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体のメンテナンスが終わったらもう4時に過ぎたのだ。いい天気だからもう少し散歩しようと思って、北投へ進もう。 せっかくだから早い夕食を取ろう。半年ぐらいぶりの呉家牛肉麺に来た。席を確認してから半筋半肉麺小、野菜炒めで空心菜を注文。 しばらく待ったらご対麺。野菜炒めも一緒にご登場。 ラー油と醤油の色が濃そうだが、実際に辛さが控えめで、辛さ、醤油、コイメの牛出汁がいいバランスが取れている紅焼スープだ。中太麺の平麵は茹で加減が柔らかめで、スープとの絡めがよい。牛肉はやや硬さが残っているが、味付け濃いめで歯ごたえがよい。牛筋もぷりぷりした食感で食べやすい。 空心菜はシャキシャキまで炒められ、なかなかうまい。油にニンニクも使われたかな。 おいしかったね。さすがの人気店で午後4時半なのにほぼ満席。ただし支払いのうちに席が撮られそうなので、席を取ってから支払いに行くという注文のシステムを少々改めたほうがよさそうだ。ご馳走様。
2024.01.31
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今回の帰省で久しぶりに仕事ではないための外出だ。せっかく少々散歩できるから、あんまり行かない界隈へブランチを摂ろう。 道品牛肉麺に来た。去年の末にオープンし、ご当地の人じゃなければわかりにくい場所にあるお店だ。士林にあるが、士林駅から一本道で来れず、途中に信号、回り道が多く、繁華街からかなり離れる。というわけでわしは剣潭駅から大通りに沿って20分ぐらいで歩いてきた。13時なのにほぼ満席。伝承紅焼牛肉麺、紹興溏心蛋を注文。 薬味の葱、牛肉麺でよく使われる味変のアイテムである酸菜、キュウリの漬物はすでに卓上に置いてある。 まずは卵の登場。紹興酒を使う半熟味付玉子ってこと。確かに紹興酒の香りがした。 しばらく待ったらご対麺。 ラー油も浮いてあるが、強調されていない。醤油タレも漢方を使用するかと思うが、コクのある牛出汁と合う。出汁、タレ、辛さのバランスがかなりよい。途中にネギ、酸菜、キュウリの漬物で味変をしてみても、やはり牛出汁の旨味がしっかりしていると味わえた。平打ち中太麵は絡めもいいが、やはり柔らかいのにコシがしっかりしているところに驚いた。麺の量がやや少なめだが、無料でお代わりできるらしい。牛肉と牛筋もかなり柔らかくまで煮込まれた。 おいしかったね。久しぶりにここまでバランスがよく取れた牛肉麺をいただいた。やはり塩味を食べに来ないとダメだが、今日みたいにゆっくりできる日がまだ作れるかな。ご馳走様。
2024.01.31
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帰省なのに引きこもりで仕事をしてしまったため、ようやく初の外回りの仕事で外出した。外出して仕事をするのがないわけではないが、移動したりするのが今日は初ってこと。しかし、余裕を持って出かけたのに、いろんな小さいトラブルで昼飯を食い損なった。 台北駅の2階のレストラン街に来た。午後4時という時間帯なら選択肢が少ないのでレストラン街に来たほうが早めに飯を食うことができる。狙っている「大師兄銷魂麵舖」の微風台北車站店に入店。店員の紹介を聞いてから、麻辣三宝+銷魂麵を注文。三宝とは、牛肉肩ロース、牛すじ、牛すねってこと。 しばらく待ったらご対麺。ここはスープと麺を別々で食べるという形式である。 タレが丼の下に入っているため、油そば、和え麺のように食うか、つけ麺の麺のように食うかってことだね。縮れ平打ち中太麺は絡めもいいしタレとスープとの絡めもいい。タレは醤油味で、少しカラシビ系だが、スープに比べ控えめだ。 カラシビ系の紅焼牛肉スープはコクがあり、カラシビも結構効いていて、辛さが苦手な方ならあまり勧めることができないかな。つけ汁のように麺で食っても、カラシビが十分に効いているため合うのだ。牛肉肩ロース、牛すねは柔らかいし、味付けもコイメだ。牛すじは柔らかい。 セットで提供される鴨血とは、鴨の血によるゼリー状の小鉢料理で台湾でカラシビ系の火鍋などでよくあるものだ。カラシビ系の味に合うが、やはり苦手な方もいるので、豆皮という湯葉の油揚げにすることもできるそうだ。 おいしかったね。オリジナリティが溢れる一杯だ。テイクアウトでも人気が高いって理由もわかった。時間があればほかの支店にも行ってみよう。ご馳走様。
2024.01.30
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今日も約束で実家の近くにブランチを摂ることになった。 気になるメニューがあるので、前回と同じ、一品山西刀削麺之家に入店。刀削麺の牛肉炒麺、牛肉捲餅、牛肉キムチ捲餅、牛肉スープ(小)を注文。二人ならこれで十分だ。 まずはスープの登場。清湯タイプだが、旨味とコクがかなりしっかりしていて、コイメの醤油タレと合う。 牛肉捲餅、牛肉キムチ捲餅が同時にご登場。牛肉キムチ捲餅とは牛肉捲餅にさらにキムチを包むってこと。やはり餅がパリパリで歯切れがよく、牛肉も柔らかい。キムチの辛さも牛肉と合う。 しばらく待ったらご対麺。炒麺とはチャーメンってこと。もちろん、ここもチャーハンを提供するが、刀削麺の炒麺を食ったことがないので是非食べてみたいのだ。刀削麺はもちもちしてタレとの絡めがよいが、丸一本ではなく麺が多いため、丸い麺のほうが炒麺に合うかな。麺はもちろん、野菜と牛肉も結構多めだ。牛出汁によるタレも牛の旨味がしっかりしている。 おいしかったね。さすが老舗の味だ。次回はどのような麺を食うか考えなくてはならないが、捲餅ならわしにとって必ず注文するものであろう。ご馳走様。
2024.01.29
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日曜日だが、やはり家族団らんの合間にも仕事だ。とりあえず参拝してから仕事に出よう。 途中に少々軽い食事を摂ろう。中山駅周辺で評判のいい「手川屋-麵專製 SHOU CHUAN WU」に入店。去年の後半にオープンしたばかりだがgoogleで高いテンスを得ている牛肉麺のお店だ。最も基本の麻薬牛肋麺を注文し、細縮れ麺と寛麺から寛麺をお願いした。細縮れ麺と言っても中太麺ぐらいな太さだ。 しばらく待ったらご対麺。外見は口コミで見た写真とかなり違う。実際にメニューの編成もオープン当初の時に比べ結構変わった。麻薬牛肋麺ってメニューがオープン当初にはなかった。麻薬とは当然ドラッグのことではなく、痺れと漢方のことである。 少し濁った醤油スープの上にラー油が浮いてある。辛さと痺れのバランスがよく取れているがやはり辛さがやや上かな。牛出汁はコクがあり、ラー油とも合う。醤油タレに漢方も使っているが、ちょっとわからない。平打ち太麺はスープとの絡めと歯切れがよいがやや少なめ。牛肋という名前を使うが、メニューでは、カルビの部位ではなく、肩ばら肉を意味するブリスケットの肉を使用。台湾で結構料理に使われるところです。肉は柔らかいと言っても固さも結構残っているものの十分な歯ごたえが残ってある。人参、大根、チンゲン菜、油条という油で揚げ、中華圏の朝食でよく食べる麩料理の食べ物も入っている。 おいしかったね。値段が牛肉麺として結構高いほうだがなかなかいい味だ。食事時間帯で訪問すれば、麺の量が少ないので、サイドメニューを頼んだほうがよかろう。汁なしもうまそうだね。ご馳走様。
2024.01.28
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帰宅する前に二二八和平公園へ散歩。 日本植民地時代から台北新公園と呼ばれてきたが、陳水扁元総統が台北市長を務めていた時に二・二八事件を追悼するため二二八和平公園へ改めた。わしが小さい頃に台北新公園は総統府の近くにあるにもかかわらず治安がいいとは言えず、夜になってここへ近づかないように言われていたが、地下鉄の建設とともに整備されたため、今かなり綺麗になった。 二二八和平紀念碑。 二二八和平紀念碑の前に設置された碑文。近くの二二八記念館も二・二八事件の舞台であったが、修復作業で閉館中である。 国立台湾博物館。元々明治41年(1908年)、第4代台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平を記念するため、「児玉総督後藤民政長官記念館」として建築され、明治42年(1909年)に「台湾総督府博物館」へ改称された。1949年に台湾省立博物館、1999年に今の名称へ改称された。 国立台湾博物館の前に展示されている蒸気機関車。左側は騰雲号と呼ばれ、台湾で最初に使われた蒸気機関車である。右側は台湾鉄路第九号と呼ばれたが、騰雲号より16年ぐらい早く製造され、日本鉄道が最初に購入した10輌の蒸気機関車の一つであり、明治天皇の専用車両を引くこともあり、1901年に台湾総督府に台湾へ導入され、1925年に騰雲号とともに引退。 公園にも国民党一党独裁体制の蒋介石・蒋経国政権による中国式の建物がある。 周辺にも中国と台湾のつながりを強調する歴史人物の銅像と紹介がある。これはオランダを台湾から駆除した鄭成功の銅像。 台湾が清国の省へ昇格された時の初代巡撫、つまり省庁の劉銘伝の銅像である。
2024.01.26
