新潟県武術連盟ホームページ

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太極拳のページ



私の学んでいる太極拳の套路は99勢です。
さーっとやってしまえば、20分位でおわってしまいます。
しかし、私は超スローモーにやって45分位かかる。
こういったやりかたを、わりと頻繁に行います。
もちろん、さ~っと流れるようなやりかたで套路を練るのも重要です。
ゆっくり、ゆっくり套路を練るやりかたの利点はいくつかあげられますが、先ず第一に、体全部の関節や筋肉の動きを意識的にコントロールする能力が身につくことです。
重心を落とし、ゆっくりやっていると太ももの筋肉にかなりの負担がかかり、非常に苦痛になってきます。
肩にも力がはいり、非常に動きがぎくしゃくしてきます。
それでも、あえて重心を浮かせず、上半身をゆるめ、関節一個一個、筋肉一つ一つの動きに神経を集中させていると、だんだん自分の体中の神経が研ぎ澄まされてきて、武術としての原則に反した動きは、たとえ関節一個の動きの呉作用でも、認識されるようになります。
それを意識的に直し、なおるように神経を細かく、細かく使って調整していくと、理にかなったうごきが自分の体の奥深いところに刷り込まれていきます。
そして、理にかなった動き、武術の原則に沿った動きができると、そこには、なんとも不思議な感覚が生まれてきます。
そして、この感覚を頼りに、また自分の身体動作がほんとうに武術の理にかなっているのかいないのかを探っていけばよいのです。
それともうひとつ、大事なことは、そのように自分の内側に意識を向けていくと同時に、目の前に敵をイメージし、敵と戦っているつもりで動いていくことが大切です。
普通は、このようにあまりにも自分の内側のことを意識し過ぎると、敵を想定して・・・ということがなかなかおろそかになってしまいがちで、逆に敵を意識しすぎると体の動きがおおざっぱになってしまいます。
しかし、ゆっくりと動くことにより、体の内側に神経をはりめぐらせながら、同時進行でイメージした敵との攻防に神経を集中させることが可能になってくる。
なぜなら、ゆっくり動くという前提ならば、敵の動きも超スローモーなのであり、こちらがあわてることもないし、おちついて攻撃と防御を行うことができます。
こうやって、自分の内側と外側に同時に神経をゆきわたらせる訓練をつめば、じっさいに速く動いたときに、武術の原理原則にかなった動きが自然に出てくるのです。

それから、もうひとつ、ゆっくりやることの効用は、過渡式、つまり、定式から定式に移るまでの動きの工夫や研究ができることです。
太極拳の動きの核心は、この過渡式にこそあるのであり、この動きのなかから、さまざまな応用変化の技がでてきます。
常日頃、この過渡式の研究や工夫をしておけば、実戦になったとき、非常に有利になります。
ゆっくり、やることによって、定式から定式に移るまでの動きが再認識され、そこには、非常に多くの発見と研究、工夫の余地があることがわかるでしょう。



太極拳の推手から学んだこと。


真剣に生きるってことは、緊張と弛緩をバランスよく操るってことだと思うのです。いつも、はりつめていて、限界まで頑張ってしまう人って責任感がないんです。誰に対してって?もちろん、自分に対してです。
自分に対して甘いんです。
自分のエネルギーで進んでいく、進んでいかなければならないって本気で思っているのなら、自分のなかの陰陽のバランスをとっていかなければいけません。そして、自分よりもっとおおきな力で進んでいって、もっともっと遠くまで行きたいのなら、自分のなかに多くの人達の居場所を確保しなければいけません。

居心地の悪い場所には人は集まってきません。
居心地のいい場所に人は集まってくるのです。
そこは、あるときはぬるく、あるときは熱く、あるときはゆるやかで、あるときは激しい。
しかし、それらの現象は突然生じるのではなく、連続した瞬間の中から生じる。そしてどこへ流れていこうとしているのか、どんなときでも、はっきりとみんながわかっていて、困難の中でも、流れていく過程のほんの一時のものに過ぎないと感じることができる。

