「私有地」 第一話


第一話



 姉が自分の恋人を殺した。
 同棲していたマンションの寝室で、眠っている恋人の首を絞めたのだ。
 私は淋しい。恋人の首を絞めた後、姉も死んだからだ。



 蒸し暑い7月のある日、大学での講義を終えて、私は渋谷へ向かった。
 渋谷駅から徒歩10分ほどのところにある喫茶店で衣山くんと待ち合わせている。
 午後3時。約束の店に入ると、奥の席に衣山くんが座っていた。
 アイスカフェオレを飲んでいる。
 グラスをテーブルに戻してもなお、自分の手元から視線を外さない。うつむいているかのような姿勢で静止したままだ。
 近づいていくと、彼は目を上げた。うつむいていた名残を漂わせた頬が控えめに緩む。
 その途端に私は思い出した。
 彼は最初に会った時もうつむいていた。
 この人、何か悲しいことでも考えているのかしらと心の中で身構えたのを覚えている。
 しかし彼と目が合った時、その印象が間違っていたことがわかった。
 彼はとてつもなく穏やかなのだ。そのために悲しそうに見えることがある。


「こんにちは」
 特に表情を作らずに私は言い、衣山くんの正面に座った。
「こんにちは」
 衣山くんも目の半分ぐらいで微笑んで言った。
「思った通り普通の顔してるわね」
「柚ちゃんも」
 私の頼んだアイスコーヒーがくるまでの間、私たちはあたりさわりのない話をした。間近に迫った大学の試験の話や、夏休み中にする予定のアルバイトについて。

 お互いに親しい身内を失って、私たちからは同じ匂いがしているようだった。
 普段の生活をしていると感じないのだが、こうして衣山くんを前にすると、私たちから消え去ったもの、私たちが新しく背負ったものが確実にあるのだと、体が感じる。

「懐かしいね」
 衣山くんはまたアイスカフェオレのグラスに目を落としている。
「そうね」
 彼は実体としてそこにいた。そのことが私を安心させる。
 姉と、姉の恋人の慶さんにはもう実体がない。
 独りで日常をやりすごしていると、自分自身の輪郭までぼやけてくるようだ。そうなることで、私の中での姉の輪郭もなくなっていく。
 それは嫌なことではない。姉が死んだ時点で、私の人生は半分姉のものになったのだ。姉の輪郭が薄れようとも。
 ただ、こうして衣山くんに会うと、私の人生がまだ全部私一人のものだった頃、そして姉の人生も姉一人のものだった頃を実感として思い出すのだ。
 衣山くんが言う「懐かしいね」もきっとそういうことなのだろう。
 衣山くんも私も、口数は多くない。



 慶さんのことを私は「衣山さん」と呼んでいた。
 ただ、衣山さんと衣山くんが揃った場で「衣山さん」と呼ぶのは紛らわしいので、「慶さん」だった。「慶さん」と「衣山くん」だった。
 慶さんと衣山くんと私の3人で会ったことは数えるほどしかないので、おもに、姉と慶さん、私と衣山くんの4人が揃った時だけ「慶さん」になった。

 姉は、慶さんと電撃的に恋に落ちた。
 その割りに冷静だったように思う。
 珍しいことだった。
 姉ははっきりと見て取れるほどに恋愛にパワーをつかう。
 本人にその自覚はないようだったが、新しい恋に出会った時、それはそれは恋をしている女の顔になるのだ。
 慶さんとの恋が始まった時も例外ではなかった。
 しかし、どこか冷静だった。
 自然で、深呼吸をしているようだった。

 慶さんと出会って3ヶ月で姉は彼との同棲を決め、3年間付き合っていた恋人との別れを決意し、実行した。
 慶さんも自然に姉との生活を受け入れた。
 私と、慶さんの弟である衣山くんも、当人たちほどではないが、受け入れた。
「葵さんには、自分の行動を他人に納得させる力があるから」
 いつだったか衣山くんがそう言ったことがある。
「葵さんの世界のパワーは強いんだ」
 そう、だから誰かを傷つけもする、と私は思った。
 恋人を、友人を、家族を、そして姉自身をも。





© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: