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雪香楼箚記
桜のうた(6)
藤原定家
桜色の庭の春風跡もなし訪はばや人の雪とだに見ん
桜いろに染まった庭の春風も今はあとかたもなくなっている。風のなかに舞っていた花びらが地上に散りしいて、もし人がたずねてきたら雪だとさえ思うかもしれないほどだ。
桜色の庭の春風、という二句の置き方が秀抜。この歌の前に
後鳥羽院
1) み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけぼの
の詠があり、「嵐も白き」と見事な対象をなしています。後鳥羽院の作は躍動する花の嵐を詠んで気韻生動の趣がありますが、むしろ定家のこの作は春風のなかにゆらゆらと桜がたゆたうような風情。だからこそ桜色という言葉が利いています。豪壮さはないけれど、艶麗で優雅。庭の春風というつながり具合もおもしろく、新古今で多用されるノの重ね方が直截な荒々しさを避けて、いつ風が吹いたのだろう、風なんか吹いていたのかしら、というほどの鷹揚さになっているあたり、作者の力量をつくづくと納得させられます。庭の、の一語があるだけで、桜色の春風、とするよりもはるかににおやかな風趣が歌のなかに含まれるようです。ちなみにこの歌のあと、
後鳥羽院
2) 今日だにも庭をさかりとうつる花消えずはありとも雪かとぞ見よ
藤原良経
3) さそはれぬ人のためとや残りけん明日よりさきの花の白雪
式子内親王
4) 八重にほふ軒端の桜うつろひぬ風よりさきに訪ふ人もがな
惟明親王
5) つらきかなうつろふまでに八重桜訪へともいはで過ぐる心は
と二組の贈答歌が連続します。返歌の際には、かならずもらった歌に出てくる題材や趣向を用いるのがしきたりですから、自然と贈答歌の二首は主題と変奏というかたちになるのですが、おそらく後鳥羽院と定家の作がつづけてこのように置かれているのは、あたかも両者が贈答歌のように見立てられるほど似た風情を持っていると撰者が考えたからではないでしょうか。嵐も白き、と、桜色の庭の春風、にはそんなことを思わせるだけのものがある。この点については、また後で触れることになると思いますが……。
本歌があります。古今集と伊勢物語にある業平の歌。
在原業平
6) 今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや
定家とはまた趣のちがった男ぶりのいい詠みくちで、彼の特徴がよく出ています。今日来なければ明日には散ってしまう、消えうせずに残っていたとしてもそれは花ではないのだ、雪なのだ……。むろん雪なのだ、というのは、花が冬の空に舞うもののように散ってしまうことを言ったものであり、その意味においてはこの歌は古今ぶりの機知の作です。しかし、それだけではない。それだけであるとすれば、この歌は歌ではなく、あるいは詩でもありません。単なる機知と歌を分かつその一線は「今日来ずは明日は」というその二句にあります。歌を写実であると考えれば、この二句は単なる嘘に過ぎない。明日になろうとも花がことごとく散ってしまうわけではないからです。しかし、その、今日でなくてはならない、明日ではだめなのだ、という焼けつくような焦燥感、理もなにも通らない幼子のように純粋で烈しい心、そこに歌びととしての業平のこころがある。あるいはこの歌の詩がある。理屈ではなく、論理でもないのです。今日見なくともいい。そのことは常識的に考えればわかる。明日散りのこっている花もあろう。消えずはありとも花と見ましや、というのは理屈のようでいて理屈ではありません。いや理屈にすらなっていない。子供のへりくつのようなものです。これは相手を説得するための論理ではなく、みずからの胸のうちにある衝動的な決めつけ、心のはたらき、花を想うあまりに押さえきれない気持を、ただ言葉として吐きだしたものに過ぎない。健全で、穏健な常識からはほど遠い思いこみであり、ひとりよがりです。しかし、そうした健全さや穏健さによっておさえきれない思いこみやひとりよがりこそが、同時に詩でもある。いや、この場合には詩になっている。歌のこころがそこから生れてきている。