太極拳の推手を稽古していく過程で、私はそんなことを考えるようになりました。




太極拳套路における私見。


太極拳の套路を練るのに2つの方法があると思います。
ひとつは瞑想の法。
ゆっくりと練ります。
関節一個一個の動きに神経を配りながら、深く呼吸して、空気のなかに自分の肉体の粒子が溶け込んでいくような錯覚にとらわれるとき、なにもかにも消えうせて、丹田の意識と深い呼吸と俗っぽく言うならば、深いエクスタシーに浸るようなそんな気分になります。
そうやって、自分の心身の欲望にまかせて動いていると、ありのままの思考、感情が生のまま意識にのぼってきます。
それでそれをほったらかしにしておきます。
今の自分の気持ちはどうなのか?
今の自分はいったい何を悩んでいるのか?
どんなことを考え、何を怒り、何を悲しみ、何に喜び、何が楽しいのか?
全部、全部、出てきたら、ほったらかしにしておきます。
ありのままです。
善悪、常識、関係ありません。
自分という人間の奥の奥、ありのままの自分が、そこに現れてきます。
そして、自分が開放されていくのです。
そして、套路が終わったあとに思います。
感情ではありません。
理性とからみあった感情。
真の自分の声だけが残ります。
これは、善の善なる思いです。
それに基づく思考が残ります。

人間の本性について、性善説と性悪説とありますが、太極拳の套路で瞑想した人達は、必ず性善説を支持するでしょう。
なぜなら、正しき姿勢、正しき力には、善の善なるものが宿るからです。

もうひとつの方法は武術の法です。
この方法は、空間に溶けていきません。
ころころとまとまって転がっていくイメージです。
まとまりこそが、武術の法です。

これは、自分のなかの声に耳を傾ける前に、先人達の声に耳を傾ける法です。
動きます。
腕を挙げます。
腕を下ろします。なぜですか?
どうしてこの方法でなければいけないのですか?
歩きます。
どうしてこの方向に歩を進めるのですか?
繰り返します。
前の技と今同じ技を繰り返しますが、それはなぜですか?
この套路をつくった先人達との限りない会話が続きます。

師匠の姿が浮かびます。そういえば、あのときの、あの小指の形、あのときの肩の位置、あのときの見え方、あのときの力の感じ、なぜ、そんな形にみえるのですか?
なぜ、あんな雰囲気の動きなのに、重心がぶれていないのですか?
あきらかに基本と違うのに、なんで、あんな不思議な力がでるんだろう?
ほんとうは、そう見えて、そうではないのかも?

自分以外の、この套路にかかわってきた人達との会話をあきることなく続けます。
かれらは、自分の常識では考えられないほどの知恵を、套路のなかで教えてくれます。
自分という狭い枠のなかでは、とうてい及びもつかないほどのものを、あるときは、やりにくさとして、あるときは爽快さとして、あるときは、高邁な哲学として、套路のなかをさ迷う私達に教えてくれます。

瞑想なら、座禅でいいんです。
でも、自分の奥の奥、さらに奥に突き進んでも、思いつかないような、もっと客観的で、もっと奥深い知恵、もっとおもしろい思考、そんなもの達と出会うためには、やはり武術の法として套路を練るのがいいんです。

あっ!ごめんなさい。
おしつけてはいけませんね。
これは、あくまで私の個人的な考えかたです。
私はそう思って、太極拳の套路を練っているだけです。
みなさま、他山の石としてでも、ご記憶にとどめておいていただければ光栄に思います。





太極拳は、なぜゆっくり行うのか?


ゆっくりとゆっくりと、からだのすみずみにまで気をくばって動くんです。
関節一個一個、筋肉ひとつひとつ、筋の一本一本にまで気をくばって動くんです。

とても不自然で動きにくい動きです。
でも、それを動きやすくするしくみを体が覚えると、不思議な力と速さが体に生まれます。
なぜ、動きにくいのか?
そんなふうに思って勝手に動きを変えてはいけません。
動きを変えずに、うごきのしくみを換えることによって武術の体ができあがるのです。

何回も何回も、動きの精密さを求めて、ゆっくりとゆっくりと動きます。
意識を徹底的に駆使して、何回も何回もゆっくりと年月をかけて動きそのものの質を換えていくのです。
そうしていってはじめて無意識に技が出てくるんです。

そのためには、速くやってはいけません。
動きの質が変わらずに、間違ったままでも、適当な結果が出るからです。
それでは、だめなんです。
正しい動きの質と当然の結果としての技。
これが武術です。

