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1774年の2月から4月にかけてザルツブルクで書かれたもので、ときにモーツァルトは18歳。パリに、イタリアに、そして、ウィーンに旅行して、その先々で特徴のあるその地の音楽を吸収し、その影響を作品の中に現わしているころで、ハイドンの影響が多く見られる傑作である。そして、やがて出現する最盛期の作品の萌芽がうかがわれる。(手元の音楽鑑賞事典より)【上記の感想】モーツァルトの10代の交響曲では、25番と29番の人気が高い。今日聴いたのは29番(ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1954年12月29・30日録音)である。なお、29番の過去の鑑賞日記は、こちら。
2008/08/03
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ピアノソナタ第5番 ト長調 K.283 (189h) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した最初期のピアノソナタの1つ。「デュルニッツ・ソナタ」の5曲目にあたる。(ウィキペディアより)【上記の感想】モーツァルトのピアノソナタ第5番を聴いた。このあたりのピアノソナタは、初めて聴く。
2008/08/02
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グラスハーモニカは18世紀ヨーロッパ貴族の間で流行、マリー・アントワネットも愛奏したという。1761年に雷雲の帯電証明で名高いベンジャミン・フランクリンが楽器としての形を整え、70年間に4000台ほど生産されたが、その高音が「精神異常を来たす」と言われ、次第にすたれていった。今回は小塚三喜夫氏所有の純石英ガラスの楽器(モーツァルト作品用として国内唯一)がこの演奏会のために提供された。(ネットで借用)【上記の感想】モーツァルトの「グラスハーモニカのためのアダージョ ハ長調」を聴いた。グラスハーモニカという楽器は、全く知らなかった。なかなか幻想的な音色の楽器ですね。グラスハーモニカの演奏は、こちらでご覧になれます。
2008/07/26
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現在の音楽学は筆跡鑑定や自筆譜の紙質の検査などを通して、K330からK333にいたる4つのソナタはパリ時代のものではなくて、ザルツブルグの領主であるコロレードとの大喧嘩の末にウィーンへ飛び出した頃の作品であることを明らかにしています。さらに、K333のソナタはザルツブルグに里帰りをして、その後再びウィーンに戻るときに立ち寄ったリンツで作曲されたものだろうということまで確定しています。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】第10番を聴いたので、書いておく。なお、第11番を聴いたときの日記は、こちら。
2008/07/15
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ピアノソナタ第9番 ニ長調 K.311 (284c) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1777年に作曲したピアノソナタ。同時期に第7番ニ長調K.309 (284b) も書かれている。母アンナとともにマンハイムやパリを訪れていた時期の作品である。一説には、1774年から1775年にかけてミュンヘン滞在中に作曲途中で放置していたソナタを、この時期になって完成させたともいう。1781年にパリで第7番、第8番イ短調K.310 (300d) とともに「作品4」として出版された。(ウィキペディアより)【上記の感想】ピアノソナタ第9番を聴いたので、書いておく。
2008/07/15
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弦楽四重奏曲第18番イ長調K.464は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトによって、1785年に作曲された。ハイドン・セット全6曲中の第5作。(ウィキペディアより)【上記の感想】弦楽四重奏曲第18番を聴いた。過去には、19番「不協和音」を聴いている。その時の日記は、こちら。弦楽四重奏曲で使用される楽器は、ヴァイオリン(第1、第2)とヴィオラとチェロという構成らしい。この3種類の楽器は、触れたことも演奏したこともない。しかも、ヴァイオリンの弦が何本あるかも正確には答えられない。画像で確認したところ、4本らしいが。ヴィオラとヴァイオリンは似ているので、片方ずつ出されて、「これは何という楽器でしょうか?」などと聞かれたら、正解できる自信はない。並べた出されたら、何とか大きさで区別がつきそうだが。ヴィオラについて、少々調べておいた。以下は、ウィキペディアの引用。「ヴァイオリンとほぼ同じ構造であるが、低い音を出すために全体が大きくなっていて、特に厚みが増している。ヴァイオリン同様、顎に挟んで演奏する。大きさはヴァイオリンに比べ、胴の長さで50mmほど大きいといわれるが、ヴィオラの大きさは390mmほどから420mmを超えるものまでばらつきがある。」
2008/07/15
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ディヴェルティメントは屋内用の音楽で、セレナードは屋外用の音楽だったと説明していることが多いのですが、例えば有名なK.525のセレナード(アイネク)がはたして屋外での演奏を目的に作曲されたのかと聞かれればいたって疑問です。さらに、ディヴェルティメントは6楽章構成、セレナードは8楽章構成が典型的な形と書かれていることも多いのですが、これもまた例外が多すぎます。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いた。多くの方が、どこかで一度は聞いたことがあると思う、馴染みの曲である。セレナードというジャンルが何やらわかりにくいが、もちろん私もわからぬ。上記を読むと、何やら安心感が生じてきた。セレナードは過去に7番を聴いたことがある。それは、こちらに書いた。
