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太陽パワー続行中。 何せ人間らしい生活を送っているのだ。 昨日の大雨にもめげない力をここ数日の太陽からもらっていたらしい。 昨日ふと気付いたことがある。 家でゆっくりと、飲み物を自分で用意して飲むことができる状態にある時は、生活の状況が大抵安定しているということ。 ここ最近、非常によく家で飲み物を飲む。 昨日も、麦茶、紅茶、梅こぶ茶を飲んだ。ついでにジンジャエールも。 自分で飲み物を用意して、ゆっくりと飲む。 心に余裕がある証拠だ。 今までの生活を振り返ってみても同じことが言える。 忙しさは関係ない。 心が自分の力でしっかりと立っていれば、お茶を湧かせる。紅茶を淹れられる。ジュースに氷なども入れられる。 心が安定しないと、お茶や紅茶やジュースがすべてお酒に変るので要注意だ。 朝型生活になってから、日記を書くのに苦労している。 性格まで変わってしまったようだ。 深刻さが消え、真剣さが強みを増した模様。 太陽は世界を明るく照らすけれど、その光に目が眩んで、見えなくなるものもあるのだと痛感している。 見えないものは、ないものと見なすことも可能で、このまま太陽と仲良くし続けたら「おめでたい」人間になりそうな気がする。 太陽とも月とも仲良くする方法はないのかもしれない。 朝起きて見る太陽と、夜の延長でやってくる朝の太陽は別物であり、寝る前に見る月と、夜を主な生活時間としている時の月の存在もまた別物である。 昼の太陽とも、深夜の月とも付き合いたいのに・・・ この日記を書きながら、穏やかに苦悩しつつも梅こぶ茶を1杯。
2004年03月31日
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一日がとても気持ちよいのである。 外は春。 窓を開けても、部屋の中と外の気温がほぼ同じ。 これは幸せな気候だ。 ずっと完全夜型生活を貫いてきた私が、ここのところ何故か朝型生活になっている。 朝型にしようと思った訳ではないのだが、気付いたら0時ぐらいに寝て、8時頃目が覚めていた。 そして精神状態がかなり良好である。 一日がとても気持ちよいのである。 毎日ご機嫌で、柄にもなく仕事を探してみたり、おいしいものを作ってみたり。 しかし、困ったこともある。 暗く、深く、自分の内面に沈むことが難しくなりつつあるのだ。 HPの日記もなかなか納得のいくものが書けない。 暗くていびつで、辛がりたがるのが私のウリなのに。 私がこれまで、いかに夜に頼っていたかを思い知ることになった。 夜の闇に紛れて、目を凝らし、耳を澄まし、自分の中にうごめく何かをつかもうとしてきたのが、昼の平和で明るい空気の中では同じようにはいかない。 夜が恋しくもある。 太陽を狂暴なものと感じ、眩しすぎて馴染めなかった自分が愛しい。 いつでも戻れる距離に夜はあると思いたい。 あの夜の静けさを失いたくない。 そんな私の思いも、平和で暖かな春の太陽の下では深刻な形をしていない。 それが少し寂しく、遠い。
2004年03月29日
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私はこの数ヶ月間ずっと全力で走り続けてきた。 そのことにふと今日気付き、走るのをやめようと思った。 少しゆっくり歩こう。 そう決めたら楽になった。 私を応援してくれる人もたくさんいる。 私のペースを見守ってくれる人がたくさんいる。 だから自分のペースで歩こうと思った。 一歩踏み出せばそこには道があるのではないか、と。 少なくとも私には今日があり、明日も多分ある。 急ぐのをやめます。 解決すべきことも放っておきます。 今は、「もしかしたら、解決すべきことなんて何もないのではないか」という気にもなってきて、それはそれで・・・ とりあえず今日は逃げ道を自分で増やすことができました。 にっこり。
2004年03月27日
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もしお金持ちになったら何をするか・・・ 今、経済的に余裕のない状態の私が最近よく考えることです。 まず思うことが、食品関係のことです。 家で使うマーガリンを、コレステロールを下げるものにする。 スーパーでよく見かける、600円ぐらいする、かわいいハートのマークが書いてある箱に入ったやつ。(分かりづらい?)あれにする。 そして、油はエコナにして、マヨネーズはコレステロール0のものに・・・ 具体的に思うのはいつもここまで。 しかも考えてみれば、全部コレステロールに関係している・・・ 何故だ? 別にコレステロール値は問題のない状態だし、健康上の不安を抱えているのでもない。 今、食べ物に困っているわけでもない。 挙句の果てに、私はマーガリンなど、滅多に使わない。 油はずっとコレステロール0のものを使っているし。 だからといって健康マニアというわけでもない。 不思議です。 そして何といっても想像がしょぼい。笑。 私はお金なんて求めていないのかもしれませんね。 ただ、今よりお金があったら精神的な余裕はもっとできるのでしょう。 「いざという時」にも落ち着いていられるかもしれない。 今一億円当たったら・・・などと考え、マーガリンやマヨネーズのことに思いをめぐらせていると、それだけで楽しくなってきます。 一億円は私のものだ!という気にさえなってきます。笑。 宝くじすら買っていないのに。 いつか本当にお金持ちになることがあったら、こんな私でも金の亡者になったりするのか。 それはそれでいいだろう。 あ、お金持ちになったらタクシーを頻繁に使ったりするのかな。(私はタクシー嫌い)