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今日も外回りの仕事だが、その合間に参拝と見学をしよう。 武昌街に進んだら台湾省城隍廟の牌坊が見えた。中華街でもよく見られる中華圏の伝統的な建物。 主祭神は城隍神(じょうこうしん)という土地の守護神である。中華圏ではご当地の守護神が地方自治体別で階級が決まるという文化がある。城隍神は省クラスの土地の守護神ということである。日本植民地時代で撤去されたが、戦後に復興。ところが、中華民国や中国国民党が国共内戦で敗北し、大陸を失ったため台湾に撤退し、台北が実質的な首都になったにもかかわらず、、ここは依然台湾省城隍廟と呼ばれる。ただし、登録された法人の名称は台北市台湾省城隍廟ということ。また、ここも道観と寺を合わせた寺院である。1階は正殿で城隍神を祀り、入り口の近くに観音菩薩を祀るが、2階は釈迦如来を祀る大雄宝殿がある。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、参拝しにまいった。 西門町へ少し歩いたら、西門駅の5号出口の近くに、日本植民地時代で撤去された台湾省城隍廟の跡地を紹介する石碑もある。
2024.01.26
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体のメンテナンスが終わった後に、少し散歩してから帰ろう。もちろん、途中に早い夕食を取ろう。 北投駅から新北投駅界隈へ進み、途中に裏道へ向かい、「粟家牛肉麺 総店」よりさらに坂道に登ったら、「灯亮客来X紅灯籠牛肉麺食館」の赤いちょうちんが見えた。中国語の灯籠は、日本のちょうちんに当たるのだ。つまり赤いちょうちんという店名である。元々北投駅の近くにの市場で屋台としてやってきたが、武漢ウィルスとやら、新型コロナウィルスとやらの感染拡大の時に路面店として現地へ移転したのだ。紅焼半筋半肉麺、紅油抄手、滷蛋、豆干、燙青菜を注文。 しばらく待ったらご対麺。紅油抄手、滷蛋や豆干、燙青菜も一緒にご登場。 もともと細麺も選べるが今縮れ中太麺のみの提供。醤油タレは辛さあるいは痺れではなく、漢方の味がかなり強調される。清湯の出汁もコクがあり、漢方の味が溢れているタレとの相性が良い。縮れ中太麺はスープとの絡めもいいし、コシもある。牛すねは味付けもコイメでかなり柔らかくまで煮込まれた。牛筋もトロトロした食感だ。 麺のボリュームがやや少ないので、やはり紅油抄手も必要だ。抄手は中国の四川省のワンタンってこと。だから紅油というラー油を使う紅油抄手は抄手の基本であろう。紅油は苦手な方もおいしく食べられる辛さかと思うが、わしならもっと辛さがほしいかな。抄手も肉餡が大きく、皮がもちもちしてうまい。 滷蛋や豆干は小鉢のような形で提供された。タレは甘辛だ。 夜ならやはり野菜を多めで食いたい。 おいしかったね。北投駅エリアでは麵食のお店が多いが、ここもかなりレベルが高い。選択肢が増えてうれしい。ご馳走様。
2024.01.25
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体のメンテナンスの前にブランチを摂るが、行こうと思うお店はシャッターが閉まったままだ。 天気もよくないので、これからの移動を考え、近くのChill Ramenに入店。台湾産の素材で台湾人のためのラーメンを作りたいというコンセプトのお店。限定の味噌ラーメンもあるが、二回目なので、レギュラーの醤油味の遠東橋を注文し、濃度を正常、麺の固さを固めとした。 しばらく待ったらご対麺。 店の紹介によると、遠東橋は、西螺大橋の別名で、1952年の時点で世界二番目の大橋ってこと。店主はふるさとの大橋の名前を使って、台湾産の醤油もラーメンに合うという店のコンセプトを表現したいのだ。スープの色は醤油っぽくないが、最近台湾で知られる豚骨ラーメンのお店はほとんど泡系の味を提供する。一口を飲めばやはりそうだった。塩気よりも豚骨スープ、醤油、泡による甘味を表現したいのだ。わしはあまり甘味が強い豚骨ラーメンが好きではないが、遠東橋のスープの甘味がうまいと思う。ストレート中細麺は絡めもいいしコシもあり、スープとの相性が良い。肩ロースチャーシューと炙りのバラチャーはいずれも味付けが濃いめで歯ごたえが良い。 おいしかったね。横浜家系と二郎のような豚骨醤油ラーメンと異なって、甘味を強調した味とは珍しい。台湾の素材を使用するということでほかの味を食うためにやはり再訪しなくてはならないね。ご馳走様。
2024.01.25
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帰省してから自宅で立てこもって仕事することが多いが、ようやく一段落まで済ませた。これから外出の頻度が増えるが、あと一息だ。とりあえずメンテナンスのためにお出かけ。 まずは心のメンテナンスだ。宿から行きやすい行天宮北投分宮へ参拝。行天宮は台北市で最も重要な関帝廟として知られているが、主祭神は関聖帝君(関羽)、呂祖(呂洞賓)、竈の神様として知られるかまど神(張単)、道教で山門を守る王霊官(王善)、精忠武穆王(岳飛)という「五恩主」である。道教と思われるが、台湾で独特な仏教、道教、儒教が融合した宗教の寺院である。行天宮本宮は1949年に創建され、1968年今の場所へ移転した。北投分宮は1965年に創建された。 行天宮北投分宮は本宮と三峡分宮に比べ、祀る神様が多い。本宮は五恩主、関聖太子(関平)、周恩師(周倉)を祀るが、北投分宮はさらに、玉皇大帝、釈迦如来、昭烈帝(劉備)、諸葛武侯(諸葛亮)、天・地・水を管理する三官大帝、関聖帝君の家族を祀るのだ。行天宮北投分宮でも「収驚」を行う。驚いたりショックを受けたりした時、心を安定させ、精神を満たさせる儀式は、「収驚」と呼ばれる。道教のお祓いということであろう。日本人観光客もよく本宮へ参拝してから、「収驚」をしてもらうのだ。 行天宮北投分宮は駅からやや離れる場所にあるが、線路沿いが公園、散歩道として整備されるため、天気がいい時に散歩で参拝しに来るのもいい趣きであろう。本宮より参拝客が少ないので、並びせずに参拝し、収驚をしてもらうこともできる。わしは小さい頃から家族と一緒に行天宮本宮へ参拝しに行っており、今も自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、帰省のたびに参拝している。しかし、仕事の関係によって混雑の本宮で収驚を待つことが難しくなったため、この数年間で比較的に頻繁に北投分宮へ参拝している。
2024.01.25
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日曜日だがいろんな私事の合間にやはり仕事だ。帰り道の途中に文昌宮へ参拝。 日本植民統治時代で、中国大陸からの商人が置いた文昌帝君をこの辺の人が祀ることがきっかけで小さい道観が建てられた。受験祈願で参拝者が増えたため、さらに規模が大きい文昌宮が建てられた。そして、地下鉄の建設などの経緯で、現地へ移転されたのだ。 正殿の主祭神は「学問の神様」の文昌帝君である。道教は、五文昌と呼ばれる5柱の学問の神様を祀るが、文昌宮は呂祖を祀っていない。代わりに、干支によって輪番で人の禍福吉凶を管理する太歳星君を祀る。別殿には、三国志演義で軍神として知られる関羽(雲長)が学問を守る神様として神格化した関聖帝君、文魁夫子、朱衣神君が祀られる。古くから伝わった民間の話には、関羽は朱衣神君の転生であるともいう。 文昌宮は台北市の「三大受験祈願のメッカ」の一つとして日本の観光ガイドに紹介されているらしいが、わしは意外と学生時代でここへ参拝したことがなかった。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、文昌帝君を主祭神として祀る寺院へさらに頻繁に参拝するようになったため、ここへも参拝してまいった。
2024.01.21
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約束で実家の近くへブランチを摂ることになった。何を食うかちょっと悩んだが、同行者の提案で老舗の一品山西刀削麺之家へ。 天母界隈に20年以上にわたって営業してきて、トマト味の牛肉麺が有名なお店だ。もともと繁華街だった界隈にあったが、何年前に現地へ移転した。旧店舗で食事したこともあるし、テイクアウトのため訪問したもあるが、現店舗に来たことがない。炸醤麺、牛肉捲餅を注文。麺は刀削麺、縮れ中太麺から選ぶことにあるということで、刀削麺を選んだ。 まずは牛肉捲餅のご登場。葱油餅でソースをかけた牛肉、キュウリを包んだ料理だ。葱油餅はもともと中国の北からの料理だそうだが、台湾における中国の北方の料理を提供する店では、葱油餅をそのままか、牛肉を包むかという形で提供することが多い。朝食の専門店なら、葱油餅をそのまま食べるか、玉子汁と一緒に焼けて食べるという形で提供することも多い。かなり餅がパリパリまで焼いた。肉も柔らかい。 しばらく待ったらご対麺。細切りキュウリも結構ある。ただし、肉味噌の味付けが薄そうなのでちょっと驚いた。しかも下に汁がある。台湾ではあんまりこのような炸醤麺を見たことがないね。 麺のボリュームがそんなに多くないが、刀削麺なので幅と厚さが結構ある。もちろん麺の形は不規則だ。茹で加減が結構柔らかめだが、いいコシだ。丼の形でちょっとかき混ぜづらい。肉味噌もかなり多めなので、麺との絡めがよい。下に沈んだ出汁と肉味噌は同じ味付けなので、タレよりも牛出汁の旨味がしっかり味わえた。 おいしかったね。出汁の旨味が強調された炸醤麺は結構珍しいね。これじゃ汁ありではなく、次回も汁なしのものを食ってみようか。ご馳走様。
2024.01.20