ゆっくりとできなければ、速くやってもできません。
ゆっくりとできれば、速くやってもできるんです。

だから、太極拳はゆっくりやるんです。
それだけ、高度な体の使い方を要求しているんです。
ゆっくりとやらなければ、身につかないほどの高度な体の使い方です。

太極拳に熟練すれば、世の中のありとあらゆる武術のしくみは、理解することができるでしょう。

ただし、太極拳が武術として発生したものだという事実を理解していない人達には、なんのことだかわからないと思いますが・・・・。





太極拳は「玉」の身体を作る。


太極拳は「玉」のような身体をつくります。
玉は、一点が動くと全部同時に動きます。
一点が動いて、それから全部が動き始めるのではなくて、一点が動き始めると全部が動き始め、一点が止まると全部が止まります。

玉の上と下に点を書いた場合、下の一点が上にいけば、同時に上の一点は下に行きます。下の一点が上に行くのと上の一点が下にいくのとは、同時です。時間差はありません。
これは、連動しているのではなく、つながっているのであり、協調しあっているのではなく、一体なのです。

太極拳の発勁の説明で、ちからは踵から生じ膝から腰にまとわりつくように昇っていって、背中から肩、そして肘へと伝わっていき、拳にたどりついて爆発するといった説明がありますが、私は、それでは、あまりにもちからのロスが大きいと思うし、第一、時間がかかりすぎると思います。
「いや、そうではない!このちからの伝え方は、一瞬にして行うのであり、時間にすれば、ほんの数秒にすぎない!」
しかし、こんなイメージをしながら、自分のからだを動かせば、どうしても遅くなってしまうと思うのです。
これでは「玉」ではないのです。

一旦、意が動けば、相手の目の前に捻り終わった下半身が突然現れ、それと同時に、すっとのびた背筋と落ちた肩、ひねりおわった肘、捻り終わった拳が現れている。
全ては同時!
身体のフォームは、過程を省略して、いきなり結果として、相手の目の前に現れている。

そのためには、全てが同時でなければならないのです。
足は足、膝は膝、腰は腰で動き始め、動き終わる。
肘は肘、拳は拳で同時に捻り始め捻り終わる。
そして、全てが同時に動くことによって、エネルギーのロスなしに、一気に力が爆発する。

この結果、相手にとっては、いきなり目の前になんの脈絡もなく、巨大な玉が現れ、それを支えることもできず、それを支えようとする意識すら生じるまえにつぶされる、あるいははじきとばされることになります。

化勁においても、同じことで、手で相手の攻撃を受け、それに連動する形で、足腰の捻りを手に、あるいは腕に伝え、全体の大きなうねりの力を使って、相手の体勢を崩していく。
これが一般的な説明だと思いますが、私は、別のイメージで考えています。

手で受けたときには、相手の攻撃の向かった先にすでに、自分の身体が存在していない。
打つ人の立場で言えば、そこを狙って打っていったのに、打ち終わったらすでにそこに相手の身体はない、という状態・・・・。
その結果として身体が不安定になり、大きく崩れてしまう。
これは、受けてから崩したのではなく、受けると同時に崩し終わっているという状態です。
そのためには、身体の各パーツが、他の身体のパーツの動きにひきずられないで、というか、影響されないで独立してスムーズに動くことが必要です。
そして、全部同時!同時に始まり、同時に終わるのです。
これこそが、「玉」の理論です。

手が相手の攻撃を受けたときには、もう、半身になって、上半身は自分の手の陰に隠れ、足さばきは終わり、すでに攻撃の態勢にはいっている。
これが太極拳の化勁だと思います。

太極拳は、とうとうと流れる大河の如く・・・という表現をされますが、私は、大河に浮かんだ玉が流れていく・・・といったイメージのほうがしっくりとくるような気がします。

あくまでも、自分の思い込みをこの日記に書いているので、正論ではないかもしれません。
しかし、今の私にとっての正しいことがらだと思っています。



太極拳の「化勁」とは?