2004年03月25日
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毎日が穏やかで楽しかったらいいな、と思う。 本当はそれだけでいいのに。 ずっと一所にとどまっていると、内へ内へとこもるものなのかもしれない。 自分の周りのものが色あせて、空気が澱んでくるのかもしれない。濁ってくるのかも。 これに耐えられればこっちのものだ。 嵐の真っ只中。 しかもその嵐は自分で引き起こした。多分。 嵐の中にいる時は、この嵐がずっと続く気がする。 もう二度と穏やかな風に触れることはできないだろうと信じ込む。 それでも逃げようとする私は強いのか、弱いのか。 明るくて楽しいことを考えたい。 もう春。 中学校の教室の窓からは、草の中を行く一本の土の道と、たくさんの菜の花が見えたっけ。 晴れの日も、雨の日も、明るい風景だった。 菜の花の中を友達と歩いたっけ。 実は私は春が苦手。 好きだけれど、苦手。 命が生まれて、「新しい」ことが多く始まる季節だから。 「新しい」ことは苦手。 慣れないから。 新しい空気が漂い、落ち着かなくなる。 逃げ帰りたくなる。 「ここではない、どこかへ」 今この瞬間、私の近くには何の味方もない気がする。 でも大丈夫。 これは今だけの感情。 きっと大丈夫。
2004年03月24日
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わからないことがたくさんある。 私の名前は? green。 年齢は? 27歳。 性別は? 女。 大切なものは? 自分。 好きな食べ物は? ある。 好きな本は? ある。 好きな映画は? ある。 好きな人は? 結構いる。 どうしてここにいるのか? どうやってここまで来たのか? ここはどこなのか? 私は何をしているのか? 私の選んだ道は正しいのか? 正しいか正しくないか、どうやったらわかるのか? 私は今進んでいるのか、立ち止まっているのか? 大切なものをどう扱ったらよいのか? 誰かに優しくするにはどうしたら? どうしたらすべてのものから逃げられるか? 私の存在意義はあるのか? 今、私はどうしたらよいのか? 泣く理由は? 私のこの道の先には何が? 私の名前は? 自分が好きか? 好き。
2004年03月23日
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小学生の頃の話。 私が通っていた小学校では高学年の生徒が低学年の生徒の教室に行き、一緒に遊んだり、掃除を手伝ったりするシステムがあった。 私も6年生の時、2年生のクラスに行くことになった。 初日、男女混ざった数人のクラスメートと一緒に2年生の教室に行った。 まずは自己紹介。 名前と好きな色、好きな食べ物を言うことになった。 男子の自己紹介が終わり、女子の番。 私は一番最後だった。 私の他に女の子は3人いたと思う。 一人目が「好きな色は水色です。好きな食べ物はメロンです」と言った。 すると、二人目の子も何故か好きな色は水色、好きな食べ物はメロンだと言った。 三人目も。 私の番になった。とても困った。ここで自分の本当に好きな色と本当に好きな食べ物を言いたいと思った。 しかし、何故か、本当に何故か、私も水色とメロンの魔術にかかってしまった。 私が水色とメロンを口にした瞬間、前の方に座っていた2年生の男の子が「やっぱり!」と言ったのをはっきりと覚えている。 今思い出しても不思議な体験だ。 そして激しくもどかしい気持ちにもなる。 きっと二人目の女の子も、そして三人目の子も、水色、メロンと言うつもりはなかったに違いない。 私もあの短い瞬間に自分の中で闘った。ここで水色とメロンと言ってはいけない!言いたくない!と強く思った。 みんなと同じことを言わなければいけないなどという考えはまったくなかった。 しかし得体の知れない力に囚われ、抗えなかった。 その時に感じた釈然としない感覚を今も覚えている。 今となっては「あれは何だったのだろう」と不思議で、少しおかしくもあるのだが、やはり口惜しい。 あの時の空気を打ち破りたかった。 水色とメロンを思い出すたび、今でも胸がチクッとする。 あの時私の横にいた女の子たち、水色とメロンと言った彼女たちが誰だったのか、もう忘れてしまったが、できることなら彼女たちがあの時のことを覚えているか、覚えていたらあれは何だったのか、どう感じていたのか、話し合ってみたい気持ちである。
2004年03月22日
