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敬語シリーズの第二回です。前回は「敬意の対象(けいいのたいしょう)」つまり、「誰に敬語を使うのか」ということについて書きました。今回は、「敬意の発信者」つまり「誰が」敬語を使うのかということについて書きたいと思います。これは簡単ですね。もちろん敬意(けいい)つまり「尊敬の気持ち」をもっているのは「自分」です。ですから自分が「敬意の対象」となるような相手とかかわるときは「敬語」を使うのです。しかし、それだけの単純なものでもないのが、敬語のむずかしいところ。日本では、グループを身内(みうち)と考えることが多く、自分が所属しているグループ全体を、自分自身と同じように考えます。たとえば、自分の家族以外のひとに、自分の家族のことを話すときには「家族=自分」という立場で話さなければなりません。学校の先生から、「明日、お父さんはおうちにいらっしゃいますか?」とたずねられたとしましょう。ここでは学校の先生は、自分の生徒の親である「あなたのお父さん」に対して敬意をあらわし、敬語を使っています。(「いらっしゃる」=「いる」の尊敬語)これに対して、あなたが「明日、お父さんは家にいないけれど、夕方に学校に来ると言っていた」ということを先生に伝えたいとき、なんといいますか?ここで「お父さん」は家族の中では自分よりも目上なのですが、家族以外の存在である「先生」とお父さんについて話をするので、ここは「お父さん」を自分と同じ立場で敬語をつかわなければいけません。そこで、まず「お父さん」の「お~さん」というのも敬語の一つですから、自分(と同じ立場の人)に対して敬語を使うのはおかしいので、はずして「父(ちち)」といいます。また「いない」というのも、自分がいないときと同じように「おりません」とし、「父」が学校に「来る」のは「参る」または「うかがう」「言う」は「申す」にしなければなりません。つまり、「明日、父は家におりませんが、夕方に学校にうかがうと申していました。」と答えなければいけないのです。ここで使った「おる」「うかがう」「申す」はすべて、自分が目上のひとに対してとった行動につかうことばです。敬語の種類については次回に説明しますが、ここでは「お父さん」の行動を「自分」と同じ立場として敬語をつかわなければならないということだけわかってください。さらに、会社などの組織(そしき)に所属することになると、会社の中では敬語でつかっている目上の人(自分の上司)も会社以外の人と話をするときには、自分と同じ立場として敬語を使い分けなければならないのでややこしくなります。とにかく、「敬意の発信者」は「自分」と「身内」だということを意識してください。
May 31, 2007
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敬語シリーズの第一回目です。日本語には「敬語」と呼ばれる言葉づかいがあります。もちろん他の言語にも「敬語」はある 思いますが、日本語の敬語は種類も豊富で、大変です。正しい敬語を身につけるためにはまず「敬意(けいい)の対象(たいしょう)」(「敬語」を使う相手)となるのはどのような相手かというのを理解していないといけません。人間以外の相手に敬語を使うこともありますがとりあえず人間で考えてみましょう。身の回りの人で「この人には敬語を使って話さなければいけないな」というのはどんな人ですか?具体的に思い浮かべてみてください。校長先生は?担任の先生は?塾の先生は?お母さんは?お父さんは?お兄ちゃんは?お隣のおばさんは?弟は?妹は?愛犬のポチは?なかなか難しいですね。先生なんかだと、敬語を使いたくなる先生と、あまり使いたくないと思う先生がいるかもしれません。。両親に敬語を使うなんて変ですよね?ご飯食べながら、「お母様、カレーのおかわりをいただいてもよろしいですか?」なんて話すと「あんた、大丈夫か?」と心配されるかもしれません(笑)結論としては日本では「年上を敬う」という考え方がありますし、また「相手を尊重(そんちょう)する」という考え方も強くあります。(もちろん、これが正しいのかどうかということではなく、一般的にそのような考え方が多かったということです。)(こういう、「人がどのように考えて生きるか」ということは、人それぞれいろんな考え方があり、正解・不正解などがわからないものです。「いろんな考え方がある」ということだけはわかっておいた上で、どのような人が多いのかということを考えるようにしましょう。)さて話は戻って、「年上を敬う」ということは「先生」と名前のつく人はやはり敬意の対象と考えるべきでしょう。というよりも、古くから「敬意の対象」となる人のことを「先生」と呼んだというほうが正しいかもしれません。