幹になる、人間の中の、良き部分を信頼し、自分の力で成長してゆくのを、見守りサポートする・・本来のeducateを取り戻したいのだけれど。 イギリスの、ケンブリッジ大学の入学試験で最終的に最も重視されるのは、現時点での知識の量ではなく、その生徒の持つオリジナリティーなのだという。オックスフォード大学でもその点は同じだという。いくら細切れの知識を沢山持っていても、自分の力で考える、オリジナリティーを持っていなければ、大学に入っても力を伸ばすことは出来ない・・という考えによるらしい。 もう一つ、オリジナリティーの重要性についてのもう一つの例。「ガンは自分で治せる」というユニークな免疫学で、ガン好発世代を強力に励ましている、免疫学の世界的権威、新潟大学の安保徹教授は、独自性のある研究をするためには、なるべく人の論文を読まないのだという。ご自身がそうであるだけでなく、学生にも、人の論文を読むよりは、自分自身のオリジナルな研究に集中するように・・と指導されるのだという。 先人に学ぶことはすばらしいことだけれど、最終的には、自分の頭で考え、自分の言葉で語ることをしないと、何時までも、猿まねの域を脱しられないのでは・・。
2008年02月25日
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独来独去 でも人は一人じゃない 大無量寿経という、お経がある。私も、そんなに良く勉強したわけではないのだけれど、その中に興味深い一節を見つけました。 「独来独去 無一随者」というのです。 つまり、私流の意訳をしてみれば「人間、生まれるときも死ぬときも、一人きり、誰もついてきてはくれない」という恐ろしいまでの、人間の存在の厳しい一面を語っている。 さらに大無量寿経は次のように続いてゆく。 「財産があっても、物惜しみをして人に与えず、宝をむさぼり守ることに心身を苦しめる。そんなにまでして財宝を惜しんでも、死んで持って行けるものは何一つ無い(身一つで行かねばならない)」 まあ、幸い物惜しみをして、こだわるほどの財宝には全く縁がないのでこちらの方はあまり心配はないけれど。 高校生の頃、もちろん大無量寿経なんてお経の存在すら知らなかったけれど自分なりの思考の中で、この事実にはたと突き当たって、酷く虚無的な気持ちに襲われたことがありました。 「気が付いてみると、この世の中に一人で生まれてきた。そして、やがて一人で、肉体にもこの世にも別れを告げて去っていかなければならない。だとしたら、生きていることは一体どんな意味があるのだろう・・」 当然、その答えは、いくら考えてもその時点では出ようはずもなかったのです。誰かに、そのことを問いかけるチャンスすらありませんでした。 ただ、経験的に漠然と、今そのことに悩んでも生産的ではない。まだ、ほんの少しの猶予はありそうだから、とりあえず、答えのでない大きな難問は留保しておいて、目の前の一瞬一瞬を、精一杯に生きるしかない・・。という一定の自分なりの答えを出したものでした。 今、大無量寿経のこの言葉に巡り会って、ああ、あの時の心境だったのだと思い至ります。 そう、個としての自分を、孤立したものとして考えると、あまりに小さく、あまりに空しく、孤独で、さびしいのです。でも、最近はこの大無量寿経のさきにある、大きな宇宙、長い命の鎖の一部分として支えられて、一体となって生きている(活かされている)自分に思いたるようになりました。 私たちは、肉体という命の器にのって、自然と対立したり、孤立した存在として生きているけれど、私の中の生命は、長い、幅広い生命の連関で、自然と宇宙とつながっているのです。 たとえば、私に命を繋いだ両親がいます。その両親には、2人ずつ合計4人の祖父母がいます。その祖父母に命を繋いだ曾祖父母は8人このように計算してみると15代前には、なんと16、384人の生命が、一度もとぎれることなくバトンタッチを繰り返してきたのです。15代前というとひと世代25年として計算すると375年前、もう江戸時代に入っています。江戸以降でもこんなにたくさんの命が一人の人間の誕生には関わっているのです。 この一人一人が、絶やすことなく命を繋ぎ、精一杯に生きてきたのだと思うと胸が熱くなります。そう考えれば、何も大変な偉業を遂げなくとも、お金にも地位にも名誉にも縁がなくとも、生きて人類の命の鎖に連なって生きているだけで十分に意味があると思えます。 命の鎖を次の世代に引き継ぐだけでもたいしたことです。仮に、自分の子どもがいなくても、人類の生命の流れを側面的にでも支える事ができただけでも、やっぱりすごい事です。生きている事は、すごい事、有難い事、大変なことです。 そう考えると、「独来独去 無一随者」でも、ちっとも寂しくない、孤独ではない。私に連なる、何万もの生命があるのです。その、大きな流れの一つの環に、私のいのちがある。私に与えられた区間を精一杯に走って、自然の懐に帰ってゆこうと思います。 元々、私たちの肉体も140億年前のビックバンの時に宇宙空間にまき散らされた星のかけらなんだそうな・・・。まさに、私たちの存在は宇宙そのものなのだから、宇宙に抱かれて、ちっぽけな自意識を宇宙の中に溶かし込んで、生きてゆきたいものです。 高校生の頃、学校は受験一色でした。なんのために生きているんだろう、なんのために学んで知るんだろう・・と考えるゆとりはあたえられなかったのです。 記憶に残っている先生達の言葉は「ここは入試にでる」「○○点以下では、試験に受からない」という脅しばかりです。そして私自身は「今だからこそ、こんな知識の詰め込みではなく、もっと考えておきたいことが沢山あるのに・・」という思いを抱えていました。 それから数十年経って、やっとこの頃、その頃の宿題に、答えを見出しかけたかな・・という思いです。 だいぶ昔の調査だけれど、アメリカのジョンホプキンズ大学が国立精神衛生研究所の援助を受けて行った調査があります。その結果によると、78%の学生が自分の人生に意味と目標を見出すこと、有意義な人生哲学を作り上げることを、人生の第一の目標にあげています。 私たちの、生涯を通じた学びの目的もまさにそこにあるのでは・・人間を理解したい、人生の意味を手に入れたい・・そんな思いの中に。 私、という存在が、宇宙につながっている、そんな実感がもてたらとても安らかな気持ちになって、やるべき仕事、ミッションのために、力を発揮できるのではとおもうのです。ひと塾リベラ 松井幸子info@lumoscoaching.jp
2008年02月22日
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リーダソン 本読みマラソン 楽しみの読書を身につける katakuriがイギリスにいた頃、小学校ではリーダソンが盛んだった。カードに自分が読みたい本を書いて、友達や周りの大人にこれを読むことチャリティーにするということでお金を集める。あとで、クラスで集計して、セーブ ザ チルドレン・・等々、様々な団体に寄付をする。読み終われないでお金がもらえなかったり、もらったお金でお菓子を買ってしまったり・・なんてハプニングもあるけれど、子どもが本に親しむ、一つのきっかけにはなっているらしい。本を読む習慣も身につくし、自分の手で集めたコインが、アフリカの子どもの饑餓を救ったり、野生生物の保護に役立ったり・・と世界に目を向けるきっかけにもなる。さらに、小さい頃から、人のためになにかすることの喜びを経験出来る事もすばらしい。 小さいときには、毎日教室に寝転がって先生の読むお話を楽しむ時間がある。一年に一回、一週間学校の図書館に本屋さんが来て、子どもの本屋さんが店開きする。それも、毎年の楽しみだった。ほとんど全員、毎日図書館から本を借りて本を読む。 アメリカにも、カナダにもこのリーダソンというシステムはあるらしい。最もイギリスと比べると、テャリティーの要素は、だいぶ薄いようだけれど、。 先日、NHKでフィンランドの元教育相が話しているのを聞いたけれど、彼は「フィンランドの国民が、大人も子どもも本を読むことを楽しむ文化的な伝統がある」と誇らしく語っているのが印象的だった。 子どもの、読み書き能力(母国語の力・さらに外国語も含めて)を培う、最もだいじな要素は、干渉されたり、強いられた読書ではなく、自由な読書にあるということが、かなり幅広い国で定着しているようだけれど、日本のこども達は、学校の中でも自由な読書を励まされ、その習慣を身につける試みが、あまり見られないのはとても残念に思う。 英語の単語などでも、一つ一つバラバラに取り出されて覚えても、定着率が悪いし、すぐにあらかた忘れてしまう。一方で、漢字などもバラバラに教えこみ、無理に覚え込ませようとするよりは、幅広い読書体験の楽しみの中で漢字に親しんでいれば、無理なく無駄なくしかもたのしく、書くことも含めて定着してゆくのだけれど。 英語の場合でも、とにかく読む。わからないところがあっても、辞書を引いたりして立ち止まらず、とにかく読み切ってしまう。そのようなたのしい体験が、言葉の定着に最も効果がある野だけれど、日本式の受験英語では、12年もそれ以上もこれだけ時間とエネルギーを費やしても身につかない野は、やはり学び方あるいは与え方に問題があるとしか思えない。それでも、疑問を持つこともなく、自分の能力のせいにしたり、「どうせ、だめだ!!」と酸っぱいブドウの狐さんになったりする。 ハリー・ポッターはもう英語版は完結したけれど、あの本がイギリスのこども達のこころを虜にして、本に引きつけたあの引力は大変なものだった。あの、厚い本を7冊読み通すだけでも、ずいぶん読むことの自信と楽しさを手に入れたに違いないkatakuriの場合もそうだけれど、子どもによっては、ぼろぼろになって暗唱してしまうほど、読んでいた。 自由な読書の習慣が身につくと、楽しみながら、しっかり学力の基礎を身につけることが出来るのだけれど。カリフォルニア大学の言語学者クラッシェン教授の「読書はパワー」にも、長年のデータが、そのことを立証している。ボキャビルや文法問題、解釈などを個別に取り出したりワークにしてもとても効率が悪い上に、こども達はちっとも楽しめないのだ。 知識の詰め込みに追い立てるのでなく、静かに楽しみの読書の世界に浸れるそんな時間を、こども達に確保してあげたいものだと思うのだけれど・・・。 katakuriによると、本を読むことの楽しさは、大好きなチョコレートを食べる喜びと同じくらいの喜びだという。私自身も、小学校から帰って、寝っ転がって借りてきた本に読みふける・・あの時間は、最上の至福のときだった。 あの時間があったからこそ、嫌な授業があっても、嫌な試験に悩まされても、学ぶことは人生の最大の楽しみ・・喜び・・と思えるようになったのだと思う。 言語学者・クラッシェン カリフォルニア大学 大学院教授著読書はパワー