相手の腕は優しく扱わなければならない。
壊れないように皮膚を傷つけないように、優しく、優しく扱わなければならない。
その腕がたとえ勢いよく振り回され、突きだされたとしても、その皮膚すら傷つけないように優しく受けなければならない。
ころんで、打ったところをなでるように、赤ちゃんの手を扱うように、壊れないように壊れないようガラス細工を扱うように・・・。
どんなに勢いがあっても力が強くても、優しく、優しく接触部分に圧力がかかって皮膚がこすれてしまわないように、そんな受け方をしなければならない。そのためには足腰、上半身が立体的に移動してはならない。あくまでも平面的にあくまでも、動いても移動しないように、そんな身体の使い方をしなければならない。
これが太極拳の「化勁」である。

立体的に動かないこと。
手足、腰、膝、肩が動いても、重心が移動しないこと。
重心を動かさずに腰を回転させること。
腰が水平に回転しても、腰の中心軸の移動距離がゼロであること。
膝が水平に回転しても、腰の中心軸の移動距離はゼロでること。
肩が水平に回転しても、腰の中心軸の移動距離がゼロでること。

これらの身体の運用は套路で練る。
この技術の存在を知らなければ、いくら套路を繰り返しても太極拳の最大の特徴である「化勁」は身につかない。

私は、そう思っている。




楊公の気持ち


なんとなく、楊 露禅公の気持ちがわかってきたような気がする。

楊 露禅・・・・楊式太極拳の創始者。
陳家太極拳を、陳一族以外で学んだ最初の男・・・。

健康法としての太極拳を世間一般に広めたのは彼である。

正直言って、私は彼の真意がわからなかった。
太極拳はすぐれた武術なのに、その用法を伝えないで、優雅な健康体操として伝えた。
そのおかげで、現代において太極拳といえば、体操を意味し、昔、武術だったといっても、人々は、そうだったのかもしれないと思うだけである。

しかし、武術というものが一般的には非常に伝わりにくいものであり、平和時にはほとんど用がなくなってしまうという、武術の現代的価値の喪失感を感じてしまった私にとって、それでも、そんな武術でも、現代に、あるいは平和時に役立つことはないだろうかと思いはせた結果、武術というものに健康法としての価値を見出して、少しは世の中の役にたてようという考えは、極めて自然なものだと思う。

いくら人を殺戮する手段をもっていたからといって、それが平和時に役立つことはほとんどない。
しかし、なぜか知らぬがこの道に没頭してしまう者にとって、せめてそのことを世間の役に立てたいと思うのは当然のことであり、しかし、悲しいかな、そんな抜き身の刃では、世間は受け入れてくれるわけもなく、結局は、健康法という武術としては、ほんのわずかな一面をアピールして対面を保つより他はない。

そうでないと、自分が武術に没頭しているということの意味が、世間では全く認められないという悲しい虚無感に沈んでしまうのである。

熱中し、没頭しているからには、世間的な意味や価値観が欲しい。

楊 露禅公は、武術の達人には違いなかっただろうが、とても寂しがりやだったのだと思う。

そうでなければ、武術のほんの一部分を健康法などという名目で切り売りするわけがない。

人はだれでも自分が没頭しているものに、世間的な価値観を見出したいものだ。

どうやら、私も寂しがりやの部類に入りそうな気がするが、どうしても武術の切り売りはできない。

いまだ、寂しさに耐えている。
そして、武術の矜持を保つためには、当然のことだと思っている。






双按~~~電光石火のはやわざ


太極拳の双按で吹っ飛ばされても、ダメージは少ない。
吹っ飛ばされてなにかにぶつかってとか、階段をころげおちてとか、そういったケースをねらわれた場合は恐いが、その技そのものの威力が体内に及ぼす影響は深刻なものではない。

恐いのは、全身のうねりやひねりなどを意識しない双按・・・・これは恐い。
たとえ腕でブロックしても、自分のその腕が、自分自身の胸を強打することになる。

吸い込んだ空気を波のように吐き出せば、相手はその波に乗って吹っ飛ぶが、吹っ飛ぶということは、吐いた空気が相手を乗せていってしまうだけのことだ。

相手の身体のなかで、圧縮した力を爆発させるためには、全身の螺旋の力を伝えるなんて悠長なことではなく、手足、手足首、指が個別に作った螺旋を相手の胸に接触した瞬間、つなぎ合わせることが大切だ。
その瞬間、電流が走るように、火花が飛び散るように、相手の体内でスパークする。