そのほかには、本当は両親、もちろん祖父母、兄、姉も「敬意の対象」とするべきですが、これについては、先ほども書いたように家庭内がかたくるしくなるのでやめた方がいいですね。(これも昔はきちんときまりとして、父親を敬うというようなことがありました。)でも、「敬う」気持ちは持っておいた方がいいと思います。また、現在小中学校に通っている人には直接関係はないかもしれませんが、客(または取引の相手)などは「敬意の対象」とするべきです。なぜなら、そういう人たちは何らかの形で自分にプラスをもたらしてくれるかもしれない人だからです。くだいた言い方でいうと「その人のおかげで得をする」から「敬意」をしめすようにするということです。なんだかせこい話に見えるかもしれませんが、決して自分にプラスにならない人をないがしろ(←ほったらかしにする)にしていいといっているわけではありません。こういう話は長くなるのでこれくらいにしておきます。そして自分より年下であれば、普通は「敬意の対象」とはなりません。でも、みなさんが大人になれば、年下の人から何かを教わったりすることもあるかもしれません。その場合は「先生」ですから「敬意の対象」です。また、年下のお客さんや取引相手にはたくさん出会うでしょう。その場合ももちろん「敬意の対象」となると思ってください。(お互いが仲良くなれば、また違ってきますが。)そして、友達はお互い教えあい、競い合いしていく仲ですから普通は「敬意の対象」とすることはありません。最後に、これは残念ですが、日本語では「動物」は「敬意の対象」とはなりません。(もちろん例外はありますが。)人間でなくても、「神様」のような存在、「自然」のような大きな存在などは「敬意の対象」となることがあります。さて、今回は「敬意の対象」ということで話をすすめてきました。ちょっとややこしかったですか?まとめて書くなら、国語の問題で「敬語」を使う相手としてよく出てくるのは「先生」「年上の人」「お客さん」「取引の相手」などです。普段の生活の中で、「この人には本当は敬語を使った方がいいのかな」ということを意識するだけでも、「敬語」というものを理解するのはずいぶん違ってくると思います。
May 24, 2007
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しばらく投稿ができませんでした。また改めてどんどん記事を書いていきたいと思います。さてこの6月16日(土)(一部の準会場は15日(金)も)にはじめての「日本語検定」というものが行われます。「漢字検定」が一般に知られてきたので、その恩恵を受けて多数の受験者が見込めると思ったのかどうかはわかりません。ただ問題集を見ているとこの「日本語検定」というタイトルは微妙だなとおもってしまいます。日本語の力をためすといっても、単に「語彙力(ごいりょく)」を問うている、もしくはこのサイトでいうところの「ことば力」の検定にとどまっています。(もちろん、まだ一度も検定は行われていないので今後どのようになるのかはわかりませんが。)このサイトで言うところの「分析力」や「構成力」は漢検と並行して行われている「日本語文章能力検定」というものがあります。ところがこの「文検」は「漢検」ほど知られていないように思います。もっと小中学校で積極的に受検すればいいのですが。話はそれましたが、日本語検定では文法、表記、漢字、言葉の意味、語彙(ごい)、敬語の6つの領域の力を測るとあります。このなかでも「敬語」は苦手だという人は多いんじゃないですか?実際、僕が小中学生を相手に国語を教えていたときも、敬語がわからないと言っている生徒さんがたくさんいました。大人でも敬語を使いこなすのは難しいです。。。そこで、このサイトで「日本語検定」を視野に入れて何回かに渡って敬語について説明していきたいと思います。
May 23, 2007
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○ことば力○分析力○構成力の「構成力」について今回は書きたいと思います。「ことば」をたくさん知っていて、文章の中身や問題の内容を「分析」することができても、自分の考えをうまく「構成」できなければ、「国語」の問題の正解を出すことはできません。それでは自分の考えを「構成(こうせい)」するというのはどういうことなんでしょう。「構成」というのは「組み立てる」ということ。記号問題でも、抜き出し問題でも、記述問題でも、作文問題でもしっかり理解できていても、なんとなく答を書いてもダメ。今回はわかりやすく「記述問題」で考えてみましょう。たとえば50字で登場人物の「気持ち」を答える問題があった場合、問題を作った人の求めているものは「気持ち」しかし、「気持ち」そのものを表すのに50字もかからない。