2008年02月21日
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勝浦の漁船 イージス艦に衝突 漁師の親子冷たい海に行方不明 勝浦の漁船が19日未明、房総半島野島崎沖40キロメートルの海上で、イージス艦に衝突。ニュースで全国に放送されていますが、我が家はその勝浦市にあります。 勝浦は、ここ数年ビッグひな祭りで有名です。町の中は、すでにたくさんのおひな様が飾られて、華やいでいたのですが、この親子の遭難のニュースで街はひっそりと悲しみに耐えています。 事故があってすでに40時間以上たちました。脳梗塞を患って、体が万全ではない56歳の父親と、泳ぎの出来ない23歳の哲大君。蒼く広がる冬の太平洋の海を見ていると、二人がどこを流離っているのか胸が痛みます。 車で事故を起こしたって、救助活動が最優先なのに、救助活動もせずにさっさと母港に帰ってしまったイージス艦のやり方は怒りに耐えません。警笛を鳴らすこともなく、小さな漁船に乗り上げるようにしてぶつかったのだというのです。小さな漁船はまっぷたつに割れていて、操舵室はいまだに見つかっていません。 哲大君は地元高校の水産科に入学したのですが、お父さんが脳梗塞になったために、「お父さんの漁を手伝うのだ」と、一年で中退、漁師として親子で船に乗り始めたのです。 全国どこでもそうでしょうが、ここ房総も、漁業の跡継ぎが大変少ないのです。平均年齢は70歳近いのではないでしょうか。そんな中で、病を得た父の漁を継ごうという哲大君は、それだけでも大変なことなのです。 あちこちで、若者達がホームレスの人たちを襲うという、悲しい事件が頻発する中で、哲大君は、漁の側ら年に数回勝浦から、東京・上野のホームレスの人たちに、ボランティアで魚を届けていたのだというのですから、その優しい心に胸を打たれます。 今時、自分自身だって決して楽ではなかったであろう暮らしの中で、つらい立場にいる人に、思いやりを寄せることの出来る、心優しい若者がいたなんて。「魚の哲ちゃん」と呼ばれて、ホームレスの方達にとても慕われていたそうです。 冷たい風の吹きすさぶ、川津漁港にたたずんで、肩を寄せ合ってお題目を唱えて、二人の無事を祈る浜のおばあちゃん達の姿が、まぶたを離れません。 哲大君のおじさんのふりしぼるような怒りの声「事故を起こして救助もしねえで、あいつらは船に乗るしかくはねえ」深い悲しみをたたえたまなざしと共に胸に刺さります。 「つめたかろう、怖かったろう、泳げない身でどこを漂っているのか。泳げない君と、体の悪い父さんが互いにかばい合ってどこかでがんばっていて欲しいけれど・・・待っているたくさんの人たちがいるんだから、生き抜いて、帰ってきて欲しい・・」と、ただただ祈るしかない。
2008年02月20日
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セルフ2 本来の自分を取り戻す 学びをサポートするというのはどういう事なのかと考えます。昔、ちいさな私塾をやっていたことがありました。そして、私塾をやっている仲間のグループでよく話し合ったことなのですは「教え込むのはやめよう」「子どもの内発的な学びの芽を育てよう」「教えないで、自分で発見させる、気づきを促すために何が出来るのか」といったようなことです。 上から、外から、教え込む教育(正に、強いて育てると読めてしまう)ではなく、子ども自身のうちからわき起こる、学びの意欲、疑問の芽、好奇心を育てたいと考えたのだけれど、数十年がたって、このごろやっとその辺の、こころのメカニズムが読めてきたような気がするのです。私が考えてきたことを、偶然検証して、整理してくれた・・・そんな思いなのですけれど。 それは、たまたまセミナーでご一緒した、日本のスポーツ・メンタル・コーチの草分けである、白石豊福島大学教授のおかげで知ることになった、ティモシー・ガルウェイのインナー・ゲームでした。白石先生は日本のオリンピック選手達のメンタル・コーチをされている方です テニスのレッスンプロであったガルウェイが、がんばって、何とかうまくしてやろうとして、教え込めば教え込むほど、選手は硬くなって、上手にプレーが出来なくなってしまうという経験をした、ガルウェイは、ある時、うるさく指示したり命令したりすることをやめてみたのです。これは、多くのコーチや教師にとってそうであるように、長いこと、教え込み型、指示命令型のコーチをしてきた彼にとっては、大変に苦痛なことでした。でも、指示・命令・激励・良くも悪くもの評価をやめてみると、選手は自分自身の本来の力を発揮して、すばらしい上達をしたのです。 上の表に挙げたように、外からの教え込み・プレッシャーが、選手(生徒)自信のセルフ・プレッシャーとなって強く働き、本来の、のびのびとした無心な自分セルフ2を押しつぶしてしまっていたのです。 子どもが、無心に、大変な集中力で遊び、学ぶそんなこころの状態がセルフ2で、この集中の様子をゾーンに入ると言います。世界のトップアスリート達が大きな試合ですばらしい成績を上げるとき、ほとんどがこの状態にあると言われています。トップアスリートにとって結果的に良い成績が挙げられるかどうかは、90%以上はメンタルな要素・ゾーンに入って最高の集中を手に入れられるかにかかっているのだと言われます。 スポーツのコーチのこの経験は、教育現場でも、様々な職場でも、家庭の中でも有効な、とても大切な人間の心のありようを示唆してくれると思います。 会社のマネージメントでも、教師が子どもに対するときにも、親が子どもに対するときも、相手の本来の自己セルフ2を信頼するのでなく、とかく高いところから指示命令を発しがちなのです。でも、実は、がんばって教え込み、叱咤激励し、評価し、コントロールすればするほど、主観的な意思に反して、こども達やあるいは部下・・(私はこの言い方がとても嫌いなのですが)は、能力が発揮できなくなってしまうのです。 一人一人が持っている、外からの評価に縛られない本来の無心な自己に全幅の信頼を寄せて、見守ることが、最も大切なことなのです。 学びも、仕事も外的動機ではなく、内発的な動機、自分からやりたいという思いが最も大切なのだと思います。こども達が無心に遊ぶように、外から強いられたのでなく、たのしくて、好奇心に任せてなにかをする・・そんな状態の時に脳も最高の力を発揮できるようです。 人間の脳は、現状では能力の数%しか、力を発揮できていないのだと言われています。でも、外からの指示命令をやめて、セルフ1を解きほぐし、セルフ2が自由に動き出すことで、もしかしたらとんでもない可能性を秘めているのかも知れません。 環境問題、いつまでも止まない殺し合い、饑餓、貧困・・・人類は、叡智を発揮して早急に解決を迫られている課題が山積しています。そのためにも、セルフ2を発揮して、もっと本来の力が発揮出来るようにしないといけないと思います。 教育でも、様々な教授法の技術、理解のための方法論があるのですが、それ以前に、外からの、上からの教え込みから脱却して、一人一人の内発的な能力の発揮を促すことが先決の気がします。 良く、お母さん方のお話をうかがっていると、「子どもが、やる気がなくて」とか「意欲が無くて」 なんて声を耳にします。そしてたぶん「一体何回言ったらわかるの。試験はもうすぐじゃないの!」なんて、叱咤激励をたっぷり投げかけて、子どものセルフ1を肥大化させセルフ2をつぶしてはいないでしょうか。 一人一人の内発的な意欲を信頼してみると、人間がいきいきと力を発揮してくると思います。
2008年02月20日
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好かれるよりも、好きになろう 昔から、ティーンズ達はみんな友達を大事に思っていた。親よりも先生よりもまず友達・・そんな年代なのだと思う。友達がいたらいい。良い友達に巡り会えたら・・とみんなが考えていたのです。 でも最近のティーンズを見ていると、ちょっと違うんだけれど・・と首をかしげることが多い。とにかく、人に嫌われるということがいやみたい。恐怖に近い思いを持っているらしい。 少しでも人に好かれるために、嫌われないためにあれこれがんばってしまう。でも、自分をあいて好みにあわせてまで、本当の自分を押し殺してまで人に好かれる必要があるんだろうか。 だいじなのは、自分らしい自分を認めてあげること。しっぽを振ってまで相手にあわせて友達になってもらう必要はない。自分が、自分らしく生きているときそして相手も、自分らしく生きているとき、自然に良い間柄、友情が育ってくる野だと思います。人が、好いてくれようが、嫌いだって言おうが・・私は私でいるしかない。ありのままの自分であることが出来ないところに、良い人間関係は生まれないのだけれど・・。 同性の友達との関係でもそうなのだけれど、これがボーイ・フレンド、ガールフレンドになるともっとありのままの自分らしさをだすことが難しいみたい。 もてる・・という変な言葉がある。もてるために、服装やら化粧やらアドバイスする職業まであるという。なんか変だ。異性でも、同性でもまず良い友達としてお互いを認め、信頼したり、尊敬したり・・そういう人間関係が基本だと思うんだけれど。 