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ラナ・ゴゴべリゼ「金の糸」元町映画館
ノートパソコンのキーボードを打つ手が映し出されて、打っている言葉が聞こえてきます。
「すばらしい言葉、失われたときを求めて。」
そう呟いて手を止めたところでカメラは引いていって、赤毛で、80歳はゆうに超えていると思われる女性が映し出されました。見ている映画は ラナ・ゴゴベリゼ監督
の 「金の糸」
です。
女性は自らの人生を振り返る 「野の花」
という作品を執筆中であるらしい エレネ(ナナ・ジョルジャゼ)
という作家です。今日が 79歳
の誕生日ですが、誰もそのことに気づいてくれません。足元が不自由であるらしく、室内でも杖をついて歩いています。
娘夫婦と暮らしているらしいのですが、彼女のそばに来るのは 孫娘のエレネ
だけのようです。孫娘の母親はアメリカに留学中のようで、彼女は祖母の家に預けられている少女のようです。
その日、 アルチル(
ズラ・キプシ)
という老人から、 エレネ
に電話がかかってきます。 エレネ
のかつての恋人です。電話の向こうの男は車いすに座ったまま受話器を握っています。
立て続けに、同居している娘夫婦の姑 ミランダ
(グランダ・ガブニア)
という女性が引っ越してくることが娘から伝えられます。老人性痴呆を発症したらしい姑をひとりにしておくことはできないというのが娘夫婦の言い分です。 ミランダ
との同居を拒否する エレーネ
に、娘の口から家計の苦しさが宣告されます。
老作家エレネ
、 元共産党の幹部ミランダ
、電話の向こうの、 元恋人アルチル
という老人三人の映画でした。
映画の舞台である ジョージア
という国は、シマクマ君が地理を習った頃は グルジア
と呼ばれていて、 ソ連邦
の一地域でした。黒海の沿岸の国で、あの スターリン
の故郷だったと思います。 1991年
、 ジョージア共和国
として独立し、現在、 ロシア
とは国交を断っているはずです。 2022年
、 ウクライナ
を相手に戦争を始めた プーチン
には、もう一つの目障りな国かもしれません。
老人たちが暮らしているのは 首 都トビリシ
の旧市街のようですが、主人公 エレネ
は家の前の通りを、タバコをくゆらせながら、ベランダから眺めているだけという設定でした。
ベランダで娘から禁じられた煙草をくわえ、 「金継ぎ」
という陶器の修復法さながらに 「失われた時」
を思い浮かべる彼女の姿は、ベランダ越しに団地の四季の移り変わりを、日々ぼんやり眺めている シマクマ君
には、とても他人事とは思えないのですが、あらわれた二人の老人は、彼女が 「金継ぎ」
しようとする 「失われた時」
に、新たなひび割れを加えていくところがこの作品の妙味でした。
91歳
だという ラナ・ゴゴベリゼ監督
は、ソ連邦当時の ジョージア
で最初の女性の 映画監督ヌツァ・ゴゴベリゼ
という人の娘だそうです。 1937年の大粛清
で父は処刑され、母も流刑になるという幼児体験から
ラナ・ゴゴベリゼ監督
の人生は始まったようです。その彼女が劇中で エレナ
に託したのは、おそらく 90年
を超える、彼女自身の 「失われた時」
の 「金継ぎ」の夢
だったと思いました。
記憶と現実の混濁の中で、牛小屋になっている嘗ての政治局の会議室をさまよう ミランダ
の姿を見ながら、ぼくは、90年の歳月をかけて、歴史に対する寛容にたどり着き、新たな歴史への希望を訴える監督を感じましたが、その映画と ロシア
による ウクライナ侵攻
の最中に出会うという皮肉な現実もまたあるわけで、見終えて座り込みながら、当てもなくボンヤリしてしまいました。
三人の老人たち
に 拍手!
孫のエレネ
を演じた少女に 拍手!
90歳
を超えた今、希望を語ろうとした ラナ・ゴゴベリゼ監督
に 拍手!
でした。
監督 ラナ・ゴゴベリゼ
製作 サロメ・アレクシ
脚本 ラナ・ゴゴベリゼ
撮影 ゴガ・デブダリアニ
音楽 ギヤ・カンチェリ
キャスト
ナナ・ジョルジャゼ(エレネ)
グランダ・ガブニア(ミランダ)
ズラ・キプシゼ(アルチル)
ダト・クビルツハリア
2019年・91分・G・ジョージア・フランス合作
原題「Okros dzapi」「THE GOLDEN THREAD」
2022・04・10-no51・元町映画館no115
偶然、同じ時に見た若い人の感想を聞いていて、若い人たちの知識とか経験から、共産主義とか、スターリン主義とか、60代後半の老人には、20代にかなり切実な問題だった20世紀の歴史に対する評価が抜け落ちてしまっていることに、少し驚きました。
たとえば、この作品は、 ジョージアという国
の、ソビエト時代の弾圧、独立後の反動、民族主義、そして、今、 ウクライナ
で露わになっている、 旧、宗主国ロシア
による覇権主義に対する、見る人それぞれの歴史知識とそれに対する考え方なしには、 主人公エレネ
の金継ぎの夢の切実さは迫ってこないんじゃないでしょうか。
映画は映像によるイメージとして描かれますが、そのイメージを読むのは見ている人間の 「脳」
なわけで、 「脳」
の読みを促すのは、そのバックグラウンドなわけですから、見ることによって生まれる 「わからなさ」
の理由である無知をなんとかしようという努力は不可欠なのではないでしょうか。知識が見ることをゆがめることもありますが、深めることもあるとぼくは思います。
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