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絶え間なく吾の鼻の滝流れ落つ加えて頭中に見る蜃気楼珍しく風邪をひいた昨日の仕事中は何とかもったのだが仕事を終えた夜になって熱が上がり土曜日は休みの冷えピタ上司に売り上げ報告ついでにこの歌を送ったところ「短歌なんて詠まなくていいから!頭使わない方が早くよくなるよ」と頭なんか使っていない自分に酔っているだけだ熱にうなされた一夜が明け(友人Mが早朝、彼氏との喧嘩が原因で家出をするというおまけつき)熱下がり本など読んで過ごしつつ涙をのんで江ノ島を絶つ今日は江ノ島に行こうと思っていたのに諦めましたのどの痛み→鼻づまり→発熱→咳オー!イッツァパーフェクトコールド!
2007年01月28日
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Hi!グーラ!調子はどう?こないだあんたを見かけたわ。雨の日の朝よ。グレイのジーンズに、あたしがあげたネイビーのTシャツ。透明のビニール傘をさして俯きかげんに歩いてた。あんたはいつもそんな感じ。カラフルな色のついたものは着ないし、上を向いても歩かない。だけど不思議ね。あんたってば決して暗く見えない。この人、一体何を抱えて生きてるんだろってこっちが哲学的な気分になっちゃう。あんたの佇まいは思想的な雰囲気をかもし出してる。決して誰も入れない殻の中にいるくせに、周りの人を引きつけずにはおかない。あたしもそうやってあんたに引きつけられたうちの一人だけど。でも、あんたがあたしにだけ見せる殻の中身があるってことも知ってて、それがあたしを嬉しくさせる。あたしは、思想的な風を撒き散らして歩いてるあんたを見ても、実はあんたが、チクショー眠すぎるぜ!人一人に一日二十四時間しか与えられてないなんて酷すぎるぜ!なんてぼやいてるだけだったりすることを知ってる。かわいいグーラ。とりあえず仕事後、コークでもどう?(2006.9.10)
2007年01月26日
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私の口にまつわる変な出来事がつらつらと浮かんできた。ひとりで江ノ島をブラブラしていた時のこと。「ああ幸せ」と江ノ島にかかる橋を歩いていた。あまりにも満ち足りすぎている自分に気づき、ふとその幸福感を意識した。と、その瞬間、ジュルッ!!危なかった。よだれが垂れかけていた。気づいてすすりこんでよかった。まあよくあることだが。以前ぐらとファミリーレストランで紅茶を飲んでいた時のこと。私はミルクティーを口に含んだ。そしてしばらく時間が経ち、私はぐらに話しかけた。と、その瞬間、ドシャッ!!私の口からミルクティーが出た。そうだった。まだ飲み込んでいなかった。まあたまにものを飲み込むのを忘れることはある。今朝のこと。夢の中で、気持ちの悪いものを食べた。おえっ!気持ち悪い!本能的に口から出そうとした。そこで半分目が覚めた。と、その瞬間、ドロッ!!本当に唾を吐いてしまった。吐きながら半分目覚めている部分の自分がいけない!と告げていた。が、遅かった。慌ててティッシュで顔を拭った。横になった状態で吐いたので唾はもろに顔をつたった。これは二度目の経験だ。口は無意識がダイレクトに現れる部位なのかもしれない。私だけかもしれないが。
2007年01月11日
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いやはや30歳はすばらしい。毎日ワクワク過ごしている。といっても日常生活に大きな変化があるわけではない。相変わらず変な歌を詠んでいるし、「新世紀エヴァンゲリオン」のDVDを繰り返し繰り返し見ているし、小説「新宿鮫」に夢中。今日はあまりの寒さにウサギの毛の耳あてをつけて仕事に行ったし、実家の猫の手をアップで撮った写真に「お忙しいでしょうか~? 猫の手お貸ししましょうか~? 猫の手~猫の手~ 猫の手はいかがっすか~」などというセリフをつけて喜んでいるし、むしろ幼児化しているのかもしれない。けれど昨日!もう2年以上記録更新が滞っていたマインスイーパ!私の特技(?)である。上級レベルの自己記録は129秒。これをついに破った!124秒。ホクホクである。すごいぞ30歳!ニキータでいうところのコムスメ(20代の女の子)にはかなわない領域に、今の私はやすやすと足を踏み入れることができるのだ。ガハハ!!先日、私の“only one”の美容師さん(2006年10月22日の日記参照)に「30歳になったので、とびっきり素敵な髪型にしたいんですけど」と持ちかけたところ、彼は、「了解。何か考えてみます」と受け合ってくれた。明後日、その新しい髪形に出会う予定だ。
2006年12月29日
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30歳になりました。このワタクシが30歳。29歳ではなく、30歳。目覚めたら巻き髪になっていたりして・・・色気ムンムンになっていたりして・・・なんて淡い期待を抱いていたのだが今のところ髪は巻いていないようだ。まあ、色気はちょっと出ている気もする。自己判断。30歳となったワタクシが30歳としてここに存在していることが楽しく、新しく、魅力的なことに思えて気持ちがいい。30歳になったからには超美しくなって愛し愛されて生きるのさ!と、今は大雑把な気持ちでいる。
2006年12月25日
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先日「さまぁ~ずの悲しい俳句」という本を読んでからというもの俳句や短歌らしきリズムのものが頭に浮かんでならない。ちなみにさまぁ~ずの大竹は、私が「この人天才だ!」と畏怖の念を禁じえない人間のひとりである。彼以外の天才には、松本人志、ラーメンズの小林賢太郎がいる。どうも私は、お笑いに携わる人間に天賦の才能を感じやすい傾向にあるようだ。三十路まであと6日の今宵。夜気白く煙るはタバコかため息か最初は風情すら気遣い、冷静に詠んでいたのだ。そして、厳かな気分で誰もみな私のことなどわからない他人は他人で自分は自分などと考えていたのだが、この道をゆっくり静かに歩み行く足親指が巻き爪だからと思いついた辺りから雲行きが怪しくなった。ペディキュアは注意を払い丁寧に足親指が巻き爪だから夏がきた素足にサンダル軽やかに足親指は巻き爪だけど巻き爪は普段無意識無問題(モウマンタイ)たまに痛むとああ、気もそぞろみるみる間に私は巻き爪ワールドへ巻き込まれ、夜は更けて行った・・・・友人Mに巻き爪ワールドを垣間見せたところ、歌を詠みやはり笑えるわが親友という返歌(と言ってよいのか?いや、ダメだろう)がきた。私につられてスイッチが入った彼女は更に、人付き合い苦手なままに今至る自己嫌悪だけの忘年会と、自分の切ない現状を私に訴えかけてきた。彼女のノリのよさと、その歌の陳腐さに愛しさを感じ、私がそう伝えると、陳腐だとあなたはそうと言うけれどしょせん人生そんなもの一見、「人生の悲哀」というスケールの大きなことを言っているかのようだが、やっぱり更に陳腐になり下がっている返歌(だから返歌じゃないって!)が・・・しかも彼女はどうやら「五・七・五・七・七」のリズムを「五・七・五・七・五」と思い込んでいるようだ。もう、何が何やらわからない(笑)。こうなったら私も出血大サービス!自分の陳腐さを笑おうではないか!大好きな「新世紀エヴァンゲリオン」絡みの一句。別れ際綾波レイの「サヨウナラ」私の男性の好みの一部をあらわした一句。プーチンとブルース・ウィルスにゾッコンさおでこが放つ光と色気いやはや・・・二十代残りわずかの夜は愉し