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一回の治療で完治したわけではないがやはり定期的にダメージを受けている体のメンテナンスをしないと、これからの仕事ができないのだ。 帰宅する前に早い夕食を取ろう。北投は牛肉麺の激戦区なので、選択肢が多いが、1年以上ぶりの「粟家牛肉麺 総店」に来た。紅焼半筋半肉の家常麺、花干、燙青菜を注文。野菜の種類を聞かれたので、大陸妹をお願いした。 まずは花干の登場。店によってスープに入れた形のものもあるが、ここは出汁から出したものにソースをかけて提供するものだ。油揚げはかなり柔らかいまで煮込まれた。 しばらく待ったらご対麺。 家常麺とははレギュラーの麺よりもさらに幅が広い平打ち麺だ。レギュラーの麺に比べれば絡めよいが少しコシが弱いのに対し歯切れがよい。辛さが控えめなのに生姜と唐辛子を使用する醤油スープはコクがあり、麺との相性も良い。牛肉は味付けが濃くて柔らかく煮込まれたが、肉の歯ごたえが残っている。牛筋も柔らかい。ラー油が見当たらないので、今日本来の辛さでいただいた。 夕食の野菜が多めならやはり健康にいい。 おいしかったね。さすが北投の牛肉麺屋の御三家と言われるお店だ。仕事のために引きこもりの日が多いので、宿から近い北投へ食事するチャンスも増えるかな。ご馳走様。
2024.01.19
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大得民牛肉麺館の向かいは、恵済宮という道観と寺が合わせた寺院である。文化財であるため、たいわんだけではなく日本のからの観光客も多いが、わしにとって小さいころから参拝してきた寺院である。台湾に戻ったら必ずここへ参拝する。 正面の入り口から階段に登り、芝山岩という丘に登るのだ。 芝山岩隘門。いわゆる関所、関隘。これは1825年に建てられた文化財。清国は台湾を領土としたばかりの時、大陸の住民の台湾渡航を厳しく制限したが徐々に緩和してきた。すでに福建省から多くの人が台湾に渡ったが、漳州と泉州出身の人はよくケンカしていた。漳州の人は守りやすい丘に恵済宮を建て、さらにそれを守るための関隘も設置したのだ。日本の寺、神社も同じく、かつて戦争時に城、関所として機能することもあり、丘、山に立たれたのだ。上野東照宮もまさにこのような理由で上野戦争の時彰義隊の本陣となったのだ。上野の寛永寺はお寺であるが、西国、都に何があった時、天皇を京都から迎えるための御所のため建てられたのだ。 台湾の道観、寺、道観と寺による寺院には多くの神様を祀るのだ。ここもそうであった。主祭神は、開漳聖王、観音菩薩、文昌帝君。中国の唐の時、まだ未開発の福建省漳州で起こった反乱を鎮めた後に、開発に着手した陳元光という将軍がのち漳州の人に開漳聖王と呼ばれ、神様として祀られている。文昌帝君は中華圏における学問の神様の一人である。恵済宮は文昌帝君を主祭神としているため、受験時期で多くの受験者とその保護者が参拝しに来る。わしも小さい頃から受験合格のためここへ参拝してきた。今は、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。 この写真は去年の夏の帰省で撮影したものである。今大規模修繕工事が行われているため、きれいな写真が撮れない。 恵済宮は日本近代史における芝山巌事件という出来事の舞台でもある。恵済宮を参拝した時、隣の裏道から進むと、「六氏先生之墓」が見える。 1895年(明治28)、台湾は清国から日本へ割譲され、日本の植民地となった。伊沢修二・台湾総督府民政局学務部長は長期統治のための教育政策を行うための責任者となり、日本語を普及させるために、当時まだ道観だった恵済宮の前身である恵済堂を間借りし、日本語教師の養成の学堂を開いた。伊沢とともに、教育に当たったのは、山田耕造、だけではなく、初代群馬県令楫取素彦の次男で吉田松陰の甥にあたる楫取道明、井原順之助、関口長太郎、山田耕造、中島長吉、桂金太郎、平井数馬であった。しかし伊沢と山田が乙未戦争のため台湾へ出征し、病死した北白川宮能久親王の棺とともに日本へ一時帰国した時、台北周辺の治安が悪化してしまった。結局、1896年1月に楫取、井原、関口、山田、中島、桂、平井と用務員を合わせ7人が抗日ゲリラに殺害された。六人は不憫と思う住民に埋葬された。この事件はいわゆる芝山巌事件である。殺害された六人の先生は六氏先生あるいは六士先生と呼ばれた。 六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々を祀るため昭和5年(1930)に創建された芝山巌神社の社殿の前に、1896年に建てられた「学務官僚遭難之碑」がある。 伊藤博文の揮毫によるものである。芝山巌事件がきっかけで日本は統治政策をさらに強化したという。 蒋介石や中国国民党は1949年に台湾へ逃げた時、芝山巌神社をはじめ多くの神社をつぶした。芝山巌界隈で多くの特務関係の機構が設置されたため、芝山巌神社の本殿跡に蒋介石の側近で特務のトップとして知られ、国民政府軍事委員会調査統計局副局長を務めていた戴笠を記念する「雨農閲覧室」を建てた。実際にここから、台湾の情報・治安機関を統括する国家安全局の本部にある陽明山への大通りのところもほぼ一本道ぐらいで近い。なお、戴笠という名前も本名であるかどうかわからないという。 この時、恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。のち台湾の民主化が推進された時、六氏先生之墓や学務官僚遭難之碑の復元も果たせた
2024.01.19
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手掛けている仕事を一段落まで済ませたので、心と体のメンテナンスのために4日ぶりの外出。電車で芝山駅を降り、芝山巌、日本語で「しざんがん」というところへゴー。 もちろん、メンテナンスの前にブランチを摂ろう。芝山巌界隈で結構評判が良い大得民牛肉麺館に入店。店は、痺れの牛肉麺を提供するお店の草分けとして自称している。元々北投にあったが、数年前にここへ移転した。麻香牛肉麺、滷蛋を注文し、麺を太麺の寛家常麺でお願いした。店主は初めての客にレギュラーではなく、一段階まで弱い小を勧めているが、日本で結構カラシビ系の担担麺を食っているので、レギュラーに挑戦。 しばらく待ったらご対麺。 スープは牛出汁と野菜、果物を36時間で煮込んで取ったのだという。花椒による香りと痺れがかなり強いが、出汁の旨味とのバランスがよく取れていると味わえた。平打ち太麺はスープとの絡め、歯ごたえもよいが、ボリュームがやや少なめなので、腹いっぱいで食いたいならほかのものも頼んだほうがよいかな。辛さがむしろ控えめなので、卓上に置いてある鬼唐辛子を少し入れて辛さを強めればいい。かなり辛いため、少しだけ入れてくださいってこと。牛肉はラーメンのチャーシューから考えればやや硬めだが歯ごたえがよい。玉子も味付けがかなり濃い目だ。 おいしかったね。本当に唇まで痺れたが、痺れと旨味の徐々に融合してきた味だ。店主が汁なしならもっと痺れが味わえると勧めてくれたので、次回は汁なしにしよう。ご馳走様。
2024.01.19
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今日の夜に重要な仕事が控えてあるため外出。再来週まで事務作業および今日の仕事の後続で引きこもりの作業をするだろうと想定した。そのため、一緒に仕事に出る親友の提案でまず夕食を取ろう 国父記念館の近くにある「長白小館」に来た。2023年年末に放送された「孤独のグルメ 2023大晦日スペシャル」で井之頭五郎が訪問したお店だ。孤独のグルメ2023年のスペシャルもすでに台湾で放送されたため、混雑かなと思っていたが、早い時間帯なので並ばないだろう。と思ったら予約でいっぱい。ただし、6時半までに店を出ることができればどうぞ、ということで入店。 最大二人前の小鍋火鍋套鍋を注文。つまり火鍋セットの小。火鍋セットは、酸白菜、白肉、凍豆腐、蟹、シイタケ、干しエビが鍋に入った出汁に沈んである。別皿で白肉、牛肉、羊肉から二種類を選ぶ肉、野菜、春雨もある。白肉は鶏肉と思われるが、中国の東北料理として知られる酸菜白肉鍋の白肉は豚肉だ。酸白菜とは酸っぱい白菜だが、酸っぱさがちょうどよい。凍豆腐は言葉通りで、凍った豆腐だ。このお店の代表的な逸品だそうだ。羊肉もまったく羊の独特な獣臭いがない。 ここでも葱油餅という中国の北方料理で結構有名なネギ油モチが頼めるが、シェフが投票でまだ帰ってこないので注文できない。そのため、蒸し野菜餃子を頼んだ。皮ももちもちしているし、野菜と肉による餡も結構大きい。 おいしかったね。最近あんまり鍋を食っていないがやはり中国東北の酸菜白肉鍋はうまいのだ。テレ東のスタッフは某の席で松重豊さんの食べっぷりを撮影していたのに違いない。日本人の客も結構多いようで日本語のメニューもある。元々知られている老舗だが、井之頭五郎効果でたぶんこれからさらに混雑すると推測できる。したがって、訪問したいなら、事前に電話で予約したほうがお勧めだ。ご馳走様。
2024.01.13