2008/07/15
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読後感を書いておきます。この本は、1997年8月に発行されました。当時の著者の年齢は、61歳位と思われます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】1784年12月14日、モーツァルトはヴィーンのロッジ「慈善」に入会した。【上記の感想】1785年は、モーツァルトにとって「絶頂の年」と言われる方もいます。実際、ピア・コンなど多くの作品を発表し、喝采を浴びていたようです。その前年の12月にフリーメイスンに入会したわけですが、この入会が何らかの影響を与えたのかもしれません。なぜ、モーツァルトが入会したのかというと、メイナード・ソロモンによると、(1)友情と社交の場を求めたこと、(2)経歴に重みをつけようとしたこと、(3)商売のきっかけを作ろうとしたこと、(4)啓蒙主義的理想主義に共感したこと、だそうです。【この本からの引用】1790年2月20日、ヨーゼフ2世が世を去った。【上記の感想】モーツァルトを知る上で、欠かすことの出来ない人物の一人が、ヨーゼフ2世です。モーツァルトよりも15歳ほど年長で、モーツァルトが10歳位の頃から晩年まで、神聖ローマ皇帝でありました。ウィキペディアでヨーゼフ2世を調べたので、引用しておきます。-----引用開始-----父フランツ1世の死後、母マリア・テレジアとともに共同統治を行う。啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした啓蒙専制君主の代表的人物であった。その急進的改革ゆえ「民衆王」「皇帝革命家」などのあだ名がある。ヨーゼフ自ら選んだ墓碑銘は「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」という皮肉なものである。-----引用終了-----
2008/07/13
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『トルコ風』と言われているのは、第3楽章の中間部に当時のヨーロッパで流行していたトルコ風のリズムがあるためとのことです。モーツァルトはヴァイオリン協奏曲を5曲書いています(全て1775年、19歳!の時)が、この第5番はその中でもっとも有名で演奏・録音されることが多い曲です。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K.219を聴いたので、少々書いておいた。
2008/07/12
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5曲あるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲は1775年にザルツブルクで作曲されており、現在は偽作と断定されている残りの第6番と第7番はその後に書かれている。この第4番は10月24日に作曲されていて、他の5曲と同様に作曲の動機などは不明であるが、おそらくこの第4番はザルツブルクの宮廷ヴァイオリニストであったアントニオ・ブルネッティのために作られたと言われているが定かではない。(ウィキペディアより)【上記の感想】ヴァイオリン協奏曲第4番を聴いた。モーツァルト19歳の頃の作品らしい。
2008/07/12
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フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2(変ロ管とト管、変ホ管)、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、バス(チェロ、コントラバス)初稿と改訂版があり、後者にはクラリネット2本が追加されている。演奏する場合、指揮者の考え方によりどちらの版も演奏の機会がある。ティンパニとトランペットを欠く。(ウィキペディアより)【上記の感想】交響曲第40番を聴いた。この曲は25番とともに、ト短調の交響曲として有名。今回は、楽器編成を調べてみた。特徴最たるものは、ティンパニとトランペットを欠くことのようだ。楽器については知らないことが多いので、今後は少々意識しながら聴いてみようと思う。第3楽章は、こちらで御試聴ください。
2008/07/12
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読後感を書いておきます。この本は1995年に発行されました。執筆時の著者の年齢は、40代後半と思われます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】本書は、モーツァルト没後二百年を記念して1990年から93年にかけて小学館から刊行された「モーツァルト全集」(15巻+別巻1、CD190枚)に連載した16編のエッセイに、若干の手直しを加えて一冊の本にしたものである。【上記の感想】モーツァルト全集が発行されているとのこと。さっそく調査してみましたが、さすがモーツァルト。複数の全集があるようです。【この本からの引用】1778年1月、モーツァルトは旅先のマンハイムでウェーバー家の人々と知り合い、当時17歳だった次女アロイジアに熱烈な恋をする。【上記の感想】モーツァルトのアロイジアへの恋は結婚に結びつかず、アロイジアの妹、コンスタンツェと結婚することになります。これは、モーツァルトに興味のある方には、けっこう知られていることです。今回は、モーツァルトがアロイジアと知り合ったマンハイムを調べてみました。ドイツの都市で、「カール・ベンツは、1885年にマンハイムで世界初の自動車を発明し、運転した。」と、ウィキペディアに書かれていた。
2008/07/11
