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雪香楼箚記
恋(5)_夜もすがら
花 山 院
夜もすがら消えかへりつるわが身かな涙の露にむすぼほれつつ
一晩じゅう死んでしまいそうな気持で過した私です、涙の露で心がふさがれたようになって、の意味。花山院は、三番目の勅撰集である拾遺集を編輯したと伝えられる平安中期の天皇です。
全体として品のいいおっとりとした趣の歌です。天皇御製、つまり、帝王調の作であるのと同時に、時代的なものもあるでしょう。ひと昔まえまでは、万葉集が素朴で、古今集が理知的、言葉遊び的、という評価で語られることが多かったのですが、現代では、むしろ、万葉後期の歌(大友家持ら、編輯者と同世代の作品)は古今集につながる、素直な感情を理知的に詠みあげる歌風という説が一般化しています。古今集の歌が、言われているほど技巧的なものではなく、意外におっとりした、古代歌謡的な純朴さと明快さを含んだ作が多いことはあまり知られていませんが。いわゆる八代集―二十一ある勅撰集のうち、平安から鎌倉初期にかけて成立した八つの歌集―のなかでは、最初の三集、つまり、古今集、後撰集、拾遺集がひとつの時代を成しています。いずれも、上で述べたような、のびやかで明るい歌風をよく体現したもので、例えば、新古今集の複雑な芳醇さ、あるいは頽廃美とは好対照を成していると言えるでしょう。(ちなみに、鎌倉時代にいたるまで、公家のもっとも基礎的な教養は、この三冊の歌集に収められた和歌を暗唱し、必要な場面ですぐに思い出せるようにしておくことでした。)
こうした事情がありますので、ぼく個人の意見としては、古今集、後撰集、拾遺集の歌は、とくに恋歌にいいものが多いと考えています。素朴な感動というのは、やはり四季の叙景歌では、精緻で複雑な表現にはどうしても見劣りがしますが、恋歌に関して言えば、言うに言われない、純情でうぶな趣があって非常にいいものです。そして、この点に関しては、新古今集の撰者も同意見だったのでしょうか、巻十五恋歌五の部には、万葉から古今、後撰、拾遺時代の歌人の作、あるいは伊勢物語や古今和歌六帖(古今集の前に成立した古い私撰歌集)などから、古い恋歌がたくさん収められています。
さて、この花山院の歌ですが、趣向としては、自分を露に例えて、消えそうだ(死にそうだ)と言っているのですから、よくある恋歌の型で、さして珍しいものではないといえます。それでは、この歌のどこらあたりに秘密が隠されているのでしょうか?
ひとつは、初句においた「夜もすがら」という言葉ですね。一晩じゅう、という意味の古語ですが、よく考えてみると、これは相当に大まかな言葉といえるでしょう。そもそも「ひと晩じゅう」という状況設定では、あまりに時間が限定されなさすぎて、読者のほうでとまどってしまうくらい、イメージの伝達度がわるくなってしまう畏れがあります。いくら和歌でも―すくなくとも定家ならば―ここまで大まかな言葉では詠まないはず。
でも、じつはそこにこの歌の秘密が隠されているのです。
俵万智が随筆に書いているのですが、佐佐木幸綱(俵万智の先生ですね)が祖父の信綱から聞いた話として、こんなのがあるとか。信綱は当時を代表する大歌人でしたので、あるとき昭和天皇の和歌集の編輯委員になったのですが、そのときこんな感想を漏したのだそうです。「御製のなかに、『来てみれば……』という歌いだしの作品があったが、こんなおおどかな作品は、我々には作れない」。―これはもちろん、信綱の皮肉ではありません。職業歌人としての自分が持ってない歌の味いを、素人っぽい(帝王調の)昭和天皇の歌が持っていて、それが、「来てみれば」という歌いだしに典型的にあらわれている、ということなのでしょう。