2006年12月19日
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12月15日から私は独自のテンカウントダウンを始めている。30歳になるまでのカウントダウンだ。年をとるのはちっとも嫌じゃない。むしろワクワクしている。十の位の数字が変わるというのは大きなことだ。20代から30代へ。二十歳になった時は、初めての一人暮らしに慣れるのに精一杯で、とくにこれといった感情はなかった。けれど今回はなかなか感慨深いものがある。あと一週間で私の20代も終わる。20代の自分を思う存分感じたい。そのためのテンカウントダウン。といっても特に何をするわけでもない。20代の自分を十分に意識して生活するだけだ。20代の自分とは、今の自分ということだ。今の自分の輪郭を意識して、くっきりと過ごしている。さらば20代!ありがとう20代!ビバ20代!そしてカモン30代!期待してるぜ30代!ってなもんです。けれど少しセンチメンタルな気分でもある。その証拠に今この時、私の身近にいる人たちに20代の私の姿を覚えておいて欲しいと願うのだ。
2006年12月18日
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「今年の漢字」は「命」だった。私にはピンとこない。何を当たり前な・・・と思ってしまう。私は今年、人が死ぬ瞬間を目撃した。(2006年10月7日の日記参照)大きな出来事だった。どのぐらい大きかったかというとあれは5月末の出来事だったがそれ以前の記憶がまったくなくなってしまったほどだ。にもかかわらず自分の今年の漢字は何かと考えてみても「命」は思い浮かばない。私の今年の漢字。それは「現」(うつつ)だ。自殺を目撃して以来、私はうつつを強く感じるようになった。(何せそれ以前の記憶がないのだから、それ以降の話で勘弁していただきたい)目の前で起きた出来事をありのままにとらえ、受け入れる。それがどんなに突飛で、深刻で、非日常であったとしても。すべて私の現実だ。realityの「現」そして、仕事。月曜から土曜まで、祝日を除いて仕事をしている。好むと好まざるとにかかわらず、私は毎日仕事に行く。自分の波を抱えて出勤する。うつつはいい。私を助けてくれる。なんてことのない世間話は他人との交流を生み、同僚とたたく軽口は気持ちを明るくさせる。dailyの「現」うつつがあるから妄想が生まれ、夢を見る。うつつの中で生まれる妄想は幻ではなく、うつつの中で見る夢は諦めではない。私は確かにうつつの中にいる。けれどいつまでうつつの中にいられるかはわからない。そのうちうつつを抜け出てどこか遠いところに行ってしまうかもしれない。もしそうなれば、それはまさに私が望むところだ。
2006年12月14日
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私は自分の感情の波に乗るサーファーである。波から降りることはない。私の足場は常に波の上にあるため、不安定極まりない。うまくとらえきれずに溺れ不意の波に驚き取り乱し心地よい波には調子づき急の落下で見事に沈む。私が誇れるのは唯一、波を迎え受ける自分の姿勢だ。私は自分の中のどんな波にも乗る。逆さまでも後ろ向きでも。気づかない振りをして避けて通ることはない。そしてパドリングをやめない。「波に乗る」ということは勢いづくことではない。常に揺れている、ということだ。お気づきだろうか。前回掲載したぐらの書簡は、作品ではない。こんな私へのとびっきりのラブレターなのだ。
2006年12月13日
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波乗りグリーへHi!今日の波はどうだい?昨日の波は大時化で大変そうだったね。大抵のサーファーは裸足で逃げ出すレベルじゃないか?海岸沿いのカフェでみんな言ってたよ「こんな日に波に乗りにいく奴はクレイジーだ」って。そんな海なのに髪をなびかせ波に乗ってる君を見たんだ。足元は覚束なく不恰好ながらまるでテニスプレーヤーさながらの真剣な表情の君を。「あ!あれは波乗りグリーだ!」誰かが叫んだ。君は僕が見ている間に少なくとも200回流されそのうち25回は溺れかけ、それでも嵐の海に向かってパドリングするのを止めなかった。僕の気持ちは自然と熱くなり、溢れ出る涙を止めることが出来なかった。僕の心の花、波乗りグリーとりあえずタオルは必要かい?(2006.9.3)
2006年12月10日
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大人であり、しらふであってもネコ語が使えますか?私は使えます。心を許した人になら。朝ならばおはようにゃ、夜にはおやすみにゃと言えます。*****************************************フランス北部、オハヨーニャ地方に朝が来た。村の娘グーリーの身体は今朝もフワフワしていた。しかし前日に比べれば少し落ち着いた感もあり、厳密にいえばフワフワというよりはフワなのであった。グーリーの毎日には宝物がたくさんあり、それらを見つけるたびに彼女の身体はフワフワするのだ。太陽が高くから照らす葡萄畑を縫うようにして歩きながらグーリーは詩を口ずさんだ。「黒いストッキング」ベッドの中で大好きな人に「黒いストッキングはいてくれない?」なんてお願いされたらあたしはワクワクして「破るの?」と聞いてしまうに違いないそんなグーリーは、愛読書である「le requin du SHINJUKU」を小脇に抱えている。*****************************************妄想力を鍛えたいものだと日々思っていたところこんな妄想がムクムクと・・・仕事中に湧いてきて止まらなくなって困った。ツッコミどころ満載。内容ゼロ。ひそかにずっと半笑い状態であった。requinとはフランス語でサメの意。文法にはまったくもって自信がない。そして今、私は「新宿鮫」シリーズを読んでいる。
2006年12月06日