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どうしても夜に目が覚める。 結果的に、夜を過ごさないと一日が進まないようになっているらしい。 不規則に寝たり起きたりしているので日付の感覚がまったくない。 それでも今日は昼間起きていて、外にも出てみた。 気持ちのよい太陽を感じた。 昨日は早朝に起きたので、昼を過ごすにも何の問題もない体調だったにも関わらず、昼間に慣れていないので、違う世界にいるような、寝不足のような錯覚を覚えた。 昼には珍しく肉をたくさん食べた。 ・・・と思ったら体調を崩した。 日頃肉をそんなに食べないので体がびっくりしたらしい。 そんな体に自分でもびっくりしている。 最近は「食べる」ということにあまり熱心でなく、空腹の限界まで耐えてしまうので、大抵常に空腹を感じているような気がする。 空腹感と満腹感。 どちらが好きか。 私は迷わず前者である。 体の中に何も入っていないと感じるのは気持ちのよいことだ。 子供の頃から、必要以上に満腹になると、罪悪感に似た感情が湧き上がってくる。 理由は未だにはっきりしない。 そういう時は、場合によって「食べ過ぎて気持ち悪いから自分の体に申し訳ない」だとか、「恵まれない国の子どもたちに申し訳ない」だとか様々な謝罪を心の中で思うようにしている。 腹八分目とはうまく言ったものだ。 一番適当な食欲の満たされ方。 まだ入るけれどあえて二分は空けておく。 その空白が、食べ物の味わい、体と心の快適さを最大限に保つのだろう。 「昼間」と「しっかりと量のある肉」。 夜型生活が基本、そして肉からは遠ざかりがちだったこの頃の私としては今日は小さな冒険をした気分だ。**************************** 「詩にたがり」のコーナー。「一人ダンス」更新しました。
2004年03月21日
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昨日は友人Yに毒と薬をもらった。 おそらく私も彼女に毒(主に?)と薬(少しだけ?)を与えただろう。 Yとは大学生時代からの付き合いで、今も交流は密だが、会うのはおよそ3年ぶりだ。 人間と人間の関係であるから、私とYにも当然のようにいくつかの段階があり、今は今の私たちに合った関係を保っている。 人間関係は生ものであることを私もYも知っている。 自分のことを本当に愛してくれている友人との空間は心地よい。 だからこそ私は彼女に毒も薬も出し、私も彼女から毒も薬も受け取っている。 ありのままの姿で付き合える、貴重な友人。 居酒屋で飲みつ語りつ朝まで・・・ 朝からは鎌倉・湘南方面へ海を見に。 砂浜で散々はしゃぎ回り、あっという間に昼前。 彼女は電車で関西まで帰って行きました。 「楽しく」「遊ぶ」だけではなく、重く真剣に「楽しく」「遊び」ました。 そう。「楽しく」「遊ぶ」こと自体は嫌いではない。 ただ楽しいだけ、ただ遊ぶだけ、というのが苦手なのです。 とてもよい時間を過ごしたのですが、朝になった頃から少しずつ胸がざわざわとし始め、発作が・・・ 日頃私は完全夜型生活をしているので、たまに日にあたると不安定になることがあるのです。 こんな私をもYは受け止めてくれます。 腕をぎゅっと掴んでいてくれました。 言葉では何も言わなくても彼女のあたたかい気持ちが伝わってきました。 彼女にも抱えているものはありますが、どうか彼女が自分の人生を自分の歩幅で歩けますよう、私が彼女にとって少しでも支えになる存在でいられますように、と心から思います。 しかし、太陽というのは人間の味方だと思っていたけれど、時と場合によっては心をざわざわさせる厄介な存在にもなり得るのだと改めて知って愕然。 今の私には太陽より月の方が合っているようです。 それも悪くないけれど。
2004年03月19日
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今日はこれから友人と久しぶりに会います。 今の私の心理状態。 楽しみに思うと同時に、そわそわしています。 相手は気心の知れた、重い話も軽い話もできる大切な友人なのですが、彼女が日常的に会う距離にいないということと、普段私があまり人と会わないということから、おかしな話、緊張しています。 ピアノの発表会で自分の出番を待つ気分。 お腹まで痛くなってきました。笑。 私は「ただ楽しい」ことが苦手です。 誰かに会って楽しく過ごしても、楽しいだけだと、家に帰ってからその気持ちの処理に困ります。 プラスでもマイナスでも構わない、強いものを感じられないと、不完全燃焼のような状態になり、もやもやします。 それに関係しているのか、「遊ぶ」という言葉もまた苦手です。 友人に「遊ぼう」と誘われるとどうしてよいのか分からなくて困ります。 同じ状況で「会おう」と言われた方が抵抗がありません。 「遊ぶ」とは何をすることなのか。 きっと「会う」ことと大差ないのでしょう。 しかし私は妙にその言葉に引っかかってしまいます。 私の中では「遊ぶ」という言葉がきっと浅いもの、軽いものに属しているのでしょう。 偏見ですね。 今日これから会う友人と過ごす時間はよいものになるでしょう。 緊張しつつ会いに行ってきます。
2004年03月18日
