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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN
2004年新春対談他
日露戦争開戦100年対談 岡崎久彦氏・半藤一利氏(3-1)
動かぬ米英 「覚悟」の日本
明治の日本が国運を賭して大国ロシアに挑んだ日露戦争(1904-5年)は、今年開戦から100年を迎える。東洋の小国による戦勝は、清朝打倒をめざす孫文ら中国の革命運動などアジアに覚醒(かくせい)をもたらす一方、満州の権益を手にした日本が大陸へとのめり込む運命の岐路となった。節目の年にあたり、元駐タイ大使、岡崎久彦氏、歴史研究家、半藤一利氏が日露の戦いを縦横に語った。=敬称略
■世界の世論「日本勝てぬ」 半藤
岡崎 北清事変(義和団事件=一九〇〇年)のあとロシアが満州を占領してなかなか退(の)かない。日本は米国と英国を巻き込んで抗議しようと思うけど、米英とも動かない。結局日本一人で覚悟を決めてロシアに「退け」というんですね。イアン・ニッシュ(英国の歴史研究家)はこれを「若い日本のイニシエーション(成人式)」だといってるんです。
半藤 帝政ロシアの満州への南下政策が強硬になってきて、そこへ北清事変が起きた。あの時、ロシアが必要以上の兵隊を出して満州の広野に十五万から二十万近くなった。これは日本にとっては大変な脅威だということから日露交渉が始まった。
岡崎 北清事変で清国は世界中に宣戦布告してる。ロシアは宣戦された以上、いくら兵隊を送ろうと構わない。この機会に満州を取ろうと送り込んだんですね。
半藤 米英も腰が引けて介入してこないというんで一九〇三年四月の二十一日、京都にある山県有朋の別荘で伊藤博文と山県有朋、桂太郎、小村寿太郎の四人が会う。それで六月二十三日の御前会議を経て日露交渉が始まるんです。
岡崎 六月二十三日の御前会議で小村が、韓国についてはその一部たりともロシアに譲与しないという方針を確定してるんですよ。これは万難を排してその目的を達成すると。十一月にはロシア兵が(朝鮮半島北西部の)竜岩浦に入ってくる。本当はそこで戦争になるはずですけども、とにかく明治天皇が慎重だった。少し早くやってたら日本の戦争はもっと楽だったんです。一カ月でロシアの兵力が一万や二万違いますからね。
半藤 (しかし、日本も)軍そのものがあの時点で開戦となったら動きが取れなかったんじゃないか。海軍もまたそれほど自信があの時点ではなかった。あとから英国の手を借りて二隻の巡洋艦「日進」「春日」を買ってます。御前会議は明治三十七年(一九〇四年)一月十二日まで四回やるんです。この間にもロシアは次々と強硬な条件を出してきた。
岡崎 ロシアはやっぱり時間稼ぎです。
半藤 旅順に要塞を造って、しかも朝鮮半島の中にも要塞を造りだした。それで対馬海峡に日本はよけいなもの造るなと。自由航行のために壱岐・対馬に手を出すなというようなことを言い出した。日本はこのままじゃ朝鮮半島はロシアに取られて一気に日本まで来るということですよね。
岡崎 戦争が始まってロシアは喜んだ。日本は敵国だから負けたらなにやってもいいと。
半藤 世界の世論もそう見てますからね。日本が勝てるなんて思ってませんから。
岡崎 アジア全部を征服するチャンスだった。
半藤 海軍だけでいうと二対一ですけど、陸軍の兵力でいえばこっちは十二個師団でしょう。向こうは七十個師団ですからね。陸軍ではまず必勝の信念はなかったんじゃないですか。
岡崎 最後の会議が一月三十日。その場合御前じゃなく元老と主要閣僚の会議。伊藤自身が筆をとって、これはもうロシアの侵略的意図は明らかで、どんなに一時的妥協してもどうせだめだ。だから日本は力不足であると考えて一時の小康を得るか、国家の運命を懸けてロシアの侵略を阻止するか、二者択一しかない。それからまた一週間たって二月に国交断絶した。
半藤 金子堅太郎が米国出発直前に児玉源太郎に成算を聞いたというんです。「どうだ」。そしたら「どうにか五分五分までは行くだろうが、それでは解決せぬから、せめて四分六までこぎつけたいと思う」というんですね。山本権兵衛は、「まずわが艦隊の半分と乗員の半分を失うだろう。その代わり残り半分で敵を全滅させると見当をつけている」とこう言うんですがね。これ、かなり悲壮な考え方をしている(笑)。
岡崎 日露戦争もツァー(露皇帝)が「やめる」といわなかったらどうなっていたか。リネウィッチは「反攻の準備なれり」といったんですから、ハルビンで。あれで五十個師団がどんどん南下してきたら支えようがなかったですよ。
半藤 念のために申しますと、死傷者の総数、日本軍は遼陽の会戦で二万三千七百十四人、ロシア軍は一万六千五百人です。奉天の会戦で日本が七万六十一人、ロシアが六万三千六百四十九人という具合に日本軍の死傷者は非常に多いんです。しかもその死傷者に小隊長から大隊長クラスが多い。本当の前線指揮官を失くした。これが日本の最大の痛手になっちゃったんです。
■明示の政治的判断は「正しい」 岡崎
半藤 日露戦争はやっぱり終わったあとがよくないんです。将軍らが全部貴族になっちゃうんです。陸軍が六十五人、海軍が三十五人かな、両方合わせて百人なんです。文官は三十一人なんですよ。べつに日露戦争に勝ったという大功はあるんだから非難することはないんですが、みんな貴族にするために戦争の実態というものを隠した。つまり死傷者の数なんていうのも、これは実は旅順が入ってないんですけども、旅順の戦いがいかにある種の強引なものであったかということを隠すわけです。