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最近私には性欲がまったくない。ただ「手をつなぎたい」と思うことが性欲に含まれるのならば前言を撤回して私には性欲が大いにあると言わねばなるまい。
2006年12月04日
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一切色気のない関係にある、年の離れた職場の先輩(男性・フェロモンのない穏やかな人)とのメールのやりとり。先:「電車が遅れてるから、着くの20分ぐらい遅れる。」ぐ:「わかりました。でも、寂しいので早く来てください。 笑。 げほっごほっ!!」先:「寂しいのは僕も一緒さ。 待たせないよ。」ぐ:「ぐえっ! 感動のあまり吐き気が・・・」
2006年12月03日
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先日、「幸せのおすそわけ」と、職場でバラをもらったのでいけてみました。テーマはハート。後ろに見えるのは、同僚の足。彼は元スイマー。声が大きくて気のいい体育会系。
2006年11月25日
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初めて買ったイオンドライヤー白いそのドライヤーで自分の髪に向かってマイナスイオンを放出させている時私は色違いの黒とどちらを買うかで迷ったことなど忘れている白いドライヤーを使っている私黒いドライヤーを使っている私どちらの姿がかわいいか本気で悩んだというのに
2006年11月23日
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夢の中で私は家族と実家にいて、妹の同級生の女の子が遊びにきていた。その子がヘアアイロンをかけると言い、頭の左右と後ろにそれぞれ一つずつ、計三つのアイロンをつけた。つけたのは、服のしわを伸ばす、あのアイロンだ。アイロンは銀色に光っていて、三つもアイロンをぶら下げたその友達の頭は重々しかった。妹が「いい?いくよ~」と言ってアイロンの温度を上げていくと、いつの間にか女の子の頭がワイングラスに変わっていて、グラスは膨張してどんどん膨らんで歪み、「割れる!割れる!」と言っているうちに、割れた。今朝、夢の中にいる時から、この内容を覚えていよう、と並々ならぬ決意でいた記憶がある。そして、少しずつ目が覚める段階でも、忘れないよう忘れないよう、夢に出てきた人たちのことを強く強く、思っていた。今日は休日だったため時間を引きのばし、引きのばし、ゆっくりと目覚めた。その甲斐あって、目覚めた時、かろうじて、夢のしっぽが見えた。布団の中で動かずに、しっぽが消えぬよう、しっぽを逃さぬよう、慎重に、記憶を辿った。自分の夢の記憶を捏造しそうな勢いだった。したかもしれない。
2006年11月19日
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最近私は自分以外の人に興味がある。その結果自分にあまり興味が持てなくなった。これは困る。自分自身に興味が持てないと、毎日が少し色あせて物足りない。そこで自分に興味を持つべく色々と小さなあがきをしている。その一。買い物。自分のために何かを買う。選んでいる時、必然的に自分のことを考えるからだ。その二。自分に興味を持ってくれる人との交流を大切にする。(もちろん相手は選ぶが)そういう人たちから見た私の像を知ると自分に関して「お?!」と気づくことがあるからだ。そしてその三。夢判断。以前から少し興味があり、このHPに来てくださっているゆんたまゆんさんに夢判断をしてもらったりもしていたのだが、あがきの一環として、最近夢判断の本を買ってみた。毎晩その本とペンとメモ帳を枕元に置いてスタンバっているのだが面白いほど夢の内容を覚えていない。以前は見た夢の記憶はそこそこ、もしくははっきりとあった。しかし最近目が覚めるとまったく覚えていない。思い出そうとしても撃沈。従って夢を判断することができないという苦しい状況に陥っている。手も足も出ないぞ、夢判断。せっかく買ったのだから本は使ってみたい。苦し紛れに友人や同僚の夢の内容をさりげなく聞き出して家でひそかに調べたりしているのだが、やはり自分のことが知りたい。と思っていたら今朝方、夢の内容を比較的はっきりと覚えていた。慌ててメモをとり、よし、これでやっと夢判断ができるぞ、と意気込んだのもつかの間、それが夢だった。実際はメモなどとっておらず、その内容も覚えていない。がっかり。ん?ということは、夢の内容をメモするという夢を見たことになる。「夢」とか「書く」を調べればいいのだ。けれどこれは明らかに夢判断をしたい!という私の強い気持ちの表れだろう。本を開くまでもなく自分で判断できる。いや、それでもやっと夢の尻尾を捕まえることができたのだから調べてみることにしよう。
2006年11月13日
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先日、冷えピタ上司に用事を頼まれ、昼休みに職場のある青山から渋谷の東急ハンズまで行った。お昼も食べてきなさいと昼食代をもらい、行き帰りのタクシー代も渡された。そこで私が直面した問題。タクシーの止め方がわからない。私はタクシーをほとんど使わない。ごくたまにタクシーに乗る時は、電話で呼ぶか、タクシー乗り場から乗る。確保されたタクシーにしか乗ったことがないと言っても過言ではない。走っているタクシーに「ヘイ!」と手を上げて止めた記憶はほぼないに等しい。それをする時がやってきたのだ。職場を出る前からイメージトレーニングを重ねた。手はどの程度の高さまで上げたらよいのか。奥ゆかしさも必要だろう。手を上げながら前に進み出る。どこまで進めばよいのか。前に出すぎて轢かれてしまっては元も子もない。匙加減が難しそうだ。手を上げて止めてまで乗るからにはその後、運転手さん相手に何か面白いことでも言った方がいいのだろうか。等々、考えをめぐらせ、いくつかのネタまで用意していざ出発!表へ出ると、すぐ目の前に支払い中のタクシーが停まっていた。しめた!これに乗ることができれば「ヘイ!」と手を上げて、前に進み出る手間が省ける!と思い、お客さんの支払いが終わるのを待ち構えた。するとその時知り合いが私の後ろを通りかかり、「こんちわ!」と声をかけてきた。目の前のタクシーを逃してはならないという思いにとらわれていた私は、その知り合いに何と返事をしたのか覚えていない。きっと上の空で返事をしたのだろう。申し訳ないことをした。しかしその時の私が極度の緊張状態にあったことは理解してもらいたい。こうして行きのタクシーはクリアした。幸い運転手さんは無口な初老の男性で、話しかけてくる気配もなかったので私は不出来なネタを披露せずに済んだ。ハンズにいる間ずっと、帰りのタクシーに無事乗ることができるかどうか気になっていた。頭の中100%で考えていたわけではない。けれど常に頭のどこかに、ハードル走のハードルのように、不在票が残されていて受け取らねばならない荷物のように、処理すべきものとしてタクシーの存在があった。