向井千秋さんの、おかあちゃま


日記、4日分を、こちらにまとめました。






2003年10月25日
向井千秋さんのお母様のお話しに感動!その一


館林には、向井千秋記念子ども科学館があり、私はそこに関わった活動をしているおかげで、時々、素晴らしい出会いやお話を聞く機会を頂けちゃうのです。

今日は、向井千秋さんのお母様、内藤ミツさんのお話でした。

楽しいお話しに何度も自然な笑いに誘われたり、涙がぼろぼろこぼれました。

本当に沢山の心に残る言葉を頂いたのですが、今日はその一部を。


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先ずは、向井さんのこと。

今まで、子供の頃から一度も辛そうに泣いた事も無いそうです。
おかあちゃま(向井さんの呼び方です)が、「あなただって人間なのだから、泣きたい事もあるでしょうに、おかあちゃまの前なのだから、泣いてもいいのよ。」と言っても、笑い転げるだけなのだそうです。
訓練で痣だらけになっていても、「楽しい!」だけなのだそうです。

向井さんは、いつも声が明るく弾んでいて、
「おかあちゃま元気?」と聞かれるので、「きわめて健康!」と返すのだそうです。
朝、おかあちゃまが元気の無い返事をすると、「朝が大事!」と言って、こぶしを握らされて、「頑張るぞー!」と、何回も言わされるのだそうです。

淋しそうな声を聞いたのは、チャレンジャーが落ちた時だけだったそうです。

おかあちゃま:内藤ミツさんは、やはり、あの人の母といった楽しい凄さがあります。

人生を楽しく真っ直ぐに生きていらっしゃるのが伝わってきます。

年を取ると、脳が固まってしまうと言うけれど、そんな事は無いと思うと言われました。


英語が「サンキュウベリマッチ」だけしか出来ないのに、一人でアメリカまで逢いに行ったのだそうです。何とかなっちゃうものなのだそうです。
ぶつかられた人にも、サンキュー!と言って、不思議な顔をされた事もある程。

アメリカでの英語は、はっきり喋らないほうが良い。口が廻らないようにもごもごと言うと通じるのだそうです。

水が欲しい時に、「ウォーター」と言っても、何だか判って貰えなかったのが、他の人の注文を聞いて、「わら(藁)」と聞こえたので、そう言ってみると水が貰えたのだそうです。

そんな風にしていると、ある日突然言葉が出るようになったのだそうです。
またある日、英語が書けるようになると、机の上に置いてあった書き込みを見て、向井さんが誉めてくれて宝物しまっておくと言ってくれたのだそうです。

もっともっと勉強をしたくなったそうです。

向井さんは、同じ事を10回聞いても怒らないそうです。

そんなこんなで今では、
ヒューストン付近の道案内は、困った人を見かければ、いつだって話しかけてあげられるのだそうです。

今日は、ここまで!

未だ未だ、沢山書き残したい事があります。
またお楽しみに!






2003年10月29日
向井千秋さんのお母様のお話から。その二


ダラスの道案内だったら任せて!と言う内藤さんは、リュックを背負って・・・アメリカ在住の人たちなら決して歩かない所でも、一人で歩いて移動するのだそうです。

自宅の大きなドアが、パジャマにスリッパ姿で外に出た瞬間に閉まってしまい、鍵が無く、家に入れず基地まで歩いて行った話も、大変だったでしょうに面白おかしく話してくださいました。

内藤さんの実家は、貧しい農家でお弁当も麦半分米半分梅干だけ。と云うような生活で、両親は良く喧嘩をしていたそうです。
嫁ぎ先、つまりご主人は豊かな生活の中で育っているので、生活の習慣の違いに寄る摩擦も沢山あったのでしょうに、子どもたちの前で一度も喧嘩をした事がないそうです。
子どもたちの前では「はいはい」と従い、喧嘩は子どもたちがいない時にしたそうです。
子どもたちの前では、決して父親の否定はしなかった。「ありがたいことです。」と言い続けた。
でも、子どもたちが育ち自分で考えるようになった時に、父親の我儘が自然に解るようになってきて、大変だったねと言ってくれるけれど、自分には宝物の様な人だった。53年連れ添ったその人も、今年6月になくなられてしまったのだけど、生きていてくれるだけでどんなに良かったか。と。

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私の家でも、高校2年まで、一度も両親の喧嘩を見た事がなく、初めて喧嘩を見た時には両親が分かれてしまうのでは?とショックで、泣きながら両親当てに手紙を書いたものです。

母に後で聞くと、やはり影で喧嘩は良くしていたそうですが、その時の喧嘩の内容が「家の事」で子どもに聞かせても大丈夫な内容だった事、もうそろそろ喧嘩を見せても大丈夫な年になったであろう事、理不尽だと思われる内容なので自分の味方にしたかった事。などの策略もあったとの事です。

でも、子ども(向井さんと私)の出来上がりの違いが・・・・何故?

