☆心の中には宝物がいっぱい☆

病に巻き込まれる


ハプニング女王はもうすっかり卒業したと思っていた28歳のころのことです。
当時私は子ども2人を抱えた母子家庭の大黒柱。
出産経験を活かし、実家のある大阪府堺市で子どもを保育園に預けて
小児科救急外来で看護助手の仕事をしていました。

看護婦(看護士)ではなく資格のない助手というお仕事。
注射の時に子どもをおさえたり、検査の媒体を運んだり、体温計を渡して記録してまわったり。
患者さんに直接処置することはできません。
でも子どもの相手が得意なことと、雑用が山ほどある仕事なので、それなりに重宝されていました。

そんなある日、突然ハプニングがやってきました。
朝の診察が始まってみると、待合室の前は人だかり。
机の上にはいつもの4日分くらいのカルテがもう山積みになっていました。
来る人全てが腹痛と嘔吐を訴え、高熱で横たわる患者に待合室のイスは全てふさがれていました。
その時点では「何かが起こった」ということしかわかりません。
医師と看護婦と力を合わせて、片っ端から検便し検査にまわすことしかできませんでした。
あちこちで「看護婦さ~~~ん、助けたってよ」泣きながら保護者の方に呼び止められ
「すぐ来ますから」というだけで何もしてあげられないのが辛かったなぁ。

2時間くらいたったとき保健所から連絡があり、「O-157」の食中毒らしいということが判明しました。
でも・・・・もちろん資格のない私には全く知識がなく病名すら知らなかった。
医師に説明してもらい、やっとことの重大さに気がつきました。
「えぇ~っ、2次感染するの・・・・」
私はそれまで大量に検査室に運んだ血便を、素手で扱っていたんです。
もちろん毎回手洗いはしていましたが、自分の体に感染していないとは言いきれません。

原因は小学校の給食だったとか。うちの子は保育園だからと安心はできません。
家族間での2次感染で保育園にも被害は広がっていきました。
トイレでイチゴジャムのような血便のオマルを洗い流しながら
「もし私から子どもに感染したらどないしよ」と怖くて泣きました。

その日から毎日がひどい状態でした。ロビーにも廊下にも点滴をつないだ子どもが寝転がり、まるで野戦病院のようでした。
症状がひどく腎臓に障害が残り、府の大きな病院へ移った子や、その後何年も尿検査に通う子もいました。

同じ「子を持つ親」として保護者の方の悲しみや苦しみもよくわかる。
それなのに資格がないために、あくまでも補助しかできない悔しさ。
目の前で消えていってしまった小さな命。
無力感・喪失感・恐怖・・・・・いろんなことを感じ、学んだ仕事でした。

やりがいは確かにあったけれど、そのまま資格をとって看護士に・・・と思えるほど私は強くはありませんでした。
ただ、命の大切さは身にしみたし、「この子達が元気にいてくれるから自分はがんばれるんや」
ということは今もしっかり心に残っています。


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