お昼など食べている精神的余裕はなかった。落ち着かないのだ。用事を済ませ、さっさと帰ることにした。早く楽になりたい、解き放たれたい。さて困った。渋谷のど真ん中でどうやってタクシーをつかまえたらよいのか。歩道と車道の間に柵があるし、人の流れも車の流れも複雑だ。どうしてもポジションとタイミングがつかめない。困り果てて、トボトボとかなりの距離を歩いてしまった。もうこれは職場まで歩いた方がいいのではないか、と思ったがそれではあまりに大人らしくない、と思い直し、大きな交差点の赤信号で、左折ウィンカーを出して停まっているタクシーに突進した。青山に行くには直進しなければならなかったので、左折しようとしている運転手さんに申し訳ないなあと思ったが致し方ない。それでも突進する前に私だって色々考えはしたのだ。もしかしてタクシー界には私などが知りえない掟のようなものがあって、今この運転手さんはどうしてもここで左折しなくてはいけない状況なのでは?ルールを破らせてしまっていいものか、と。幸いその運転手さんは、私のために快く(表面上は)進路を変え、直進してくれた。おばさんドライバーで、道中車の中から見る人の流れについて話してくれ、降車時には「行ってらっしゃい!」と言ってくれた。それにしてもタクシーとは疲れる乗り物である。小心な私には向いていない。そもそも赤の他人と狭い箱の中にいること自体がストレスである。ちなみに、タクシーに乗る前に私が用意していたネタというのは、「東急ハンズまでお願いします。藤沢の。・・・っておーい!渋谷渋谷!近いし、店の規模も大きいっちゅうねん!」というものだった。緊張状態でネタを考えると、こんなにひどいものが出来上がるのである。・・・いや、問題は私のセンスにあるのだろう。消え入りたい気持ちでいっぱいだ。
2006年11月12日
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「全然うなぎのかばやき味じゃないよ。味自体あんまりしないし」という前置きとともにじゃがりこをもらった。うなぎのかばやき味と書いてあった。まったく期待せずに食べてみたのだが見事に味がないじゃがりこらしき味はするのだが何の味付けだかとんと見当がつかない決してまずくはないのだうん、まずくはないただ、特徴となるべき味が皆無なのだしたがって、味気ないのであるじゃがりこうなぎのかばやき味をくれた友人にメールを送ったこのじゃがりこはひどいねもらっておいてなんだけどじゃがりこの味オンリーだね前置きしてもらってなかったら途方にくれたと思ううん、これはじゃがりこだね間違いなくじゃがりこだ大丈夫怒ってないから私は怒っていない大丈夫
2006年11月09日
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友人Mが以前ソファベッドを買ったときの話。Mは腰痛持ちの私を、ベッドの組み立ての手伝いのために呼び出した。私は腰をかばいいつつそっと手伝った記憶がある。すなわち私はMのソファベッドの組み立てに関して目立った手助けはしなかったということだ。その代わりといってはなんだが、ベッドの組み立てが終わった後、私はMに手料理を振る舞った。Mの部屋に行く前に二人で駅前のダイエーで食材を買い込んでいたのだ。(この時点で、その日私が何のためにMの家に行ったのか目的があやふやになっている)テーブルには春菊のおひたし、セロリのマリネ、大根の煮物、鮭とネギの混ぜごはん等々私が作ったメニューが並び、それに加えて甘エビの刺身も乗った。ダイエーの魚売り場で買ってきたその刺身を食べていたときのこと。「この青い粒々って卵だよね?」「そうだね」「これって・・・食べないよね?」「私は食べずに捨てるけど・・・」「だよね?」二人で黙々と甘エビの殻をむき、卵を除いて口に運ぶ。「でもさあ、この卵を食べるか捨てるかについて、はっきりと誰かに確かめたことある?」「そう言われてみると、ないねえ」「もしかしてさあ、この卵を食べないのは世の中に私たち二人だけかもよ」「だよねえ。世間の人々は常識として普通に食べているかもしれない」「でも、甘エビのお寿司頼んでも卵乗ってないか。大丈夫だね」「わかんないよ、刺身の時は卵食べるのが普通かもしれない」「うん・・・そして私たちが知らないだけで、“甘エビ博士”みたいな人がいてさあ、 その甘エビ博士に私たちが『甘エビの卵って食べませんよね?』って聞いたら、 博士は口をあんぐり開けて『え?!あなたたちは卵食べないんですか?!』って・・・」「そうそう『卵こそがおいしいのに!何てことだ!信じられない!』って怒られるかも」「どうする?食べてみる?」「・・・どうしよっか・・・」「・・・博士にバレなきゃ捨てても平気か」「・・・だね。やめよう」甘エビ博士にビクつきながらも、私たちは自分たちのやり方を通し、卵を捨て続けた。「大丈夫だよ、こんな気持ち悪い卵絶対に世間の人々も食べないって!」「だよね~大体さあ、甘エビ博士なんてほんとにいると思う?」「何よ、甘エビ博士って」世間がどうであれ、私たちはこれでいい!という確信が湧いてきた。終いには、二人で甘エビの卵を取り除きながら笑いが止まらなくなった。そして大爆笑を始め、「甘エビ博士が・・・」「博士が・・・」と息も絶え絶えになりながら甘エビを食べ尽くしたのだった。甘エビ(刺身)の卵を食べるか否かについては未だに確かめていない。もし私とMの行為が間違っていたとしてもどうか、甘エビ博士には内緒にしていただきたい。
2006年11月05日
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私の鞄の中身・財布・携帯・ipod・本(今は井上夢人の「プラスティック」初めて読む作家なので面白いかはまだ不明)・ハンカチ・化粧ポーチ・鍵(自宅のと職場の)・ミンティア・“大切な物”入れ(お守りとか予備のお金とかカード類とかが入っている)・ピアスケース・メモ帳(何か思うとすかさずメモする)・ボールペン・タバコ・ライター・靴下・パン重い。他の人の鞄の中には何が入っているのだろう。
2006年10月24日
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Nさんに髪を切ってもらうために2ケ月に1度の割合で茨城へ行く。Nさんは私がかれこれ8年お世話になっている美容師さんでこの春、彼の地元である茨城に自分の店を出した。美容師というものにこだわりも執着もなく生きてきた私はNさんに出会って初めて、「この人だ!」と自分の美容師さんを決めた。最初は渋谷、去年は我孫子、そして今は茨城の守谷で彼に髪をステキにしてもらっている。「わざわざそんな遠くまで行かなくてもいい美容師なんてたくさんいるよ」「せっかく青山で働いてるんだから、近くでいいとこ探しなよ」「その行動力はすごいね」などと言う人たちもいる。けれど、Nさんは私のオンリーワンなのだ。美容師としての腕とセンスと、そしてやはり美容師としての人間性と波長の合い方がお客としての私にとってピカイチの人だ。茨城まで行くことより、近場でいい美容院を探すことの方が私にとっては不自然で煩わしいことなのだ。これが私の価値観。ある時うちの冷えピタ上司(2006年10月11日の日記参照)は私の茨城通いについて、真剣に「異常だ」と言った。その時に私が得た教訓。 人それぞれの価値観がある。 それをありのままに受け入れ、他人を責めること勿れ。 自分を曲げる必要も又無し。私は自分が大切だと思うものはとことん大切にする。それだけのことだ。