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よくも悪くもない心の状態というのは気持ちが悪い。 積極的に苦しいのではないが、ゆったりと穏やかなわけでもない。 悪くない=平常心とはいえない。 平常心でいられればそれが一番理想的だが、なかなかそうはいかない。 今も、この静けさは何だろう、と自分の心臓の音に耳を澄ますと、逆に波が襲ってきそうで怖くなる。 只今、自分をうかがうようにしてじっとしているところ。 あまり動くわけにはいかない。 楽しい時や、苦しい時の自分は想像ができる。 しかし、平常というのがどういうものだったか・・・ 考えてみると、ここ数年、「平常」とは無縁だったような気がする。 どんな状態の自分が自然なのか、分からなくなっている。**************************** 谷川俊太郎「ナンセンス・カタログ」より 『気分』 どんな立派な思想を持っている人でも、人間なら気分から逃げられないんじゃないかしら。人間が生きてるってことは、刻々に移り変わる気分の流れの中を泳いでいるようなもんだって感ずることがある。逆らって泳ごうとしても、たいていの場合うまくいかない、流れにまかせていると、そのうち気分のほうでちゃんと変ってくれる。 気分というのは喜怒哀楽の感情ほどにもはっきりしなくて、名前のつけようがないんだ。だからこそ、とても深いところで人間を支配しているね。相手の表情ひとつで気分は変るし、天気によっても気分は変る、そのくせ自分で変えようと思ってもなかなか変らない。無理やり忙しくするとか、体を動かすとかして、けっこう苦労するんだ。で、ぼくの場合、どんな気分がいいかと言うと、やはり平静なのがいい。 浮き立つような気分も悪くないけど、これもどこか不安定なんだ。不快の反対は快ではなく平穏だって説をどこかで読んだけど、本当だね。ヨガや座禅は先ず第一に気分のコントロール法なんじゃないかな。お茶とかお花などもきっとそうだし、音楽もまた気分のコントロールに役立つ。気分について論じた本を読むのも有効だ。今、ぼくはO・F・ボルノウという人の「気分の本質」というのを、読み始めています。**************************** 気分について考えていたら、昔読んだこの本のことを思い出したので引用。 今日は文章を書くパワーが不足しているので。 谷川俊太郎氏は、難しい言葉はつかわないのに、物事の本質をきちんとついている。 「自分にしか書けないことを、誰にでも分かる文章で書く」ことがよい文章を書く基本だと、ある本で読んだことがある。 谷川氏の文章や言葉はまさにそれにあてはまる。 大好きな詩人だ。 気分のコントロールに関しては私はとっくに諦めている。 とても波には逆らえない。 今も、この変な気分が去るのを待つしかない。 待とう。 夜の中で。
2004年03月17日
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朝目覚めると、布団の周りにヒヨコがたくさんいました。 鳴き声がうるさく、しかしフワフワしていてかわいいのでどうしてよいのか分からず、途方に暮れてしまいました。 まず、このヒヨコたちはどこから入り込んできたのかを考えました。 答えは一つだけ。 窓を開けたまま寝てしまったのです。 分かるのはそれまで。 ここは住宅街。 ヒヨコがいそうな場所は思い当たりません。 誰か近所の人の飼っているヒヨコたちが迷い込んできたとしか思えません。 このヒヨコたちをどうすべきか。 彼らを踏まないように気を付けて布団を出ました。 食べ物をやった方がよいのかどうか。 試しに、家にあったロールパンを小さくちぎってヒヨコたちにあげてみました。 彼らはピヨピヨ言いながらパンに群がりました。 私の頭は混乱するばかりです。 ヒヨコの頭を数えてみると、7つ。 警察に届けるべきだろうと考えました。 交番は、歩いて20分ほどかかる駅前にあります。 ヒヨコたちを連れて20分歩くのか・・・と変な気分になりましたが、110番するのもおかしな話、ここはやっぱり交番に連れて行くのが妥当だろうと思いました。 しかし、入れ物が見つからない。 何とか適当な大きさのダンボールを探し出したはいいのですが、鳥なんて触ったこともありません。 私は鳥が苦手なのです。 ヒヨコは見た目はかわいいものの、あのクチバシは紛れもなく鳥のクチバシ。 つつかれたら痛いのだろうか。 あの足は紛れもなく鳥の足。 爪を立てられたら痛いのだろうか。 しばらくパンをつつくヒヨコたちを見ていましたが、私が動かなくては事態は何も変わりません。 意を決して軍手をはめ、ヒヨコをダンボールの中に移しました。 つぶさないようにやわらかく、手を丸めるようにして・・・ 足の爪が軍手に引っかかったり、クチバシでつつかれたりしましたが、痛くはありませんでした。 すべてのヒヨコをダンボールに入れ終える頃には汗びっしょりになっていました。 ヒヨコ入りのダンボールを持って、交番まで。 箱の中で彼らが鳴くので、ヒヤヒヤしつつも何とか運びました。 交番のおまわりさんも事情を聞いて戸惑っていましたが、預かってくれることになり、一安心。 こんなことがあるのですね。 いや、ありません。 これはすべて作り話です。 何となく嘘をついてみたくなったのです。 ごめんなさい。 お知らせ。 「ほめ殺し!」のコーナー。 今回はなんと!ルー・大柴をほめ殺します。 詩にたがりのコーナー。 「泣く理由」 by green 以上2つ更新しました。 よろしければご覧になって下さい。 これは本当の話です。
2004年03月16日