その関係は、「好きだよ」なんて、ひと言の薄っぺらな言葉を言ってもらったかどうか・・じゃないんだけど、そんなひと言で舞い上がっちゃう、特に女の子が多い気がする。 男の子は男の子で、なんか飛躍的なドラマティックな事をして、(言って)相手の心をつかまなくちゃ・・なんて力むから、また、そのことで失敗することが怖いから、女の子と、ベースになる人間的な良い関係を作ることに恐怖心すら感じてしまうらしい。 最近「デートDV」なる現象が問題になっている。あまり身近に見たことがなかったのだけれど、このあいだearthを見に行って列に並んでいたら、見事な「デートDV」をみてしまった。まるで、ご主人様と奴隷・・という感じでまだ十代の男の子が偉く尊大に女の子を支配している。女の子は女の子で、この彼のご機嫌を損ねないように痛々しいほどの気の使いよう。こんな支配的な関係でも好きだって言って欲しいのかしら。嫌われたくないのかしら。私が若い頃ってあんまりこんな男の子と女の子の関係って無かったような気軽すけれど。私たちの時代だったら「何あの子、一人で威張ってるの!!」なんて言って問題にされなかったとおもうんだけれど・・。精神的な支配関係DVなんて感じないらしい。何しろ暴力をふるわれても、相手から離れられないというのだから。 もちろん、私も若い頃、すてきな異性にあこがれたけれど、自分らしさを棄ててまで、しっぽを振って彼氏捜しをする気にはなれなかった。自分を棄てた私を好きになってくれる彼ってなんだろう・・自分を棄ててまで好きになってもらってもしょうがない、自分でない自分をいくら好きだって言われても困っちゃうし。 だから、まず自分は自分らしく生きること。そして、、人がなんと思おうがまず自分が人を好きになること・・そのことの方が大切だと思う。「嫌われたら傷つくもの・・」 なんて言う人が多い。でも、ほんとの自分、ありのままの自分を好きになってくれない人とは・・縁がなかったっていうか、お互いの見る目がなかったとあきらめるしかない。だから、失恋なんかで傷つく必要ないんだとおもう。わたしも若い頃、何遍も何遍も人を好きになって、失恋もした。 失恋しても、そこでたくさんの人間について、自分について学んだけれど再起不能な深手は負わなかったし、逆にそこから人間として大人になれたし成長が出来たのだと思う。 ありのままの、素顔の自分に自信を持とう。自分は自分でしかいられないし、自分には自分だけのユニークさ、すばらしさをみんなもっているんだもの。 エーリッヒ・フロムという心理学者の「愛するということ」という昔のベストセラーがある。心理学とか哲学の言葉を使っていてちょっとめんどくさい部分もあるんだけれど、私は、若い時期に是非この本を手に取ることをお薦めしたい。人間が人を愛するというのがどういう事なのか、目から鱗の本なのだ。 その中で、彼が言っていることの最大のポイントは、自分自身を信頼して、自分を愛することの出来ない人は、パートナーのことも家族のことも隣人のことも愛することは出来ない。自分自身に信頼を寄せよう。・・ということなのだ。 人は、無責任になんとでも言う。そんなことにいちいち振り回されて鋳たらきりがない。評価してくれるからって安心は出来ない。その人に、どれだけ理解されているのかなんて、かなり怪しいんだから。だから、ありのままの自分が、素直に正直に今を生きるしかないとおもう。 でもそれが出来たとき、本当に人間らしい良い出会いがあり、良い間柄を作り上げて行けると思う。 友情も、愛情もそこらに転がっているものではない、育ててゆくものなのだから。
2008年02月19日
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学習指導要領野改定案が発表されたけれど・・・ 勉強というものは、基本的に自分でやるものだと思う。自学自習だ。国のカリキュラムで上から指示され、教え込まれ・・という日本の学校教育のあり方にだいたい納得がいかない。現場の子ども主体に、子どもに近いところに多くの決定権を確保するフィンランドのやり方と、対象的だ。 だから、このような上意下達式の教え込みの中に、本来の人間らしい学びを求めることは出来ないと思うけれど、それでも、義務教育として、日本の圧倒的多数のこども達がそのカリキュラムの元で9年間もの間を過ごさなければならないのだから、事は深刻だ。 今度の改正案も、豊かな人間性を育てる、しっかりとした基礎学力を育てるというそのどちらにとっても、ベクトルが逆の方に向いているとしか思えない。 たとえば、小学校の国語教育。リテラシー(言語獲得)の最大の力となる「自由に読む習慣」に対する配慮は相変わらず、ほとんど考慮されていない。さらに、今までの「身近な話題についてのスピーチ」が、きわめて不十分だった似関わらず、それを「出来事の説明か調査の報告」と下地をきちんとしないままにいきなり抽象度の高い課題になっている。それでなくとも、自分の言葉で自分の思いを表現する事が十分にできてこなかったこども達が、その具体性をすっ飛ばしていきなり抽象度の高い課題を要求される・・・こども達のとまどいが目に浮かぶようだ。漢字についても、トレーニング主義の強化、とにかく数書かせて覚え込ませるというやり方は、覚えるという人間の脳のメカニズムにとってもマイナスに働くし、こども達の学ぶ意欲も大幅に衰えさせてしまう。 算数、数学の場合 現段階でも数の機械的な操作に習熟させるトレーニング主義の元で、数の概念を理解すると言うことが、なおざりにされ、わからないのに出来てしまうこども達、わからないままに上級に持ち越されてしまうこども達が多く、高校や大学に行っても分数の基本的な意味側から無い学生が少なからず鋳る・・という現実を文科省の役人たちはどうみているのだろうか。「算数の楽しさに気づき・・」と言うけれど、わかってこそ楽しくなるのであって、わからないのに楽しむことを強制されても、ちっとも楽しくない!!そもそも、楽しむ事は、楽しいことに巡り会って、楽しいという気持ちが中から自然に湧いてくるものなのだと思う。楽しい教材があってわかる授業があれば、楽し身を見つけろ!!なんて言われなくても、こども達は黙っていても喜び・楽しむ。それはちょうど、「国に誇りを持ち、愛する気持ちを持て!!」という論調と似ている。誇るにたる愛すべき国になることが、先決で、そうすれば「喜べ、誇りに思え、愛せ!」なんて、誰にも命令されなくても、自然とそういう感情は湧いてくるのではないだろうか。 そもそも、何に対する愛であれ、愛ほど強制になじまないものは無いと思うのだけれど。 分数すらきちんとわかっていないのに、わかるための努力無しに、同じやり方のままで一時間増やしたところで 意味がないばかりか、苦痛がますだけで、こども達の算数嫌いはますます増えてしまうのでは・・。円周率を3にする前に、少数のかけ算に困難を感じるこども達の状況を丁寧に解決するべきだったのに、子どもが出来なければ、小数点以下を切り落とす、低学力を指摘されたらまたぞろなんの解決策も用意せずに復活させる・・これでは、子どもも混乱するばかりだろうと思う。 同様なことが、中学の数学にも見られる。二次方程式の解の公式を始め、高校の範囲が、大幅に中学の課程に引きずり下ろされてきた。解の公式そのものも、どうやってその公式が出てきたのか自分で導き出すと言うことを丁寧に繰り返せば、そのプロセスはとても楽しいものだし、覚えることも楽に出来るのだけれど、箇々でまたぞろ、問答無用に覚え込め!!というやり方をされたら、こども達の数学アレルギーは極に達する。 小学校の週一時間の英語も、ほとんど意味を感じられない。外国語習得の面で考えても、片言の挨拶を覚える位のことは、きちんとした勉強を始めればすぐに身につくし、わざわ座、それでなくとも子どもも教員も忙しくてパンク状態の時間割の中に入れても、弊害の方が多い。最も、これで英語の力がつくわけではないというのは文部相自身が認めているという野だから、あきれてしまう。げんじょうでは、意味のないことに現場の担任の負担を増加させるだけのことだろうと思う。コミュニケーションということを盛んに言うけれども、豊かなコミュニケーションは、まず第一に母国語で事培わなくてはいけない。母国語でコミュニケーション能力のない人が、英語でコミュニケーションを出来るようになるはずがない。 等々、いろいろ考えると、学校現場や、こども達へ似負担がさらに倍加されるようで、心が痛む。 子どもの人間らしい学びを考えたとき、あらためて私は、子どもの権利条約を読み返してみた。「良心の主体」であるこども達が、それにふさわしい人間的力量を身につけることの出来る学びが保証されなくてはいけない。学びの主体は、あくまでもこども達にあるのだから。 このような、細かなカリキュラムの縛りの中で、教室の中でどのような可能性を切り開いて行けるのか。さらに、細切れの知識の注入でなく、こころの知性、をどのように育てて行けるのかも、すべての大人達の課題なのだと思う。 こんな日本の現状を振り返るとき、参考になるのが、単なる高学力の国というだけではなく「フィンランドという生き方」だ。ちょうど同名の本があったのでご参考までに紹介します。フィンランドという生き方
2008年02月17日