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舞曲の一つ。次のような形式を取る。・小ロンド形式(A+B+A+C+A) ・大ロンド形式(A+B+A+C+A+B+A) ・古典ロンド形式(A+B+A+C+A+D+…) 古典組曲や交響曲の中の1部分として用いられることも、単独の曲として作曲されることもある。(はてなダイアリー)【上記の感想】上記は、「ロンド」の説明。今日聴いた、ホルン協奏曲第4番の第3楽章が、ロンドだという。そのロンドの意味が不明のため、少々調査。それから、ホルンという楽器だが、触ったことはないし、もちろん演奏したこともない。金管楽器では、かろうじて小学生時代にトランペットを少々吹いたことがあるが。そこで、ホルンを調査した。こちらが、詳しくて良さそうだ。
2008/07/08
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これらの作品を語る上で欠くことの出来ない人物と言えば、なんと言ってもモーツァルトと同時代を生きたホルン奏者(チーズ店経営)のイグナーツ・ロイトゲープ(1732-1811)と言うことが出来るでしょう。彼は1732年にザルツブルクで生まれザルツブルクの宮廷楽団のホルン奏者として演奏した後、モーツァルトよりやや早めにウィーンに移住し、ホルン奏者をやる傍らチーズ店を営んでいたようです。モーツァルトとは無二の親友だったらしく、モーツァルトの最期を看取るなど音楽家同士の付き合いという以上に個人的にも非常に仲が良かったようです。ホルンの腕前も相当のものだったようで、それまで自然倍音上の音しか拾えなかったホルンという楽器を、当時開発されたばかりの右手でのストップ奏法を用いることによって出来る半音階奏法を巧みに操れる数少ないホルン奏者だったと言われています。そしてモーツァルトはそんなロイトゲープにこれらの作品を提供したのです。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】ホルン協奏曲第2番を聴いたので、少々調べておいた。第2~4番まで、すべて変ホ長調のようである。関連日記は、こちら。
2008/07/08
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真偽に関しては諸説がありますが、この困窮からの一発大逆転の脱出をねらって予約演奏会を計画し、そのための作品として驚くべき短期間で3つの交響曲を書き上げたと言われています。それが、いわゆる、後期三大交響曲と呼ばれる39番~41番の3作品です。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】三大交響曲は46日間で書き上げられたと言われていますが、当時のモーツァルトの人気は下降気味で、生活費にも困り、借金の申し入れをした手紙が多く残されています。1788年のことで、この年を「創作熱爆発の年」と言った方もいます。苦しい時期に集中して書かれた曲ゆえに、人々の心に響く曲になったのかもしれません。以上、「ジュピター」を聴きながら、記す。
2008/07/08
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ハイドンやモーツァルトの協奏曲はこのような時代に書かれた。しかし、1814年のバルブの出現により、ナチュラル・ホルンは次第にバルブ付きホルンに取って代わられる事となる。 それでもフランスのホルン奏者は、バルブ付きのホルンを好まずナチュラルホルンを愛用していたため、ロマン派時代でもナチュラルホルンのために作曲されている事も多い。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】本日、ホルン協奏曲第3番を聴いた。ホルン協奏曲第1番を聴いたときの日記は、こちら。ホルンという楽器を少々調査。現在のバルブ付きのホルンは19世紀に出現したため、モーツァルトの時代は、バルブのないナチュラルホルンしかなかったとのこと。この楽器、金管楽器の中では演奏が難しい楽器のようである。
2008/07/05
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1773年から翌年にかけてモーツァルトは、9曲の交響曲を書き上げた。そのうちの5曲までがイタリア風序曲の形式で作曲されているのに対し、残りの4曲はウィーン風の4楽章の構成がとられるようになった。この第29番は社交的娯楽的要素の強いイタリア様式を脱却し、後の交響曲へのたしかな成熟を予測させる表現力を備えた作品である。モーツァルトが10代で作曲した交響曲中、第25番とこの第29番はとりわけ人気が高い。(以上、ウィキペディアより)【上記の感想】交響曲第29番を聴いたので、書きとめておく。29番は25番と並んで人気があるそうだ。アインシュタインは次のように評しているとか。「小ト短調交響曲(第25番)とイ長調交響曲(第29番)はひとつの奇跡である。」
2008/07/03
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K376~K380の中で、K378だけはザルツブルグで作曲されたと思われます。この作品は、就職活動も実らず、さらにパリで母も失うという傷心の中で帰郷したあとに作曲されました。しかし、この作品にその様な傷心の影はみじんもありません。それよりも、青年モーツァルトの伸びやかな心がそのまま音楽になったような雰囲気が作品全体をおおっています。そして、残りの4曲が、ザルツブルグと訣別し、ウィーンで独立した音楽家としてやっていこうと決意したモーツァルトが、作品の出版で一儲けをねらって作曲されたものです。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】気まぐれで、ヴァイオリン・ソナタを聴いてみた。一連のK376~K380の中では、K378が人気があるような印象を受けた。今回、私が聴いたのは、K377。
2008/07/02