2006年10月22日
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柴田恭兵。彼は私にとって並々ならぬ存在である。小学生の時、NHKの大河ドラマ「武田信玄」に上杉謙信役で出演している姿を見たのが最初だ。中井貴一扮する弱っちい信玄に比べ、柴田謙信の凛々しいこと!たいまつの炎に照らされ、汗だくで祈祷する柴田謙信に釘づけになった。私が生まれて初めて自分で買ったCDは柴田恭兵の「リバティ」である。バラード系の(たぶん)マイナーなアルバムだ。今はもう手元にないが、ジャケットの写真もはっきり覚えている。確か、白いタートルネックのニットを着た柴田恭兵が切ない優しい表情で斜め横を向いていたはずだ。柴田恭兵ファンの私は、当然のことながら「あぶない刑事」に行き会うことになる。はまったなんていうものではなかった。再放送されるたびに何度でも全力で見た。私の家は、そのような「くだらない」テレビ番組を子供が見ることに厳しかったため、私は同世代の子たちが昔見ていたテレビ番組を今でもほとんど知らないのだが、「あぶ刑事」は初めて私が猛然と親に立ち向かい、勝ち取った「くだらない」テレビ番組だ。(ちなみに親に立ち向かって無理矢理勝ち取ったものは他に「暴れん坊将軍」やダウンタウンの番組等がある)中学生だった私は、「あぶ刑事」がある日は学校の掃除を猛スピードで済ませ、全速力で自転車をこぎ、超人的な速さで帰ったものだ。「あぶ刑事」にとりつかれ、柴田恭兵扮するユウジに恋焦がれ、妄想の世界をさまよった。もともと「あぶ刑事」自体が現実離れしたものであるため私の妄想には拍車がかかり、タカとユウジと私を主人公にしたティーンズハートばりの自己中心的な、甘ったるい、薄っぺらく安っぽいラブロマンス小説を一本書いてしまったほどだ。以前、若手お笑いコンビが「こんな彼女はいやだ」というネタで、「放課後“一緒に帰ろう”と誘うと、“ごめん、今日あぶない刑事があるから!”と大急ぎで帰って行く彼女」と言っているのを聞いて、自分のことかと思った。けれどどう考えても私はそのお笑い芸人と付き合った記憶はない。どうやら私のことではなかったらしい。(そういえば昨日もテレビで放送されてましたね、「あぶ刑事」ムービーが。仕事から早足で帰ったことをこっそり白状します)妄想期が過ぎても私は心の奥底で柴田恭兵のことがしっかりと好きで、その歴史は着々と延びていった。私が、物理的にもっとも彼に近づいた瞬間がある。大学生の時だ。アルバイト仲間と鍋パーティーをした時に行った先輩の家の近所に柴田恭兵の自宅があったのだ。みんなで夜道を歩いていると、その先輩が「あ、ここ柴田恭兵の家だよ」と洋館のような家を指差した。何ということ!私は絶句して立ち尽くした、とても現実とは思えなかった。家には明かりがついていて、どう見ても人の生活の場だった。ここが柴田恭兵の生活の場・・・現実の中に彼はいるのだ!なんて素敵なんだ!と実感し、言葉もなかった。いいものを見た、と思った。数ヶ月前、柴田恭兵が肺ガンであるというニュースを知った時、私は頭がクラクラした。けれど手術は成功したとのこと。きっと今は更に順調に回復していることだろう。今私は、小学生の頃からの彼への思いすべての集大成として、彼の無事を祈り、今後の活躍を願っている。
2006年10月21日
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先日友人M(とその恋人)に会った。正確には私が二人を呼び出した。目的は録画してもらった「古畑任三郎」のDVDを受け取ること。まず、録画を頼んだ上に早くくれとねだり、呼び出すという身勝手な行為を反省しつつ、私のわがままをものともせずにニコニコと嬉しそうにやって来てくれた二人を賞賛したい。簡単に説明しておくと私はかなりの古畑オタクであり(2004年5月5日の日記参照)、尋常ではない回数古畑を見ている。おかげで昔録画した古畑のビデオテープが擦り切れてダメになった。そこで、古畑のDVDを買い揃えることにした・・・のではなく、今度はビデオではなくDVDに保存することに決めたのだ。しかし私は録画機器を一切持っておらず、それは不可能である。というわけで、古畑が放送されると、親友Mかその恋人がDVDに録画してくれるのだ。私の顔を見るなりMはそそくさとバッグを開け、なぜかドライマンゴー(袋詰め。新品。値札付。312円也)を取り出し私に差し出した。普段から私たちの間では“離れて暮らしていて、久々に再会した田舎の母と娘”もしくは“近所のおばちゃん同士の日常”のような物品の受け渡しが行われることが多々あるのだが、今回のドライマンゴーに私は、二つの理由からとまどった。一つ目の理由。なぜドライマンゴーを?!ということである。M、あなたは旅行には行っていないはず。ハワイにも沖縄にも、それ以外のトロピカルな場所にも行ってないわよね?どこかの旅土産ではないわよね?しかもこのドライマンゴー、何も包装されていないし、値札も付いたまま。う~ん、これは親しさの証!とかそんなことが言いたいのではなくて、なぜこのチョイスを?私の好物のピータンでもカニ味噌でも納豆でもなく、なぜドライマンゴー?そもそもなぜ生のマンゴーではなくドライなの?!と私の頭の中には様々な疑問が浮かんだ。が、考えてみればMはしょっちゅうなぜ?!という物をまったく謎のタイミングでくれるのである。たとえそれがどこかの土産物だった場合でも「なぜ?」は消えない。以前Mは富士急に行って来たと言ってミルクプリンを持って来た。しかもコメントが「これ食べてみて~!すっごくおいしくないから!びっくりするよ~」だった。食べてみるとそれがまた見事においしくない。まずいのではなく、おいしくないのだ。あまりのおいしくなさっぷりに私は感心し、愉快がった。そんな私を見てMは大いに満足していた。きっとMがドライマンゴーを突然くれることに大した理由はないのだ。そう判断して問題は解決。二つ目の理由。これはもっと単純である。私は果物全般があまり好きではなく、特にドライフルーツは苦手なのだ。Mはそれを知らない。というより、気にしていない。Mは私の食べ物の好みを細やかに思いやるようなことはしないし、私もMに勧められれば、たとえそれが嫌いな物であっても(豚の角煮以外ならば)何となく食べてみてしまうような気がするので(私もMの食べ物の好みを思いやったりはしないし)これもまあよしとした。結果的に私たちはいつものように平和にご近所のおばちゃんよろしく物品を交換したわけだ。(この時私もMとその恋人においしいパンを買って持参していた)ちなみにMは、ドライマンゴーの後、ボディソープをバッグから取り出して私にくれ、最後にやっと古畑のDVDが出てきた。後日談。意外や意外、Mからもらったドライマンゴーは非常においしかった。甘すぎず、マンゴーのとろりとした感じが口に残り香りもよく、私はいたく気に入った。この勢いで豚の角煮も食べられるようにならないものか。