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「ひと塾リベラ」のご紹介 スカイプを、もうお使いでしょうか。ネット上でダウンロードして、約3000円~のマイクとカメラの一体化したものを買ってくると、全国(世界中)通話料無料でテレビ電話ができるのです。家族が海外に住んでいる方、企業の海外との連絡などで以前から使われていたのですが、最近画像も音声もとても良くなりました。音声は、電話よりも良いくらいです。何よりも、通話料がかからないのは良いですよね。 そんなスカイプを利用した、小さな学びの場を作りました。それが、「ひと塾リベラ」です。 スカイプは、ホストを含めて10人が同時に会議形式で接続できるのです。ホスト以外9名の、ほんとに小さな、グループです。この、一見非効率に見える小ささが学びの場としては最適ではないかと思います。ケンブリッジ大学やオックスフォード大学は、いまだに教育の中心はチュートリアルと呼ばれる個人教授あるいはそれに準ずるものなのです。本来の学びというのはこのような、手作りのものであるべきでは・・。 インターネットを様々に教育に利用する事は、塾産業でも以前から注目されて、賑やかに講座がにぎわっているようです。ただ、一つ一つの講座が、あまりに高額でなかなか手が出ません。たとえば、資格の講座などでは、受けるこれで何とか生活してゆこうというもくろみもあって、80万から100万もするような講座が結構売れているらしいのですが。 でも、知識や、技術を高額で切り売りしている感じで、本当の学びってちょっとちがうjんじゃないかしら・・という疑問が付きまといます。 プラトンのアカデメイアや、啓蒙時代のサロン、戦後のフランスの哲学カフェ、日本でも江戸時代には様々な分野の、自主的自発的な学びの場が花盛りだったのです。 戦後は日本でも様々な民間の学びの場があったのですが、利潤目的の塾経営ばかりがのこって、こういった本来の自由な人間らしい学びの場が陰をひそめていって言ったのはとても残念です。 国によって蘭学を禁じられ、辞書も中で手探りで学び「解体新書」を訳した、前野良沢らのグループ、盲目の身で日本の書誌を編纂し、国文学を守った塙保己一のグループ、さらに、全国に広まっていた、俳句の同人達、あるいは和算のグループ日本にもすばらしい、自学の伝統、精神があったのです。緒方洪庵の適塾からは、その後の日本を支える人々が育ってゆきました。 学ぶことは、こども達にとっても、大人達にとってもいつの間にかつらい義務になってしまっています。 でも、実は学ぶことこそ、人間に生きる、意味と喜び、エネルギーをあたえてくれる、生きる力なのだと思います。 大人にも、子どもにもわくわくして、いきいきと精神が息づくような学びの場が欲しいと思います。 すべてが利潤動機で動いてしまう過酷な時代だからこそ、スカイプというすばらしい道具を活用して、大人も子どもも自ら学びあう場所を作りたいなあ・・と思ったのが、「ひと塾リベラ」を作ったきっかけです。 記憶に残っているかたもおありでしょう。「ひと塾」というのは、水道方式の生みの親、数学者遠山啓く先生が、晩年情熱を傾けられた「人」という雑誌を取り巻く、全国に広がった読者の集まりの名前です。「人」も廃刊になり、「ひと塾」もほとんど聞かれなくなってしまいましたが。 もし、登録商標であったりすると困るのですが・・でも、この小さな学びの場の名前にふさわしいのは「ひと塾」ではないかとの思いで、この名をいただいた次第です。リベラはもちろん、ヨーロッパ語での自由という意味の語源になるラテン語です。私たちが、水や空気無しに生きて行かれないように、学びに自由な精神は不可欠だと思うのです。 会費は一人一回一時間で1000円,これならば,欲張ってあれもこれもと手をを拡げても何とか手が出るのでは・・。講座の性質によっていくつかの例外があるのですが。たとえば、マンツーマンの英語のフリートークや,添削つきの水道方式による数学の講座等。 費用は安く、でも中身は超一流の学びあいが行き交う、現代に住む日本人がが切実に求める問題に対して、智慧を絞って、現実という大きな石をうがっていけたら・・と思います。 私の、もう一つの本業であるコーチングも,カウンセリングとは切り口を異にした,人を活かす為の良いものをたくさん持っているのですが、一般の方が個人でライフコーチをつけるのは、あまりに高額すぎるのです。 一人一人が,お財布の心配無しに,コーチをつける事ができたら・・特に子育てコーチングなどで痛切にそう感じます。教育現場でも一人一人の先生方にコーチングの技術を身につけていただけたらと思います。医療や福祉の現場でも,どこであれ、人を活かす組織づくり無しに、血の通ったヒューマンな社会は実現できないのです。そのためにも、このような小規模のグループでコーチングを学べるというのは、とても良いことだと思います。 たとえば、教育は目の前のこども達の痛みやつらさ喜びを共有しながら大人達も,手探りで学び,手作りで作り上げてゆくものなのです。だから、先生と呼ばれる立場のかた方こそ,学びあいの場が不可欠なのです。 教育先進国フィンランドでは,国による統制ではなく,現場のこども達と向き合う教師達に,最も重要な決定権がゆだねられています。生きた教育とはこのような下からの実践の積み重でないと、いつの間にか子ども不在の教育蜷lってしまうのです。・・・いろいろと、,夢を拡げて行くと際限がないのですが,実際にはやっとホームページが立ち上がって(これも、まだまだ未完成)はいはいを始めたばかりです。 こんな、小さな、学びの場が、小さくとも,いきいきと元気に成長してゆかれるように,どうかお力添えください。 自分が集いたいような,自分の子どもを参加させたいような,そこから大切な発見が生まれてくるような、そんな場所にしたいものです。「ひと塾リベラ」 主催 松井幸子
2008年02月16日
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ソフィーの世界2 ソフィーの世界は、日本語版でも大変な人気だったらしい。 「今時、本だってめったに読まないのに、え?何?テツガク?」というティーンズが多いだろうに、なぜか、すごい人気だったのだという。 「驚異の念・・タウマゼイン」が哲学者のパトスだといったのはプラトンだけれど、哲学なんて大仰な名前をつけなくても、日々の学びの中で「これぞタウマゼイン!!」といえるような、感動に、それほどにも出会えていない・・ということなのかもしれない。 この世の中は、まともに真摯に何かに格闘する・・そういう人生の醍醐味を拒否する空気が蔓延している。本来だったら、まともに、真正面から自分の人生に立ち向かう熱い思いに満ちているはずの若者たちが、力を出し切って本気で生きるということをいかにもばかばかしい、くだらない徒労であるかのように感じさせてしまうのは、当のティーンズよりは、むしろ大人達の責任なのだろうと思う。 もっとも、嫌な勉強を押しつけられて、競争競争でやっと大人になってみたら、派遣やフリーターなんて非正規の使い捨て労働ばかりで、まともな仕事につくのがとんでもなく大変な、困難に満ちた時代なのだ。彼らは、どこに自分に人生のあるべき道を見出してゆけばいいのだろう。 学ぶこと、働くこと・・どちらも人間が人間らしく生きてゆくために不可欠なものなのだけれど。その、どちらにも、今は問題が山積している。 哲学なんて言うと、 「いかにもかび臭く、わかりにくいこんにゃく問答を繰り返していてわれわれの生活に関係ないじゃない・・」 なんて声が聞こえそうだけれど、なんてことはない、自分の頭で、自分の人生や、自然や社会のありように疑問を持って「これって何なの?ふしぎだね?おもしろいね?おかしいね?」と考えればそれがテツガクなんだ。 だから、本来誰の精神の中にもその人のテツガクがある。ただ、同じような脳みそを持って生まれてきても、ものを考えるトレーニングが出来ていなければ、自分の頭を動かし、活用する技術を身につけられないのだ。人生の、人間の探究をするという意味では、テツガクは学びの中の、学びといっても良い。 ヴィクトール・フランクルが言うように、私たちは誰でも「なにか意味あることをしたい」「なにか世の中に役立つことをしたい」と思いつつ、それを模索しつつ、その思いがなかなか充たされない。そのことが、現代人の苦悩を深くしているのだという。 哲学史なんて言うと、いかにも今の暮らしには役立たない古くさい学問のような印象を持つ人が多い。特に、現代は実際にビジネスに(金儲けに!)役に立つノウハウばかりを求める傾向が強い。そして、そのノウハウやツールを金儲けのために売りまくる・・それを現代の成功・・とよぶ・・そんな風潮の中で、人間を見つめる、人間の社会を見つめる、人類の行く末をみつめるそんな哲学・・人間性の哲学・・が今こそ求められている。 一方で、教育?!の現場では、知識の詰め込み競争ばかりが横行して、人間不在、哲学不在なのだ。 教育ばかりではない。医療現場でも、検査データや病気、臓器の不調ばかりが問題にされて、医療の側にも患者の側にも人間性が不在なのだ。 それは、社会全体の疾病なのだろうと思う。 温暖化・地球環境の破壊等で、物理的に生態学的に、地球は危機に瀕している。そして、人間は人間性を失った社会システムのために、大切なものを失いつつある・・・。そんなことを直感的に、多くの人が感じているから、「ソフィーの世界は」静かだけれど、大きなブームを呼んだのかも知れない。 現代人の有り様を振り返る鏡として、ティーンズのみならず、大人達ももう一度ソフィーの世界をたどってみることは、有益な気づきをあたえてくれるかもしれない。 「ひと塾リベラ」info@lumoscoaching.jp
2008年02月15日