私も、子育ての時に、絶対に子どもの前で喧嘩したくないと思い続けたけれど、・・・・
それは難しかったし、少し大きくなった息子に「母は逃げてばかりだね、逃げは母から学んだ。」などと言われ、かなりショックで悩んだ事もありました。
が、色々あって、今はあまり逃げていませんよ!言い返す事もきちんとしています。時々ですが。


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ちょっと外れてしまいましたが、戻ります。

向井さんの おかあちゃまは、向井さんが日本に帰ってきても、30分位しか会えなかったりとかで、本当は淋しくて泣いてしまうこともあるのに、会うとやはりいつも元気になって、弱い所も見せられなくなってしまうのだそうです。

かわいらしい人ですね。



以前、向井さんにお会いした時に向井さんの優しさは、本物だと感じました。
それは、子ども達にだけではなく、オバサン!にも優しく接しられている姿、しぐさを観て感じたのです。

お話を聞いていても、普通の人では体験できない様な深い痛みも体験している事は確かなのに、それを少しも感じさせない。
これだけのことを成し遂げられる人に、強い感受性が無いはずはありません。
深い痛みを知っているからこそ、優しさに満ち溢れている人なのだと感じたのです。


だから、1話目で書いた、「楽しい事ばかりだ。」と泣き言を言わない千秋さん像は、更にすっごーーーい人なんだなって、感心してしまうばかりなのです。




ロケットが如何に早いか!などについてのおかあちゃまの感想などは、後ほどまた書き込みたいです。

お待ちいただけると嬉しいです。

追記:向井さんにお会いした時のことが、2003年6月12日の日記に少しだけ書いてあります、






2003年10月30日
向井千秋さんのお母様のお話から。その三



ロケットが如何に早いか!: おかあちゃま 談


向井千秋さん初打ち上げ時、海の中島に立つロケット。
どうか故障をして出発できませんように!と祈ってしまった。

秒読み開始・・・

ロケットが壊れてくれないか!
手前には海があるから中島まで壊しに行けない。
カウントの機械には手が届きそうだ!



7・・・まで来た時には、もう何も考えられなくなり、壊して―――!と叫びながら、下まで降りてしまった。

そして、ものすごい振動が起きて、やっと見上げた時には、煙だけしかなかった。
とうとうロケット打ち上げを見られなかった。

「ロケットって本当に早いんですね。」




また、着陸時も、上を見上げていると、
「お母さん、何処見ているの?向こうの方だよ。」
と、言われ見ようとすると、すでに通り越して着陸していた。

「ロケットって、本当に早いですねえ。」



スペースシャトルが降りて来る時には、思わず受け止められるはずの無い両手を空に向け広げていたそうです。

素直な親の気持なんだなあ・・・うんうん解る解る。

でも、2度目の打ち上げの時には、毛利さんとか色々な人が心配をして、周りで優しくしてくれたけれど、それほど心乱れなかったそうです。




new!
宇宙開発事業団ホーム > プレスリリース > スペースシャトル「コロンビア号」の最終報告書について
こちらから飛べます。







2003年10月31日
向井千秋さんのお母様のお話しから:その四


追記:おかあちゃまのアメリカ人に対する心の変化。

昔、内藤さんはアメリカが大嫌いだったそうです。本当に!

それがある時、アメリカの空港で一人で乗り換えようとしていると、年寄りなのでカートに乗せてくださる事になったそうです。身障者用の特別な乗換え口に連れて行ってくれて・・・・・
それはもう優しく、親切で、下には置かないといった感じだったそうです。
自由にしたくても出来ないほどで、トイレに逃げ込んで長居をして、その後未だ時間があるので、一人であちこち見に行こうと思い歩き始めるとまた声を掛けてくれて、結局カート行きだったそうです。

アメリカではご臨終一歩手前のような人が、沢山旅行している。本当に福祉の心が行き届いた国だと感じ、この時からアメリカが好きになり、今では海外から来て困っている人たちがいたら、手を差し伸べようと思っているそうです。


向井さんは よく、「おかあちゃま、人を大切にしない人は、人から大切にされないのよ。」と言われるそうですが、これはきっと小さいころから「おかあちゃま」の姿を見ていて、向井さんが気付いた事なのでしょうね。






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