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モーツァルトは全部で41の交響曲を書きましたが、短調の作品は25番と40番の2つしかなく、どちらも同じト短調です。そのため25番は40番に対し「小ト短調」とも呼ばれています。映画「アマデウス」で一躍有名になったこの曲はモーツァルト17歳の時の作品で、胸を突き刺すような青春の葛藤のようなものが感じられます。最晩年の40番と比べても決して引けをとるものではなく、モーツァルトの早熟ぶりがうかがえます。(ネットで借用 m(__)m)【上記の感想】小ト短調シンフォニーを聴いた。この曲は17歳の時に作曲されたという。さすがである。
2008/06/30
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モーツァルトが1791年に作曲したピアノ協奏曲。モーツァルトの死の年に書かれた最後のピアノ協奏曲である。同年のクラリネット協奏曲と同様に、モーツァルトの晩年特有の清澄な響きを持ち、長調ながらも物悲しい雰囲気の曲である。第20番から第25番までのピアノ協奏曲と比べ、楽器編成や曲の構成は単純だが、その独自の境地によって評価されている。(ウィキペディアより)【上記の感想】モーツァルトが亡くなる年に書かれたピア・コン27番である。亡くなる年と聞くと、妙に厳粛な気持ちになる。作曲に着手した時期は、既にモーツァルトの全盛期を過ぎており、悲しさが感じられる曲になているようである。と言っても、私の鑑賞力では良くわからない。まあ、モーツァルトの全盛期を過ぎた時期に作られたと言っても、作品自体の質が悪いということはない。要は、全盛期の基準とは聴衆の集まり具合なので、飽きられてしまったとか、聴衆に好みに合わなくなってしまったとか、そういうことである。
2008/06/27
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この時期のモーツァルトはもはやヴィーンの聴衆の好みに合うような曲を書かなくなっていたため、予約演奏会を開こうと試みても会員が1人しか集まらない状況であった。このような逆境の中、モーツァルトによって生み出された曲がこのニ長調協奏曲である。先にも述べた通り、予約演奏会を開こうにも会員が集まらなかったため、1787年初めには第1楽章が手がけられていたこの曲も完成が遅れ、1790年になってレオポルト2世の戴冠式の祭典で演奏するため、ようやく陽の目をみるようになる。(ウィキペディアより)【上記の感想】ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調「戴冠式」を聴いたので、少々、書いておく。この曲を作った時期は、モーツァルトにとっては苦しい時期であった。その前の数年が良すぎたと言ってしまえば、それまでですが。今も昔も、聴衆は飽きやすさは変わらずです。
2008/06/27
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モーツアルトは弦楽四重奏曲の編成にビオラを1本加えてバイオリン2本、ビオラ2本、チェロ1本という弦楽五重奏曲を6曲残しています。 ハイドンは弦楽四重奏を発明しその形式を確立しましたが弦楽五重奏曲はモーツアルトが発明したといってよいでしょう。 この第三番は1787年に作曲されました。その年にはあの歌劇「ドンジョバンニ」が完成しています。そして同じ年に第三番の弦楽五重奏曲ハ長調と第四番の弦楽五重奏曲ト短調を1ケ月の間隔で作曲しました。(ネットで無断借用 m(__)m)【上記の感想】弦楽五重奏曲第3番を聴いたので、書きとめておく。楽器は、ビオラ2本、バイオリン2本、チェロ1本という構成らしい。このへんの弦楽器は触れたことがないので、曲を聴いていても、どの楽器の音色か良くわからないという有様で、少々恥ずかしい。まあ、バイオリンの音色は何とかわかるが、チェロとビオラの違いは全くわからず。
2008/06/27
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ピアノ協奏曲第21番を聴いたので、書きとめておく。関連日記は、こちら。以下に、ウィキペディアより引用しておくが、そこに書かれているように、「明るく清らかな雰囲気」である。モーツァルトには、明るい曲と悲しさを感ずる曲とが、ペアで続けて作曲されるという特徴があるように思われる。「ピアノ協奏曲第20番の完成した僅か一ヵ月後の1785年3月9日に、やはり自分が独奏を担当する予約演奏会のためにこの曲を完成し、翌日の3月10日にウィーンのブルグ劇場の演奏会で初演された。 前作の短調のほの暗さから一転して、この曲はハ長調で書かれており、明るく清らかな雰囲気となっている。」(ウィキペディアより)
2008/06/27
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弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516を聴いたので、メモ的に書いておく。この曲の第1楽章は、小林秀雄により「疾走する悲しみ」と表現され、よく知られている。私のような者が聴いても、悲しみが伝わってくる。以下、ウィキペディアより、少々引用。「1787年の春ごろ作曲された。ほぼ同時期に作曲された第3番ハ長調K.515とは姉妹作品で、対照的な性格を持っており、両曲ともにモーツァルトの室内楽の名曲として親しまれている。この第4番ト短調K.516の完成は1787年の5月16日である。ハ長調―ト短調のペアで作曲された第3番ハ長調、この第4番ト短調の2曲は、翌年に作曲した交響曲第40番K.550ト短調と交響曲第41番ハ長調 K.551『ジュピター』のペアとよく擬せられる。」(ウィキペディア)
2008/06/27
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読後感を書きます。この本は、1983年11月に発行されました。執筆時の著者の年齢は、51歳位と思われます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】これはモーツァルトのシンフォニーの歴史のなかで画期的な位置を占めるばかりか、晩年の三大シンフォニーに優るとも劣らぬ深みと輝かしさをもった作品だと思う。【上記の感想】著者がこう語っているのは、第38番プラハです。プラハにはメヌエットがなく、3つの楽章で構成されているそうです。これは、当時としては画期的であったとのこと。