この、「来てみれば」というのも(たしか、和歌山の潮岬の歌だったと思うのですが、今、どうしてもつづきが思い出せません)、えらく大まかな歌い出しです。職業歌人がこんなふうな歌を詠んだら、まあ、物笑いの種でしょう。なにしろ、「実際に来てみると、和歌山の潮岬はこんなところだった」というのですから、まるで小学生の作文のような歌です。ところが、それを、昭和天皇は一種の名歌にしてしまったのですね。それではなぜ、信綱にできないことが、昭和天皇にできたのか? もちろん、和歌という形式が、古くから確立した文学ジャンルだから形式のちからが技量を補う、ということもあるでしょう。でも、それ以上に、ぼくは、和歌に対する身構えの違いではないかと思うのです。信綱にとっての和歌は飯の種ですが、昭和天皇にとっては和歌はそう大したものではない。歌会があって、詠まなきゃならなくて詠んでるだけで、信綱のように所帯を張っていくためにいっしょうけんめいになってやっているものではない。その分だけ、彼には気負いがないから、和歌に対して素人でいられるのですね。つまり、不必要な身構えや気負いがない。だから、平気で禁じ手のような詠み方をして名作をものする。
つまり、それと同じ事が、花山院のこの歌、とくにこの歌いだしにも言えるのではないでしょうか。もちろん、花山院は昭和天皇とは比較にならない歌人です。歴代の天皇のなかでは、実力といい、和歌への造詣や教養の深さといい、ば群を抜いています。けれども、それでもやはり、花山院の作品には、いい意味での、職業歌人でない「らしさ」が出ていると言えるでしょう。
そもそも、上にも書きましたが新古今歌人くらいになると、「夜もすがら」などという言葉はあまり使いたがりません。歌が大味になるのを恐れているのですね。実際のところ、この花山院の歌が扱っているのは、一晩というかなり長い時間帯です。それに対して、新古今歌人たちは、例えば、恋人を待つ夕暮の一瞬とか、明け方の別れのひとときとか、もっと限定的な長さの時間、あえていえば「瞬間」を題材にすることが多いのです。彼らは時間を限定的に切りとることによって、その瞬間にこめられた情感をさらに深く追求し、そこにドラマツルギーをはっきりと目に見えて対峙するかたちで造形しようとします。それに対して、この花山院の歌は、そこまでの劇的対立もなく、感情と言うよりは、ごく淡い感想のようなものを言っているのにすぎません。―しかし、その淡々とした感想に、一種、捨てがたい趣がある。
そのことは、例えばこの歌の「消えかへりつる」という表現を見てもわかります。かへる、というのは、つよめの補助動詞で、この場合は字数をあわせる必要もあって挿入されたものでしょう。あえてこの動詞の意味を出して訳せば、「ほんとうに死んでそうなくらい」という感じになるのでしょうが、それ以上のものではありません。しかし、ここで「かへる」のひとことがあるのとないのとでは天地のひらきがあるといえます。
この歌は、要するに「あなたに逢えない」という、ただそのことだけを詠むための歌です。私はこれほど思っているのに、あなたに逢えない。そのことがどれだけ苦しいことなのか、それをあなたに分ってほしくてこの歌を詠んだのです、という作なのです。つまり、極度に主観的な歌であって、その証拠に、この作品はちっとも作者の恋人の姿を我々に想像させてくれません。どうして彼女に逢えないのかもわからないし、どんな事情がふたりのあいだにあるのかも分りません。そういうことには、作者はいっさい口をとざして、ただ逢えないとだけいっている。
それは、この歌がおそらくは贈答歌(あるいは贈答歌であるという設定で作られた歌)だからであろうことは簡単に推測できます。ふたりのあいだでやりとりするものであれば、逢えない理由などをことさら詠みこまなくても互いによく承知しているわけですから、そういうよけいなものははじめから無視してしまうのです。我々読者は、あくまでも第二の読者(第一の読者は、むろんこの歌を贈られた恋人)であって、言うなれば彼女のおこぼれにあずかって花山院の作品を読んでいるわけですから、そういう事情を知ることができないのがもどかしく感じるわけですが、すくなくとも、そのことは、歌の贈答にさしあたってはまったく関係なかったわけです。
これは、見方をかえれば、恋愛というものの本質をついているといえるのではないでしょうか? 恋愛は、人間の内部のドラマであって、外部とは遮断された世界のなかで生れゆくものです。もちろん、恋愛の対象は、つねに人間の外側にいるわけですが、我々はしばしば、対象をみずからの内側に取込んでその像を愛しているということがあるのではないでしょうか。―そもそも、人間は、いったい相手のなにを愛しているというのでしょう? ある人は容貌といい、ある人は性格や人間性といい、ある人は才能というでしょう。しかし、我々はそれを愛するとき、ほんとうに外側にあるものとして、これらを受取っているのでしょうか。もし、そうだとすれば、人間は目の前にあるものしか愛せないということになります。