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友人Mへ あなたからのSOSは夜にくることが多い。 あなたも夜を自分の居場所としているのだろう。 あなたと出会った頃、 あなたは周りの子たちとは明らかに違っていた。 気難しく、心を閉ざし、それでも笑っていた。集団生活の中で自分の居場所を探しているようだった。 あなたに集団生活は似合っていなかった。 辛そうだった。 あなたは私に本当の自分を見せた。 あの頃の私は、ただ単に幸せな環境にいて、何も知らないガキだったのに。 あなたを受け止めることしかできず、あなたの重い苦しさを理解することなんてできなかったのに。 あなたに近づいた時、同情はしなかった。 自分の幸せも実感しなかった。 ただ、私とは「違う人間」だと理解した。 似ている者同士がくっつくあの年代のさなか、私はあなたを「他人」であると認識した。 自分以外の他人だ、と。 あなたと出会って、自分のことは自分にしか分からないと私は気付いた。 あなたはとっくにそれを悟っていた。 一人で苦しみ、もがいていた。 助けを求めて聞こえない声で叫び、人知れず泣いていた。 あの時私があなたを「他人」だと理解したから私たちはまっすぐにここまでこれた。 私があの時無駄にあなたに同調しようとしたらきっとあなたを深く傷つけただろう。 あなたは今も傷だらけです。 疲れています。 がんばれとも、休めとも私は言わない。 けれど、辛さを誰よりもよく知っているあなたを私は今、とても近く感じる。 あなたの辛さはあなたのもの、私の辛さは私のもの。 あなたの辛さを理解することはできなくても、辛いあなたのことはよく分かる。 あなたからたまに入るSOSは私にとってはラブコールのようなもの。 まっすぐ心に届く。 アドバイスはしない。 辛いあなたの元へ駆けつける甲斐性もないけれど、 私はいます。 自分の痛みを背負って。 そしてあなたのことを感じます。 友人として。 存在としてあなたの支えとなれるような私でいたい。
2004年03月15日
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小学生の頃、寝る前にふと「明日、学校の帰り道で誘拐されたらどうしよう」と考えた。 「もしも」から始まったのに、考えるうちにその想像が現実味を帯びてきて、「明日私は誘拐される」と確信を抱くまでになった。 そして「明日誘拐を免れることができたとしても、私はまだ子供だからこの先の人生は長い。長い人生の中には危険がいっぱいだ。この先にある危険を全て回避して無事に生きて行くことは不可能だろう。無事に生きて行くために私は一生家から出ないでいよう」という結論に達した。 その晩は「明日起きたらお母さんにこのことを説明して、一生家から出ないでいることを許してもらおう」と自分の中で納得して眠りについた。 翌朝目を覚ました布団の中で、昨夜自分が出した結論について考えてみた。 すべてが馬鹿げたことに思えた。 誘拐される気はしなかった。 人生に対する恐怖も危機も感じなかった。 だから普段通り、学校に行った。 このことについては今でもよく覚えている。 一つのことを考えるにしても、夜考えたか昼考えたかによって真実味、重さ、意味合い、すべてが違う。 大概の場合、昼間考えたものごとの方が「正常で、正しい」のだろう。 そして大概の場合、夜行き着く結論は狂気を孕んでいてどこかしら歪んでいる。 今、私が起きている時間の大半が夜で、当然考える時間も夜が多い。 夜にしか考ることをしないと言っても過言ではないだろう。 逆に昼間に何かを考えようとすると、気持ちが不安定になる。 夜の闇に目を凝らして、浮かんでくるものを感じようとする。たとえそれがどんなに歪んでいたとしても。 今の私にはそれが真実。 現実味がなく、狂気を孕んだ、そういうものを私は求めている。 今日、掲示板に書いたこと。 夜は内省的になりやすく、 どこまで行っても終わりがないので とても危険なのですが、 夜を黒じゃなく、青味がかったような、 それに白が混ざったようなものだと感じる時は、 何か自分の中を一つ深く掘り下げることができたような実感があり、しめた!と思ったりします。 最近夜型生活についての日記を書いたところ、何人かの方がそれについての返事を掲示板に書き込んでくださり、新たに考える材料を頂きました。 ある方は、昼間には「雑多な音」があり、意識を集中させて一つのイメージを掴むにはその音が邪魔だとおっしゃっていました。 そこで私の書き込み。 夜には夜の音がありますよね。 雑多じゃなく、個人的な音。音にならない音? 音は空気の振動からできているのだと理解できるような音。 昼間の音とは明らかに違います。 「昼間は現実世界のもの(だから雑音が多い)で、魂の世界は早朝(未明)か深夜に属する」と書き込んでくれた方もいました。 現実より、形のない魂を感じていたい私は、今は多くの夜に時間を費やす。 それでいいんだ、と思えました。 ある本からの引用です。 一日とは、「ほとんど浪費されている二十四時間の期間。これはメジャーな昼とマイナーな夜に分かれ、昼はビジネスという罪に費やされ、夜はその他の種類の罪に捧げられる。この二種類の社会活動は、一部、時間的に重なりあっている。」 昼と夜、どちらがいいという訳ではありません。ただ、今の私には夜が必要だということです。 日記を書きあぐねている間に夜も深まってまいりました。 では・・・