そのために具体的に注意することは、肩の関節をブランブランにして腕とのつながりを断つこと。
腕を伸ばすとき、腕意外の力を借りようなどと思わないこと。
螺旋の力は指の形状だけにまかせること。
全身があとかたもなく水平移動し、インパクトの瞬間に垂直に重心が落下すること。


双按という技は、ほんとうは目にも止まらぬほどの早業だと思う。




十字手に映る月


太極拳の十字手は、腕を押し付けたり、膝を押したりしてはいけない。
静かに静かに月が満ちるように、自分が満月になったとき相手はひっくりかえる。

草木が伸びるように腕が相手の胸を押し、相手の膝の裏を自分の膝で、相手が気づかないほいどの静かさで曲げてしまう。
重心は垂直に落ち、からだが全部、あとかたもなく水平移動する。
押し付けたり、腰をひねったりすれば、相手はそれを感じ取り、足を抜いて逃げてしまう。
強引に腕を押し付け、膝カックンをすれば、あいての身体は重い重い石になる。

月が静かに満ちて、相手は一瞬にして倒れる。
すかさず懐に抱いた月を割って拳を打ち下ろす。

月も草木も太極拳のなかに姿を映す。





攬雀尾と胸の開合


攬雀尾の意味は、相手の突きをすずめの尻尾に見立てて、それを弄ぶという意味です。
胸を含んで受ければ、相手の突きは浮かんで根っこを失います。
胸を開いて受ければ、小手先のエネルギーを感じることなく、自分の身体ごと相手の突きの軌道からはずれていってしまいます。
この開合の連続によって相手は浮かされ、受け流されてしまいます。

浮いては流されるこの連続技に、相手の重心はフラフラになってしまい、関節技の餌食になります。

胸の開合こそは攬雀尾の極意と云えるでしょう。

ポイントは親指の付け根の裏・・・・。





単鞭は2本のムチ


単鞭は二本の鞭です。
右手の鞭は鉤手で相手の喉もしくは鼻を打ちます。
骨盤を下に沈め、膝で沈めた重心を股の真ん中に放り出します。
背骨は肩と骨盤の圧迫から解き放たれ、肩関節の役割は背骨の両脇の筋肉に代用させます。
肩甲骨はハンガーのように天井から吊り下げられてエネルギーの通すパイプの役割を果たし、急激に沈めた重心は背骨を通ってハンガーを横滑りし、鉤手の手首にスライドします。
かくして手首の一点に重心のスライドが作用し、喉あるいは鼻を通じて全身に重い衝撃が走る。
これが右手の鞭です。

左手は相手の突きに対して流すでもなく打ち落とすでもなく、接触した瞬間に相手の力を巻き取って、強制的に力と意識を奪い取り、その虚となった瞬間に相手の顔面を打つ。
左手の鞭は、受けてから攻撃に転じるのではなく、攻撃する過程で相手の力を巻き取っていくのです。

鞭の作用は千変万化・・・・。
しかし、どれもこれも鞭一本で事足りる。

これが単鞭の名前の由来であろうと思われます。




太極拳経


太極拳経に曰く

太極は無極にして生ず
陰陽の母なり
動けば、これ分かれ
静なれば合す

太極拳にしろ、形意拳にしろ、八卦掌にしろ、套路の最初にでてくるのが「無極式」。
武術を学び始めたころは、ただ名前だけで、こころを落ちつかせてゆったりと立てばいいと思っていた。
それが「無極式」なんだと漠然と考えていた。
しかし、それから何年かして、この太極拳経の文句を読んでいたら、ふっと「無極式」の意味がわかってきた。

太極とは、陰陽のバランスのとれた働きのことを言う。
そこには、動きというニュアンスがある。

太極は無極より生ず
陰陽の母なり

ということは、無極というものは陰と陽が分かれていない状態、すなわち、陰と陽が合わさっている状態のことだと思う。

動けばこれ分かれ
静なれば合す

このフレーズの「静」とは、動中の静のこと、すなわち、太極のはたらきの中の静だ。
やがて、それは転換し、動は静となり、静は動となる。
刻々と移ろい、流れていく、その一場面としての静なのだ。
「合」するとは、陰と陽が合して、バランスをとりあいながら静止している、あるいは、一定のかたちを保っているということである。