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ソフィーの世界 「なにかDVDをみたいね」といって、DVDの棚をごそごそ探していたカタクリが見つけ出してきたのが「ソフィーの世界」でした。 ノルウェーのハイスクールの哲学の先生をしていた作者が西洋の哲学史をファンタジーにしてしまったこの作品の原作は大変なベストセラーだったのいう。 「哲学」なんて単語をうっかり口にすると、「何言ってるのこの人?」なんて冷たい目で見られかねない日本の日常(ノルウェーでもかなり似た感じ?)なのだけれど、歴史が好きなカタクリにとってはこのDVDもなかなか興味深いらしい。 いっしょに見終わって開口一番。「急ぎすぎるよね、あっという間に2500年を通り過ぎてしまうのはやっぱりちょっと無理がある。 それからkatakuriは「やっぱり本で読もう」と、英語版の「ソフィーの世界」に挑戦。夢中になって読んでいる。若い世代にも良く読まれたらしい。それでなくとも、世界的に活字離れがひどいのに、この決して薄くない本がこれほどまでに若い人たちの心をとらえるのはなぜだろう。日本では、携帯小説なる、何ともお手軽な、個人的な気分や感情だけの世界にのめり込んだものが、大ヒットだというのだけれど。 あんまり面白そうなので私もぼろぼろになった日本語版を引っ張り出していっしょに読み始め、親子で夢中になっています。そして、ちらっと英語版を見たらこれがまた、英語としてもとても面白い。もちろん英語ではkatakuriにかなわないけれど、それでも辞書を引かずにわからないところは無視して、とにかくどんどん読むことだ・・というカタクリの主張がとてもよく分かります。親子で奪い合いながら「ソフィーの世界」の世界!!を楽しんでいます。学ぶことは楽しむこと!! そのような風潮にかかわらず良いものは、強く人の心をと耐えると言うことなのかも知れません。歯ごたえのある、しっかりしたもの、中身の充実したものだからこそ、こころを深くと耐えるのでしょう。 ハリーポッターの全七巻を英語で読み通したときもそうなのだけれど、katakuriにとって読書には全く義務感というものが付きまとわない。今度の「ソフィーの世界」も、何か楽しい趣味に没頭するのと同じ、あるいはそれ以上のわくわくした思いで、その世界に浸っている。「自由な読書、楽しみの為の読書こそが力になる」というのは、こういう事なのだと思います。 覚えろと言われたら、単語なんか絶対に覚えられないと思います。昔からよく使われた「試験のための暗記用単語集」なんて言うのは、誰でも一度は手に取るけれど、おそらくほとんど役に立たずにうち捨てられてしまう のではないでしょうか。ところが、夢中になって読んだ「自由な読書」なら、覚えようなんて気持ちは全然無くても、文章のかたまりごと、気が付いたら自然に覚えてしまっている(結果として)のです。 イギリスでは(アメリカでも)本を朗読したものが書店でたくさん売られています。ハリーポッターの場合も、スティーブン・フライというそれこそ超一流の役者によって朗読されたものがあります。全部わからなくとも、、まるで一流の音楽を聴いているように、音そのものでも楽しめてしまう。そこで、活字と音の両面からしっかり楽しんで、結果として(あくまでも結果として)気が付いたら力がついてしまうというしだいなのです。 TOEICの試験の時、何が一番役に立ったか訪ねてみたのですが、一番役に立ったのは「ハリー・ポッター」、一番役に立たなかったのが「○○点突破問題集」の類だったそうです。ちなみに、試験用の勉強はほとんどしなかったけれどkatakuriの得点は、一回目980点二回目970点・・こんな事はどうでもいいことだけれど・・。 本当に、そんな結果のはどうでも良いのです。大切なことは、、本当に楽しいんで夢中になって楽しめば、あの大部の本がほとんど暗唱できるくらいに頭に入ってしまう、そんな人間の潜在能力の大きさだと思います。 つまらないことの暗記を強制さえしなければ、人間はこんなにすごい潜在能力を持っているのです。 そして何よりすばらしいのは、ソフィーの世界を通じて。2500年以上の人類の歩みを最高の先人達と追体験出来るということなのです。そのすばらしさに比べたら、細切れの知識の詰め込みなんて、どうでも良いくらい小さな事なのだとおもいます。断片的な詰め込みをすればするほど、学びから遠のいてしまうのです。教育も、人間らしい本物の学びの場となったとき、今では考えられないようなすばらしい実りがあとから、自然に、とぼとぼとついてくる気がしてなりません。 ところで今日はValentine Dayですね。valentineは昨日フォニックスでお話ししたマジックe何ですよね。だからヴァレンチンではなくてヴァレンタインとなるわけです。早速フォニックスが役に立ちました。 ネットとスカイプでつなぐ自由な学びの場 「ひと塾リベラ」info@lumoscoaching.jp ソフィーの世界(上)ソフィーの世界(下) もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド
2008年02月14日
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英語の発音は難しくない! 英語の発音のルール(フォニックス)について 小さいときからネーティブの発音になれましょう!!うちの英語教室はネイティブが教えます!!・・・例の、悪徳商法でつぶれてしまった某英会話教室のキャッチフレーズが耳元をちらつきます。 ネーティブの子どもが、母国語として身につけるのならともかく、週一度50分程度のお遊びで、発音が身につくものではないのだけれど、ついつられてしまう。やっぱり、日本人は外国人に弱いらしい。 英語の発音と綴りの関係には、その90%をカバーするルールがあるのです。そのルールのことをフォニックスと呼びます。そのルールを身につければ、90%の単語はきちんと自信を持って発音できるのです。あとは、10%を例外としてつぶしてゆけばよい・・。英語は音声言語なので、きちんと発音出来るということが、とても大切な要素になります。その点、日本語は音だけでは伝わりにく、漢字をみてはじめてきちんと意味がわかるという要素が強いのです。 フォニックスはまた、綴りのルールでもあるわけで、ネーティブのこども達を悩ませるスペリングも、フォニックスを身につけることで、かなり楽にクリアーすることが出来ます。だから、イギリスでもアメリカでも、英語の教育の出発点はフォニックスなのです。これはだいたい幼稚園の課程で身につけているようですが。 日本の大学の英文科では音声学としてこのフォニックスにつながる事を学ぶわけですが、英米文学には数十単位用意されていても、音声学にはたったの2単位しか用意されていないのが実情で、しかも、音声学の研究ではなく実用的な音声とつづりについてのアプローチはとても少ないのが実情です。 英語の先生方の、自主的な研究活動で、このフォニックスを学校の英語に少しずつ取り入れられて来たのですが、相変わらず文部省のカリキュラムの主体は日本独特の役に立たない受験英語なのは残念なことです。 知らない単語でもとにかく読めること、が基本なのです。 たとえばcapはキャップcapeはケープ。この違いもフォニックスのルールの一つなのです。このcapeのうしろのeはマジックeとよばれます。マジックeが後ろについた単語は原則として、その前の母音が、アルファベット読みになります。aはアルファベット読みではエイなのでkeipという読み方になるのです。 マジックeの仲間にはちょっと見ただけでもこんなものがありますcake take lake late snake stake bake make made late smoke bike pikeside site rake tube cube poke joke spoke stoke note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・etc. フォニックスをマスターすると、知らない単語でも基本的にはよめるようになります。音として読めるようになることが単語を身につける基本です。フォニックスが読めるようになると、絵本も読めるようになります。 日本語で本を読むために、漢字の読みが不可欠なように、英語で本を読むためには、この規則を身につけることが前提です。ネイティブの子どもの中には、幼稚園でフォニックスを覚える前に、自然に絵本を読んでもらう中で自然に身につけてしまうこともあるかも知れません。日本人の子どもが文字を自然に覚えるように・・・。でも外国人が英語の世界に入ってゆくためには、このフォニックスという道具はどうしても欠かせないツールなのです。 そして、母国語を身につけるためにも、外国語を身につけるためにも、最も大切なのが、自由な読書の量なのです。その意味で、フォニックスで英語を読めるようになる、漢字が読めるようになるということが、その後の学びの土台となる大切な要素なのだと思います。 ネットを使ったみんなの学びの場 ひと塾「リベラ」info@lumoscoaching.jp
2008年02月13日
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漢字は楽しい 子どもの頃、漢字の書き取りが大嫌いだった。何の興味も関心もないのに国語の教科書に出てきただけで、同じ漢字を何度も書かされて翌日にはテストされる。 子どもの漢字嫌いの元凶は、子どもの興味、関心と無関係に、機械的にこの学年は、この漢字を覚えること!という文部省の一方的な配当にあると思う。本来子どもは、漢字が大好きなのに。 それと、読むことと書くことをほとんど同時にやらせることにも無理を感じる。読めることと、書けることには時間的に言っても、タイムラグがあることの普通なのだ。読める漢字を書くことは楽に出来るけれど、読めない漢字を書くことは不可能に近い。そして、読むことだけなら、幼児期のかなり早い段階でも、現実の楽しい経験と結びつけば、簡単に覚えられる。おそらく、覚えようなんて意識もないくらいに。 絵本の読み聞かせをしている中で、ひらがなもカタカナもいつの間にか読めるようになっていた・・という経験を持つ親は少なくないだろう。実は、仮名だけでなく、漢字も読むことは、大人が(あるいは文部省が)考えているよりも、簡単に身につくのだ。今のように、機械的な押しつけさえしなければ・・・。 katakuriの場合カタクリは、赤ちゃん絵本の時代から、本を読み聞かせしてもらうことが大好きだった。その中で、ひらがなも、カタカナもかなり早い段階で自然に覚えてしまった。只、カタクリの経験でユニークだったのは、仮名といっしょに、漢字を書いて貼り付け、絵本の世界で遊ぶ中で漢字の読みも楽しく自然にいつの間にか覚えてしまったことだ。 今のカタクリ(15歳)に思い出してもらうと、小学校にはいる前に中学までの漢字のほとんどは読めていたという。