2006年10月18日
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絵心がない。私には美術的センスというものがまったくない。そう思って生きてきた。ところが数年前、ひょんなことがきっかけで自分でも信じられないようなデッサンを描くことができた。まさに奇跡としかいいようがない。ただし私は、動くものは一切描けない。興味のないものも同様だ。好きな写真や生物をひたすら見つめ、見たままを描くと、どうやらうまくいくらしい。好きなものを見るのは得意だ。しかしその場にないものを思い浮かべて描くと悲惨な状態だ。下の2枚の絵を見て欲しい。どちらの絵も、大人の私が本気で描いたものだ。特に好きでもないミッキーマウスを必死で思い浮かべて描いたものと、好きな猫の写真を見て描いたものだ。自分という人間の構造に疑問を抱かざるを得ない。大きな問題を感じる。
2006年10月13日
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昨日、職場の上司と晩ご飯を食べた。“中華のファーストフード”のお店だ。同じ価格帯ならば「餃子の王将」の方が一万倍マシ!という味だった。(「王将」はいいですよ。私は大好きです)五目チャーハンの味が何とも腑抜けで、私は仕方なくそのチャーハンに、ザーサイと、豚肉と野菜の細切り炒めを混ぜて食べていた。私の上司は、大人げのない中年男で、憎めないけれどデリカシーのない人だ。そして、食事をするといつも異常に汗をかき、昨日も大量の汗をかいていて、テーブルにあった紙ナプキンをおでこに貼り付けて汗をおさえていた。私がオリジナル混ぜチャーハンを食べているのを見て、彼は「ネコまんまみたいな食い方をするなあ」と呆れ顔で批判した。オリジナル混ぜチャーハンから目を上げるとそこに見えるのは、紙ナプキンがおでこで冷えピタ状態になっている上司の姿だ。私は迷わず、「そんな姿をした人に言われたくないです」と言った。上司も「そんな食い方をする奴に言われなくないよ」と言った。何ともチグハグな食事であった。まったく、あの上司とは解かり合えない。そして、憎めない。私が憎むべき相手、愛すべき相手は他にいるのだ。
2006年10月11日
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江ノ島、鎌倉、茅ヶ崎、稲村ヶ崎、七里ヶ浜、辻堂、鵠沼、すなわち湘南・・・地名だけでうっとりする。サザンに影響を受けているのは重々承知している。けれどきっかけはぐらである。ぐらと出会った頃、二人でよく湘南の海に行った。健全でもなくたくましくもない私たちはもっばら海を見るだけだ。入りはしない。ただただ見るのだ。海を目指して走る車の中でもう、二人は海にいるのだった。海風の粘っこさ、海水のしょっぱさなどは私たちには無縁だ。実際に湘南の海を前にしても、ぐりとぐらにとって海は、観念的なものなのだった。けれど今、私にとって湘南の海はもう少し現実的な存在だ。休日に一人でぶらっと出かける。鎌倉を歩き、神社でお参りをし、好みのカフェを見つける。江ノ電に乗り、ipodでサザンを聴き、江ノ電グッズを買ったりもする。江ノ島の胡散臭いみやげ物屋で胡散臭い物を買い、射的をし、おせんべいを買って食べる。けれど、大抵江ノ島の海岸にすわっている。江ノ島を見上げ、サーファーを眺め、時間が過ぎる。その時私が見ているのは、観念的なものではなく、休日の海だ。感じるのは海の風とトンビの獰猛さだ。自分の足でせっせと通っている分今の私は、ぐらよりも少し湘南に近い。休日は湘南へ行きます。
2006年10月09日
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今年の春先、私は偶然自殺を目撃した。私の目の前で人が死んだ。立ち尽くした。私の手は小さく震え、なぜか自分の口の周りを彷徨った。私の足は冷たくなって動かなかった。私の目はせわしなく宙を泳いだ。死んだのは見ず知らずの中年女性だった。顔は見ていない。私が見たのは彼女の背中。死に向かう者の背中だ。そこには強烈な意志だけが現れていて、感情はなかった。後で警察の人から、その女性は長年気を病んでいた方だったと聞いた。そういう背中だったと私は感じた。自分から死に行く人はどんな精神状況であれ、ああいう背中をしているのではないかと思う。私が彼女の死を目撃したことには何の意味もない。その経験があって私は知った。私は彼女の死を通して何の教訓も得ていないし、彼女の人生に思いを馳せたり、彼女の病について考えたりもしない。あんな場面を見たくなかったとも、自分の運が悪かったとも思わない。あれは私の目の前で起こった私の現実だ。「もし」も「まさか」もない。私は彼女の死を目撃した。それだけだ。「ありのまま」がすべてだ。あれ以来私はそう考えるようになった。でも、あの背中は忘れない。彼女のご冥福を心からお祈りします。*******************************************宣伝。戯曲「男と女」のコーナー。4.「のんびり」を更新しました。
2006年10月07日
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「明星一平さん夜店の焼そば」が好きだ。どのぐらい好きかというと、馴れ馴れしく「一平ちゃん」と呼べないくらいである。かといって、しょっちゅう一平さんばかり食べているわけではない。たまにしか食べない。私の中での一平さんは、お手軽なインスタント食品の代表として存在するのではなく、れっきとした選択肢の一つのとして存在する。オニギリにしようか、サンドイッチにしようか、一平さんにしようか。カレーにしようか、ハンバーグにしようか、一平さんにしようか。という迷いが成り立つ。一平さんを作るときは、きっかり3分、タイマーをセットする。そしてタイマーをスタートさせてからお湯を注ぐ。麺が柔らかくなりすぎると美味しくない。タイマーが鳴るまでの3分間、液体ソースの袋を一平さんの上に乗せてあたためておく。からしマヨネーズはあたためない。ふりかけは使わないので捨てる。タイマーが鳴ったらお湯をしっかり捨て、麺をほぐしてからソースを混ぜる。からしマヨネーズは上からかけるだけ。かけたらなるべく混ぜないようにして食べる。一平さんをほおばり、心から「美味しい!」とのたまう私は不健康な食生活を送っている人間に見えるのだろうか。実際はそうでもない。小さい頃からインスタント食品などほとんど食べたことがなかった。一平さんと出会ったのも大学生の時である。いわば私の一平さん好きは、健全な食生活からくる反動なのである。