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やはり寝ることができず、仕事を一段落まで済ませたら羽田空港へ。さすがに午前6時に到着したとは早すぎるが、仕方ない。 荷物の預かりや出国審査など済ませたら腹が減った。というか、もともと昨日の夕方から今まで何も食っていなかったのだ。第2ターミナル国際線出国エリアにいろんな飲食店があるだけではなく午前6時半から営業するとは助かる。「歓迎 羽田空港第二ターミナル店」へ麻婆豆腐麺、羽根付き焼き餃子5ヶを注文。 しばらく待ったら呼び出しベルが鳴ったためカウンターへ麺と焼き餃子を受け取った。 ネットにおける歓迎本店の口コミならほとんと麻婆豆腐のもので、麻婆豆腐麺のものがあまり見当たらない。醤油スープに麻婆餡を乗せるってタイプ。餡はそんなにトロトロしていないのに辛さが結構効いている。わしにとって辛さと痺れのいずれも弱いが、ほかの方にとって結構辛いかな。中府とストレート麺は細目で、茹で加減が柔らかいが、麻婆餡との絡めがよい。豆腐も柔らかい。ひき肉がもっとあればうれしいかな。 同じ系統の元である你好本店の焼き餃子、あるいは口コミに載せてある歓迎本店の焼き餃子の写真のようなきちんとした感じではないが、フートコートで提供したものとして底がかなりパリパリまで焼いたのだ。皮ももちもちした食感だ。焼き餃子は小ぶりだが、餡がしっかりして、薬味の使い方もいいし、肉汁もしっかりしている。 おいしかったね。朝だと羽田空港第三ターミナルは出国エリアでの選択肢が少ないかつ開店時間がやや遅いということで、出国審査を行う前に食事するしかない。これに対し、羽田空港第二ターミナルは飲食店の営業時間が遅いのに、国際線出国エリアの飲食店の選択肢が第三より多い。このため今日は助かった。これから決まった食事パターンではなく、搭乗便の時間で店を決めることになったね。ご馳走様。
2024.01.11
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出張前夜が水曜日ならいつものように美春に行けないので、夕食を何を食うか悩まなくてはならない。とりあえず、出張のための買い物もあるので、仕事から戻った後に松戸市区へ。 疲れが取れていないままで出張するため、ニンニクを捕捉したくなった。3週間ぐらいぶりの「横浜ラーメン 武蔵家 松戸店」に入店し、ほうれん草ちゃーしゅーらーめん並、半熟味玉の食券を購入。着席し、スタッフに食券を渡した際に、カタメ、コイメをお願いした。 しばらく待ったらご対麺。 武蔵家と言えば鶏油がやや弱いかと思う。醤油タレがコイメの醤油スープはこってりした味わいだ。酒井製麺による縮れ中太麺は絡めもいいし、コシがある。今日の大判レアチャーシューは前回よりさらに大きくなった。もちろん歯ごたえと味付けがよい。ほうれん草多めはやはり健康にいい。途中に大量なニンニクを投入。 おいしかったね。疲れがやはり取れていないが、何とか今夜中の仕事ができるようになりそうだ。頑張ろう。ご馳走様。
2024.01.10
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出張前の最後の勤務日だが、たぶん出発する前にずっと仕事をするのではないかと想定している。これじゃ体調管理を万全にしなくてはならないね。 「東京担々麺本舗 瀬佐味亭」に入店し、金の担担麺のスーパーホット、パーコーを注文し、クーポンでほかほか煮込み茶玉子をお願いした。せっかくだからちょっと豪勢でゴー。 いつものように、玉子とパーコーが先にご登場。そして、しばらく待ったらご対麺。金のゴマによる担担タレは濃密で香ばしくて、動物系がメインとする清湯スープとの相性が良い。スーパーホットの辛味も担担タレと合う。細ストレート麺は茹で加減が固めで担担スープとの絡めがよい。厚手のチャーシューは歯ごたえと味付けがよい。多めの野菜も健康にいい。別皿のパーコーは衣がパリパリで、肉が柔らかい。 おいしかったね。なかなか疲れが取れないが、このように助けていただき、本当にありがたい。ご馳走様。
2024.01.10
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火曜日なら南柏の職場へ出勤するが、やはりブランチを摂るために柏を降りた。今週末までテレワークで作業を行わなくてはならないが、2023年度における南柏の職場へ作業する勤務は今日をもって終了。ということで、すでに食べに行くお店を決めている。 去年12月下旬以来の「兎に角 柏高島屋ステーションモール店」に入店。開店直後なのにすでに三分の一ぐらいの席が埋まっている。寒いので、ラーメン(普通)、チャーシュー1枚、くん玉の食券を購入し、スタッフに渡してから着席。 しばらく待ったらご対麺。前回ここでラーメンを食ったのは、年度後半の火曜日の仕事始めだったが、最終日にもラーメンを食ったとは思わなかった。 外見からみれば、いつもの兎に角のラーメンのままだが、スープを一口で飲めば、魚粉で濃厚に仕立てた豚骨魚介スープは濃度と粘度がさらに高いとわかった。塩気がそこまで重い兎に角のスープは久しぶりだね。少し縮れの平らなストレート中太麺は絡めもいいしコシもあり、このような濃い目のスープとの相性が良い。白ネギと胡椒もスープと合う。大判で厚手の燻製チャーシューは歯ごたえと味付けがよく、さすが兎に角だ。 おいしかったね。久しぶりに兎に角でこのようなインパクトのあるスープをいただいた。現場での仕事が終わるとはいえ、これから年度末までにいろんな事務作業をこなさないとダメだ。しかも、いつ、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いで敗北するかわからない不安も拭かない。とりあえず新年度になってまたお世話になる。ご馳走様。
2024.01.09
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朝一から出かけたが、何も食っていないままなので、職場へ行く前にブランチを食おう。11時前から営業するお店と言えば、やはり1ヶ月半ぐらいぶりの東京ラーメンストリートであろう。 去年10月下旬にオープンした「味噌麺処 花道庵 東京駅店」に入店。二郎インスパイア系の味噌ラーメンんとして知られる野方の有名店だ。やはりガッツリ系なので、同じ新規オープンの革新家どころか、インバウンドの客がメインの東京ラーメンストリートの中でも比較的に入りやすいみたい。味玉味噌ラーメンの食券を購入し、スタッフに渡してから指定された席に着席。 しばらく待ったらご対麺。二郎インスパイアなのに呪文がないが、卓上に置いた刻みニンニクで自分でニンニクを足すタイプだ。これも助かった。 野菜普通なら二郎インスパイアとしてやや外見にインパクトがない。 野菜の高さもかなり控えめのように見える。 味噌スープは動物系出汁と白味噌を使用するが、二郎インスパイアどころか、今まで食べた動物系の味噌スープに比べてもあっさりしたほうだ。茹で加減が固めの平打ち縮れ中太麺は歯ごたえもいいしコシもあるが、スープに勝ったような食感だ。デフォにニンニクが入っていないので、少し入れたが、やはりスープはニンニクの匂いに抑えられたかと味わえた。チャーシューは柔らかい。 おいしかったね。と言っても、たぶん野方の本店に一回行かないと、本当の味がわからないっていうのは今日の感想だ。値段の割にボリュームがやや控えめってことも気になる。ご馳走様。
2024.01.08
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勝海舟の旧居の跡地からそのまま赤坂見附界隈へ豐川稲荷東京別院に初詣。豐川稲荷の正式名は「宗教法人 豐川閣妙嚴寺」。主催神は宇迦之御魂神だとずっと誤解していたが、ここは稲荷神社ではなく、お寺。仏法守護の善神である豊川ダ枳尼眞天を祀る。豊川ダ枳尼眞天は稲穂を荷い、白い狐に跨っているから「豐川稲荷」と呼ばれることになった。豐川稲荷は日本二大稲荷、三大稲荷として必ず挙げられる。 社務所は3時までだが、今日午前中に参拝しにまいった。このため、無事に御朱印をいただいた。また、境内の七福神めぐりの色紙と地図を入手したため、無事に前回の参拝で見つけられなかった壽老神を見つけた。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.08
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龍土神明宮への参拝が終わった後に、速やかに赤坂界隈へ移動。ある意味で自分にとって六本木は危険な地域である。 坂道だが無事に赤坂の氷川神社に到着。日本に来てから三回目の参拝だ。 元麻布、白金にある氷川神社と区別するため、赤坂氷川神社と呼ばれる。氷川という名称の由来は、出雲国の簸川(現在の島根県斐伊川)にある。簸川の上流は素盞嗚尊の「八岐大蛇退治」の舞台という。天暦5年(951年)、東国を遊行していた蓮林僧正が霊夢を見て、一ツ木村(現・赤坂4丁目付近)に氷川明神の社殿を建ったという。 享保15年(1730年)、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の命により、現地に移転された。江戸七氷川の筆頭として知られる。現在の社殿はこの時に造営されたもので、安政の大地震、関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲など数々の災禍を奇跡的に免れ、創建当時の姿のままであり、東京都の有形文化財に指定されている。赤坂氷川神社は明治元年(1868年)准勅祭社に列し、東京十社の一つである。 祭神は、素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命。素盞嗚尊は天照大神の弟神、勇猛果敢な神様であり、日本神話では八つの頭と尾を持つという八岐の大蛇を退治した。その際に得た、神剣である天叢雲剣は、三種の神器の一つ「草薙の剣」と言われる。 境内の摂末社である九神社。 天祖神社、春日神社、鹿島神社、八幡神社、諏訪神社、秋葉神社、厳島神社、金刀比羅神社、塞神社社を合祀した神社である。 四合稲荷神社。 明治31年(1898年)に、古呂故稲荷、地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の4社を合祀したことに由来する。 その際に、勝海舟が「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、四合稲荷(しあわせいなり)と名付けた。大正14年(1925年)に鈴降稲荷と縁起稲荷、昭和9年(1934年)に明徳稲荷を合祀した。氷川神社の社務所が四合稲荷の御朱印を配布している。 西行稲荷。文政8年~11年(1825~1828年)に調査された『町方書上』によると、もともとは赤坂田町4丁目に鎮座していたようだ。5丁目に住んでいた西行五兵衛が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と言われ、「火伏の稲荷」として信仰されてきた。 東側の参道。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。 旧氷川小学校の跡地に設置される勝海舟・坂本龍馬の師弟像。ここは勝海舟の屋敷の跡地でもある。勝海舟は赤坂で3回住居を変えたことがあるが、ここは3回目の屋敷。勝海舟は明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