また、こうしたレベルを離れて考えてみても、恋愛は人間の感情に発するものであるわけなのですが、こうした精神的世界に属する事象に対して、それより低次元にある外的な情勢は変化を与えることはできません。具体的に言えば、例えば「戦火に引裂かれた悲恋」というのは存在しないのです。どんな事情があろうと(例え相手が死のうと)、恋愛が感情の変奏である以上は、みずからの気持がある限り恋愛状態はつづきます。逆に言えば、恋心を断つものは、みずからの気持でしかありえない。外的、形而下的状況は、たしかに間接的には恋心に影響を与えるでしょう。しかし、直接的に恋愛の生死を左右するものは、やはりみずからの心なのです。
つまり……、結論として言ってしまえば、恋愛は内面的世界だけで完結するものであって、外的事情はほとんど関係ない。関係があるとすれば、外的事情によって内的事情が影響された場合のみである、ということなのです。例えば、「相手が浮気をしている」という客観的事実は、恋心に影響を与えません。それがさまざまなかたちで心の内側に取込まれ、嫉妬や不安といった感情が生れたときに、はじめて恋心がぐらつきはじめるのです。それは、もっと大規模な形而下的情勢(彼が遠くに引越して遠距離恋愛、あるいは、戦災で恋人と生き別れ、など)でも、基本的には変りません。
そうすると、恋愛というものは、あるいは、恋愛詩というものは、おのずから、人間の内部のみにやどるものになってしまうのではないでしょうか。つまり、恋愛には、対話やつぶやきはあっても、第三者の声や視線は存在しないのです。そんなものはあろうがなかろうが、本質的な影響はおこらない(ただし、もちろんのこと表層的な影響はあり得ます)。つまり、彼らはふたりのあいだの事情を説明する必要を認められないのは、恋愛の基本的な性質が、外的要因を拒否するものであるからにほかならない。―そして、そうした「説明」の代りに歌の中心をしめるのは、ひとつの感情と、その感情をめぐって余韻のようにひろがってゆく心のゆらぎなのです。つまり、それこそが恋愛というものの本質だからといってもいいえしょう。
この歌で言えば、その心のゆらぎをみごとに表現したのが、ここの「消えかへりつる」という言葉なのです。逢えなくて悲しい、という感情は、この歌を読むだれもが理解してくれる。しかし、それだけでは必ずしも、本質的な部分、つまり、作者の心のうちを伝えたことにはならないのです。悲しいという感情をのみこの歌から読みとるのであれば、それは、要約にすぎず、内面的なものを客観的な言葉で「説明」したにすぎなくなってしまいます。しかし、そうやって得られるものは、恋愛でも、恋愛詩でもない。恋人に、あるいは詩人に求められるのは、感情を説明することではなく、感情をあるがままに切りとったものをいかに美しく見せるか、ということなのです。ある感情を、自分の心のなかにあるように、相手の心に存在させてこそ、詩における、恋愛における、「伝える」という行為を完成させたことになるのです。なぜなら、そのときはじめて、外側にあった恋人という対象と、みずからの内部がひとつのものになるのですから。そして、それは詩にあってもおなじこと。詩人はなによりも、読者の心のうちに、みずからが見たのとおなじ美しさを再現し、存在させなくてはならない。
かへりつる、には、意味といえるほどの意味はありません。しかし、意味がないからこそ、消えるという言葉に重ねるだけで、それは、説明を超えた詩になってしまうのです。我々は、意識の上には「かへりつる」の意味を計上せずに読んでしまう。けれども、無意識のうちに、この一言で調子をつくっている第二句のうちに、「この死にそうな想いがどれほどのものかご存じですか……」という作者の無言のニュアンスを得るのです。それは、表だって意味を持たず、「説明」という行為から逃げだした言葉であるからこそ、はたしうる機能なのではないでしょうか。
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