2008/06/16
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読後感を書きます。この本は、2006年3月に発行されました。当時の著者の年齢は、44歳位と思われます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】出しゃばらず、人が好いけれど、騙されやすい。金儲けにも無頓着。芸術的才能が半分でも、上手く立ち回る才能が倍あれば、成功するだろう。【上記の感想】22歳のモーツァルトがパリで頼った人物(グリム)が、父レオポルトに送った手紙に書かれていたものです。グリムによるモーツァルト評ですが、モーツァルトの性格が見えるようです。【この本からの引用】チェコ出身の音楽家が、今なお誇りに思っているのは、プラハの街がモーツァルトを認めたという歴史的事実だ。【上記の感想】モーツァルトとプラハとの関係は、1787年1月が有名だと思われます。まだまだモーツァルトのことは知らないことが多く、プラハ入りが1787年以前や以後にあったかは知らず。1787年1月のプラハで、モーツァルト夫妻は、行く先々で人々の熱狂を受けたようです。
2008/06/15
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最後の三つの交響曲の中で最も明るく優美で、そして古典的な均衡を崩さないこの作品は「白鳥の歌」という言葉に最も相応しい作品だといえます。さらに、アインシュタインがこの作品に対して「あるのは永遠への訴えである」と語ったように、そこに彼岸的な美しさを見つけるならば、その思いはより確固としたものになります。 (ネットで借用)【上記の感想】交響曲第39番を聴いた。この曲は、晩年の3大交響曲の1番目に当たる。最近は、3大交響曲の中では、聴く機会が最も多い。まあ、気まぐれなので、直に飽きると思うが。
2008/06/13
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交響曲第34番 ハ長調 K.338 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1780年に作曲した交響曲。ザルツブルクの宮廷音楽家時代に作曲した最後の交響曲に当たる。ザルツブルクの趣味に従って、メヌエットを欠いた3つの楽章からなる。音楽学者アルフレート・アインシュタインは後にメヌエットが追加されたと推定したが、今日ではこの説は否定されている。(ウィキペディアより)【上記の感想】34番は、やや地味な交響曲になろうか。35番は「ハフナー」。「ハフナー」の鑑賞記?は、こちら。
2008/06/11
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モーツァルトのホルン協奏曲第1番を聴いた。2楽章からなり、未完の協奏曲との説もあるようだ。ホルン協奏曲は全部で4曲作られ、今日聴いた第1番が最初に作られたと思いきや、実際は最後に作られたらしい。何やら、ややこしい。第1番の第1楽章は聴いたことがあると思ったら、どうも小学校の観賞用としても有名だとか。また、第1番はニ長調で書かれているが、これは年老いたホルン奏者ロイドゲープの負担を少なくするためだったとか。などなど、ネットで学んでおきました。
2008/06/11
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交響曲第31番「パリ」を聴いたので、書きとめておく。初演は、1778年6月18日で大成功だったらしい。ただ、モーツァルトにとって、パリという都市はあまり相性がよくないと言われている。例えば、7月には、母を亡くしている。その母の葬儀が行われた教会は、ここのようです。
2008/06/10
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ピアノソナタ第8番イ短調K.310は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した、3楽章からなるピアノソナタである。モーツァルトのピアノソナタ作品の中では、珍しく短調で書かれている。モーツァルトのピアノソナタのうち短調で書かれている作品は、他にはピアノソナタ第14番ハ短調K.457のみである。(ウィキペディアより)【上記の感想】8番イ短調を聴いた。演奏は、内田光子。モーツァルトの母親が亡くなった後に作られた曲で、悲しみが反映されていると言われている曲である。どちらかというと、短調の曲の方に、最近は興味がある。
2008/06/09
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノソナタ第11番イ長調K.331(ぴあのそなただい11ばんいちょうちょうけっへる331)(Klaviersonate Nr.11 A-dur K.331)はモーツァルトが作曲した3楽章から成るピアノソナタである。第3楽章が有名な「トルコ行進曲」であるため、「トルコ行進曲付き」と呼ばれることがある。またこの楽章だけが単独で演奏される機会も多い。(ウィキペディアより)【上記の感想】内田光子演奏の「ピアノ・ソナタ第11番」を聴いた。第3楽章のトルコ行進曲が、お目当て。私自身、トルコ行進曲をピアノで弾くことがある。「弾くことがある」というよりも、最近は、弾かない日がない。と言っても、腕前は全く上達しませんが(^。^ゞそういう意味で、弾き方をパクろうという聴き方である。が、技術的にはもちろん、それ以上のものがあるわけで、言うはやすく行うは難し。というか、絶対に無理である。(笑)関連日記は、こちら。
2008/06/07
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ヨハン・クリスティアン・バッハ (Johann Christian Bach 1735 - 82)は、大バッハ、ヨハン・セバスチャン・バッハの11番目の、そして一番下の息子として生まれました。1750年、15歳のときに父の大バッハが死ぬと、ベルリンの兄カール・フィリップ・エマヌエル・バッハに預けられ、その教育を受けました。(ネットで借用)【上記の感想】モーツァルトと親交のあった人物を調べていると、この人物にあたる。大バッハの子息である。ロンドンで主に活躍しており、モーツァルトともロンドンで出会ったと思われる。年齢的には、モーツァルトよりも21歳ほど年長。モーツァルトが14歳位の少年だった時に、出会ったようである。