岡崎 隠したというよりも公刊の戦史に書かなかった。
半藤 谷寿夫の「機密日露戦史」ですか。これだけじゃなくいわゆる公刊の戦争史が全部隠したんです。それが後の軍人を含めた日本人に非常に悪い影響を与えたと思いますね。要するに勝てば官軍になっちゃった。その意味で国民的な日露戦争に対するものの見方というのが非常に半端なものになった。そこから無敵の神話が生まれたり、陸軍が最後までやった白兵戦主義というような考え方が生まれた。海軍でいえば日本海海戦の再現というようなことを夢みたり。日露戦争終わってから太平洋戦争終わるまでの四十年の間にそれがもう実に影響を与えたと思うんです。
岡崎 具体的に言えば陸軍大学、海軍大学の授業で戦略論を教えなかったことです。戦略というのは極秘だということで、言っちゃいけないことになっている。そうすると、どうして日露戦争が勝ったか誰もわからない。
半藤 明治の人がそんな立派だと思いませんけどね、政治的判断としてかなり明治の人はしっかりと考えていたなとは思うんですよ。世界史に対しても、世界の流れに対してもね。これが太平洋戦争ではまったくだめで国際状況を考えてません。
岡崎 要するにアングロ・アメリカン(英米)世界と一緒に行くということを決断した点で、それで明治の人の判断は正しかった。そうでしょう。
半藤 そうです。
岡崎 米国、英国と戦争するというのは大変なことですよ。それはあの時のロシアと同じですよ。日本の歴史を考えますと、日本はまず清国、その次にロシア、それから米国と、国力からいって到底かなわない国と次々戦争してる。結局、それはどうして最初の二つが勝って、三番目に負けたかというと、最終的には清国とロシアは向こうが継戦意志を失った。もう戦争やめよう。清国だって戦争やめようと言わなかったら(日本は)とてもかなわないですよ。ところが西太后が自分の誕生日があるもんだから早くやめたい。それからロシアの干渉があるから大丈夫だろうということでやめたおかげで勝てた。日露戦争も、革命騒ぎや日本海海戦があって、それでツァーが「やめよう」と言ったんで済んだ。
半藤 まあ勝てません。
岡崎 ところが米国とやった場合は、初めに真珠湾攻撃して「日本が悪い」という継戦意志が崩れない形で戦争した。ということは、日清、日露では日本のやったことはすべてよくて、太平洋戦争がだめだったということではないでしょう。
半藤 そういうことじゃないでしょう。
岡崎 国内で騒乱があったことがツァーがまさに継戦意志を失った一番の理由ですよね。継戦意志を失ったことが戦争の最大の理由です。その原因は革命の気運ですが、その革命気運の醸成に、日本の勇戦も、背後工作も一部関係しています。革命騒ぎがどのくらい影響あったかというと、もともとレーニンとかはポーランド独立運動なんかあちこちで活動してましたからね。それに対し日本が若干のお金を出したということだが、前線に影響してます。旅順が降伏した。これがレーニンにいわせるとツァーリズム終焉(しゅうえん)の序曲だ。それから日本海海戦のあとロシアがほんとにまいっちゃったんですね。これでロシアは西欧におくれてることが全部わかっちゃった。ウィッテの表現を借りると、今までの反乱分子が「一斉に首をもたげた」ということになります。だから継戦意志を失わせたのはやっぱり日本軍の勇戦かもわからない。
半藤 勇戦でしょう。
岡崎 結局(日露戦争で)満州の利権を取ったことから次の戦争に至るわけです。その意味では満州事変(一九三一年)も次の戦争につながっている。満州事変で思い上がったからとか、自信過剰になったからというのは部分的な問題で、国際政治の主流の話じゃない。
日露戦争開戦100年対談 岡崎久彦氏・半藤一利氏(3-2)
非常に大きい世界史的意義
アジア・アフリカ独立に影響 岡崎
半藤 日露戦争というのは、日本という国が世界史の中へ参入したときですよ。それは非常に大事だと思うんです、日本にとってはね。アジアの小さな島国が世界中が負けると思った戦争にとにかく国際的には勝ちということで認定されて、それで世界史の中に入ってきた。もう一つ、まさに日本に来た中国人留学生が日本がロシアに勝ったということで、孫文を中心とする中国革命同盟会を日本で結成したというのは、日露戦争(講和交渉中)の一九〇五年の八月ですよ。
岡崎 それはもう全部そうですよ。インドの会議派の連中が急進化したりね。ペルシャの革命、エジプトの反英運動、これ全部そうですよ。
半藤 ベトナム維新会というのができて、まさに明治維新なんですね。フランスを駆逐しようと。だから世界史的には白人制覇の世界に対するものすごい抗議運動が起きるわけです。それはもう日露戦争に日本が勝ったということは、すごく歴史を変えましたよね。変えた結果、日本だけ悪くなった(笑)。
岡崎 変えた結果、一九六〇年までにアジアもアフリカも全部独立したんです。それは日露戦争の間接的影響といって間違いないですね。
半藤 間違いないですね。
岡崎 あれがなかったら植民地支配がもう一世紀続いたかもわからない。もう一世紀は続いたでしょうね。あれと大東亜戦争がなければね。大東亜戦争もかなり利いてますよ。日露戦争と大東亜戦争ね。それがなかったら一世紀は遅れてますね。
半藤 そういう意味では日露戦争の世界史的意義というのはものすごく大きい。
岡崎 それはめちゃくちゃ大きいですね。