英語のフォニックスの場合でもそうなのだけれど、読みについてもパーフェクトを求める必要は全くない。90%が読めれば読書にはほとんど支障がない。そして、のこりの10%は無理にがんばって覚えようとしなくても必要に応じて、そのつど実際の文脈の中で調べてゆけば簡単に読める漢字を100%近いものに出来るのだ。 カルフォルニア大学大学院言語学教授スティーブン・クラッシェンの「読書はパワー」に述べられているように、母国語も、外国語も真の言葉の力(リテラシー)をみにつけるために、ほとんど唯一、最大に有効なのは自由な読書・楽しみのための読書だという。英語の場合の、文法や意図的なボキャビルのためのワークやテストは、ほとんど効果が無いと言われている。 日本語の漢字は、読書を楽にたやすくするための不可欠な要素なので、絵本を読み聞かせる段階で楽しく漢字に出会わせてあげることが大切だと思う。おそらく、多くの子どもが、絵本に漢字を書き込んであげることで、ひらがなやカタカナを読めるようになるくらい容易に、漢字を読めるになると思います。 読めるようになっていれば、必要に応じて書くことも、さらに読書を通じて読める漢字を増やすことも、困難が無くなるでしょう。 たとえばカタクリの場合、小学校に入って「日記を書くこと」が宿題に出て、それが楽しくて仕方ありませんでした。言葉で自分の思いを表現出来る事は子どもにとってはとても楽しい経験なのです。自分で読める漢字を今度は自分でチェックしながら書ける!!それは、とてもわくわくする経験だったのです。ところが、せっかく日記を書くという良い方法を使いながらそのときの先生は、「学校で習った漢字しか使ってはいけない」と自分で調べて学ぶということを禁止してしまったのです。それは、漢字が大好き、調べて自分で学ぶことが大好きだったカタクリにとっては大変な驚きで、ショックだったのです。 読みのベースがしっかり出来ていれば、書くことはごく自然につながるし、最小限の努力で(退屈な繰り返しをしなくても・・・退屈な繰り返しの強要は勉強嫌いを助長する)書くことも出来るようになるのです。 漢字の読み書きという点でも、単純な反復練習よりは、読書の方が自然に身につくようです。 さらに、カタクリの漢字の世界と興味を深めたのが、白川静先生の世界にまなんだことです。漢字はそれぞれの部首で音要素と意味要素をもち、一つ一つ調べてみると、構造的にも歴史的にもとても楽しいものなのです。 たとえば、今読んでいる本の中で適当な熟語、たとえば「友愛」という漢字を選びます。A4の紙の真ん中にその字を書き、その一つ一つの成り立ち、意味類語・反意語とうとうどんどん調べてゆくのです。それを、やって見ると漢字への興味が泉のように湧いてきます。漢字文化の人間の喜びを感じるときです。 興味と喜びが、覚えることの前提です。退屈なつまらないことは覚えられないように、人間の脳は出来ているのです。漢字の楽しさに気が付くと、強制されなくとも、テストでおしりをたたかれなくとも、楽しく自然に、覚えるなって言われても覚えてしまうものなのです。 ほかの教科でもそうなのですが、記憶のための最大の敵は、つまらないことを覚えろ!!と無理強いすることだと思います。 楽しいことにはすばらしい能力を発揮できるそれが人間の能力だと思います。参考図書白川静さんに学ぶ漢字は楽しい神さまがくれた漢字たち 読書はパワー
2008年02月12日
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sportsとstropsstropsという言葉(?)を見たのはずいぶん昔になる。stropsとは要するにsportsを裏返しにしただけのことなのでだけど。そういう名前の本があったのだ。スポーツには過剰な競争が付きまといがちで学校のようなさまざまな子供、スポーツが得意な子も苦手な子もみんな同じラインにつかされて画一的な競争をさせられるそんな、学校でのスポーツのありように疑問を持った先生が競い合わず、どんな子供でも楽しめるスポーツをやりたいとして、考え出されたのがこのstropsなのだ。自慢じゃないけれど、私は小さいときから運動が大の苦手だった体操の時間は、片隅で目立たないように息を潜めていたかたや、勉強の時間は小さくなっている子が体育の時間には、水を得た魚のように元気になる子がいたそんなわけで、学校時代はスポーツの楽しさは味わえなかったそんな私だから、stropsの本を手にしたときは本当にうれしかったそうだ、人と競うことだけがスポーツではないスポーツそのものを楽しめるそんなスポーツがあってもいいんだそれがstropsのなのだ、と思うと長い間のスポーツに対するコンプレックスか一度に飛んでゆく思いだったその本には競い合わない楽しいスポーツがたくさん工夫されていた残念ながらその本はもうどこかに散逸してしまったけれどスポーツって楽しんでいいんだ!という思いはしっかり残ったそれ以来、チャンスを捕まえては運動神経ゼロの私も、私流のスポーツを楽しむ今日は穏やかな冬晴れの元でkarakuriに誘われてテニスをする親に似ないでkatakuri運動が得意だイギリスでは、とくに小学校時代はスポーツにウェイトをおく日本のスイミング・クラブや少年野球のように特別の子供が、狭い種目で、特訓をするのではなくすべての子供が、さまざまなスポーツを楽しめるようになっているおかげで、イギリスに行く前はあまりスポーツが好きでなく得意でもなかったkatakuriはスポーツが大好きになった人間は哺乳類という動物だということを普段忘れている動物というのは動く物・・本能的に動く欲求を持っているはずだと覆うんだけれど現代人はやっぱりなんとしても運動が足りないと思う夢中になって人と競う必要はないけれどもっと楽しく体を動かすことを生活に取り入れないとおととい見たearthでも思うのだけれど野生の動物の暮らしぶりを見ると運動不足で飽食でメタボに悩む現代人は動物としては異常な気がする傍で見ていたらとんでもなくへたくそなテニスだけれど青空の下で体を動かすだけで楽しいひと時だった.http://www7b.biglobe.ne.jp/~liberainfo@lumoscoaching.jp
2008年02月11日
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マインドマップで考える 前から見に行きたいと思っていた映画「アース」を見に行ってkatakuriは、言葉がなかったのです。あまりに感動的な体験をすると、それを、どう表現したらいいのか、とまどって言葉が出ないのです。 そこでチューターは、その映画でみたもの、そしてそこで感じたこと、考えたことをマインドマップで表すことを提案しました。 私自身、ここ二年ほど、ものを考えたり、情報を整理したり、マインドマップという思考のツールは欠かせないものとなっているのです。 マインドマップはイギリス人トニー・ブザンが開発した、新しいノートの方法です。今までの箇条書きのノートに対して、マインドマップは一つのキーワードを真ん中において、その周りに、脳の神経細胞が樹状突起を張り巡らせるよう言葉が広がってゆく。これは脳内で行われる放射思考を身に見える形で映し出したものなのです。 これは、脳生理に合致した合理的な方法で、歴史的にもレオナルド・ダ・ヴィンチやピカソなど天才達のノートを見ると、良く活用されている方法です。高い学力で注目されている、フィンランドの学校現場でも、「カルタ」と呼ばれるマインド・マップが取り入れられ、とても良く活用され、それが高い学力を支える一つの重要な要素になっているようです。 従来のノート法の欠点としては、トニー・ブザンは次の点を挙げる。キーワードが明確でない 記憶しにくい(退屈だから)時間を無駄にする脳の創造性を刺激しない マインドマップのノートの方法は、放射思考という脳の処理システムにかなった方法なので、退屈でなく、とても楽しい。しかも、カラフルに、絵も描いてというので多面的に、自由に志向を展開することが出来る。使い始めてみると、なぜもっと早くこんな方法が無かったのかと不思議に思えてしまうのです 映画のearthは、目を見張るような自然の美しさを目の当たりに繰り広げて見せてくれるので。それだけでも十二分に感動的なのだけれど、この映画が訴えかけるものは、そんな地球jの表面的な美しさではない、幅広く、奥深い、21世紀に地球に、人類に、困難で、大変な課題を突きつけてくる そのような困難な問題を考えるには、マインドマップは不可欠なのですトニー・ブザンの翻訳、さらにそのほかのマインドマップの実践者の物等、マインドマップを紹介する本は、書店に所狭しと並んでいますが、その中から箇々でもいくつかご紹介してみましょう。マインドマップ・ノート術 「パソコンで思考を描く」トニー・ブザン氏公認マインドマップ作成ツールBuzans iMindMap日本語版スタンダード・エディション ザ・マインドマップ
2008年02月10日
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earthを見てきました 生の自然ではないとはいえ、すばらしい映像で、映画にこれだけの力があるのだ、とくにドキュメンタリーのすばらしさに感動でした。BBCのドキュメンタリーのすばらしさは、以前から脱帽でしたが、あらためて、参った・・の思いです。 野生動物といっしょに、大地をを駆け回り、あねは鶴の群れに混じってヒマラヤの山を越え、ザトウクジラの親子といっしょに赤道から南極まで泳いできた気分です。 人間は何かとんでもなく思い上がっています。所詮は、これらの野生の動物と人間と、奇跡のいのちの星に生受けた、同じ仲間なのに。 これは、単に、北極のシロクマやザトウクジラ、アフリカの象の群れの話ではないのです。 何よりも人間そのものが「絶滅危惧種になろうとしている」野生動物たちが、生きてゆくことが困難な地球では、人類の未来もないのです。 しかも、46億年のいのちの歴史を、ほんの数百年で壊滅的な状況に多い込んだのは、最も小さな、弱いヒト科のヒトという種なのです。 これほどまでに、健気な、いのちの営みを見ると、人間の有り様を、あらためて深く考えさせられます。 この、いのちに学ぶということの前に、ひからびた知識の詰め込みに汲々としている・・こんなものは学びとは遠いとまたあらためて思い知らされました。http://www7b.biglobe.ne.jp/~libera/ ひと塾リベラ