2004年03月14日
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何ともすっきりしない毎日。 神経科の先生からは、「規則正しい生活を」「朝型の生活を」と口をすっぱくして言われ続けてきたが、結局それを実現できないまま。 自分にその気がないからだ。自分の不安定さを治す気がないからだ。 規則正しい生活、朝型の生活をすればきっと先生の言う通り、改善されるものもあるのだろう。それはうっすらと分かる。 しかし、夜中独特の孤独感や、ひらめき、エンジンのかかり具合というものもあって、私にはそれも大事なものだ。 夜の中でしか開かない扉が私の中にはある。 闇の中でしか走れない思いが私にはある。 それを得るために、毎日不規則な、夜型の生活をしてしまう。 夜型の生活を不規則に続けていると、一日と一日の切れ目が分からなくなる。 一日という単位の時間がするりと自分の手の中から抜け落ちていく。 心の状態が悪いと、記憶さえも曖昧になる。 空白。 それでも考えることは山ほどある。 何かを失うことについて。 最近よく考えることである。 私は欲張りで、潔くもないので、自分が何かを失うということを事実として認めることがなかなかできない。 自分は何も失っていないと思いたがる。 しかしそんなのは幻想に過ぎず、私の中からどんどんこぼれ落ちているものがあるのだろう。 受け入れれば少しは楽になるのだろうか。 失ったものが自分にとって一番大切なものだったとしても? 区切りがつくのだろうか。 私は区切りをつけたくないのだろう。 逃げ場所をたくさん確保しておきたいのだろう。 そんなこんなでさっき起きたばかりです。 この頃は時間単位で気分が変わり、突然大泣きしたと思ったら、その直後に躁状態になったり。 こんな自分に疲れ果て、おかげで最近は睡眠薬いらず。 私はアラスカの雪の中で死ぬことが夢です。 オーロラを待ちながら雪の中に寝転がり、そのまま死んでいけたら本望です。 できればオーロラを見てから死ねたらいいな。 夜は、色々考えすぎる。 危険な、でも荘厳な時間。空間。 深夜とは深い夜。 納得。 こんな私には昼の光は健全で眩しすぎる。 薬もお酒も小説も、夜が似合う。
2004年03月12日
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昨日の発作の余波でしょうか。変なのです。 今日は天気もよく、暖かかったうえに昨日の夕方から眠っていなかったせいで、午前中はテンションが高く、たくさん活動できそうな予感がしていました。 ところが、昼過ぎになってそのテンションもガタンと落ちました。突然気が滅入り出し、嫌な感じが押し寄せてきたのです。 自分自身に振り回される毎日。この、胸につかえたものの重みよりも、午前と午後の精神状態の落差にぐったりしております。これが結構こたえるのです。 今私の周りに渦巻くこの不安感に目を凝らしてみると、なんとなく見えてくる。「自分の居場所」に関する不安。 私には家がない。 随分と遠くまで来てしまった。 もう帰る場所もない。 私の家は消えてしまった。 今はそんな心境です。一体私はここで何をしているのだろう。と、ふと気付いてしまい、足が止まり、前へも踏み出せず、戻ることもできなくなった状態。 いっそ自分を取り巻く渦に身を任せてしまえ!と逃げの体勢に入った途端に、渦までもがピタリと止んで静かになったような・・・お手上げ! ここはどこだ。 眩暈がする。心臓がずっとドクドクいっている。吐き気がする。 私、弱いな。 うなりたい気分。だからうなる。う~~~~~む。 おうち~をきいてもわからない~ なまえ~をきいてもわからない~ う~う~うう~ う~う~うう~ うな~ってばっかりい~る~だ~め~おとな~♪ イヌのおまわりさんはどこにいるのか。あ、いても結局困ってしまうだけだからどうしようもない。 なす術なし! だから書くのです。 書くしかないのです。 それが私の生きる道。 詩を一つ更新しました。 読んでいただけたら光栄です。 というようなことをさっき書いたところで間違って全部消してしまった・・・涙。 これは今日二度目の日記です。 もう余力なし・・・
2004年03月10日
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ピンチです。只今、不安発作におそわれつつあります。 よくあることですが、何度経験しても慣れません。 8年前に、単身上京し、一人暮らしを始めてから精神状態が不安定になり、毎日の中で、自分の波に支配されることが多くなりました。 本当の自分が姿を現わしたという感じです。 2年前から、感情の波が大きい時は人と会うのが恐ろしくなり、電話やインターホンの音にも心臓が跳ね上がったり、動悸が激しくなって吐いたりするようになりました。 ここ1年ほど神経科にも通い、今も精神安定剤を飲んだり、不眠になると睡眠薬を飲んだりしているのですが、根本から解決されることはありません。 困ったことに、私はこんな自分が嫌いじゃない。辛いけれど、「これでこそ私!」という思いもあり、神経科の先生を悩ませたりもしていました。 