業平が言おうとするのは、今、この時間に花に合わなければ意味がないのだ、というただそれだけのことです。この歌は初句においてすべてを言いつくしている。明日は雪とぞ降りなまし、など、消えずはありとも花と見ましや、など、どうでもいい。業平がそう詠んだのは、単にみじか歌という形式が三十一音であって五音ではなかったからです。今日来ずは……。ただそれだけ。だれにとっても理解できない業平と花との関係。業平のなかでだけ意味を持つつながり。今という時間、花という対象、そして私という主体、その三つがひつとつにむすばれる瞬間にすべての意味が生れる。業平にとって雪は何の意味をも持たない。だからこそ、消えずはありトモ、と条件節によって導かれた仮定をすら、逆接で承けているのです。あったとしてもそんなものがどうなろうか。そんなものが花といえるだろうか。ヤの反語の心がいさぎよくすべてを拒絶している。雪になど用はない。私が求めているのは花のすがただ。それこそがこの歌のすべてです。――時間性のなかで花をとらえようとする趣向は
在原業平
7) 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日の今宵に似る時はなし
のように業平という歌人においてはしばしば試みられた手法ではありました。しかし、「今日の今宵」でさえもこれほどの烈しさを持つことはなかった。今しかない、今、私が花に逢うことに意味があるのだ、という理由のない、しかし激越な思いこみ。その詩情は「花にあかぬ」の歌にはない。なぜか。業平の持っている焦燥感は、本来万人にとっての意味のあるものではないからです。彼が幻視し、求めている「意味」はまったく普遍的ではない。むしろ、限定された、業平にだけ、あるいは業平に共感できるごく少数の人間にだけ価値を持つ、きわめて個別的な存在にすぎない。花にあかぬ嘆きはだれでもすることでしょう。しかし「今日来ずは」の歌のなかには、惜花の情といっただれしもが感じる心のはたらきをきっかけに、作者の世界のなかへ読手をいざなってゆく、といった工夫はみじんもない。ただたたきつけるように心のうちにあるものを詠みくだしたにすぎない。きわめて個人的なこころ。だれともつながらず、ただ孤独に花を今このとき飢えるように求めるこころ。……しかし、そのゆきつく先にふしぎなほどひろびろと世界に向ってひらかれた詩情を感じるのは、いったいどうしてなのでしょうか。
さて、桜色の庭の春風跡もなし、というところまでは、すべて過去を思うことばです。花の嵐さえもはやむかしのこととなってしまった。あれほど惜しんでいた桜でさえ、もはや取りかえしのつかない、手のとどかないところへいってしまった。むなしさ、喪失感。なにもかもが終ってしまった後の深々とした感慨。哀しさとも違うし、感傷でもない。なにかが手のうちからこぼれ、そしてなくなってしまったという実感です。後鳥羽院によって提示された主題が、定家によって変奏へとかわる。無常にも時間は過ぎさり、花はもはや戻らない。その光景を前にして、なにか言いがたい思いを歌人は心のうちに感じる。だからこそ「跡モなし」なのです。跡はなし、でも、跡ぞなき、でもない。跡すらない。なにもない。すべてがなくなった、すべてが過ぎさった。そういうことです。桜色の春風は、きっと信じられないほどに美しいものだったのでしょう。花びらが空に満ちて、風がうす紅に染まる一瞬。過ぎゆく春の豪奢な景色。それは後鳥羽院の歌を詠めばじゅうぶんにわかることです。しかし、定家はそれを言わない。彼はそれを言葉のむこう側にそっとにおわせるだけです。だからこそ「嵐も白き」という描写ではなく、「桜色の」という言葉の美しさが必要になってくる。これは現実の再現ではなく、現実がどんな美しい手ざわりを持っていたか、その手ざわりに人々がどれほど陶酔したか、その手ざわりや陶酔を再現しようとする試みであり、それが言葉のむこう側でにおやかにたゆたっているものにほかならないからです。この歌の上の句にあるものは、美しさではない。美しさの記憶に過ぎない。主題と変奏。実景は記憶へと転位し、白いという叙述は桜色の叙情へと高められる。その底にあるものは、所詮すべては終ったという切ない覚悟と、その覚悟のなかに立って美しかった過去への思いを捨てきれずにいる人間の未練なのです。過去とはただ過ぎさった彼方のことではない。それはつねに未練の情を別にしては考えられない存在なのです……。
そうであればこそ、この歌において下の句が意味を持ってくる。定家は「人の雪とだに見ん」と言います。人はこの花を雪とも見るでしょう。花が嵐となり、あけぼのとなるのが後鳥羽院の歌であれば、この定家の作に至ってさらにそれが雪になる。しかしその雪とはいったい何であるのか。王朝和歌において桜は白いものであるというのが約束事ですから、