2008年02月09日
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なぜ数学を勉強するの?中学時代、高校時代私は数学の時間が大嫌いだった数学の時間というのは、つまり学校の授業が嫌いだったのだ学校に数学なんかなければよいのにと思ったあるときあんなに理不尽で訳のわからないものと思っていた数学の扉が目の前でぱっと開いたときまでは実はそのときの数学の先生には大変申し訳ないのだけれどやっぱり解らなかったのは私の頭が悪かったのではなく(まあ、それも多少はあるとしても)解るように説明出来なかった先生の教え方に問題があったのだと思うたとえば二次方程式あれは全然意味がわからなかった二次方程式をグラフで表したものが二次関数のはずなのにだから関数のグラフをみれば二次方程式がわかるはずなのにそのつながりが全然説明されずただただ機械的に解き方を覚え込まされたわからないものを無理矢理覚え込まされるほど苦しいことはないだいたい人間の脳というのは興味のあること楽しいこと好きなことしか入っていかない事になっているそれをわからないままに無理矢理覚えさせようとするのだから脳生理学的に行っても無理がある数学は抽象度の高いものだからそれを子どもが理解するためには具体的に見える形で子どもに説明するプロセスが不可欠なのだけれどその部分はどんどんやせ細って問答無用の覚え込みの計算トレーニングばかりが横行する二次方程式を因数分解する(x+1)(x-2)なんて簡単な式があるそれを(x+1)の辺と(x-2)の辺を持つ長方形の図で表しているのを見たときはびっくりだったなあんだ、こんな事だったんだ・・早く言ってよそんな感覚だった小学校一年生の時の位取りだってタイルを使って手で覚えればなんてことはなかったはずだし割り算や、小数、分数だってみんな目に見える形で表現できたはずなのだ(-)*(-)=(+)なんていうのも昔の武士じゃああるまいに問答無用で「とにかく覚えるの!!」ってな訳で覚えさせられたこんな訳だから数学の時間がおもしろいわけがないだから「なぜ数学を勉強しなくてはいけないの?」というのは、少し舌足らずな言い方だと思う実際には「何で、こんな訳のわからない理不尽なものを覚えなきゃいけないの?」という意味ではなかったろうか訳がわかれば数学ぐらい面白いものはない下手なゲームなんか足元に及ばないそのわけの解る楽しさを体験すれば「なんで?」なんて疑問詞は吹き飛んでしまうのではないだろうか「何で?役に立つのか?そんなこと知らないけどとにかくたのしいんだもの」私はこども達のそんな声が聞きたいと思う目に見えるように解る数学を伝えていけたらと思う
2008年02月08日
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わかる数学・水道方式について(2)チルチル・ミチルの青い鳥ではないけれど人は自分の手の中にある宝物にはなかなか気がつけないようですね私自身もそうやって人生の中で沢山の宝物と出会いながら、その本当の価値に気づかず「わー、すごいなあ」くらいのことで通り過ぎてきてしまった気がしますたとえば江戸時代の天才的国文学者塙保己一は日本よりは海外で高い評価を受けましたやはり江戸時代の民間数学者「関孝和」も鎖国日本の中で世界のトップレベルの数学をしのぐほどの業績を上げながら長いことその真価は認められることがありませんでした特に最近、私の中で二人の人を再評価しあらためて学んでいます一人は、ユダヤ人強制収容所にとらえられた過酷な状況を「夜と霧」に著したヴィクトール・フランクル。収容所での体験もさることながら、彼の実存分析・ロゴテラピーが心理学をコペルニクス的大転換に導いたことさらに、現代人にとってますます必要とされ価値を増しているということ・・に驚きと感動の思いを抱いていますもう一人は昨日のブログでもお話した数学者そして優れた哲学者としての評価もつけ加えたいのですが水道方式の生みの親「遠山啓」さんです数学をわかりやすく教える革命的な方法を生み出した水道方式は、民間教育運動から出てきたものとして文部省に白眼視され日本の学校から閉め出されその間に世界中の算数の教科書に取り入れられ普及していますもともと日本語は数詞が完結である事もあって数学はとても得意な分野であるはずなのですが数学をわかるように教えるという努力が学校教育の中でないがしろにされもっともわかりやすい、もっとも楽しい教科であるはずの算数・数学がもっとも嫌いな、もっともわからない科目になって子どもたちを苦しめています遠山先生は「わからない、わからないことを覚え込むのは嫌だ」と言えることもは、まだ人間的だ分からないことに疑問を持たずに、取り込んで覚えてしまう分からないのに出来てしまう子どもの方が問題だ・・と指摘しますそうなんだけれど、でもそうすると今の日本の子どもの圧倒的多数は「分からないのに出来てしまうこども達」なのでしょうかあるいは、「わからない、解らないのにむりやりおぼえさせられる勉強というのはなんといやなものか」と、砂をかむような日々を過ごしているのでしょうかそういえば、少し前に東大の医学部出身のドクターと話をしたのですが自分の中高時代、及び大学受験時代を振り返り「勉強とは正に受験の要領を身につけるものだった」といっていたのを思い出します日本のこども達全体が膨大な知識を疑問を持たずに飲み込んでいる沢山のロボットの集団になってしまっているようで、寒々とした気がします。遠山先生はそんなこどもたちを「お猿の電車を運転するお猿さん」表現をされていましたが・・・遠山先生が亡くなって数年後私は本郷の遠山会館で開かれた水道方式の講座に足を運んだことがありましたそのとき会館の一角にあった遠山先生の蔵書の棚を見たときの感動は今でも忘れられませんそれは、本のの幅の広さです文学の幅広い古典が数学の本より沢山並んでいたのです失礼な言い方だけれど世の中には「専門○○」といいたくなるような自分の狭い専門の知識だけは驚くほどみにつけているけれど自分の専門と社会をつなぐパイプを欠いている人を少なからず見かけます遠山先生の蔵書の棚の前に立つだけで人間が学ぶとはどういう事なのか考えさせられました遠山先生ご自身は「学ぶことで一番大事なことは人間がいかに生きるかということだ・・」と多くの著書の中で繰り返し言っておられたのを思い出しますそれはヴィクトール・フランクルの「人生の意味を見つける・・・」という視点と共通の者を感じますそういえばフランクル(1905-1997)遠山啓(1909-1979)遠山先生が亡くなって数年後私は本郷の遠山会館で開かれた水道方式の講座に足を運んだことがありましたそのとき会館の一角にあった遠山先生の蔵書の棚を見たときの感動は今でも忘れられませんそれは、本のの幅の広さです文学の幅広い古典が数学の本より沢山並んでいたのです失礼な言い方だけれど世の中には「専門○○」といいたくなるような自分の狭い専門の知識だけは驚くほどみにつけているけれど自分の専門と社会をつなぐパイプを欠いている人を少なからず見かけます遠山先生の蔵書の棚の前に立つだけで人間が学ぶとはどういう事なのか考えさせられました遠山先生ご自身は「学ぶことで一番大事なことは人間がいかに生きるかということだ・・」と多くの著書の中で繰り返し言っておられたのを思い出しますそれはヴィクトール・フランクルの「人生の意味を見つける・・・」という視点と共通の者を感じますそういえばフランクル(1905-1997)遠山啓(1909-1979)20年ほどの人生の長短はあるものの同時代を生きた最大級の人類の代表であったと思いますそしてお二人の亡き後の時代が最も求めていることはこの偉業の継承ではないのかとおもうのですが私のような、未熟な、力のないものが・・・という思いに「力の問題ではない、あなたが与えられた責任を全力を尽くして無心になってやることが最も大切なのだ」という、フランクルの声が聞こえるような気がするのだけれど
2008年02月07日
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ほん とは数学って楽しい今は、出版元である「ほるぷ」が倒産してしまったのでおそらく手に入らないのだと思いますが、娘が幼児の頃、遠山啓さんの書かれた「さんすうだいすき」と言う、シリーズの本がありました。この本は、遠山啓先生がご自分のお孫さんのために幼児期に、数の概念を楽しく、わかりやすく身につける為に作られたことが原点であったと伺っていますご自分の、お孫さんを目の前にして手作りした本だけ会って当時や3歳くらいであったkatakuriもほかの絵本を楽しむようにというよりは、ほかの絵本よりもずっと夢中になってこの「さんすうだいすき」の世界で飽きもせずに遊んだものです。これは、本だけでなくタイルや様々な楽しい教具(遊具?)がついていて文字通り遊びながら数の概念を身につけられるのです実は私自身、小さい頃から算数、数学は一番嫌いな科目でした抽象的な概念をわからないのにしゃにむに覚え込ませるというその頃の算数教育に幼いながらに抵抗していたのだと思います学校の算数・数学=数学なのだと考えている間は数学は大嫌いだったのですそんな私が「学校の数学の授業は大嫌い、でも数学っておもしろい!」と言うことを発見したのは父が買ってきた真っ赤な3冊の水道方式の本だったのですそれから私は歴史上のホームスクーラーの多くが「学校大嫌い、勉強大好き」だったように「学校の数学大嫌い、数学大好きになったのです」東工大教授であった遠山啓先生は、水道方式という具体的でわかりやすい数学教育の方法を編み出された方で、同時に競争原理のもとで多量な知識の注入と、テストへの放出をもっぱらとする学校教育のあり方に鋭く、批判の目を向けられた方です。