私にとってこの症状(体質?)の原因は重要ではありません。自分で分かっている原因もあるし、それ以外の要素もあるのかもしれません。 しかしそれをあえて明らかにしたり、病院で分析されたりすることにはうんざりします。 病院を信用していないのではありません。自分以外のものを信頼していないのです。 自分の感情は自分にしか本当には分からない。 私は私のこの辛さを抱えて生きていけばいいと思っています。 とはいえ、こんな私も、自分以外のすべてに対して心を閉ざしているのではありません。恋人や友人、家族の存在は貴重です。 特に、「自分の感情は自分にしか分からない」と知っている人たちの存在には助けられています。 自分以外の他人なしにはやはり生きられないのが人間です。 このHPを日記で紹介してくれたYosujyayaさんにも、いつも救われています。 発作が起きるとメールをし、自分の感情の波に飲み込まれるとチャットをし、救われてばかりです。 私は彼女に、自分のその時の感情をそのままぶつけます。彼女は私の波に飲み込まれません。 なぜなら彼女と私はれっきとした他人同士だから。そして彼女自身も自分の波を抱えているから。 別々の人間なんだと分かっているからこそ、通じ合うものがあり、その時のありのままの自分でいられる貴重な友人の一人です。 彼女を通してこのHPへ来てくださっている方々の存在も大切なものになりそうです。 みなさんのHPにもお邪魔していますが、それぞれの世界があり、感じるものがたくさんあります。 書き込みを通してのやり取りも、楽しく、あたたかく、助けられています。ありがとうございます。 発作が起きた時に、何かしら文章を書くと少しは落ち着いてくるのが私の特徴です。 現に今も、この日記を書き始めた時の精神状態とはかなり違います。 しかも、この文章を読んでくれる人が何人かはいるのです。 さっきまで、「私はどうなってしまうのだろう」とパニック気味だったのが、今は、「今日は薬に頼らなくても乗り切れそうかな」と思ったりしています。 頼ってもお酒ぐらいで済みそうです。 辛がりたがりながらも、辛くなるとすぐに何かに頼ろうとする、「ダメな大人」らしい日記になりました。 ちょっと満足です。笑。
2004年03月09日
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最近、映画をレンタルしてきてよく見ています。平均して2日に1本は見ているのではないでしょうか。 私は好き嫌いが激しいうえにあまのじゃくなので、必然的に見る映画が偏ってきます。 それでもこの頃はなるべく色々な映画を見るようにしています。 その一番大きな理由は、私の父親の存在です。 父は若い頃から映画に魅せられ、数え切れないほどの映画を観てきました。そして映画制作に携わることを夢見ていました。 父は字も絵も上手く、感性も人並みはずれたものを持っているのですが、父本人はとても謙虚で、自分からそれをひけらかすことはしません。 しかしただ謙虚なだけではなく、自分の中に譲れないものも持っています。 そんな父はテレビカメラマンをしています。民放のテレビ局でドキュメンタリー制作をしています。(先日もちょうど父の作品が放送されたばかりです。) 話が父親自慢のようになってきてしまいましたね(笑)。失礼いたしました。 子供の頃からそういう父のそばで育ったので映画を見る目はあると私も自負しているのですが、どうしても偏見が邪魔をして最近では映画を観る気力もあまりなくなっていました。 父はといえば、どんな映画でも偏見を持たずに観に行き、ストーリーだけでなく、映像、演出等々を冷静な目と、研ぎ澄まされた感性で掴んできます。 最近になってそんな父の姿勢がとても羨ましくなり、思い切って(本当に思い切って!)自分の好みではなさそうな作品も見てみたり、人の勧めに素直に従ってみたり・・・ 当たりは少ないですが(ううむ、やはり私の許容範囲は狭い!)、それなりに感じることはあります。 いつまでこの姿勢がもつかは分かりませんが。汗。 最近突然映画の話題ばかりをメールで送りつけるようになった娘を父はどう思っているのでしょう。笑。 昨日見た「ウェディング・バンケット」と今日見た「プリシラ」は、どちらも昔一度見たことがある作品でした。 印象としては残っていたのですが、はっきりした内容は忘れてしまい、見た時期も高校生ぐらいの頃だったので、何か見落としているものがあるような気がして、どうしてももう一度今の自分として見ておきたかった作品でした。 感想としてはどちらも素晴らしかった。面白かった。改めてお気に入りの映画になりました。 人間のあたたかさ、つながり、他人と他人が徐々に心の距離を近づけていくといったテイストの作品が私は好きです。この2本はまさにそんな感じ。 それに加えて「プリシラ」は演出も音楽も素晴らしく、娯楽としての要素も高い。綺麗でした。 興味のある方は是非見てみて下さい。 なお、私の偏見や、あまのじゃくっぷりについては「偏れ!感性」のコーナーでもう少し書きたいと思っています。(注:観る→映画館で 見る→ビデオやテレビ等で)
2004年03月08日