2024.01.08
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三連休の最終日だが、来週末までの仕事をできる限り先に進めたいため、やはり出勤。しかし、やはり神のご加護が欲しいので、乃木坂駅を降りた。 六本木方面へ少し歩いたら、天祖神社に到着。 至徳元年(1384年)、つまり南北朝時代に創建された神社。主祭神は、天照大御神、伊邪那伎命、伊邪那美命。品川沖から毎夜、竜が御灯明を献じたという逸話によって、「竜灯」→「竜灯」と訛り、神社の場所が「竜土」と呼ばれるようになった。このため、神社も龍土神明宮と呼ばれるようになった。 境内の満福稲荷神社。元々、孫太郎稲荷と呼ばれたが、近隣の稲荷社を合祀して、満福稲荷神社となった。港七福神の福禄寿を祀る。港七福神めぐりは昭和8年発足の「麻布稲荷七福神詣」が起源であった。戦争の影響により昭和15年で中断したが、昭和41年に巡拝所の再編で、「港七福神めぐり」として再開された。七福神に加え、宝船を含めた8カ所をめぐるのが特徴だということである。港七福神めぐりは毎年元日から成人の日まで行われるが、今日は御開帳の最終日ということだ。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.08
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亀有香取神社へ参拝した後にそのまま環七に沿って北へ。 寄り道だが亀有公園を経由。もちろん、公園の前に派出所がない。 ランチタイムの混雑時間帯の前に無事に「中華そば 敦」に入店。 今日の狙いは、前回と同じ、冬限定の「玄米麹 味噌そば」だ。味噌そば、味玉、チャーシューの食券を購入してから着席。 しばらく待ったらご対麺。 やはり2023年の冬までに食ったものに比べ、味噌の甘味と濃さがさらに増したね。出汁が少し味噌の味に抑えられたように味わえたが、やはり全体として濃い目の味噌スープだ。途中に生七味を溶かして味の変化を楽しめた。縮れ平打ち中太麺は絡めもよいしコシもある。小ぶりだが厚いチャーシューは味付けと歯ごたえがよい。 おいしかったね。煮干ラーメンがメインお店がここまで濃い目の味噌ラーメンを提供したとはすごい。出張もあるので、今回の冬であと何回食えるかな。ご馳走様。
2024.01.07
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三連休の日曜日なのにいつもの日曜日より早く目覚めてしまった。 せっかくだから、去年のクリスマス以来ぶりの亀有を降りた。アリオ亀有方向へ進んだら、亀有香取神社に到着。 建治2年(1276年)に創建された。主祭神は経津主神。亀有は当時下総国葛西御厨亀無村と呼ばれ、香取大神宮の神領地であったから、香取大神宮からの分霊を迎え、村の鎮守として祀るのだ。香取神社は正式な名称だが、亀有香取神社という通称として知られる。経津主神および相殿に祀る武甕槌神は武神であるため、現在では「何事にも打ち勝つ、除災招福開運厄除の神様」「スポーツの神様」として崇敬される。 境内の道祖神社。相殿でお祀りされている岐大神、および道案内・道を導き、集落の外部よりの災いを防ぐ道祖神は、「足腰健健康の神様、家内安全の神様」として崇敬されている。 「少年よ、あの星を目指せ!両さん像」。もともと社務所側に設置されたが、社務所の改築で今の場所へ移動された。2003年に先代の後を継いだ宮司は、参拝者減少に悩様れたが、地元を舞台とした漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に描かれていることにちなんだキャラクター銅像の設置やアニメ絵馬の販売を取り組んだ。 さらに大きい神社の門前通りに団子屋や甘味処があることで、パティスリーの有名店であるラ・ローズ・ジャポネを金町から境内へ誘致した。店は環七側の鳥居の近くにあり、常に行列ができている。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.07
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馬橋稲荷神社から出た後に、阿佐ヶ谷駅へ戻り、そのまま電車で荻窪へ。 駅近の商店会に入り、そのまま進むと、「荻窪ラーメン 菊池」を見つけた。丸長大勝軒系の老舗である丸信出身の店主が開いたお店だ。丸信も10年以上ぶりだが、やはり再訪する前にその弟子さんのお店に行きたいので訪問を決めたのだ。夕食の混雑時間帯からやや離れるタイミングだが既に先客がいた。ちゃーしゅうわんたんめんの黒、味付け玉子を注文。 しばらく待ったらご対麺。丼も東池袋大勝軒系のお店に似ている。 丸長大勝軒系として珍しく塩味の白もあるが、やはりまずはレギュラーの醤油かな。やや濁った醤油スープは煮干しの味がやや強調されたが、出汁、醤油タレのバランスがかなりよく取れている。記憶の中にある昔の東池袋大勝軒系の味が甦った。縮れ中細麺はスープとの絡めもいい。確かに茹で加減がやや柔らかめだが、荻窪という界隈なら納得できる固さだ。チャーシューはバサバサした触感も東池袋大勝軒に似ているがちょっと小さいかな。ワンタンも昔ながらの中華そばと同じ、皮が柔らくて、餡が小さい。 おいしかったね。荻窪とは昔ながらの東京ラーメンの起源地として知られるが、ここは比較的に新しいお店なのに伝統的な味を維持できている。いろんな意味で昭和の味を定期的に食べなくてはならないね。ご馳走様。
2024.01.06
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帰宅する前にもう一食を食おうと思うが、途中に阿佐ヶ谷駅を降り、住宅区へゴー。 10分ぐらい歩いたら、馬橋稲荷神社に到着。 随神門。昭和50年(1975年)に鎮座700年記念事業として建てられた。 社殿。主神は、宇迦之魂神、大麻等能豆神。相殿は、伊弉册神、美都波能賣神、菅原道真朝臣。 鎌倉時代末期に創建されたというが、明らかではない。天保3年(1831年)に京都白川神祇伯家御役所から「正一位足穂稲荷大明神」の神号を拝受する。明治40年(1907年)に村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を合祀した。住居標示の改正によって、昭和40年(1965年)、住居表示改正により馬橋の地名がなくなり、梅里、高円寺、阿佐谷となる。「馬橋」の地名を惜しみ、後世に伝えようと、神社を馬橋稲荷神社と改めた。 境内の厳島神社。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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新井天神を出た後に、道を渡って薬師柳通りから新井薬師へ参拝。 新井薬師として親しまれる梅照院は真言宗豊山派の寺院。山号は新井山。新井薬師は中野区で最も大きい寺院だけではなく、都内でも有名で、武相四大薬師として知られる大きい寺院だ。 山門。 不動堂。左右は水子地蔵とお願地蔵。 霊堂と聖観音像。 本堂。 永禄年間に入りし時、総州(相模国)より沙門行春(僧)が、行脚の途中に訪れた新井の村に来た。新井の村は、かつての争乱で四散し痛手を追った一族の定住の村であるが、村の人々は討伐し賊害した一族の臣の出の行春の出自に問わず、かつての痛みを水に流して行春を迎え入れた。 ご本尊は薬師如来、如意輪観音であるが。ご本尊の像は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体である。12年に一度、寅年のみに開帳される。御朱印も同じ形で書いてくれる。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が新井薬師の薬師如来に眼病平癒を祈願したら、たちまち回復したため、眼病治癒で有名になった。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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相棒と別れた後に、都区内パスを最大限に活用したくて中野を降りた。 