2006年10月06日
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久しぶりだ。懐かしい人々は健在かしら。ぐりは健在。ぐらも健在。ここにいなかった間、日常で色々とぐりも成長した。たくさん時間が過ぎていった。その分考えたことも多い。だからその、考えたことをまた書いていこうと思った。甘えてる気もするけれど。でも、書かないよりは書いた方が健全だ。ううん。きっと書きたいんだな。だから、書きます。
2006年10月05日
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問いを投げかけておいて放置していました。アクセサリーをつけるかどうか。ぐりはほとんどつけません。それも、なかなか継続してはつけません。異物という感じがして、家に帰ってくるとすぐに外したくなります。まれに、自分の一部のようにずっとずっとつけていられるものもありますが。だから、私にとって、本当はそういうのが理想です。ずっとずっとつけていること。つけていることを忘れるような。私が好きなのはピアスとブレスレット。ピアスは、つけていて一番気にならない。感覚的に。それと、耳に穴を開けるという恐ろしい行為も私の行為として、私の基準としては「武勇伝」。(他人のことは知りません。私が穴を開けたという行為は武勇伝)その穴に金属を埋め込む。まさに一体化!!そんなスリリングな感じと、純粋にピアスの小ささが好きです。ブレスレットは、細い腕に細い鎖というのは、バランスや見た目として美しいなあと思うから。それに腕はたくさん動く。わざとらしくなく動く。必然的に動く存在。腕とともにブレスレットも動く。あの動きが好きです。
2006年01月31日
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アクセサリーはつけますか?
2006年01月15日
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なんとまあ、久しぶりにHPを開いてみたら、色々と変わっているような気が・・・でも懐かしいみなさんがいる!!・・・・とひとりでおろおろしている浦島ぐり太郎です。お久しぶりです。こんばんは。毎日色々で、でもちゃんと働いていて、大切な人もいて、仕事の後にジョギングしてみたりして、なんだかんだでちゃんと生きています。今なんとな~く自分に対して釈然としないのが、ぐらぐらと不安定な自分や、元気じゃない自分に、「アジヲシメテイル」自分がいるような気がすること。みなさんは、お元気ですか?ぐりは、結構元気です。
2006年01月11日
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また書きます。
2005年09月17日
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仕事帰り、電車を降りて改札を出たところで 妙ににこやかな女性二人組に話しかけられる。「お疲れ様で~す」 こちらが警戒する間もなく唐突に話しかける二人組。「カンボジアの、手や足を失ったこどもたちに車椅子を送りたいと思います」「靴下を買ってもらえませんか?」 私は正直うんざりした。 仕事の疲れとは別のところで。 弱々しく微笑んで、手を振って、私は歩き続けた。 しつこくついてくる二人組。「カンボジアの・・・・」「手や足を失ったこども・・・」「車椅子を・・・」「カンボジアの・・・」 私は冷たい人間なのだろうか。 そんなことは無いと思う。 でも、そこで靴下を買うのは何か違うと思うのだ。 何かが圧倒的に、決定的に、感情的に、違うのだ。 その前日、ちょうど読んだ舞城王太郎の「阿修羅ガール」に出てきた文章を思い出した。「友達かどうかは関係ねーの。手が届きそうなところで誰か困ってたら、普通手、貸すだろ。エチオピアの難民助けるためとかには俺、汗かく気になんねーけど、同じクラスの奴が誘拐されてなんか酷い目にあってるんなら、俺、心配するし、なんか動くよ。普通じゃん?」 正直な物言いだね、陽治。なかなか人が言わないことだけど、ホントのこと。人の親切心にも、その人なりの限界・境界があるってこと。誰かが物凄い苦痛を感じてのた打ち回っていても、それが遠い場所の出来事だったり現実感薄い感じだったりしたら、人はちょっと手を差し伸べたり、一歩歩いたり、チラッと見ることすら億劫で、しないということ。そんなことありふれてた当然で普通のことだけど、誰もなかなか言わない。面倒臭いと同情心はいつもいろんなところで綱引きをやってるってこと。 ま、人はやれること、っつーか、やりたいことしかやれない。 カンボジアの、手や足を失ったこどもたちに車椅子があったらいいだろうなあと思う。 話しかけてきた二人組が詐欺だとか、そういうことも思わない。 彼女達がたとえ詐欺だろうが、本当に車椅子を買おうが、そんなことはどっちでもいいのだ。 要するに、私は彼女たちから靴下を買いたいと思わなかった。 心に響かなかったのだと思う。 彼女たちも、カンボジアも、私の心に届かなかったのだと思う。 私には、職場である整骨院で毎日接する患者さんや、同僚や、よく行くスーパーや酒屋の店員さんの方が大事だ。 カンボジアはあまりに遠い。 そして二人組の笑顔はあまりに胡散臭い。 でも、カンボジアについて、ずっと考えてしまっていたりする。
2005年07月14日
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人は誰でも、自分にとって都合のいいものや人が好きだ。 そういうものを愛すし、そういう人に対して心を開く。 それは当然のことだ。 愛する、心を開くということは、一方的な方向では成り立たないのだから。 一方的な愛情は不毛だ。 心を開いてみても、受け入れられなければ開いたことにならない。 都合のいい者同士が一緒にいたら、それは快適である。 恋人同士はそういうものなのだろう。 本当に心を開いている関係ならば、そういうものだろう。
2005年07月07日
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愛の告白はある種の脅迫のようだ。 愛がこもっていればいるほど脅しの程度も増す。 自分の中にあるありったけの愛を一所に集めて、 本気である状態を想像してください。 そして次の言葉にその状態を注ぎ込んでみてください。 愛している。 愛の告白は、相手を酔わせると同時に、 執念が染み込んだ脅しであるような感じがしませんか?