2008/06/06
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読後感を書いておきます。この本は、1994年7月に発行されました。1990年代に書かれたものを集めるという構成になっていると思われます。すなわち、著者が60歳くらいに書かれたものを集めたものと思われます。なお、著者の本は、こちらでも読んでいます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】モーツァルトの最後の作品『レクイエム ニ短調』(K626)は、いささか曖昧模糊とし、神秘的でさえある状況の中で、着想され、作曲され、かつ、それ以来、今日に至るまで、策謀、議論、論争の渦の中に巻き込まれてきた。【上記の感想】『レクイエム』を聴いたことはなかったので、今初めて聴いています。神秘的な感じがしますね。死者が迎えに来ることを意識しながら作曲したとの伝説を生むのも、むべなるかなというところでしょうか。【この本からの引用】こうして始められた西方への大旅行は、ザルツブルク以西のドイツの諸都市を総嘗めにし、さらにベルギー、フランス、英国、そしてオランダ、それにスイスに及ぶ壮大なものだった。【上記の感想】西方への大旅行は、モーツァルトが7歳から10歳にかけての時期に、敢行されたものです。けっこう大きな範囲にわたって行われたようです。今回は、英国のロンドンとモーツァルトの関係を少々調べてみました。すると、けっこうな期間、ロンドンに滞在していたことがわかりました。1年3箇月に及んだようです。バッキンガム宮殿に伺候したりしたようです。
2008/06/06
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ハフナー家の令嬢の結婚式のためにモーツァルトが依頼されたとのこと。それだけでも何とも贅沢なものですが、これが8楽章から成る一時間ほどの大曲でモーツァルトも余程はりきったのでしょう。(あるブログより借用m(__)m)【上記の感想】ハフナー・セレナードを聴いた。この作品は、モーツァルトが20歳の時の作品のよう。
2008/06/01
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弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465『不協和音』は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトによって、1785年に作曲された。ハイドン・セット全6曲中最終曲。第一楽章の冒頭22小節に、きわめて大胆な和声効果をもつ序奏がおかれていることから『不協和音』の愛称で知られるが、序奏以外はモーツァルトらしい明快な曲で、室内楽の中でも屈指の名作の一つ。(ウィキペディアより)【上記の感想】「不協和音」を聴いてみた。確かに、冒頭は違和感があるような気がする。
2008/06/01
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読後感を書いておきます。この本は、2001年1月に発行されました。実際に書かれたのは1980年代のものもあり、著者が過去に書いてきたモーツァルト関連のものを集めるという構成の本です。著者は1931年生まれの方ですので、執筆時の年齢はは50代でしょうか。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】ヤーンのモーツァルト伝は、およそ作曲家の評伝の走りであり、そして模範となったし、ケッヒェルの作品目録も、他の作曲家のそれのお手本となった。【上記の感想】ヤーンやケッヒェルは、モーツァルト研究には欠かせない人物です。『モーツァルト伝』を著わしたヤーンを少々調べておきます。史上初のモーツァルトの伝記が、ヤーンの『モーツァルト伝』のようです。1856年に著わされたとのこと。【この本からの引用】ピーター・シェファーの劇作『アマデウス』である。【上記の感想】映画『アマデウス』はけっこう有名ですが、残念ながら私はまだ見たことがありません。機会があれば、見てみたいものです。劇作家のシェファーを少々調べてみました。1926年生まれの英国の劇作家のようです。『アマデウス』を書いたのは1979年、映画化は1984年とのこと。
2008/06/01
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アレグロ(イタリア語:allegro)は、音楽用語の一種。イタリア語における本来の意味は「陽気に」であるが、音楽用語としては一般に「速く」の意味で使用される。(ウィキペディアより)【上記の感想】アレグロというイタリア語がある。音楽用語として使われると、「速く」という意味らしい。ところで、今日聴いた曲(フルート協奏曲第2番)の第1楽章は、「Allegro aperto」で演奏せよとのこと。この中の「aperto」という単語が不明。とのことで、オンライン辞書をひもとくと、率直に、開かれたとか、書かれていた。この辺の音楽用語には、まだまだ疎いので、気長に勉強していこうと思う。ついでに、フルート奏者にはどのような方がいるのかと思い、少々調査。人気度からいうと、まあこの人気度というのも一般的なものなのか不明ではあるが、私が見たところでは、ジェームズ・ゴールウェイという方が1位であった。関連日記は、こちら。
2008/05/31