新井界隈まで歩いて、通称「新井天神」の北野神社へ参拝。創建の年代が不明。古くは天満宮でご当地に鎮座されてきた、あるいは天正年間(1573~1592)、新井薬師の開祖である沙門行春が建立したとも言われる。新井薬師とのかかわりで、新井薬師として知られる梅照院は新井天神の旧別当寺であったという。 正面の鳥居から拝殿への道の近くに撫で牛がある。天満宮、北野神社と言えば撫で牛だね。 祭神は学問の神様である菅原道真、また食物を司る保食神である。本殿と拝殿は令和御大典奉祝事業で2019年10月から改築・新築された。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大でたぶん工事が遅れたこともあったかな。相棒と一緒に参拝しに来た時は旧社殿だったが、その旧社殿は昭和23年に再建されたのだ。 境内社の大鳥神社。祭神は日本武尊。大阪府堺市にある大鳥大社を総本社とする神社である。諸国を平定した日本武尊は伊吹山の荒ぶる神と戦ったが、祟りで病となった。大和へ向かうものの伊勢でなくなった。陵が造られた時、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったというのは、大鳥大社の起源という。町の発展を願って大鳥大社から分霊を勧請した。毎年11月に、鷲や鳥にちなむ寺社と同じ、酉の市が開かれている。 境内社の稲荷神社。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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一心から出た後に、いつものように喫茶店で相棒とお話しするが、途中に相棒の紹介で気象神社へ参拝。 日本唯一の気象神社は、高円寺氷川神社の境内にある。 高円寺氷川神社の公式紹介では、創建の由緒が3つの可能性があるってこと。まずは、源頼朝が奥州征伐の際にここに立ち寄り、安達藤九郎盛長に社殿の建立を命じた。また、源頼朝の奥州征伐に従った村田兵部といわれる人がここに留まり、武蔵国にある氷川神社本社の使者からの伝言を受け、現地に社殿を建立したともいう。そして、宿鳳山高円寺と同時期に開かれ、氷川神社はその別当寺という。御祭神は素盞嗚尊。 気象神社は、昭和19年(1944)4月、杉並区馬橋地区にあった大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に建立された。軍にとって気象条件は戦略を講じるのに大事な要素であり、科学的根拠に基づいた予報がなされていたが、予報適中を祈願するなど、気象観測員の心のよりどころとされていた。戦後、神道指令で撤去されるはずだったが、調査漏れにより残存。高円寺氷川神社の先々代宮司の山本実が受入れを決断し、昭和23年(1948)9月に遷宮祭を斎行し、高円寺氷川神社に遷された。社殿老朽化が進んだため、遷宮五十五周年記念として、平成15年(2003)に再建され現在に至る。 祭神は、八意思兼命。『古事記』では思金神、常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記される。多くの人間の知恵を一同に結集させることができる「知恵の神様」である。また、かつて再び世界に「太陽」を取り戻し、世の中を救うことに成功したため「気象の神様」として祀るようになったとも言われる。八意思兼命はその名の通り「晴」「曇」「雨」「雪」「雷」「風」「霜」「霧」という八つの気象条件を司ることができるともされている。 裏にも稲荷神社がある。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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2年ぐらいぶりに相棒と食事するために高円寺へ。こんなことになるはずではなかったが、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスの感染拡大が憎い。 狙っているお店へ行っている途中にあづま通り商店会に建てられている「入利弁天」へ参拝。日本三大弁天の1つ、江島神社より分霊を受けたという。 開店10分前の「中華蕎麦 一心」に到着。食の道場、および2023年4月30日に惜しまれながら閉店した「神保町 黒須」出身の店主によるお店だ。すでに先客がいたが、開店直前に10人ぐらいの行列ができている。Xが最新の情報を表示しなくなったため、年末年始の営業時間を把握することができないが、今日は一心の2024年の初営業日ってこと。定刻開店。味玉付きの限定の牡蠣蕎麦もあるが、レギュラーの味玉焼豚醤油蕎麦の食券を購入してから詰めて着席。 しばらく待ったらご対麺。 黒須で食べた醤油味に比べ、醤油タレの濃度がやや下がったが、油やタレが鶏出汁の味を突出させ、ストレートで鶏出汁の旨味をしっかり味わえたのだ。店には天草大王のポスターが貼ってあるため、天草大王を使用していると推測できる。ストレート細麺はなめらかでスープとの絡め、喉越しがよい。レアチャーシューは歯切れと味付けがよい。 おいしかったね。ストレートで鶏出汁の旨味がわかる一杯だ。黒須の関連店なら、塩味も魚貝類を使用すると考えられる。実際に今日の限定は味玉付きの牡蠣蕎麦ってこと。やはり近いうちに塩味を食いに来ようか。ご馳走様。
2024.01.06
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DURAMENTEIを出た後に、すぐ職場へ移動しようと思ったが、近くに歴史のあるお寺があるので参拝してから出発しようと。 無事に、普門院を見つけ。真言宗智山派の寺院で、山号が福聚山。大永2年(1522年)に武蔵国豊島郡三原で開基されたらしい。元和2年(1622年)に現在の土地に移った際、船で釣鐘を運ぼうとしたところ、誤って隅田川に落としたが、引き上げることができなかった。これは鐘ヶ淵の地名の由来という。 境内が工事中なので、ご本尊の参拝ができない。ご本尊は大日如来であるが、もともと聖観音だったという。工事中のため、境内がかなり雑乱のようで、寺務所を見つけるのもちょっと難しい。唯一わかりやすいのは入り口にあり、明治期に活躍した歌人、小説家の伊藤左千夫の墓、および毘沙門堂である。 亀戸七福神の毘沙門天を祀る。ほかの七福神めぐりと同じ、ご開帳は7日までであるが、毘沙門天への参拝は通年でできるそうだ。ただし、住持が必ずいるとは限らないため、御朱印をいただけないこともある。また、境内の工事がなかなか進んでいないようで、廃墟とも口コミで言われているが、参拝できるってこと。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.05
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亀戸天神社を出た後、せっかくだから、職場へ移動する前に亀戸でブランチを摂るつもりだ。 狙っているお店は今日に限ってお休み。年末年始なら通常の営業時間と違うのも当たり前だが、やはりXが最新の情報を表示しなくなったことでいろんな不便が生じた。 あの八雲出身者による新店DURAMENTEIの前に開店20分前なのにすでに行列ができている。これじゃほかの選択肢を見に行かずにそのまま並んだほうがよいってことだね。開店直前に10人ほどの行列ができている。定刻開店。肉と海老ワンタン麺(各2ヶ)(白)、味玉の食券を購入し、順番で着席した。 しばらく待ったらご対麺。 白醤油の旨味と出汁のコクがかなりバランスがよく取れている。もっと優しい味かと思ったが、白醤油を使用する清湯スープの中で味がかなり濃い目のほうだ。全粒粉使用のストレート中細麺は茹で加減が柔らかめでスープとの絡めと喉越しがよい。味付けの濃い目のチャーシューは結構厚手で、柔らかいのに歯ごたえがよい。ワンタンは皮が柔らかくて、肉餡とエビ餡が大きい。 おいしかったね。さすがだ。亀戸はもともとラーメン激戦区だが、さらにすごいお店ができたね。黒も食べに来ないと。ご馳走様。
2024.01.05
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1月5日は年末年始と成人式の三連休の間に唯一の平日だ。ゆっくり参拝したいため大きい神社への参拝なら三ケ日を避けるとはわしの考え方だ。 というわけで、錦糸町を降り、歩行で亀戸天神社へゴー。 亀戸天神への参拝は、去年の1月13日以来だった。職場から離れる亀戸に来づらいので、通常なら年2回ぐらいで参拝してきたが、去年の勤務状況が結構やばかったので、1回しかできなかった。 参拝者が想像より少ないので助かった。 天気もいいので、スカイツリーもはっきり見える。藤棚の藤が開花すればもっと綺麗だね。 天満宮の総本社にあたる太宰府天満宮に対して、亀戸天神はは東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と呼ばれている。明治6年(1873)に東京府社となったため亀戸神社と号し、昭和11年(1936)に亀戸天神社となった。。 正保3年(1646)、太宰府天満宮の神官である菅原大鳥居信祐(菅原道真の末裔・亀戸天神社初代別当)は神の告げにより、天神信仰を広めるため諸国を巡り歩き、最後に江戸の本所亀戸村にたどり着いた。村には元々あった天神の小さな祠に神像を祀った。 明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめた。四代将軍徳川家綱は菅原天神を鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。寛文2年(1662)、太宰府天満宮に倣い、社殿や回廊など造営したのだ。 昭和52年菅原道真公神忌1075年大祭記念とし奉納された5歳の時の菅原道真の像。 鷽(うそ)の碑。昭和15年に奉納された。 摂末社の御嶽神社。菅原道真の教学上の師である延暦寺第十三代座主、法性坊尊意僧正を祀る。 寛文5年(1665)に太宰府天満宮心字池畔の志賀社を勧請した弁天社。七福神の弁財天を祀る。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.05