半藤 だからみんな貴族になってもしようがないか(笑)。だけど隠しちゃいかんですよ。
岡崎 ただ大国の興隆期というのは大体いいことばっかり国民に教えるんです。例えばアメリカが拡張したときにインディアンをいかにいじめたかなんていうのは、百年たって修正主義史観が出てからですよ。
半藤 おっしゃる通りです。でもね、隠されたために専門家がだめになったというのは困るんですよね。
岡崎 それはそう。偉大な国家というのは自分の国民にいかにわれわれは偉大だったかと教える。それで恥は隠すんですよ。そうすると国民がわれわれは偉大だと思って、また結構偉大な国民になるんですよ。それが国が盛んになるときのプロセスで、それは日本だけじゃないんですよ。
半藤 おっしゃる通りだと思いますが、日本は少し有頂天になり過ぎたんじゃないですか。
岡崎 まあそうだけど。(日本が大国となるための)チャンスがいろいろあったんですけどね。戦争責任を日本人自身が裁けない。法律ではね。歴史で裁くとなると、誰に戦争責任があったかというと、近衛文麿(首相)、広田弘毅(同)、杉山元(元帥・陸軍大将)ですね。何の定見もなしで流された連中だから。
半藤 もう一人入れて下さい。永野修身(元帥・海軍大将)を。
岡崎 そうそう、そういう連中。結局、世の中の流れと部下の突き上げに反対しないでね、そのまま見識もなしに流された連中です。若い連中は鼻息荒いだけで抑えなかったやつが悪いんですよ。その意味では昭和が悪いということはその連中が悪かったですね。
半藤 困ったことに、いま挙げたうちの軍人は日露戦争の参加者なんですよ。これが歴戦の雄なんです。これは陸軍も海軍もで、日露戦争の悪い影響がいくらかあるんですよ。
◇
■国民レベルがずいぶん低下した 半藤
半藤 岡義武さんという東大の先生(政治史)が書いた論文で、日露戦争後の日本でどういう形が出たかと言っている。一つは、出世主義が出て、同時にこれが学歴偏重主義になってきた。二番目は成り金主義というのが非常に強く出てきた。三番目が日本人全体が享楽主義になって、緊張感を失った。その三つの世界に入れないやつはみんな虚無主義になった。こういう四つの傾向が出たんだそうです。これはいいとか悪いじゃない。夏目漱石には大体その四つの傾向を文明批判として入れ込んでいる小説が多いんですよ。「三四郎」という小説で、三四郎が汽車で熊本から東京へ出てくるときに前にいた紳士から富士山を見るように勧められる。その上で紳士は「日本にはあれしか自慢するものはないが、あれは昔からあるのだ。日本人は新しいものをなにも作ってないじゃないか」という風なことを言うんです。三四郎が「でも日本はこれから段々発展するでしょう」と言うと、「いや、亡びるね」とこう言うんですね。日露戦争後の日本というのは、それまでの緊張した日本人と違う日本人が出てきたということはいえるんじゃないか。
岡崎 一面ではありますけどね。日露戦争後の空白状態、それは阪神タイガースのテレビばっかり見てて、終わったとたんに何となくシュンとしちゃうような(笑)。そういうことはよくあることなんで、それが歴史そのものを動かす原動力というのはちょっと文学的に過ぎるんですね。司馬遼太郎史観みたいな。要するに小説というのは一つテーマを持って、それでずっと流すものだ。それにちょうどいい話、歴史の事実だけポンポン拾ってきて話をつなげばそれで小説になる。しかしそれが全部の歴史の流れかというと、違うんですよ。
半藤 夏目漱石もそう言ってるんですよ。東郷さんが偉いとか、乃木さんが偉いとかいってみんなが神様みたいに扱うけど、それが間違いなんだということを盛んにいうんですね。ところが、僕らはそうすると面白くないんで、傑出した人間を…(笑)。ただね、戦後の自分たちの猟官運動でみんないい調子になっちゃったのを見ると、おっしゃるようにたいしたことないというところもあるんですよね。
岡崎 結局、日露戦争を勝った連中は江戸時代の教育の連中ですよ。短絡すればね。大東亜戦争に負けた連中は明治の教育の連中ですよ(笑)。
半藤 おっしゃる通りで(笑)。
岡崎 徳川三百年の文治社会の教養主義がいかにすさまじかったかですよ。あのころの陸奥宗光とか福沢諭吉に対抗できる教養人は今いないですよ。あの連中は新井白石とか荻生徂徠に十分対抗できた。戦略論というのは、いろんな理屈をこねたって、その基礎になる哲学を侍(さむらい)というのは初めから知ってたんですよ。例えば「畳の上の水練」なんて言葉を子供のころから知っている。それを戦略だけ一生懸命読んだ人間じゃわからないんですよ。ところが江戸時代の人間というのは、孫子呉子なんてのは子供が読むんですからね。まったく頭に入ってる。
半藤 もう一つあの人たちは、自分たちがこの国をつくったんだという自負、使命感があったんじゃないですか。江戸から明治維新、西南戦争を経てとにかくこの国をつくってきたんだというものすごい責任感もあったんじゃないでしょうかね。昭和の人たちはその責任感がまったくないんじゃないですか。なぜ昔のリーダーは立派で、いまのリーダーは小さくなったのかと聞かれるんですよ。国民のレベルが上ならば、いいリーダーが出る。国民のレベルが下がるからリーダーだって下がる。これしか言いようがないと思いますね。今は国民のレベルが随分、下がっていますよ。
日露戦争開戦100年対談 岡崎久彦氏・半藤一利氏(3-3)