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読後感を書いておきます。この本は1996年8月に発行されました。ただし、原本は『モーツァルトとは何か』の表題で1991年に発行されたとのこと。つまり、モーツァルト没後200年を記念して発行されたものです。著者は1940年生まれですので、執筆時は51歳くらいでした。なお、池内紀の本は、ここでも読んでいました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】モーツァルトがウィーンに定住するのが1781年ですね。【上記の感想】モーツァルトを調べると、旅に出ている時間が非常に多いことがわかります。そういうわけで、一体どこに生活の本拠があるのかと訳が分からなくなってしまいます。そこで、すっきりとまとめてみます。ザルツブルクで生まれたわけですが、そのことはこちらの日記でふれました。即ち、誕生してから25歳まではザルツブルクに住み、その後はウィーンに住んだというこのようです。【この本からの引用】スタンダールは、「ドメニキーノにさらにメランコリーの色を濃くするとモーツァルトだ」と書いています。【上記の感想】スタンダールの愛好家や研究家のことを、スタンダリアンと呼ぶそうです。例えば、大岡昇平もスタンダリアンでした。スタンダリアンという方々が少なからず存在するようなので、魅力的な部分がある作家であるのは間違いがないようです。機会があれば、スタンダールの作品を読んでみようと思います。19世紀のフランスの作家のようですが。
2008/05/30
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読後感を書いておきます。この本は1987年に書かれました。著者は1930年生まれの方ですので、執筆時の年齢は57歳位です。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書いておきます。【この本からの引用】小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平三氏のモーツァルト経験とモーツァルト論の諸相、つまり「変幻」を扱った。【上記の感想】モーツアルトのことを書いた評論というと、この三氏がよく挙げられます。今日は、この中から、大岡昇平について書いてみます。大岡昇平のことは、過去日記でも書きました。まずは、こちらは3月に書いたものです。「フィガロの結婚」を見て感激されたことが書かれていました。やはり、モーツアルティアンなのですね。それから、2005年10月30日の日記と2005年12月3日の日記。こちらでは、戦争体験者としての氏に興味を持っていた時期に、読んだものです。戦前、戦中、戦後の人生の変転が垣間見られ、興味深いものがあります。
2008/05/26
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読後感を書いておきます。この本は、2005年9月に発行されました。著者は1925年生まれの方なので、執筆時の年齢は80歳位を思われます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書いておきます。【この本からの引用】日本人によって書かれたモーツァルト論の中で、小林秀雄(1902-83)の『モオツァルト』ほど大きな反響を呼んだものはないであろう。【上記の感想】小林秀雄の『モーツァルト』は、私も読んだことがあります。と言っても、読んだのは高校生の時で、受験対策という意味あいのものでした。『モーツァルト』に限らず、小林秀雄の著書は10代には難解であり、普通の高校生が内容を理解することは不可能と思われます。受験というのも罪なものだと、今更ながら思う次第です。【この本からの引用】モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂ひの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」といふ言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モーツァルトの後にも先にもいない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。【上記の感想】上記は、小林秀雄の文章です。難しいですね。モーツァルトのト短調の曲について書かれた箇所のようです。最近、私自身モーツァルトのト短調の曲である弦楽五重奏(K516)を、聴いてみました。確かに哀調を帯びた曲です。モーツァルトの曲では、シンフォニーの40番もそうですが、ト短調の曲で人気のあるものが多いです。そこで、けっこうモーツァルトの曲は短調の曲が多いのかと思いましたが、現実は逆でした。即ち、長調の曲の方が多い。その理由というのが、モーツァルトの曲の多くは注文に応えたもののようで、もちろんそれは生活していくためであります。当時は長調の曲の人気が高かったということのようです。
2008/05/25
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読後感を書いておきます。この本は、2006年1月に発行されました。時期的には、モーツァルトの生誕250周年の節目の年になります。著者は1931年生まれの方ですので、執筆時の年齢は75歳位になると思います。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を、書いておきます。【この本からの引用】私はモーツァルトの生涯と音楽における三つの大きな出来事をあげることができると思うのです。一つは母の死、二つ目はコンスタンツェとその後の新しい生活、そして三つ目は父レオポルトの死。あとのことは全部枝葉だと思います」【上記の感想】これは、ピアニストの内田光子が1991年に語ったことだそうです。肉親の死や妻との出会いが大きな影響を与えたようです。今は細かいことを書きませんが、機会があったら、もう少し書いてみたいです。【この本からの引用】現在、クラシックと言われる世界に留まっている限り、私達はまず、「現代作家の手になる新曲が欲しい」とは思わない。現代の作品に対する好き嫌いは別として、アマチュアの音楽愛好家にとっては、生涯かけても弾き尽くすことの出来ないほどの名曲の数と量があるからである。【上記の感想】現代を生きていると、250年前も多くのクラシック音楽があっただろうと思ったりもする。が、ちょっと考えれば、そんなはずはないわけです。当時の音楽の需要家(主に貴族)というのは、新曲を求めたという。もちろんそうでなければ、今のようなおびただしい数の名曲が残るわけがない。であるならば、お金と暇をもてあましていたと思われる当時の貴族に、私達はある意味感謝をしなくてはならないようです。