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今回の年末年始ではこれまでのような連日で長時間の大残業をしていないが、ある意味で仕事を順調に進めている。しかし、これからも自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いどころか勝ち目のない戦いを続けなくてはならないことを思えばやはり落胆してしまった とりあえず、今日は「ラーメン天神下 大喜」の2024年の初営業日ってことで、2023年の年末以来の大喜に来た。10時40分頃に到着したら何らかのトラブルで11時30分オープンになったと告知された。ちょっと周辺で散歩し、11時5分頃戻ったら大行列ができてしまった。開店直前に20人ぐらいが並んでいるが、何とか1巡目で入店できた。メニューを絞って営業しているので、ローテーションで特製中華そばの食券を購入し、食券をスタッフに渡した際に、濃口醤油、太麺をお願いした。 しばらく待ったらご対麺。大喜の特製醤油らーめんは2ヶ月以上ぶりだった。 醤油タレが濃い目で油も効いているが、やはり鶏出汁の旨味がしっかりしていると味わえた。バランスがかなり取れている。厚めの縮れ平打ち中太麺はスープとの絡めもいいしコシもあり、さすがだ。チャーシューは柔らかいが歯ごたえもいいし、味付けも濃いめだ。鶏そぼろも結構入っている。ワンタンは皮がもちもちして鶏肉による餡も大きいし、味付けもよい。 おいしかったね。何回食べたことがあるので、もはや新しいコメントが出せなくなったが、やはり定期的に来ればいいね。今年も武川店主に頼らなくてはならないね。ご馳走様。
2024.01.04
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千寿七福神めぐりが終わった後に北千住で電車に乗り、職場へゴー。 もちろん、その前にブランチを摂るのだ。すでに「麺屋 睡蓮」は年末年始で営業するってことを知っているので、湯島を降りた後にそのまま1週間ぐらいぶりの睡蓮へ。 昼のみ営業とはいえ、かなり助かった。 今日の狙いは限定の生姜らぁめんだ。11時半に過ぎたのに半分ぐらいの席が埋まっている。限定Dの食券を購入し、月館店主に渡した際に、醤油を注文し、現金で生姜マシ、大山鶏の和え玉をお願いした。 しばらく待ったらご対麺。前回は塩ってことで、今回は醤油だ。生姜マシの生姜は丼の下に沈んでいるってこと。 最初の一口では、生姜、醤油タレ、動物系の出汁のバランスの良さがしっかりわかったのだ。通常のラーメンの麺よりやや太めの縮れ中細麺は絡めもいいしコシもある。麺でかき混ぜればかき混ぜるほど、生姜の味が徐々に強まってきたと味わえた。バラチャーシューは柔らかいが固さも保っているので歯ごたえがよい。 途中に和え玉をお願いした。 まだ食べていないのに、かなり香ばしい匂いが嗅いだ。 タレ、油もかなり濃い目で、鶏の旨味がしっかりしている。細ストレート麺は茹で加減が固めで、歯切れと絡めがよい。少しの麺をつけ麺の麺のようにスープをつけ汁で食おうと思ったが、やはり大山鶏の旨味と匂いで、この食べ方じゃちょっと惜しいと思って、そのまま油そばとして一気に完食。 おいしかったね。やはり睡蓮の生姜らぁめんはレベルが高い。いつまで提供するかわからないが、定期的に提供してほしいものだ。ご馳走様。
2024.01.03
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三ケ日の三日目だが、やはり出勤。しかし、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で原材料の輸入が難しくなり、十分な数のご神体を揃えることができないため、去年に恵比寿様のご神体がいただけないという心残りで、北千住を降りた。 去年と同じ時計回りで千寿七福神めぐりを始めた。まずは仲町氷川神社へ参拝し、弁財天様の御朱印をいただいた。東都七天神として知られ、境内にある関屋天満宮にも参拝。 河原町稲荷神社へ参拝し、福禄寿様の御朱印をいただいた。 八幡神社へ参拝し、毘沙門天様の御朱印をいただいた。ここの八幡神社の社務所は普段人がいないようだ。口コミによると、この八幡神社と毘沙門天の御朱印をいただきたいなら、千寿七福神めぐりの時しかできないという。 千住神社へ参拝し、恵比寿様の御朱印だけではなく、恵比寿様の御神体も無事にいただいた。三ケ日の三日目なので、数が少ないとしてもなくなるわけがなかろう。 延長4年(926年)、伏見稲荷より分霊を勧請し、稲荷神社が創立された。八幡太郎源義家は、奥州征伐の際、荒川を渡り、現在の千住神社の所在地である二ッ森に陣営し、神前に戦勝を祈願したと記載されている。弘安2年(1279年)、武蔵国一ノ宮氷川神社より分霊を勧請し氷川神社が創立された。 明治5年(1872年)、両社は村社と定められ、明治6年(1873年)、両神社を合祀して西森神社と名を改めた。明治7年(1874年)、郷社と定められた。大正4年(1915年)、千住神社と改めた。東京大空襲で社殿が焼失されたが、昭和33年(1958年)再建された。千住神社はたぶん千寿七福神めぐりの中で境内が最も広いほうだ。 北千住から最も距離のある元宿神社へ参拝し、寿老人様の御朱印をいただいた。元宿神社は、甲州に住んでいた鈴木因幡守貞宗の長男蔵人が大永六年(1526)に武州安達郡への移住を経て陸羽街道「元宿」に転居し、その子である左エ門尉信義が、天正元年(1573)に当地を開拓し、翌年(1574)に八幡社を奉斎したのが起源である。 大川町氷川神社へ参拝し、布袋尊様の御朱印をいただいた。大川町氷川神社はたぶん千寿七福神めくりの中で境内が最も広い氷川神社だ。 最後は北千住駅に最も近い千住本氷川神社へ参拝し、大黒天様の御朱印をいただいた。10時半に過ぎたか、駅から最も近いか、参拝者がかなり多い。 武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染が緩和した最初の年末年始のため、七福神めぐりだけではなく、初詣の参拝客もかなり多いので、七福神の御尊像を完璧にシャッターで収めることができないのだ。 が、とりあえず無事にご朱印だけではなく、恵比寿様の御神体もいただいたので、七福神が揃った。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたい。 北千住駅→氷川神社(弁財天)→河原町稲荷神社(福禄寿)→八幡神社(毘沙門天)→千住神社(恵比寿)→元宿神社(寿老神)→五丁目大川町氷川神社(布袋尊)→千住本氷川神社(大黒天)→北千住駅、という時計回り、あるいは逆時計回りでめぐりするなら、終点が駅に近いため電車に乗るのが便利である。
2024.01.03
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上野大仏を出て、上野公園に戻ったら、すぐ清水観音堂の看板が見えた。 清水観音堂は、寛永8年(1631年)に寛永寺の開山、天海大僧正によって建立された。寛永寺は、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したため、建立された。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立したが、上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖にと見立て、清水観音堂は京都の清水寺を見立て、建立された。 元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)年に現在地に移築された。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物である。平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現させたのである。清水観音堂に安置された千手観世音菩薩像は天海大僧正に奉納され、年始の1日から7日までのみ御開帳である。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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上野東照宮を出た後に、上野公園から職場へ向かおうとしたら上野大仏の看板を見たので、参拝しようと思って、階段に登った。 寛永8年(1631年)に越後村上藩主堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立したのは上野大仏の始まりだが、幕末までに火災や地震に度々遭い、その都度で復興された。明治8年(1875年)、上野恩賜公園の整備に際して仏殿が撤去された。露座となった大仏は、大正12年(1923年)の関東大震災で頭部が落下してしまった。