水道方式は抽象的な数の概念をタイルと言う、具体的に目に見える形で表すことで算数・数学を覚え込む科目からわかる科目へと筋道をつけた画期的なシステムでしたかつては自主的な教師の学び合いの中で草の根で日本中のこども達に届けられたこのシステムですが現在の、検定教科書の元ではタイルは、おはじきや数え棒のまま体系的にこのシステムで数学を学ぶチャンスはとても限られたものになってしまいました。日本の教育行政はこども達に数学がわかり、数学の喜びをあたえる水道方式をアウトローとして排除しましたが水道方式は海をわたり、アメリカ、フランス、イギリス・・多くの国で取り入れたれています教科書で取り入れられていないのは誕生した日本だけ・・というのは何とも皮肉なことですたくさんのこども達が数学(算数)がわからない、嫌いというのは数学に責任があるのではなくわかるように教えない大人の側に問題があるのだと思います katakuriは数年前から高校段階の数学を勉強していて水道方式は卒業ですがとりあえず中学段階で使える水道方式の数学のテキストを一つご紹介します著者の榊忠男先生は遠山先生の水道方式の後継者ですらくらく数学テキスト(中学1年編)改訂第3版 らくらく数学テキスト(中学2年編)改訂第2版 らくらく数学テキスト(中学3年編)改訂第2版
2008年02月06日
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化学のドレミファ 「化学のドレミファ」というのは米山正信著の10巻の中高生向けの化学の入門読み物です。ちなみに、一巻目は反応式がわかるまでとして、ドルトン先生がのり子さんひとし君に、ポスターから現れて説明する・・と言う話で、化学の基本を教えてくれる。katakuriは、この「化学のドレミファ」が大のお気に入り。浸透圧の説明が上手だと感激。モルや原子の腕の説明が、とてもよく分かったと言います。 中高生向けと言いましたが、著者のもとには小学3年生から、孫の本を読んで感動したという女性からも手紙が届くのだと言います。これは、教師冥利、著者冥利に尽きるわけで、この辺にもこのシリーズや著者の魅力が現れているのだと思います。初版がいつなのかはっきりしないのですが、私の記憶では、30年以上前ではないかと思うのですが、とてもいきいきしていて、30年の歳月を全く感じさせません。 米山正信著ではこのほかに「物理のドレミファ1.3~6」もあります。先ほどの、おばあちゃんからの著者への手紙で、1-18「ドルトン先生消える」の部分で、ドルトン先生が書き残したと言う手紙の部分が感動的で涙が止まらなかったと言う手紙が著者の元に届いたそうですが、私もこの部分は、感動しこれは、図書館で読んでいた本なので、その部分をコピーした程です。 「勉強の一番よい方法は、なんと言っても、自学自習です。自学自習の心構えがあって、はじめて先生の話もよく分かるのです。私は学校らしい学校にいかず自学自習でいろんな勉強をした人間です。」「(色覚異常だと言うことに気づいたショックから)私が立ち上がったのは、私自身の物好きな性分、何事も研究しなくては気が済まないという好奇心のおかげです」「私が原子について考えたのはその後のこと、生活の為にこども達にに数学や科学を教えながら研究した私は、自分の研究の時間が欲しかったので、子供に問題を出し、ヒントを教えるだけで、時間をかけて問題を自分で説くことをさせたのです」(ケガの功名!!おかげでドルトン先生に学んだ子ども達は、自分の頭でしっかり考えるということを身につけたのでしょう) ティモシー・ガルウェイという、テニスのレッスンコーチの経験から、革命的なコーチングの技法を確立したアメリカ人がいます。彼も言っていることですが「コーチが、やかましく、指図したり、教え込んだりすると、選手はますます硬くなってうまく出来なくなる、コーチが、黙って見守ることをすると、指図することをやめると、選手が外からのちからに自由になり、のびのびと本来の自分の力を発揮することが出来る・・それをインナー・ゲームという」勉強でも、スポーツでも、自分自身で発見することがとても大事なことなのです。「自学自習、頃のみが、唯一の勉強法で、先生は本は(本ですら!!)その助力者にすぎない」 「昔の学者の見つけたことを教科書にして、それを覚えるだけが科学の勉強なら、これほどつまらない勉強はありません。(実際には、このつまらない勉強を科学・・として学校で義務的に教え込まれる・・だから理科嫌いのこども達が増えてしまうのだと思う)科学は生きている学問です。あなた方の目の前に起こるすべの自傷に、はてな?と疑問と探究の心を向けてご覧なさい。そこに本当におもしろい学問としての科学があるのです」 「科学は、まだ本格的に生まれてから数百年にしかならない学問です。科学によって説明出来ないことは、みんな迷信だと割り切ることこそ、本当は、科学に対する迷信なのです」(ただ現時点で人間の力が及ばないから、科学という言葉で説明できないと言うだけのことなのだけれど) 「・・特に最後のドルトン先生の手紙に感動しました」と言う読者からの手紙に 「実は、私(著者)自身が言っていることなのだけれど・・」と言っておられます。そう、ドルトン先生の声の底流に著者米山正信さんの声を確かに聞いている感じがしました。 米山正信さんが直接述べているあとがきも印象的です。「『化学』という学問は、できあがってしまっている物ではありません。目の和えの現象に立ち向かっていく態度や方法なのだ、と言えるかも知れません。まして、教科書にある智sきを、受験のために覚えるのが化学の勉強ではありません。今は、はっきり説明できないことも、はてな?なぜ?と考えてみることもだいじな勉強です」『今、大脳の中の生理の化学的解明が急速に進んでいます。もしかしたら、ユングの偶然についての考えて、化学が結びつく日が来ないとも限りません」 こういう楽しい本で学べるから、ホームスクールはやめられません。そして、こういう内発的な楽しい学びだからこそ、しっかり学問的な実力もつけられるのだと、信じています。 katakuri@mri.biglobe.ne.jp楽天では次の3点が入手可能です化学のドレミファ(7)化学のドレミファ(6)化学のドレミファ(4)
2008年02月05日
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ホームスクールというもう一つの選択 不登校の人数は相当に多いらしいけれど、積極的に、「子供を学校に行かせずに、自分の家で教育をしようという」ホームスクールと言う選択は日本では、まだあまりなじみがないかも知れません。 アメリカでは、2006年に200万人のこども達がホームスクールという学びの選択肢を選んでおり、さらに年々増加しているとのことです。アメリカのみならず、イギリスでも、カナダでも、オーストラリアでも、この新しい学びのスタイルは急速な広がりを見せています。 我が家の娘KATAKURIは4月から高校生になると言うことを考えていたのですが、最終的に、高校受験はとりやめ、ホームスクールで3年間の学びの時間を過ごす事になりました。ホームスクール・リべラの誕生です。 9歳から、5年以上をイギリスの学校に過ごした、katakuriにとって、日本の学校のがいかにも管理的で、知識の詰め込み、試験勉強のみを押しつけられるそんな状況に耐えられなかったようです。 イギリスも最近は日本に似たような、競争原理や、知識の詰め込みが取り入れられて、以前と比べると、余裕を持って学ぶjことが難しい状況にありますが、日本の受験勉強と比べると格段の違いがあるようです。 本を読む量が、格段にちがう上に、日本のようなマルバツ式や選択式のテストはほとんど皆無で、自分の言葉で大量のレポートを書くことが評価のちゅうしんです。テストの評価はA+~Gのランクと、通知表は、個人別科目別のコメントがそれに加わります。 日本のような偏差値で子供を輪切りにして、試験で振り分けるのは、国内にいると解らなくなってしまうのだけれど、外から見ると、いかにも異常な感じがします。国連から、韓国を受けるのも当然・・と言ったところでしょうか。 そんなわけで、ホームスクールを選択したkatakuriは、今晴れ晴れとした表情で、今からどんどん自分の勉強を始めています。 ホームスクール・リベラの始まりです。ママ・先生はもっぱら彼女の勉強のアドバイザーや、コーチ役。そして、」学びの先輩としての若干の助言・・。とはいえ、主体と選択権は彼女の側にあります。学びは常に自学自習。人に強いられたり、教え込まれてする物ではないという思いがあるからです。 すばらしい教師だとしても、がんじがらめの文部省の管理の下では、子供の興味や関心に基づいた、本物の教育・学びは不可能なのです。 学びはあくまでも自分でするもの。3年間の実践はkatakuriのものであると同時に、ホームスクールでどれだけの事ができるのか、大いなる実験なのです。あるホームスクールの子供が胸を張って「もちろん、勉強なんかやっていませーん」と言っているのを聞いて、とてもがっかりしました。学ぶのは、自分のため。学校が、子供にとってふさわしくない場所であったら、学校は嫌いでも、行かなくてもよいと思うのだけれど、自分自身のために、学びは一生必要だと思います。そして、学ぶことは、人生の中で最高に楽しいことなのです。学ぶ楽しさを放棄するのは不幸な事だと思います。 我が家では、思い切り楽しく学びたいと思います。学ぶことの本当の楽しさを知るためにも、ホームスクールが必要なのだとおもうのですが。楽しい、ホームスクールの実践記を、乞うご期待!!
2008年02月04日
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