1.「カマキリ」


秋晴れ。柔らかい風が途切れない午前11時。
メインストリートから外れた道は古ぼけた民家の合間を通り抜け、やがて廃墟のような建物へと続く坂道になる。
人気はない。
坂道の脇のブロック塀を背もたれにして若い男女が座り込んでいる。



男: (空を見上げて)ねえ、あの雲何に見える?

女: (同じく顔を空に向けて)雲ってガスのかたまりだから、上に乗ることはできないのよね。

男: ・・・そうなんだ。

女: 小さい頃よく雲を見上げて、あの上で昼寝ができたらどんなに気持ちがいいだろうと考えていたから、雲が固体じゃないと知った時はショックだったわ。

男: そういう事ってよくあるよね。すごく好きな本を書いた人が不細工だったりとか。

女: 自分の中でイメージが確立していて何の根拠もなく信じきってしまう。信じてさえいないのかも。もっと無意識な感じのもの。

男: (再び空を見上げ)でかいんだろうねえ、あの雲。

女: そうね。風に流されてどんどん大きくなっている。

男: 実は小さかったりして。

女: ・・・。

男: ・・・で、何に見える?

女: 波。空は海。あなたはどうなの?

男: おお。

女: 嘘。雲は雲にしか見えない。特に今は、何かにたとえる気にはなれないわ。

男: なんだ。そうなんだ。僕もだけど。

女: やっぱり。

男: そう。やっぱり。

女: ・・・(空を見上げるのをやめ)風が吹くと落ち葉が動くわね。みんなどこかへ向かっている。あなたといると、世の中の流れから取り残されたような気分になる。

男: 僕たちは動かないからね。断固として。

女: 可哀相な2人ね、私たち。

男: 濡れた仔犬のようだね。でも心地いい。仔犬はかわいいし。

女: そう。可哀相で、いとおしい。

男: 完結してる。続きはない。

女: 遮断している。現実世界を。

男: ここはどこ?

女: 本当の現実でしょ。こっちが本物。

男: じゃあ、いつもいるあの世界は偽物ね。納得。戻りたくねーなー。

女: 消えちゃう?このまま。

男: いいねー。

女: 今この瞬間、あの車が私たちに向かって突っ込んで来たら本望ね。

男: あのハイエースね。おあつらえ向きだ。あの存在感、明らかにこっちサイドだもん。

女: でも真正面から来てくれないと、同時には死ねないわね。

男: だね。しかも1人だけ助かったりしたら嫌だよねぇ。

女: 悲劇そのもの。

男: じゃあ、ドカンと一発で決まるように・・・。でも必死になれるかなあ。もうこのポジションから動けない気がする。例えば、あなたの方へ車が向かって行って自分はもしかしたら微妙に助かるかもしれない位置で・・・まあ、ちょっとずれれば済むことなんだけど。

女: この空気に捕まってしまった以上、動けないわね。元の世界に戻れるのかしら、私たち。

男: さあ。無理かもよ。ねえ、あの落ち葉、K君みたいじゃない?

女: じゃ、あれはK君に決定。彼はどこに行こうとしてるのかな。

男: フラフラしてる。

女: しかも風が吹いてもなかなか動こうとしない。

男: 変な奴だ。

女: 彼らしい。旅にでも出ようとしてるのかも。気ままな旅に。

男: いや、彼は別に放浪したい訳じゃないんだよ。せざるを得ない奴なんだよ。

女: ふふふ。そんな人生か。あ、動いた。

男: やっぱりここじゃないって思ったんだろうな。

女: そうね。あたたかく見守りましょう。あ、カマキリ!

男: 本当だ。

女: カマキリって怖いのよね。あの手が。

男: 僕は目が怖い。充血するから。

女: 以前、歯医者に通っていた時、入口のドアの取っ手にカマキリがいて入れなかったことがあったわ。

男: へぇ、そんな事が・・・あ、動いた。

女: こっちに向かって来る!

男: ほ、本当だ。どうしよう!

女: でも今この空気だときっと動けないわね、私たち。

男: だってハイエースが突っ込んで来ても動けないんだもの。

女: あのカマキリは、こっち側の世界の住人ね。

男: 奴にも迷いがなさそうだからね。

女: 動かなくなったわよ。

男: 迷ったか?

女: 考えてるのよ、きっと。

男: 何を?

女: どうすべきかを。

男: だから、ハイエースが突っ込んだ方がいいんだって。奴にもハイエースが必要だよ。

女: 今、目の前であの子がハイエースに轢かれても私たちにはどうすることもできないわね。

男: 見てるだけ。しかも、見るだけ。

女: それ以外の選択肢はない。

男: 自分たちが轢かれても多分同じ。

女: 絶対にそう。あ、K君があんな遠くに行ってる。

男: やはり、落ち着かない奴だな。

女: でも、他の葉っぱとの区別はつくわね。

男: 個性的だもの・・・アレッ?カマキリは?

女: いるじゃない。あそこに。

男: どこ?どこ?

女: あそこ。見失った?

男: 見失った。うーん。どこ?

女: えっと、向こう側にブロックの枠があるでしょ。

男: うん。

女: あの枠の一番右側から1、2、3・・・・・7つ目のところ。7つ目の枠の前。

男: ・・・あー。いたいた。

女: ね。ちゃんといるでしょ。さっきより少し遠ざかっている。



しばし沈黙。




男: ところで僕たちどの位ここにいるんだろう?

女: 分からない。時間の感覚が全くない。

男: でも時計は出さない、というより出せない。

女: 動けないからね。この空間だけ時間が止まってない?

男: 止まってる。もしかしたらもう終わってたりして。

女: その通りだったらとても幸せね。

男: そうだね。終わってたら幸せ。うん、確かに。




黙ってぼんやりとする2人。

しばらくすると坂の上から警備員が2人の元へやって来る。


警備員: すみません、ここ私有地なんでね。すみませんが・・・ねっ。


男と女は立ち上がり坂道を下る。




男: カマキリはいいのかな。私有地なのに。






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