だから、答を書くときに、答の一文字めから「気持ち」を書き始めると気づいたときには「気持ち」と関係ないことを書いて答を終わってしまいます。そうすると、答全体を読むと「気持ち」を答えていない。日本語というのは「文章」にしろ「文」にしろ「ことば」にしろ「終わり」=「一番重要」という印象をもつことばです。ということは「気持ち」を答える問題で、答の最後に「気持ち」が書いていなければ正解とはならなくて当然です。正解となる答を作るためには、答の終わりに「気持ち」を配置して、その前に、そこにたどりつくまでの部品となる内容を配置して組み立てていかなければなりません。わかりにくいかも知れませんが、答を後ろからさかのぼって考えていくという感じだと思えばいいと思います。たとえ200字の記述でも、2000字の作文でも、答の最後にくる「答の中心」となる内容をまず決め、そこにどうやってたどりつくのかという説明をしなければなりません。ということで、「構成力」のためには二つの力が必要になります。一つめは「答の中心」を見定める力。(これは正確な分析(ぶんせき)と経験が必要となる力)二つめは、自分の見定めた「答の中心」を論理的(ろんりてき)に導く力。これは「論理学(ろんりがく)」といわれる分野です。「論理学(ろんりがく)」の基本的な知識を理解して使いこなせるといろんな場面で役に立ちます。この二つを使い、問題を作った人が答えてほしい答を構成していきましょう。(これだけではわかりにくいので、少しずつくわしく説明していきますね。)
Apr 10, 2007
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第5回で、国語を解くための力として、○ ことば力○ 分析(ぶんせき)力○ 構成(こうせい)力の三つが重要だということ書きました。今回はそのなかの「分析力」の話を少ししてみたいと思います。いくら「ことばの意味」をたくさん知っていても、しっかりとした分析ができなければ国語の問題は解けません。では「分析」ってどんなことをすればいいのでしょうか。細かく考えると分析することはたくさんあるのですが、大きく考えると二つ重要なポイントがあります。ひとつめは「文章を書いた人の言いたいこと」文章は誰か書いた人がいるのですが、本や雑誌などで出版されるような文章(さらには国語の教科書や入試でとりあげられる文章)は、「ただなんとなく書いた文章」というのはないのです。ということは、必ず書いた人は「何か書きたいこと」があるはず。つまり「その文章を読んだ人にわかってほしいこと」があります。そして、それはひとつの文章でそんなにたくさんのことがあるわけではありません。とくに「国語の問題」として取り上げられる分量としては、二つも三つも言いたいことがあると、わかりにくくなってしまいます。ということは、国語の問題の文章を読んだときに、「この文章の筆者(または作者)が一番いいたいことは何か!」ということがわかれば、もうかなり分析できていることになります。とはいえそれが難しいのかもしれませんが、「筆者の言いたいこと」をとらえるコツはまた改めて書きたいと思います。さて、最初に分析力でとらえる重要なポイントが二つあると書きましたが、実はもうひとつの方が重要なのかもしれません。それは、「問題を作った人は、なぜこんな問題を作ったのか」ということ。文章を書いた人がいるように、国語の問題も作った人が必ずいます。ということは国語の問題も作った人が、「これをわかってほしい」「こんな答えを書いてほしい」ということがあるのです。時にはすごく「文学的な文章」の一部を使って、実は「ことばの知識」を聞いている問題もあるのです。そんなときに、文学的文章の読解を一生懸命しても、時間を費やす(ついやす)だけで「国語の問題」を解いたことにはなりません。もちろん、そんな極端(きょくたん)な場合はすぐに気づくのですが、実はひとつひとつの設問も、何か意味があってその問題を作っているのです。そして、この「問題を作った人が、なぜこんな問題を作ったのか」ということが分析できれば、国語の問題の多くはかんたんだったりします。でも、その分析もきちんと意識(いしき)しなければできません。細かいことや、コツなどは少しずつ書いていきたいと思います。とりあえず今回は○ 文章を書いた人が言いたいこと○ 問題を作った人がなぜその問題を作ったのかということこの二点が重要だということを意識してください。
Apr 6, 2007