康資王母
8) 山桜花の下風吹きにけり木のもとごとの雪のむら消え
承均
9) 桜散る花のところは春ながら雪ぞふりつつ消えがてにする
のように雪に例えた歌は決して少なくはないのですが、こうした歌は共通して雪を消えゆくものとして扱っています。いずれはかなくなるもの。それが散花の風情とまことによく似合っている。この歌とて例外ではありません。雪となった庭の桜もいずれはどこかへ消えてゆく、という思いが言外ににおわされている。このことを見落しては一首の心を読みとくことはなかなかむつかしいでしょう。
花はもはやない。花を散らした春風すらない。今、花は雪となってわたしの眼前にあるが、それさえも永遠ではなく、いずれは消えてゆくはかない存在に過ぎない……。すべては消え、すべてはうつろってゆく。そのなかで残るものはいったい何であろうか。――歌の奥底に消えいるほどのかすかな声でひびいているのは、そういうつぶやきです。すべては過去となった、という嘆きが上の句であるとするならば、下の句は、今という時間、現在という存在でさえも、刻々と過去のなかに組みいれられてゆくことを拒否できない、その無常さを言うための言葉であると考えるべきなのでしょう。そこにまた、業平の歌のこころもあるといっていい。だからこそ「訪はばぞ人の雪とだに見ん」なのです。尋ねる人は雪と見るであろう、とは単なる機知ではありません。ここに描かれているのは時間と人との出逢いのかたちなのです。だからこそ訪はばゾでなければならない。ゾは強意をあらわす語です。訪う人こそは、訪う人こそが、雪とさえ見るであろう。なぜそこに強意があらねばならないのか。雪と見ることと人との関係において、訪うということがつよい意味を持っているからです。尋ねる人に「は」雪に見えるであろう、そのほかの人の目にどううつるかはわからないが……。この歌はそう言おうとしている。ここに尋ね、庭に散りしいた花をその目で見るからこそ、それを雪だと人は知る。その人と花とのつながり方においてのみ、花は雪へと転位し、この歌の詩情がはじめて可能になる。定家はそう言っているのです。
なぜ訪う人にのみ花は雪となるのか。それは第一にこの歌が業平の作をふまえているからです。本歌取りとはただ字句を借りることではなく、本歌の持つ世界をより豊かに、そして新しいかたちで歌のなかに生かすための技巧であり、その意味において「今日来ずは」の歌の世界はまさしく定家の作のなかに生きているといっていい。この桜を見て心を苦しめている歌びとがいる一方で、のんびり明日にでも見にこようかと訪う人もいる。業平の言う「消えずはありとも」とは、そののんびりした、世間凡百の人間に対する苛立ちです。それを定家は一ひねりして歌のなかに用いている。昨日、あの桜いろに染まった花の嵐を見ることなく、今日やってきた人は、これを花ではなしにただ雪だと思うだろう。業平の焦がれるような心は遠景へとしりぞき、一首の中心は物憂いような定家のあきらめへとうつっています。だからこそこの歌は「今日来ずは明日は雪とぞ」の二句を言う必要がなかった。花を雪に見立てる趣向を受けつぐだけでなく、業平の歌に込められていた情をみごとに探りあて、しかもそれをいかにも定家らしい手法で描きだしています。これこそ新古今ぶりの本歌取りでありましょう。
しかし「訪はばぞ人の」はただそれだけを言うためのことばではありません。我々はここに、もうひとつ踏みこんだものを読むことができる。そしてそれこそが定家と業平の歌をつなぐ一条のこころでもあるのです。業平が歌のなかに言おうとしたのは、人が花に出逢うということのふしぎでした。そして両者の切りむすぶような烈しい関係の彼方に、はじめて人が花に逢うことの意味が生じるのだという切実な思いでありました。「今日来ずは」の歌における、今という時間、花、そして業平自身の極度に個人的なむすびつきは、そうした切実な思いを背景にして成立しているものです。そしてその三者の関係の微妙さは、刻々と過ぎさってゆく時間のなかで変転を繰りかえし、一瞬のうちに関係そのものが意味をうしなって死んでしまう、という点にあります。ことに今という一瞬が持っている意味がひじょうに重い。歌をつらぬいているのは、今でなければ、という歌びとのあがきです。今でなければ、花の意味は自分にとって違ったものになってしまう。そのことに対する焦燥。具体的には花が雪へと変転してしまうことだと歌のなかでは明示されていますが、このことは必ずしも字義どおりに取る必要はないのではないかと思います。すくなくとも歌のもうひとつ背後にあるものについて考える場合には。重要なのは、花が、今のこの瞬間を逃すと、自分には意味のないなにものかに変質してしまう、という、その恐怖感です。その恐怖感があるからこそ、業平はこれほどに花を求め、一瞬のつながりのなかに意味を見ようとしているのです。