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さっきマシュマロを食べました。なぜ食べたか。それはマシュマロがかわいいからです。 味は大して好きではありません。しかし、あの見た目のかわいさには負けます。 私は丸いもの、正確には丸っぽいものが好きです。卵、豆、大福、うずくまるハムスター等々・・・ マシュマロはそのうえ、白っぽく、柔らかそうなのでたまりません。そのため、味は特においしいとも思わないのにもかかわらず買って食べてしまいます。 うーん、おいしくはない!でもかわいい!といった具合です。 平面的な丸さではなく、立体的な丸さであることがポイントです。 私がずっと担当してもらっている美容師さんが他のお客さんから聞いた話だそうですが、渋谷のどこかに卵型の建物があるそうです。中は居住空間になっているらしいのですが、外からは、まさに本当に巨大な卵そのものに見えるそうで、ぜひ一度見てみたいと思っています。 浅草のアサヒビールの建物の上にある巨大な金色の物体を知っていますか? 不思議な形をしていて、気に入っているのですが、私はあれは魂を現しているのだと勝手に決めて「浅草の魂」と呼んでいます。 ちなみに私が「あれは魂だ!」と断言した時に隣にいた恋人は「違う!あれはウンチだ!」と言っておりました。 実際は何を現しているのでしょう。
2004年03月07日
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眠れない夜があります。悩み事や辛い事があってどうしても眠れない夜。 そんな時私は、世界中で同じように眠れない夜を抱えている人々の存在に思いを馳せます。彼らはいったいどうのようにしてその夜を過ごしているのかを考え、想像します。 そして、以前自分が同じように眠れない夜に直面した時、どのようにしてやり過ごしたかを必死で思い出そうとします。しかし、確実にいくつもの眠れない夜を通り過ぎてきたはずなのに、どうしても思い出すことができません。毎回同じことの繰り返しです。 時間とはそんなふうに流れて行くものなのかもしれません。 「人間は、忘れることで自分自身を保護する」という言葉を聞いたことがあります。しかし私は「忘れる」という言葉のニュアンスに違和感を感じます。 確かにその通りだとは思うのですが、自分なりに言い換えると、「辛さも苦しみも、嬉しさも感動も、時間と共に中和されて行く」というところでしょうか。 感情や記憶は、時が過ぎると薄れていき、やわらげられ、生々しいまま保たれることはありません。もしも辛い感情がそのままの重さで胸の中にあり続けたら、人は壊れてしまうでしょう。 プラスの感情についても同じです。鮮やかなままでずっと保たれたらきっと人はその感情に振り回され、囚われ、前に進むことができないでしょう。 ただ私は、様々な感情や記憶を、薄れていくことは覚悟の上で、決して忘れたくはないという気持ちでいます。私は潔くありません。自分の感じたものにしがみつく気持ちが常にあります。だから「忘れる」のではなく、「中和される」というように考えるようにしています。 感情の中和によって私たちは守られているのでしょう。 苦しみの真っ只中にいる時は、目の前の強烈で圧倒的な感情に支配され、それらがいつか中和されるなんて想像もできません。けれど、時間は確実に流れて行き、唯一自分の味方になってくれるともいえます。 待ちましょう。耐えましょう。立ち向かわなくてもいい、後ろ向きでいい、必ず時間は過ぎるものだから。 私は今、とても辛い毎日を送っています。立ち向かってもいません。泣いてばかりです。それでもきっと私の生活の中にも時間は流れている。いつかこの苦しみが中和される時が来るでしょう。
2004年03月06日
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初めまして。greenと申します。 私は現実が苦手です。生きて行くのが辛いと常に感じています。しかし困ったことに私は「辛がりたがる」という性分でもあり、辛さが生きがいであるともいえるのです。 自分を痛めつけることに快感を覚える訳ではありません。また、刹那的になる訳でもありません。辛いと感じることは嫌いではなく、純粋に辛いと感じ、流されていきます。積極的に乗り越えようとするのではなく、辛さを正面からじっと見つめてしまうのです。 私は辛いことをすべて乗り越えなくてはならないとは思いません。逃げたって、やりすごしたっていいと思っています。辛がりたがるくせに、すぐに逃げようとする。そんな時、「私ってダメな人間だなあ」と思います。しかしダメであることは悪いことではありません。 私は27歳になって2ヶ月ほど。世間的には大人です。そう。私はもう大人なのだから、周りから「ダメな大人だな、コイツ」と思われる権利があるのです。これが、私が大人になってよかったと一番思うことです。 そんな「ダメな大人」であることに誇りさえ持っているgreenが、日々の出来事、感じたことなどを綴って行く「ダメ大人日記」。きっとこれから先、私がどのようにダメなのかが明らかになるでしょう。 興味を持たれた方、生きることを辛いと感じている方、よろしければこのHP「大人スキップ」ともどもよろしくお願いいたします。
2004年03月05日
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