≪おかざき・ひさひこ=元駐タイ大使≫ 昭和5年、大連生まれ。昭和27年東大法学部中退、外務省入省。28年ケンブリッジ大経済学部卒。防衛庁参事官、駐米公使などを経て、57年に外務省調査企画部長、59年に外務省情報調査局長。以後、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使を務め平成4年退官。平成7年に正論大賞。岡崎研究所所長。著書に「陸奥宗光とその時代」「小村寿太郎とその時代」など。
◇
≪はんどう・かずとし=歴史研究家≫ 昭和5年、東京生まれ。昭和28年東大文学部卒、文芸春秋社入社。「文芸春秋」「週刊文春」編集長などを経て、平成元年専務。平成5年「漱石先生ぞな、もし」で新田次郎文学賞、平成10年「ノモンハンの夏」で山本七平賞。その他の著書に「日本のいちばん長い日-運命の八月十五日」「日本海軍の興亡-戦いに生きた男たちのドラマ」「山県有朋」など。
◇
≪日露戦争≫ 満州(現中国東北部)、朝鮮半島をうかがう19世紀の帝政ロシアは、遼東半島先端の旅順・大連を租借したほか、シベリアから東清鉄道を敷設し在満権益を拡張。北清事変では満州に駐兵して撤退をしぶり、朝鮮半島への圧力を強めた。日本は「満韓交換」を条件に交渉したが拒絶に遭い、日英同盟を背景に開戦に踏み切った。激戦の末に旅順要塞(ようさい)を攻略したほか、地上戦でロシア軍を遼東半島から駆逐し、来航したバルチック艦隊を撃破して勝利を収めた。日本側戦病死者は約9万人。「アジアの国が白人国を破った」と世界中に衝撃を与えた。
◇
≪日露戦争関係の主な人物≫
伊藤博文(1841-1909)初代首相。日露開戦時に枢密院議長。明治42年ハルビンで暗殺。
山本権兵衛(1852-1933)海軍大臣として海軍を強化し、東郷平八郎を司令長官に抜擢(ばってき)。
山県有朋(1838-1922)第三代首相。開戦時は元老、大本営参謀総長。
小村寿太郎(1855-1911)日露戦争時の外相。関税自主権の回復を実現した。
桂太郎(1847-1913)陸軍出身で日露開戦時の首相。日露戦争後も首相を2度務める。
金子堅太郎(1853-1942)明治政府の高官。日露戦争で渡米、ルーズベルト大統領と交渉した。
乃木希典(1849-1912)第3軍司令官として旅順要塞を陥落。45年の明治天皇崩御に殉死。
東郷平八郎(1847-1934)連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊を撃破。
ウィッテ(1849-1915)帝政ロシア末期の政治家。日露講和交渉の露側全権。
リネウィッチ(1838-1908)ロシア軍大将。クロパトキン大将の後任総司令官。
ステッセル(1848-1915)ロシアの旅順要塞司令官。戦力を残したまま降伏したとして、戦後の露側軍法会議で死刑を宣告されたが、減刑・特赦された。
◇
≪日露戦争関係年表≫
【明治36年(1903年)】
8月 ロシアが旅順に極東総督府を設置
10月 東京で小村外相とローゼン露駐日公使が日露交渉開始
12月 連合艦隊編成(東郷平八郎司令長官)
《明治37年(1904年)》
2月 御前会議で対露開戦を決定(4日)。続いて栗野慎一郎駐露公使がロシアに断交を通告。仁川に陸軍先遣隊が上陸(8日)。旅順港で第一次閉塞作戦(24日)
3月 旅順港で第二次閉塞作戦、広瀬武夫中佐が戦死(27日)
5月 鴨緑江を第一軍が渡河、九連城を占領(1日)。遼東半島に第二軍が上陸(5日)。第二軍が南山の戦闘で遼東半島の金州(26日)、大連(30日)を占領
6月 満州軍総司令部を編成(20日=総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎)
7月 旅順要塞攻撃開始(25日)
8月 遼陽を第一、二、四軍が総攻撃(30日-9月4日)
10月 旅順で28センチ榴弾砲の砲撃開始(2日)。沙河付近でロシア軍と会戦(5-18日)。露バルチック艦隊がリバウ港出港(15日)
12月 旅順で
203高地を占領(5日)
。8日までに旅順港内のロシア艦隊大半を撃沈
【明治38年(1905年)】
1月 旅順要塞で露軍が降伏(1日)。水師営で乃木希典大将とステッセル将軍が会見(5日)
。ロシアで「血の日曜日」事件(22日)
3月
奉天会戦
。日露戦争最大の陸戦に(1-10日)
5月
日本海海戦
。ウラジオストクを目指したバルチック艦隊を連合艦隊が撃滅(27-28日)
6月 ルーズベルト米大統領、日露に講和勧告(9日)。日露とも12日までに勧告受諾
8月 米ポーツマスで日露講和交渉開始(10日)
9月 日露講和条約(ポーツマス条約)調印(5日)大山巌満州軍総司令官が停戦命令(14日)
◆東京五輪から40年 豊かさと引き換えに日本人が忘れたもの(2-1)
東京オリンピックが開かれてから、今年で四十年になる。あのとき、全国で聖火をリレーした若者たちも、もう還暦前後となった。日本の戦後を振りかえってみても、国民があれほど一体感をもったことはなかった。日本人は、そこで得た力と勇気をもって世界へ飛躍し、豊かになった。その一方で、あの祭りは日本の社会が暗転するターニングポイントだったという人もいる。それまで日本人が大切に受け継いできたものを失う契機になったともいえるからだ。四十年前、われわれは何を身につけ、何を忘れてきたのだろう。(論説委員 皿木喜久)
【市民の足 チンチン電車】
昭和三十九年十月一日午前六時、朝もやの東京駅を新大阪行き「ひかり1号」が出発した。オリンピック開会式の九日前、この日開業した東海道新幹線の一番列車であった。