2005年06月08日
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あなたは、恋人である私から、何の前触れもなくラブレターを受け取る。 いいなあ、あなたは恋人からラブレターがもらえて。 私があなたにラブレターを書いているなんてあなたが想像もしないうちから 私はあなたにラブレターを書いている。 あなたはそんなことをちっとも知らないのに、 あるとき突然ラブレターを手渡される。 この、幸せ者。
2005年05月30日
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心を最優先にしているからこそ 言葉が大事だなんて、いけしゃあしゃあと言ってしまう私。 私の言葉は、心をそのまま映すから。 今の私は、素直じゃない言葉ばかりを発する人を理解しようとしない。 本音じゃない言葉は私を疲れさせる。 相手の本音がわかると尚更。 でもきっと同様に 私のまっすぐすぎる言葉に疲れる人もいるのだろう。 いつでも本音の私の言葉を重く感じる人もいるのだろうな。 どっちが脆いかなんて何の意味も持たない比較だ。 私がいて、私以外の人がいる。 そういうことだ。 嘘か本当かなんてことに動じないぐらいに鈍くなりたい。 どんな言葉の前でも 本音だけを受け取り信じられるぐらいに寛大になりたい。
2005年05月26日
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これは低温火傷だと思う。 今朝方、ストーブにお尻をくっつけたまま寝てしまったから。 たぶん。 起きたら左のお尻がヒリヒリして水脹れになっていた。 だからこれは低温火傷だと思う。 水脹れの水を抜いて、シャワーに入って、オロナインをぬろう。 たぶんこれは低温火傷だから。
2005年05月15日
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世間で言うところのGW。 私は今年やっとそれを手にすることができた。 三連休、仕事、三連休というかたちだったけれど。 前半は、江ノ島に行った。 天気がよくてね。 特に何をしたわけでもない。 海を見ながらビールを飲んで、焼き鳥食べて、マックを食べた。 夕暮れが近くてね。 そのときの私の気持ち。 このまますぐ近くにある海辺の家に帰って、広いベランダでビールを飲みながらサザエを焼こう。 私は江ノ島の近くに海辺の家なんか持っていないけれど。 ベランダは広くなくてもいいのだけれど。 サザエを焼いてから、ビールを飲んでもいいのだけれど。 江ノ電で稲村ヶ崎まで行き、江ノ島と海を見た。 更に江ノ電で鎌倉に行った。 大好きな場所。 だから何も語れない。
2005年05月10日
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人の気持ちなんて、何をしたって縛れないのに、 男を束縛する女がいて、 その女に束縛される男がいる。 でも本当は、女は束縛している振りをしているだけで、 男は束縛されている振りをしているだけで、 そんな二人は似合いのカップルなんじゃないかと思う。 そういう器。 人の気持ちなんて、努力や策略や、天性の能力や新鮮さでは縛れないのに そうやって、飼って飼われて 女は籠を抱え込み、 男は籠から出ようともしない。 本当は、女は抱えている振りをしているだけで、 男は籠があると信じている振りをしているだけで、 そうやって生きていくのだろうと思う。
2005年04月29日
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また途切れた。 私はもう、疲れてしまったよ。
2005年04月24日
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心が弱っていると、それに釣り合うように、体の状態も弱らせようとする私がいる。 ダイエットになど興味はないのに、食欲がないと、ダイエット食品に手を出す。 次の日の朝が早いと、明け方まで起きている。 楽しいことがないと、楽しかった日々ばかりを思い出す。 私はいじめっこ。 いじめる相手は、私。
2005年04月20日
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食欲のない私が、今日の昼、久々に炭水化物を摂った。 好物のメロンパン。 しかしそのことで心の均衡が崩れ、 夜、これまた大好物の「一平ちゃん 夜店の焼きそば」を衝動的に食べた。 しかもそれを作って食べた時の記憶がない。 これに恐れをなし、全部吐いた。 思えば、最近の私は、飲み、食べ、吐いてから、じっくりと晩酌を始める。 今は、その晩酌が始まったところだ。
2005年04月19日
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私という人間は とってもとっても大切な人の誕生日に 「おめでとう」と言わなかったりする
2005年04月18日
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昔から私は、植物をうまく育てることができない。 世話をすればするほど殺してしまう。 水を遣りすぎる、構いすぎて逆効果になってしまう、といった類の殺し方ではない。 至極まっとうに取り組んでいても、結果的に殺してしまう。 それもすぐに。 確かに、まっとうに取り組むのを放棄したこともある。 サボテンを泡盛で育てようと試みたり。 単純に水遣りを忘れたり。 水遣りを忘れるのは、水遣りに関心がもてなくなるからだ。 カレンダーを買っても毎年めくるのを忘れるのと同じだ。 そんな私は、切り花と相性がいい。 切り花は割と長くもつ。 これまた特別に何か裏技を使ったりしているわけではない。 普通にしていると、鉢植えや根のあるものはすぐに殺してしまい、 切り花はよくもつ。 死んだものと相性がよいのだろうか。 あるいは死にかけのものと。 しっかりと育てているのに、やなぎさんも弱ってきているように思う。 やなぎさん、死なないで。 私は自分のことを、植物殺しだと思っている。
2005年04月16日
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今、あなたのことを 心から心配してくれている人がいますか?
2005年04月14日
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私が本当に困った時、 必ず誰かが助けてくれる。 不思議なぐらいに。 そんな時は、日頃の自分の行いを顧みて、 深く反省する。 今日は本当に困った。 そしてたくさんの人に助けられた。 だから自分の日頃の行いを 深く深~く顧みているところだ。
2005年04月10日
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仕事のお昼休みに、青山のど真ん中に咲いている桜を見に行った マックのベーコンレタスバーガーとチキンナゲットを食べた 飲み物はアイスミルクティー 桜の花びらがはらはらと散っていた 花びらが散り落ちてくると 口を開けて待ちうけてしまうのは私だけだろうか 他に飲み込んでしまいたいものはたくさんあるのに 空が青かった 風が吹いていた こっそりと見に行った 幸せだった
2005年04月09日
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