2008/05/23
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲第35番ニ長調K.385は、1782年に作曲された交響曲。『ハフナー』(Haffner)という標題を持つ。標題のハフナーとは、ザルツブルクの大富豪の名前であり、彼らのために献呈された曲といわれる。また「ハフナー」という名前の曲は2曲ある。(ウィキペディアより)【上記の感想】モーツァルトの交響曲35番「ハフナー」を聴いた。何度も聴いている曲である。手元の事典によると、この曲を作るのに、最初は乗り気ではなかったらしい。が、だんだん気合いが入ってきたようで、2週間で完成させたらしい。いつもながらの早業である。
2008/05/22
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古典派においては、モーツァルトによる2曲が出色であり、すべてのフルート協奏曲の中で最も演奏機会が多い。なお、第2番 ニ長調 K.314は先に作られていたオーボエ協奏曲 ハ長調を長二度上に移し換えたものである。(ウィキペディアより)【上記の感想】フルート協奏曲第2番を聴いた。関連日記は、こちら。聴きながら調べたことだが、モーツアルトはフルートという楽器が、あまり好きではなかったようである。それから、フルート協奏曲の1番と2番は、商人でフルート愛好家のフェルディナン・ド・ジャンに依頼されて、作曲されたとのこと。今回聴いたのは、オーレル・ニコレ(フルート)のアムステルダム・コンセントヘボウ管弦楽団。1978年6月23~24日。
2008/05/18
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タイトルの本の読後感を書いておきます。この本は、2006年5月に発行されました。初出は2002~04年にかけての「新潮」とのこと。著者は1922年生まれの方なので、執筆時の年齢80歳位ですか。御活躍されております。この本の第10章には、神学者カール・バルトが登場します。バルトもまたモーツァルトを崇拝した一人であったようです。初めて知ったことゆえ、書きとめました。
2008/05/15
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PHILIPS 416-381-2モーツァルトピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467内田光子(ピアノ)イギリス室内管弦楽団指揮:ジェフリー・テイト録音:1985年10月7日~10日、ロンドン、ヘンリー・ウッド・ホール【上記の感想】上記は、過日聴いたCDの情報である。21番の第2楽章は、清澄さと愁いをあわせ持つとか、高貴な感情と荘重な精神を示しているとか、ものの本には書かれている。なかなか表現力があります(・_・;)
2008/05/14
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内田 光子(うちだ みつこ、1948年12月20日 - )は、静岡県熱海市生まれ、イギリス在住の日本人ピアニスト。オランダ・フィリップス社所属。2005年文化功労者。(ウィキペディアより)【上記の感想】モーツァルトのピア・コン20番と21番を聴いた。内田光子(ピアノ)のイギリス室内管弦楽団である。内田光子は名前しか知らなかったので、調べておいた。
2008/05/12
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ものの本によると、20番は好きな曲の1番に挙げられる曲だという。好きな曲というのは、モーツァルトの曲の中で好きな曲は何かという質問に対しての返答であるが。本日、20番を聴いてみた。1939年のNBC交響楽団(ブルーノ・ワルター指揮)である。
2008/04/21
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古典派においては、モーツァルトによる2曲が出色であり、すべてのフルート協奏曲の中で最も演奏機会が多い。なお、第2番 ニ長調 K.314は先に作られていたオーボエ協奏曲 ハ長調を長二度上に移し換えたものである。(ウィキペディアより)【上記の感想】上記は、フルート協奏曲について書かれた部分。先日、モーツァルトのフルート協奏曲第2番の第1楽章を聴いた。私の鑑賞耳などは全くあてにならないものなので、感想は明解に一言。良い曲である!この曲のエピソードが中々面白い。この曲は作曲を依頼されて作ったものだが、納期に迫られ先に作られたオーボエ協奏曲をアレンジしたものらしい。それに対して、依頼主は報酬を約束の半分位しか払わなかったとか。そんな曲だが、これが今でも残っていることが素晴らしい。
2008/03/11
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トルコ行進曲(とるここうしんきょく)は、西欧の作曲家が、西欧人がトルコと呼んだオスマン帝国の軍楽隊の音楽(メフテル、またはトルコ音楽を参照のこと)に刺激を受けて作曲した行進曲である。以下の2曲が有名。【上記の感想】上記は、ウィキペディアより引用。「トルコ行進曲」について書かれた部分である。古典派の巨匠、モーツァルトとベートーヴェンの双方に、同じ題名の曲があることに、以前より不思議な思いがしていた。改めて調べてみると、18世紀のヨーロッパでは、トルコ趣味が流行だったようだ。詳細は良くわからぬが、トルコとはオスマン帝国を指していたとのこと。しかし、巨匠2人が同じタイトルの作品を残しているからには、時の経過とともに消えてしまった数多のトルコ関連の曲があったと想像される。当時の歴史を少々知りたくなってきた。
2008/02/27
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