静岡県の新丹那トンネルで新幹線の起工式が行われたのは三十四年四月だった。五輪の東京開催が決まる前で、オリンピックとは直接関係はなかった。しかし、観客を東京へ運び、外国人客に京都、大阪まで足を延ばしてもらうため開会式に間に合わせたのだ。
新幹線は東京・大阪の二大都市を四時間で結んだ。翌年には最速三時間十分に縮まる。さらにその後、この高速鉄道は九州、東北、新潟、長野にまで延び、人々の生活を大きく変えた。
それまで国内の移動といえば夜行列車が主役だった。三十年代に急増する集団就職の少年少女たちは十数時間、夜汽車に揺られ、新しい世界に飛び込んだ。
松本清張の推理小説でも、刑事たちが一昼夜の夜行の旅に耐え、九州や北海道にまで捜査に向かっている。ビジネスで飛行機を使えるのは、よほどのときだけだった。
新幹線の開業と航空路の発達は旅を格段に快適なものと変え、経済を活性化した。だが一方で日本人の忍耐力とか、夜行列車の旅が持つ情緒とかを一気に奪い去ってしまったといえる。
新幹線だけでなく、オリンピックは東京の交通網を一変させた。
開幕に合わせて日本初の都市高速として首都高速三十二キロが完成、一般道路も青山通りなど三十路線が新たに整備された。地下鉄路線もそれまでより大幅に増えた。
代わりに退場を余儀なくされたのが都電、いわゆるチンチン電車だった。オリンピックまで全長二百キロに及び、年間延べ四億人以上を運び、都民の足となっていたが、昭和四十七年までに荒川線を除きすべてが廃止された。
和久田康雄氏の『路面電車』(成山堂書店)によれば、都電など路面電車は最盛期には全国で五十三線、千四百キロに上ったが、大阪市電が四十四年に全廃したのをはじめオリンピック後に次々に姿を消した。
地下鉄、私鉄の発達にもよるが、急速に車が増えたことで軌道敷がその邪魔とされたのが大きかった。
現在、車に比べてのどかなその姿を見ることができるのは函館、鹿児島など五都市に過ぎない。
◇
【映画館が見えた風景】
藤井淑禎立教大教授に『清張ミステリーと昭和三十年代』(文春新書)という本がある。松本清張の作品に描かれた昭和30年代の日本社会を現代の目で見てみようというものである。
その第1章で取り上げているのが、清張の代表作のひとつ『砂の器』を題材とした「映画館の見える風景」だ。
昭和35-36年に書かれた『砂の器』では、東京で殺された被害者がなぜ、旅先の三重県伊勢市から予定外の上京をしたかが最大の謎となった。しかし刑事の粘り強い捜査で、被害者が伊勢に出かけたという映画館で、ついにその理由と犯人をつきとめる。
ことほどさように、30年代の人たちの生活にとって映画館や映画は切り離せない存在だった。
町と名のつくところでは最低1、2軒の映画館があり、周囲を圧する建物や派手な看板が異彩を放っていた。最盛期には国民1人が年に平均12回も映画を見にゆき、娯楽の中心だった。
ところが、映画館は35年、入場者は33年をピークに減少に転じる。
特に東京オリンピックが開かれた昭和39年には、前年まで6000軒余りあった映画館が5000軒を割り込んだ。最盛期で延べ11億人を数えた映画人口も5億人を大きく下回った。
現在では2億人をも割り込み、「映画館の見える風景」も遠い過去のものとなった。
大きな理由は言うまでもなくテレビの普及である。昭和28年に登場したテレビは34年の皇太子ご成婚と東京オリンピックを機に飛躍的に増え、昭和37年にはすでに普及率が50%近くになっている。映画人口の減少と軌を一にしているわけである。
もっとも藤井氏は、当時の映画関係者の発言をもとに、映画の衰退が、単純にテレビの進出に押されてといったものではなかったことを指摘している。映画人たちが恐れていたのはドライブ、スキー、山登りといったレジャーの多様化だったのだと。
いずれにせよ、高度経済成長などによる社会や人々の心の変化が、映画館を中心とした町の文化的雰囲気を駆逐していったことは間違いない。
◇
【“手作り”の正月】
今、正月がつまらなくなったと思っている人は多いだろう。
年の神を迎えるという日本の正月本来の意味が忘れられたせいでもある。だが最も大きな理由は家族全員、自らの手で新年を迎えることがなくなったからだろう。
地方によって多少の差異はあるが、昭和三十年代まで、父と子は山に松の枝や竹を切りに行って門松を立てた。家族総出でもちをつき、おせち料理を作った。そして正月になると、みんなで初詣でに行き、お雑煮を食べた。すべてが“手作り”の正月だった。
しかし今、門松はほとんど姿を見なくなり、もちもおせちもスーパーで買える。観光地や外国のホテルで正月を過ごす家庭も珍しくない。新年の準備といえば年賀状を書くことぐらいである。
境目は昭和四十年ごろだっただろうか。高度成長で生活が格段に豊かになり、手作りという習慣を日本人が失った。
旅する民俗学者、宮本常一は、訪れた町でまず高い所に上って、さまざまなものを観察した。
物干しの洗濯物もそうだったが、三十五年ごろから、手縫いで不ぞろいだったり、つぎの当たったりした下着がなくなった、と書いている(『空からの民俗学』岩波現代文庫)。
三十九年の東京オリンピックのころになると、人々が西欧風の生活になじみ、日本独特の季節感を失ったことも正月をつまらなくした。
ノンフィクション作家、関川夏央氏が『昭和生活文化年代記』の三十年代版に「むかし大掃除があった」という一文を寄せている。
昭和二十四年生まれの関川氏の実家では昭和三十年代まで、春秋の年二回、大掃除をしていた。その日は子供にとって非常の日であり、興奮するときだった。