定家の歌のなかにはその焦燥感がありません。すくなくとも表立ったかたちではあらわれていない。その理由はさまざまに考えることができますが、もっとも直接的には、彼がそのことを言葉のうえであらわさなかったからです。業平がほとんど全否定に近い拒絶を以て遇した雪を、定家はニュートラルな対象として歌のなかに詠みこんでいる。訪はばぞ人の雪とだに見ん、という下の句からは作者のいかなる価値判断も聞こえてきません。ただ、ここに今日来た人は雪と見るだろう、というあたりまえの想像があるに過ぎない。――それでは、定家は業平が花とのあいだに見出した一瞬のつながりを拒否したのか。いえ、決してそうではないのです。むしろ、この歌のなかにあるのは、業平以上にただひとときのむすびつきのなかにすべてを賭けようとする定家の静かな決意です。
訪はばぞ人は雪と見るだろう。そのむこう側にあるのは、訪う人とは別なまなざしを持った人物の存在です。昨日、花の嵐を見たわたしは、これをただ雪とは見まい、それが桜いろの春風となった一瞬を知っているのだから……。彼はそう言う。風を染めあげたものも、地に散りしいたものも、いずれも花にほかなりません。業平はそれが枝に残っている一瞬に意味があると見た。彼のなかではそれこそが花であると思ったからです。定家は、その業平の《花》が《風》にもなり、《雪》にもなる、という瞬間を描いてみせた。ふしぎなことにこの歌は落花を詠みながらいちども桜そのものが出てきません。花という言葉もでてこない。あるのは修飾語としての桜色だけです。そのかわり、風となり、雪となるなにか白いものの彼方で桜のイメージが明滅している。そして、その、風となり、雪となる一瞬一瞬に、人はなぜか心を奪われてしまうのだ、という深々とした感慨が静かに漂っている。この歌の心はそこにあります。これは桜を詠んだ歌ですらない。桜であったものが、あるときは風となり、あるときは雪となって、しかもその瞬間ごとに意味を持ったものとして人の心とむすびつく、その奇跡。業平が見たのもまさしくその奇跡にほかなりません。それを彼は極度に個人的な体験として語ろうとした。わたしにとって意味のあるのは花が《花》である一瞬だけだ、と。だれもわからなくていい、そのとき花と一瞬だけ交錯したこの心のふるえは、わたしがいちばんよく知っている、と。わたしにとって、花は《花》であることにおいてのみ意味を持ち、《雪》でも、《風》でもあってはならないのだ、と。
定家は、そうした業平の「個人的な体験」を拒否します。やわらかく、しなやかに。業平の歌は、ある奇跡の体験を、極度に個別的な、非普遍的なものとして描くことによって、焦燥の熱度を高め、かえって普遍的な世界へとひらいてゆくという方法を採りました。しかし定家はむしろ、輪郭線を曖昧にぼかすことによって、一般解としての「私―今―花」の関係を抽象的に描こうとした。花の項に代入されるべきものは、業平において《花》に限定されていました。しかし定家は《風》であっても、《雪》であってもかまわないのだ、と言います。なんでもかまわない。歌のこころはそういうところにはないのです。そうではなくて、代入された数値によって変位し、変転してゆく「私―今―花」の関係性のなかになにかが見えてくる。それを歌うためにこの歌はあるのです。
一期一会、というのはついにそういうことです。この歌は花と人との出逢いのなかにそのことを言おうとしているのかもしれない。今、というあまりにも限定された一瞬を背景に、わたしという主体と対象とのあいだに成りたつ意味を見ること。むろん、それは刻々と「今」という瞬間が変転してゆくにつれて、すぐさま過去の死んだものとして時間のなかへ繰りこまれ、過去へと押しやられててゆきます。永遠ということはない。孔子は「ゆくものはかくのごときか、昼夜をおかず」と言いましたが、その「ゆくもの」のなかにあって、一点に過ぎないある時間に固執することはまことに愚かです。しかし人はその愚かさを繰りかえさなければ生きてゆくことができない。一点に固執することで生れてくる関係性が永遠につづくことはありえない。しかしその関係性を見出すことによってこそ、人は生きるということの奇跡に気づきうる。個別の解に固執してはならない。解のひとつひとつに意味などありはしないのです。ただ、そのむこう側にあるなにものかを見据えることで、人は生きることの意味を知りうる。個別の解に固執するのであれば、業平のように徹底的にそれにこだわり、やはりその彼方に一般解のすがたを見るほかはないのです。