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第2回から第4回にかけて、読書のことを書きました。読書についてはいったんこれくらいにして、第1回に書いたもうひとつ「ちゃんと読む」について話します。第1回にも書きましたが、国語を苦手とする人で誰かに相談したとき、「ちゃんと読めばいいよ。」とか「しっかり読めばいいよ。」とかいうアドバイスを受けたことはありませんか?まぁ間違えているわけではないのですが、それで解決しましたか?解決した人はもともと文章を読まずに問題を解いていた人なのかもしれません。(実際に僕が見た生徒さんで、文章を読まずに問題を解いていた人もいましたw)でも大半の人は、「ちゃんと」とか「しっかり」と言われても困ったのではないかと思います。では、その「ちゃんと」「しっかり」読む読み方を考えていきましょう。ここから書いていくのは、僕自身が学生のころから考え、そして、家庭教師や、塾の先生としていろんな成績のいろんな年齢の生徒さんを見てきた中で個人的に考えていることなので、これだけが絶対に正しい考え方というわけではありません。もちろん一回ですべてを語りつくすことはできないので、これから少しずつ掲載していきたいと思います。では、前置きが長くなってしまったので本編に入りましょう。国語の文章読解が苦手だという人に、意識してほしいのは、国語の力として重要なものが大きく分けて三つあるということです。(もちろん、細かく分けていくとキリはないのですが。)1:ことばの力(=語彙(ごい)力、ボキャブラリー)(このサイトでは『ことば力』と呼ぶことにします。)2:分析する力(このサイトでは『分析力』と呼ぶことにします。)3:組み立てる力(このサイトでは『構成力』と呼ぶことにします。)この中で自分が弱いのはどれなのか意識するだけでもずいぶん変わってきます。もちろん、全部苦手ならそれでもかまいません。でも国語の勉強をするときに、今どの力を練習しているのかということを考えるだけでも自分の力になるものがずいぶん変わってきます。ではこの三つについてもう少しくわしく見てみましょう。1の『ことば力』にはもちろん、どれだけ漢字を知っているかということや、ことばの意味を知っているかということも含まれます。ただ、国語の読解に役立つ『ことば力』とはもう少し幅広いものと考えてください。○ 各学年で必要な漢字を知っていること。○ ことばの意味を知っていること。に付け加えて○ 日本語の文法を知っていること。はもちろん、○ 「ことば」と「ことば」の関係を意識できること。○ 「ことば」の背景を意識できること。などなど。。。最初の三つは学校でも意識して教えてくださると思いますが、最後の二つは、自分で意識しないと見過ごしがちになります。「ことば」と「ことば」の関係というのは、かなり複雑でまた少しずつ書いていきたいと思いますが、簡単にいうと、たとえば「なすび」と「大根」と「きゅうり」は仲間のことばで、それをまとめることばとして「野菜」ということばがあるというように、ことばを立体的にとらえることが重要だということです。ただし、それは文章の内容によって(つまり文脈によって)立体の組まれ方は変わってきます。しかしつねにことばを立体的にとらえるようにしていれば、筆者(または作者)がどういう組み立てでことばを使っているか分かってきて、分析するのが楽になるのです。また、「ことば」の背景を意識するというのは、どういう場面でどういうことばを使うのか、またそのことばはなぜそういうことばなのかということを意識すること。たとえば「みかづき」ということばは知っていると思います。じゃあなぜ「みかづき」なのか。それが分かっていれば、気軽に夜空を見上げて「おっきれいなみかづき」とはいえなくなるかもしれません(笑)実際にそのあたりが分かっていれば、たとえば文章中に「あわい六日の月が~」という部分があっても、どんな月なのかイメージできると思います。(宮沢賢治の「なめとこ山の熊」か何かにそういうフレーズがありました。)また、普段から「ことわざ」や「故事成語」を使っている環境だとどういう場面でどういうことばを使うのか分かります。ただ、これはまわりの家族の力も大きいので、お父さんやお母さんにできるだけそういうことばを使って欲しいといってみてもいいかもしれません。(嫌がられるかもしれませんが(笑))自分の『ことば力』を上げるためには、まわりの協力も必要になりますので、家族や先生に相談してみましょう。また、自分でもできるだけ意識していろんなことばを使ってみましょう。それが『ことば力』につながります。学生のうちはいろんなことばを使いこなせなくても恥ずかしくはないですが、社会人になって『ことば力』が弱いと恥をいろんな場面でかいてしまうかもしれません。今のうちに『ことば力』を鍛えましょう。さて、さきほどの「みかづき」ですが、なぜ「みかづき」というのか、もしわからなければ調べてみましょう。こたえは次の機会に!