しかしやがて、そうした習慣を失う。そのことを関川氏はこう書く。
「部屋を建て増し(畳を干す)空き地もなくなったが、季節ごとの折り目に執着しなくなったこと、気分を新たにするという感覚を失ったことの方が大きいのだろう。隣近所から聞こえてきた折々の畳を叩くうるさくも小気味よい音も途絶え、…そのようにして、昭和三十年代は終わった」
◆東京五輪から40年 豊かさと引き換えに日本人が忘れたもの(2-2)
【裸の付き合い】
江戸時代には、銭湯が庶民の最高の社交場だった。その様子は式亭三馬の『浮世風呂』や多くの落語などからうかがい知ることができる。
いや、そこまでさかのぼる必要はない。昭和三十年代まで風呂といえば銭湯だった。当時の子供たちにとって、学校とともに社会のルールを学ぶ貴重な場所だった。
その銭湯も昭和四十年代に入って急速に減る。東京都だけとっても四十三年には二千七百軒ほどあったのに、現在では千二百軒程度、利用者は三十年代後半から減少する一方だ。
直接の理由は言うまでもなく“内湯”が増えたことだ。総務省統計局の住宅統計(全国)によれば、オリンピック前の昭和三十八年には33%しかなかった浴室のある住宅が、十年後の四十八年には50%を超え、現在は100%に近い。
昭和三十年、戦災による住宅不足を解消するために設立された日本住宅公団が、いわゆる公団住宅を建設するに当たって売り物にしたのが、DK(ダイニングキッチン)と浴室だった。
さらにその後、ほうろうやステンレスなどによる快適な浴槽も売り出されるようになり、内湯ブームと銭湯の衰退に拍車をかけた。
だが、松平誠氏の『入浴の解体新書』(小学館)によれば、それは主客転倒だという。
「この当時の日本都市に内湯を備えられるような社会経済的な基盤ができあがっており、しかも都市の大衆の中に、きわめて強い内湯の願望が存在していた」から、新しい風呂が受け入れられたのだという。
そうした願望を生み出したのは、戦後民主主義が生み出した個人主義であり、生活の国際化・西欧化だろう。
特に東京オリンピックを機に、日本人も多くの外国人の生活を目の当たりにするようになった。自ら外国旅行する機会も急激に増えた。その中で入浴はプライバシーの領域に属するものであり、コミュニケーションの場ではないということになった。西欧風に一人でシャワーを浴びるのがシャレていて、銭湯で裸をさらし合うのはダサいということになったのだ。
むろん今でも銭湯愛好者は多い。だが、独特の造りに煙突、のれんという懐かしい光景を見ることはめったになくなった。
◇
■オリンピックとその時代
オリンピックを開くことは、世界の一流国を目指した日本にとって戦前からの夢だった。
昭和十一年には、十五年(一九四〇年)の東京開催が決まった。しかし日中戦争の拡大によって返上せざるを得なかった。
そうしたこともあって東京都や政府は、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復した直後の昭和二十七年ごろから、再び東京への五輪招致に動き出した。
第十七回大会はローマに譲ったものの、昭和三十四年五月二十六日のIOC(国際オリンピック委員会)総会で、昭和三十九年(一九六四年)の第十八回大会の東京開催が決まった。
この間、政府や東京都関係者の誘致活動のほかに、手弁当で中南米などを回り東京への投票をはたらきかけたロサンゼルスの日系人スーパー経営者、フレッド・和田氏の献身的努力があったことが知られている。
東京開催が決まったときの政府は岸信介内閣だったが、翌三十五年には日米安保条約の改定や三井三池争議などで国論が二分され、国内は騒然となった。
このため、安保改定直後に政権を引き継いだ池田勇人首相は「低姿勢」と「所得倍増」を唱えて経済政策を重視、民心の安定につとめた。これがいわゆる高度経済成長の始まりとなり、東京オリンピックはこれに乗った形で、国民に夢を与えることになった。
こうして三十九年十月十日、抜けるような青空のもと開会式を迎えたオリンピックには、それまでの大会を大きく上回る九十四の国から五千五百人余りの選手が参加した。
日本選手団はお家芸といわれた男子体操の五個をはじめ、「東洋の魔女」女子バレーボールなど計十六個の金メダルを獲得、開催国の面目をほどこした。
日本選手以外でも、アベベ(エチオピア)のマラソン二連覇、女子体操のチャスラフスカ(チェコスロバキア)の演技などでわいた。
このオリンピック関連の投資は一兆円を超すといわれた。競技場建設などの直接費用以外の新幹線、首都高速道路、地下鉄の建設費や上下水道の整備費などがほとんどだった。これが三十八年度10・4%、三十九年度13・2%という経済成長率を後押しした。
いずれにせよ、東京五輪の成功で大きな自信を得た日本は昭和四十年代も高度成長を続け、世界第二の経済大国となっていく。
それを支えたのは安保後の政治の安定であり、技術革新、それに団塊の世代を中心とした豊富な若年労働力だった。
◇
【昭和30年代-40年代初めの主な動き】
≪31年≫
11月8日 「宗谷」が日本初の南極観測に向け出発
≪32年≫
9月 ダイエー1号店が大阪市旭区千林に開店
10月4日 ソ連が人類初の人工衛星
≪33年≫
4月5日 長嶋茂雄選手がプロデビュー
5月24日 第3回アジア競技大会が東京で開幕
12月23日 東京タワー完成
≪34年≫
4月10日 皇太子(現天皇)ご成婚