時間とは一体何であるのか。それは永遠につづく「今」の反復にほかなりません。永劫回帰。究極の無意味さ。卑小な自己。存在しない終焉。その時間のなかにあって、人は無意味に、有限の生を背負わされて生れてくる。人間のいのちには、意味も、価値もないのです。永遠の時間のなかで数えきれないほどの人が生れ、死んでゆく。だれもが取りかえのきく生を送っているのにすぎない。そのなかにあって、人が今生きているということの意味、生きているという奇跡の価値を、もし感じうるとすれば――単なる誤解でなく――、それは時間のなかにあって、「今」という瞬間にあって、主体と対象のあいだに成りたつ意味を信じるだけの、信じられるだけのなにかが、その人の心のうちにはっきり存在しているからなのではないでしょうか。人間の存在すべての意味や価値を保証してくれるはずだった神が死にたえた時代において、しかしそれでも人が確信しうるのは「今」という一瞬の意味にほかなりません。ヨーロッパの人々は二度の戦争の惨禍を経てそのことに気づいた。しかし絶対神を知らなかった我々の祖先は、すでに定家の時点においてそのことをやわらかに意識していたのです。サルトルの言うアンガジュマンとは、きわめて形而上的な意味においては、一期一会ということにほかならない。
個別の解は所詮瞬間においてその意味を発揮し、そして瞬間ごとに消えてゆかねばならない運命を持ったものですが、その連鎖のうちにもし一般解を見出すことができれば、人は永遠につながることができる。直線が連続する点であるように、永遠の時間もまた瞬間の積みかさねに過ぎないからです。――つまるところ、この「桜色の」という歌は、花ではなくて、花を見ている人の心のうちに、その隠れた主題があるのではないでしょうか。一瞬一瞬うつろってゆく花と、そのうつろいのひとつひとつについて、一期一会の関係をむすぼうとするやさしい心。細分化され、変位してゆくすべての瞬間と、真摯につながり、意味を見出そうとする歌びとの試みは、そのままこの生を肯定し、ふるえるような繊細さによってその奇跡をかみしめる心でありましょう。
花が《花》であり、《風》であり、《雪》である一瞬を、いのちを賭けて愛しようとする、その、こころ。
【引用歌註】
1) 桜のうた(5)参照。
2) 落花のさかりと言わんばかりに庭に散る花をあなたに贈るので、明日どころか今日であっても、また、消えずに残っていたとしても、(業平の歌のように)雪だと御覧になってください。
3) わたしのようにお誘いのなかった者のために残っていてくれたのでしょうか。この、(業平の歌のように)「明日」よりも前であるのに白雪となってしまった桜の花は。(2)(3)はいずれも(6)に引く業平の歌を本歌としている。後鳥羽院が宮中で花見を行ったおりに、良経にその花びらを贈った際の贈答、と詞書きにある。
4) 八重に咲きほこる軒ちかくの桜もさかりを過ぎてしまいました。風が花を散らしに来るよりも前に尋ねてくる人はいないものでしょうか。
5) 八重桜がさかりを過ぎるまで、おいでくださいとも言ってくれずにほうっておいたあなたのお心は、なんと思いやりのないことでしょうか。(4)への返歌。恨みごちているのは恋歌めいた作だから。恋歌での返歌は、あいてをなじったり、言いまかしたりする類の歌であらねばならない。ただしこの作、決してうまくはない。
6) 今日来なければ、明日には雪となって散りさってしまうことでしょう。消えずに残っていたとしても、どうしてそんなものを花であると思うことができましょうか。
7) 桜のうた(3)参照。
8) 山桜の花の下を風が吹くと、花が散ってひと木ごとに消えのこる雪のようなありさまになることよ。
9) 桜の散るあたりは、春であるのに雪がふりながら消えそうな趣であることよ。
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