Mar 23, 2007
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「本屋さんで一日過ごしてみる」ということを先日の記事で書きましたが、そのことについて。まず、読みたくない本は読んでもしかたないです。どんなにまわりに勧められても面白くないものは面白くない。もちろん、小学生のころ面白くなかった本が高校生になって面白くなるなんてことはよくあることです。でも、そのとき自分が読んで「これは面白い」と感じる本は必ずあるはず。ただ、いつもよく読んでいるような本ではなかなか自分の知識の幅は広がりません。そこで、今まで自分が出会ったことのないような本と出会うために「本屋さん」に行きましょう!「図書館でもいいですか?」と聞く人もいるかもしれません。「いえ、できるだけ本屋さんの方がいいです。」少なくとも以前書いたように、「本から呼びかけてくる声」を聞くためには本屋さんでなければなりません。なぜなら、「図書館の本」は図書館に並べられたときに、自分の居場所が決まってしまい、誰かに呼びかけようとはしません。しかし、「本屋さんの本」は誰かに買ってもらわなければ、自分の行き先は決まらないのです。だから、買ってくれそうな人を見つけると呼びかけてきます。あっ。またアヤシイ話をしていると思いましたね(笑)実際には、並んでいる本をどのような目で選んでいるかというのが図書館と本屋さんでは根本的に違うのです。ただし本屋さんでも、なんとなく注文して並べているだけのところもありますので注意してください。そうなってくると、まずは本屋さんから選ばなければダメですねw慣れてくると、ここの本屋は「自分に呼びかけてくる本」がたくさんあるとかここは売り場は広いんだけど、イマイチなどと、自分の好みの本屋が見つかると思います。それまでは、とりあえず専門書の充実した書店を選びましょう。関西だと、大阪にある旭屋書店とか紀伊国屋書店とか、京都だと丸善とか。こういう老舗の本屋さんは、やっぱり仕入れにこだわりがあるように思います。でも人それぞれの好みなので、自分にあった書店を選んでください。(個人的には上に挙げた書店の中でも好き嫌いはありますw)そして、そういう大きな書店に行ったら、高校生以上であれば、ぜひ専門書コーナーをかたっぱしから見ていきましょう。棚にある本でもかまいませんし、平積みされている本でもかまいません。「なんだか、面白そう」と思った本は手にとってみて、パラパラと見てみる。専門書が難しかったら、専門コーナーにある雑誌でもかまいません。世の中には本当に細かく専門雑誌というのがあります。自分が興味のあることを、こんなにいろいろと研究している人がいるんだなぁと感心できますし、また関心のある雑誌なら少しくらい難しくても楽しめます。僕は高校生くらいのときは、よく大阪梅田にある旭屋さんで一番上の階から順番に降りてきて本を見ていました。もちろん高校生の時は本を買うお金もそれほど持っていなかったので、本の題名と筆者をひかえて、図書館などで探して読んでいました。小学生なら、そういう大きな書店には小学生向け書籍のコーナーというのがかなり広くあります。そこで今まで手にしなかったような本をのぞいてみましょう。もちろん、何か興味のあることがあれば、その専門コーナーに行ってみるのもいいかもしれません。中学生が一番さがしづらいかと思いますが、本が苦手なら最初は小学生向け書籍のコーナーを見てみるのもいいかと思います。そうやって本屋さんで過ごしていると、必ず「これ面白そう」という本に出会うとおもいますので、本なら、「題名・筆者・出版社(できれば)」を控え、雑誌なら、「雑誌名・号数」を控えて、図書館でさがしてみましょう。そうやって、今まで自分が出会わなかったような本と出会うことができれば、そこからまた、あたらしいつながりができ、別の本と出会うことができます。
Mar 20, 2007
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昨日の最後に「好きな本を読む」と書いて終わってしまいましたが、それも無責任ですね。しかし確実に言えるのは、読みたくもない本を読んだって国語力はつかないということ。もちろん、独りでする読書ではという意味ですよ。国語の授業中に「読みたくもない文章を読んでも仕方ない!」なんて叫ばないように(笑)そういうときは先生が助けてくれているのですから、国語の力はつきます。さらにそういうときこそ、今まで自分が興味を持たなかったような内容の文章と出会うチャンスです。さて自分独りで読書するときの話に戻ります。自分の好きな本を読めばいいのですが、それを見つけるためには少し努力がいります。