5月26日 第18回オリンピック大会の東京開催が決定
9月26日 伊勢湾台風が襲来。死者・行方不明者5041人
≪35年≫
6月19日 日米新安保条約が自然承認
7月19日 池田内閣発足。所得倍増論
≪36年≫
9月26日 大鵬・柏戸が同時横綱昇進
≪37年≫
3月1日 NHKのテレビ受信数が1000万を突破
8月12日 堀江謙一さんがヨットによる太平洋横断に成功
10月 米ソ間にキューバ危機
12月20日 首都高速1号線京橋・芝浦間が開通。日本初の都市高速道路
≪38年≫
7月15日 名神高速道路の栗東・尼崎間71キロが開通
11月22日 ケネディ米大統領暗殺
≪38年≫
自動車保有台数が500万台を突破
≪39年≫
4月6日 NHKテレビ「ひょっこりひょうたん島」がスタート
10月1日 東海道新幹線の東京・新大阪間が開通
10月10日 東京オリンピック開幕
≪40年≫
1月20日 世界パック旅行「ジャルパック」が登場
2月7日 米国がベトナムに北爆開始
12月10日 朝永振一郎氏に日本人2人目のノーベル賞
≪41年≫
5月 中国で文化大革命本格化
6月29日 ビートルズが来日
◆1・1 首相 靖国“初詣で”参拝 「慰霊」薄れる意義
小泉純一郎首相は一日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。靖国参拝は就任以来四回目で、首相は「戦争の時代に生きて心ならずも命を落とさなければならなかった方々の尊い犠牲の上に今日の日本が成り立っている。これからの日本が平和のうちに繁栄するようにさまざまな思いを込めて参拝した」と意義を強調した。しかし、「初詣で」という形式をとったことで戦没者慰霊という本来の靖国参拝の意義が失われたとの指摘も出ており、今後の参拝に問題を残す結果になった。
首相の参拝は事前の予告なしに急遽(きゅうきょ)行われ、一日午前に皇居で行われた「新年祝賀の儀」に出席したあと、羽織はかま姿で靖国神社に向かった。首相によると、「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳したが、参拝にあたっては神道形式はとらず、献花料の三万円もポケットマネーから支出したという。
参拝のあと記者団のインタビューに応じた首相は、戦没者慰霊の意義を強調しながらも、元日を選んだ理由について「『初詣で』は日本の伝統ではないか。多くの方が各地の神社にお参りしている」と説明。中国などの反発についても「どこの国でもその国の歴史や伝統、習慣を尊重することに対してとやかく言わない。その辺はだんだん理解していただけると思う」と述べ、今回の参拝が日本の伝統行事、慣習であることを強調した。
首相は平成十三年四月の自民党総裁選で終戦記念日である八月十五日の靖国参拝を明言したものの、中国などの反発に配慮して実際には八月十三日に参拝。翌十四年は春季例大祭の四月二十一日、昨年は一月十四日と年々、参拝日を早めていた。「年一回の参拝」を表明しており、記者団とのインタビューでも年内に再び参拝する可能性を否定した。
◇
≪「定着化」前進も 原点回帰求める声≫
小泉純一郎首相が靖国参拝にあたって「初詣で」という形式をとった背景には、歴史認識との関連性や宗教性を薄めることによって近隣諸国の批判や連立を組む公明党の反発をかわす狙いがあった。だが、中国などは強く反発、公明党も憲法への抵触を指摘するな
ど、思惑ははずれた格好だ。
八月十三日(平成十三年)、四月二十一日(十四年)、一月十四日(十五年)、一月一日(十六年)。小泉首相の靖国参拝時期は近隣諸国や公明党への配慮から「その時々の首相自身の政治判断」(周辺)で変化してきた。
首相が十三年四月の自民党総裁選で参拝を公約した八月十五日は終戦記念日であり、政府も昭和五十七年四月の閣議で「戦没者を追悼し、平和を祈念する日」と決定している。だが、「どうしても十五日はいやだという中国」(政府高官)の意向を受けた福田康夫官房長官や当時の山崎拓幹事長の説得を受け入れて二日早めた。
四月二十一日は靖国神社の最重要行事である春季例大祭の日で、かつては歴代首相の参拝日として定着しており、「参拝対象が先の大戦での戦没者に限定されないという意味で八月十五日よりいい」(自民党幹部)との意見も多かった。
だが、それでも中国は反発。公明党も「例大祭参拝は戦前の国家神道を想起させる」(中堅議員)と批判的だったために「小正月」というぐらいしか理由付けがない一月十四日にシフト。今年は「初詣で」の形式をとった。
昭和六十年に参拝した中曽根康弘首相、平成八年の橋本龍太郎首相のいずれも中国などの抗議に屈して翌年から参拝をとりやめたのに比べ、小泉首相の四年連続参拝は「靖国参拝の定着化という点で前進」(周辺)だ。とはいえ、「初詣で」では戦没者慰霊の意義が薄れるのは否定できず、連続参拝の実績を積極的に評価する自民党幹部の一人も「首相も八月十五日に行きたいはず。戦没者追悼の原点に戻ってほしい」としている。
◇
【靖国神社】戦没者を慰霊する神社として、明治2年に「東京招魂社」として創建され、12年に靖国神社に改称した。戦前は陸海軍省が所管し、軍国主義の精神的支柱となったが、終戦後の昭和27年に連合国軍総司令部(GHQ)の指導で東京都知事認可の宗教法人に改組された。現在、先の大戦や日清、日露両戦争などの戦没者246万柱が祭られている。