震災後、頭部と胴体は再建に備えて上野寛永寺に保管されていたが、第二次大戦時に軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、顔のみが残された。 胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で2000年代前半頃から受験生らが祈願するようになり、「合格大仏」と呼ばれている。 昭和42年(1967年)、関東大震災の50回忌にあたり、上野観光連盟が願主となり大仏再建を願う祈願塔(大仏パゴダ)が建立された。本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られている。御本尊は撮影禁止。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、命が「これ以上落ちない」ということで、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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五條天神社を出た後に、そのまま根津方向へ向かった。わかりにくいが、今回地図をちゃんと見ているので、無事に上野東照宮への道を見つけた。 気づきにくい不忍口鳥居。明治6年(1873年)に江戸城内の紅葉山東照宮より移築された。 正面の鳥居なら上野公園から行ったほうがわかりやすい。 神門。参拝客よりも観光客が多いようだ。 唐門への道。天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に創建した多くの伽藍の中の東照社(寛永4年創建)が上野東照宮の起源だという。 正保3年(1646年)に朝廷から正式に宮号を授けられたため、「東照宮」となった。 金色の拝殿と唐門は慶安4年(1651年)に三代将軍家光の命令で造営替えられた。日光という遠いところへ参拝できない江戸の人々のために、日光東照宮に準じた豪華な金色殿を建立したという。唐門への道にある灯籠をはじめ、約250基の灯籠はこの造営替えで全国の大名から競うように奉納されたものである。創建当初の祭神は「東照神君、天海僧正、藤堂高虎」であったが、今は、徳川家康(東照大権現)、徳川吉宗、徳川慶喜。上野戦争、関東大震災、東京大空襲でも無事だった上野東照宮は強運の象徴ともなった。 唐門の近くにある親子虎の石彫。作者・奉納時期は不明であるが、徳川家康の生まれ年の干支であるにちなんだ彫刻という。 神楽殿は明治7年に奉納されたもの。 五重塔は仏教の施設で本来東照宮所属であったが明治の神仏分離令により、現在の上野公園全域を寺地としていた寛永寺の所属となった。徳川将軍家の菩提寺として知られる寛永寺は上野戦争により焼失され、寺地の大半が公園用地として没収され、上野東照宮から離れた地で再建された。この五重塔は今東京都所管という。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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覆麺・智を出た後に、職場の近くの寺院、神社へ初詣をしたくて上野界隈に来た。 去年も来た五條天神社へ。 前回は根津界隈から歩いてきた。今回は上野から歩いてきた。このため、初めて正面の鳥居から境内へ。 景行天皇在位の西暦110年ころ、日本武尊が東征のために上野忍ケ岡を経由した時、薬祖神の大己貴命と少彦名命のご加護をもらったことに感謝するため、創祀したという。室町時代で神社が五條天神と呼ばれるとされる。寛永18年に菅原天神が合祀された。寛永寺の境内拡張で南海に移転され、昭和3年(1928年)に創祀の地に最も近い現在地に遷座された。五條天神社は、薬祖神として医療・薬事関係者に尊崇されている。日本橋にある薬祖神社も五条天神社からお霊を迎えたのである。また、江戸三大天神として入れたこともある。 すぐ隣にある花園稲荷神社は五条天神社の兼務社であるが、創始の年月が不詳だ。ここは幕末の時に彰義隊の戦いにおける最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としても知られる。明治6年に再興され、花園稲荷と改称。 稲荷神社といえば赤い鳥居だね。 花園稲荷は縁結びのパワースポットとしても有名だ。 穴稲荷は旧社殿とされる。 伊藤博文による「神徳惟馨」の扁額も掲げられている。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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1月2日にも出勤しなくてはならないが、せっかくの年末年始の休みなので、限定ラーメンを食ってから出勤しよう。 大晦日と同じ、朝7時半覆麺・智に到着。 今日は虎河豚出汁の悪い奴。しかも今日の告知には、さらに虎河豚を追加するってこと。それにしても、この時間帯に到着したのにすでに一巡目が無理だった。 無事に2巡目で入店。2000円の食券と100円の食券を購入。悪い肉は100円ってラッキー。ラーメンとつけラーメンから選ぶが、やはり寒い日なのでラーメンにした。うまい奴もあるが、やはり悪い奴をお姉さんに伝えた。また、お姉さんに確認したら、無料トッピングを味玉、豚の頭の肉であるネックでお願いした。寸胴を見たら、出汁の色がかなり濃いようだってことがわかった。これじゃ期待できそうだ。 しばらく待ったらご対麺。 わしは、一条流がんこの悪魔ラーメン、覆麺の悪い奴の経験値が高いという自信を持つが、初めて悪い奴の醤油タレの塩気が完全に出汁の旨味に抑えられたと味わえた。もちろん貧乏人なので虎河豚という素材をここでしか食ったことがないが、それでも初めてこのような悪い奴のスープを食ったのだ。悪い肉の味付けはやはり優しくなったが、ある意味で煮込みの具合がちょうどよいので歯ごたえがよい。縮れ極細麺はいつもより茹で加減がちょっと柔らかめだが、歯切れもとスープとの絡めがよい。大判のチャーシューは柔らかい。 おいしかったね。ここまで出汁の旨味を表現した悪い奴が初めてだ。一条流がんこよりも及川店主なりの進化ってことだね。退店の時、及川店主から家元のことを教えてもらった。懐かしかったが、時の流れが残酷だってことだね。ご馳走様。
2024.01.02
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元日の朝だがかなり早く起きて、出かけた。 コロナ禍から湯島天満宮へ2回目の元日参拝。参拝の行列が短いが、授与品、縁起物の授与所の前に行列がかなり長い。やはり早めに参拝しに来たのは正解だ。 多くのお店は元日の限定ラーメンを提供しているが、わしはやはり2020年から元日に訪問している「中華そば しながわ」へ。今年も秋田県湯沢市の佐藤養悦本舗による稲庭中華そばを使用するってこと。10時30分開店だが、10時5分という時点ですでに15人ぐらいの行列ができている。去年よりすごいが武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらが5類へ移行されてから最初の元日なので仕方ないかな。20分ぐらい早く開店してくれたが、やはり2巡目で入店。現金で先払いということで、〇とのプレミアム稲庭中華そばの塩を注文。つまり、特製プレミアム稲庭中華そばの塩。去年は醤油ということで今年は塩にした。厨房に品川隆一郎店主が指揮を執るのだ。 しばらく待ったらご対麺。 去年は醤油だから今年は塩ということを前から決めた。ここで塩味を食ったら、やはりかつて「中華そば ゼットン」へ初訪問の時に品川店主との雑談を思い出した。稲庭中華そばは普段醤油味だが、しながわは限定として塩味も提供する。スープは鶏ガラだと思われ、塩気と油も効いているものの食べやすい。佐藤養悦本舗による平打ちストレート細麺はいわゆる稲場中華そばで滑らかでスープとの絡めが良い。説明がないが、セリ、なめこは秋田県三関産のものだと思われる。バラと肩ロースチャーシュー、鶏肉はややカタメでいいが少なくなったのもこのご時世のせいかな。 おいしかったね。これは品川店主が作り出したかった味だと思う。やはり時間を作ってレギュラーの味を食べに来ないとダメだと思う。ご馳走様。
2024.01.01
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明けましておめでとうございまする。旧年中はたいへんお世話になり誠にありがとうございました。 いろんなことがありすぎて、どこから話したほうがわからない一年でした。しかもあまりいいことがなさそうです。今までのことに後悔がありません。また、本ブログの愛読者に感謝するだけではなく、謝りもしなくてはなりません。2023年3月をもって400萬アクセスに達成しましたが、感謝の言葉を書く時間がなかなか作れませんでした。ここで皆様のご愛読、ご支援に感謝の意を述べたいと思います。 とりあえず、心身ともに疲れていますが、これからもっと多くのラーメンとの出会いを楽しみにしております。また、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていても、同じく「ぎりぎりいっぱい生きるんだ」ということを今年の目標にしたいと思います。そして、マスクをつけなくても生活できることもお祈りします。昨年と同じように、皆様より一層のご指導ご厚情を賜りますよう心よりお願い申し上げます。
2024.01.01
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