今、この記事を読んでいて「そういえば、あの本読みたかったなぁ」と思い浮かぶ本がある人も、いったんその本はおいておきましょう。今まで、あまり読んだことのない本をさがしてみましょう。それも「僕のことを(あるいは私のことを)読んで!」とあなたに語りかけてくる本を。何をわけの分からないことを言ってるんだって思いましたか?そうですね(笑)でも本当ですよ。本は呼びかけてきます。あやしい宗教か何かじゃないかなんて思わずに読んでくださいね。本が呼びかけてくる声は慣れてくれば、題名をき聞いただけでも聞こえてきますが、もし今までにそんな声を聞いたことがないという人は、本屋さんに出かけてみましょう。だんだんと長くなってきました。今回はこれくらいにして、本屋さんでどうすれば「本の声」が聞こえるのかは次回に説明します。ヒトコトでいうなら「本屋さんで一日過ごしてみる」
Mar 12, 2007
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「国語が苦手だ!」という人で、こんな風にいわれたことはありませんか?「国語なんて、読書すればできるようになるよ」「ちゃんと読めば、分かるだろ?」でもそんな風に言われて、納得しましたか?納得できなくて当たり前だと思います。このふたつの言葉は決して間違ったことを言っているわけではないので、そんな風にアドバイスしてくださった人をうらんではだめですよ(笑)でも、「読書するだけで、国語ができる」なんてことはないです。「ちゃんと読む」ってそれが分からないから苦労するんです。この二つの話を両方書くと長くなってしまうので、今日は「読書」について。「国語は読書すればできるようになる」というのは間違いとは言いませんが、ものすごく乱暴なアドバイスです。たとえば、「音痴で、歌がうまく歌えないんです。」と相談してきた人に、「CDをたくさん聴いていれば、歌えるようになるよ」とアドバイスしているようなもの。「音楽をたくさん聴くこと」は、決して「歌を歌う」ことについてマイナスにはならないし、そういうことも必要です。でもそれだけじゃダメですよね。「国語」と「読書」の関係もいっしょだと思います。「読書」は決して「国語の成績をあげる」ことについてマイナスにはならないし、必要です。でも、「読書」するだけでは成績はあがらない。じゃあ、どうすればいいか。「ちゃんと読めば」いいんです!すいません。「ちゃんと読む」といわれてもこまりますね。でも、その「ちゃんと読む」という読み方を教えるのが国語の先生の役割だと思っています。「ちゃんと読む」については後日あらためて説明することにして、今日は「読書」について、話をすすめます。「『読書』するだけでは国語の成績があがらないのなら、本を読むのが嫌いなんで読書しなくていいですか?」と言いたくなるかも知れません。そんなことはないです。音楽を聴いたことのない人が音楽家になるのは難しいように、ゲームをしたことのない人がゲームプログラマーになるのは難しいように本を読まなければ、国語の成績をあげるのは難しいです。いわば、「国語」という科目を理解するための土台として、いろんな本を読むというのはすごく大切です。じゃあ、どんな本を読めばいいのか?今日は長くなってきたので、続きは次回に。でも、もったいつけずにヒトコトで言うなら「好きな本を読む」ってことでしょうか。(当たり前ですが(笑))
Mar 11, 2007
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某学習塾の職員をやっていて国語を教えていたのですが、体調を崩し、退職してはや一年以上。退職してからも、中学受験を控える生徒の家庭教師をしたりしていましたが、やはりもっとたくさんの人に「国語」の楽しさを伝えられればと思い、この日記を始めます。家庭教師、高校受験の塾講師、大学受験の塾講師、小論文試験の添削、そして中学受験専門塾の講師とあわせても約20年ほどの経験しかありませんが、自分が学生時代の経験なども合わせて、書いていければいいなぁと思います。などと書いていると堅苦しいですね。。。「国語が苦手だ!」という人はいらっしゃいませんか?国語って、日本に住んでいて日本語を使って普通に生活できているのになぜわからないんだろう。こんなの正解、不正解なんてないんじゃないの?なんて思いがちですが、大人になってみると「国語力」があればいろいろ得をすることがあります。じゃあ、どうすれば「国語力」が身につくんでしょうか??一度に語りきることはできないのでこのページで少しずつ書いていきます。ただ、伝えたいのは「国語はなんとなく解く科目ではない!」ということ
Mar 9, 2007
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