小泉純一郎首相が平成13年8月13日に参拝したことに中国などが反発。福田康夫官房長官の私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が新たな戦没者追悼施設の検討を進め、14年末に「国立・無宗教の恒久的施設が必要」との報告書をまとめたが、構想は宙に浮いている。
◆靖国参拝は例大祭か「終戦の日」に 京大教授・中西輝政氏
首相が靖国神社に「初詣で」に出かけることは一向に構わない。だが、小泉純一郎首相が、国家的な行為である「首相の靖国神社参拝」の意義を、単なる新春の「一習俗」としての参拝に埋没させようと考えているならば、到底看過することはできない。
これまで小泉首相は数々の難局を「サプライズ」、いわば奇策で乗り越えてきた。政局ならばそれもよいかもしれないが、首相の靖国参拝は国家の本質を問われる問題であり、過去の公約を元日の「サプライズ参拝」などで切り抜けられるものではない。
そもそも靖国参拝を「初詣で」とごまかすことで中国が納得するはずもなく、案の定即座に猛烈に抗議してきた。平成十三年が八月十三日、十四年が四月二十一日、昨年が一月十四日、そして今年が元日-と首相の公約がズルズルと後退している現状をみれば、中国政府がさらに強硬姿勢を打ち出してくるのは自明といえよう。
中国外交を考えるうえで忘れてはならない原則が二つある。
一つは、過去に列強の内政干渉で存亡の危機を迎え、今も自国への内政干渉を徹底的に排する国が、執拗(しつよう)に内政干渉を行う「意図」を見抜くことだ。
もう一つは、中国が「イデオロギー」と「実利」を使い分けている現実をよく認識することだ。靖国参拝による不利益は形式的な首脳外交が途絶えたことくらいで、経済的に何の悪影響も及ぼさないことがはっきりした。
そう考えれば首相の選択肢は一つしかない。今年こそ春季・秋季例大祭か、八月十五日の「終戦の日」に靖国参拝することだ。そうしなければ、中国の内政干渉はさらにひどくなってゆく。また、国内的にも「小泉サプライズ」にそろそろうんざりしてきた国民の信頼は一気に離れていくことになるだろう。(談)
◆自民「歓迎」 公明は懸念 野党は反発
【与党】
小泉純一郎首相の靖国参拝をめぐって、自民党内では歓迎ムードが支配的だが、公明党からは憲法への抵触を懸念する声が出ている。
日本遺族会会長でもある自民党の古賀誠元幹事長は「年の始まりの日にお参りいただいたことは感慨深い。今年一年間、日本の国が平和であってほしいという首相の思いが伝わる気がする」と指摘。中国などの反発についても「靖国神社は戦争を再び起こさない国をつくるということを発信するところ。中国にしろ韓国にしろ必ず理解してもらえる」と断言した。
堀内光雄総務会長も「周りでいろいろ言われるだろうが、信念に基づいて参拝するのは必要なことだ」と評価した。
しかし、公明党の神崎武法代表は「『国およびその機関はいかなる宗教的活動もしてはならない』と定める憲法の規定に反すると解される恐れがあり、誠に残念と言わざるを得ない」との談話を発表。このほか、与党内では、野党側が首相の靖国参拝をイラクへの自衛隊派遣と絡めて「軍国主義復活」との批判を展開することへの懸念も出ている。
◇
【野党】
野党各党は小泉純一郎首相の靖国参拝に一斉に反発している。
民主党の菅直人代表は中国などとの関係が悪化するとの懸念を表明、「個人的な信条を重視して国益を損なう行為であり、国民に対して責任ある行動とはいえない」と批判。元日の参拝については「なるべく早く参拝を済ませてほとぼりが冷めるのを期待するやり方だ」と指摘した。
また、共産党の市田忠義書記局長は「侵略戦争と軍国主義推進のシンボルである靖国神社への参拝は絶対に許されない」と強調。社民党の又市征治幹事長は談話を発表、「侵略の事実に目を閉ざしたあるまじき行為。北朝鮮問題の平和的解決が焦点になっているさなか、中国や韓国との関係をいたずらに悪化させるような行為は理解しがたい」としている。
◆近隣の反応 中国/韓国/台湾
≪「強い憤り」を表明 中国≫
【北京=福島香織】中国の王毅外務次官は1日、原田親仁・駐中国臨時代理大使(公使)を外務省に呼び、小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「中国人民およびアジア人民の反対をも省みず独断で再度靖国神社を参拝したことに対し、強い憤りを表明する」と抗議した。
さらに「日中関係は重要な時期にある。日本の指導者が、参拝でもたらされた悪影響を実際の行動によって取り除くことを求める」と述べた。
◇
≪代替施設建設を要求 韓国≫
【ソウル=久保田るり子】韓国の尹永寛外交通商相は2日、高野紀元駐韓日本大使を外交通商省に呼び、「両国関係と韓国の国民感情のためにも、今後は参拝しないよう強く促したい」と遺憾の意を表明。国立代替施設の早期建設も要求した。
これに対し、高野大使は「尊い犠牲のうえで成り立つ日本の不戦の誓いだ」との小泉首相の気持ちなどを伝えた。
◇
≪“初の抗議声明” 台湾≫
【台北=河崎真澄】台湾の外交部(外務省に相当)は1日、「日本の戦争発動がアジアに苦痛と不幸をもたらした歴史を忘れることは許されない。日本政府が歴史の教訓に向き合い、関係する国家と人民の感情を正視することを望む」との抗議声明を発表した。昨年まで台湾は小泉首相の靖国参拝を一定の範囲で容認するコメントを発表していたが、今年はあからさまな表現は避けつつも厳しい批判姿勢で臨んだ。
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