そこで「無極」について・・・・・であるが、「無極」とは動きがまだ始まっていないまえの「静」であり、始めようとしなければ、ずっとそこに止まっている「静」である。
その中身は、陰と陽が釣り合いを保って体内に同居しているため、つまり、お互いの作用が同じ量で釣り合っているため、結果として静止している状態・・・・これが「無極式」だと思う。
しかし、そこに自分の意志が働き(根元の一気が働き)、陽の作用が高まると、そこから、自動的に手足が動き出し、套路が始まるのである。

それでは、具体的に「無極式」で立つというのは、からだの意識をどういうふうにもっていけばいいのか。

普通の意識で人間が直立した場合、地面についている足以外は、地球の重力に逆らおうという意識が働いて立っている。
つまり、地球の重力、ものを地面に引き付ける力に対して、陽の力、つまり、地面にひきつけられまい、あるいは、地面に倒れまいとする意識を体に働かせて立っているのである。
つまり、体内では、陰に対抗して陽の力が働いて立っている。
しかし、「無極式」では、陰の力を用いて、つまり地面に倒れこもうとする意識に細工をして立っているのだ。
これによって、体内に本来ある「陽」の力とバランスを取り、「無極」の状態を作り出すのだ。

もっと、具体的に体のパーツで説明すれば、尻もちを作為的につこうという意識と膝頭を地面に倒れこませようとする意識を同時に使うことによって、尻は後ろ下方へ、膝は前方下方へ落ちていく・・・・その結果として真っ直ぐ立っている。
からだのパーツに対して、同時に別々の方向へ倒れこませようとする意識(重力に逆らわない意識)をつかうことによって、結果的にバランスを保ち、結果的に静止している。
体内では相反する体の働きを作用させているのに、外形は静止している。これが「無極式」の姿だと思う。

ここから、陰陽のさじ加減を自分で調整すると、からだが、いわば自動的に近い感覚で動き出す。
そこから、武術のからだは動き出し、動いた結果は技となる。

套路を始める前に、まず、武術の立ち方をしなさい。
武術の動きはそこから始めるべきで、普通の立ちかたから始めれば、君の動きは武術の動き、すなわち、太極の動きにはならないぞ。
物事の道理として、宇宙の法則という観点からしても、太極の動きを始めるならば、無極からはじめるのが当然というものだ。

いにしえの武術の達人達は、「無極式」にこんなメッセージをこめて今に伝えているのだと思います。



太極拳


ゆっくりとゆっくりとやろうとしていると、あるていどのゆっくりをこえてしまう。
あるていどのゆっくりをこえてしまうと、ごろんとなにかがころがって、それに手足がついていって、
ごろんとはやくなってしまう。
ごろんとはやくなってしまうと、いつのまにかはやくなっているので、すばやくやろうとおもってはやくやるよりは、いきおいがみえないので、いつのまにか消えてあらわれるようなはやさになっていて、いしきのおもてにのぼらないほどのあたりまえのことになっている。
あたりまえの速さは、だれにもとめられない。
だって、あたりまえのはやさには、あたりまえについていけないのだから・・・・。



太極拳における引き手有用論


太極拳における掌打のモチーフは、初心者にとってスムーズに力を入れにくいスタイルになっている。
どう考えても、掌に力をスムーズに流すことはできないと思ってしまう。
しかし、引き手を工夫することによって全身のエネルギーを掌に集中することが可能になる。

そのための適切な引き手の位置は、腰の回転をさまたげないで、なおかつ流れてしまわない位置である。
初心者の場合、多くは腰の回転をはばんでしまう位置に引き手を置いたり、やみくもに早く引き手を使い、掌打の動作もぶれさせ、なおかつ硬直したものにしてしまう。
その逆に必要以上に引き手を後に流してしまい、腰の回転がだらしなく流れ、結果、掌に力が集中しなくなってしまう。

引き手が適切な位置にあって、適切なタイミングで作動されれば、腰からはいあがってきた力は、左右の肩関節の内側からの拮抗する力でさらに増幅されて打ち手の腕の芯に流れ込み、掌から激震となって相手の体内に食い込んでいく。

優雅な太極拳の掌打の動き・・・・。
ここに爆発的なエネルギーを込めさせるためには、引き手の位置を工夫し、絶妙な位置にもっていくことがカギとなる。



太極拳における引き手無用論


太極拳の対錬の図で、片方の手をあげながら攻防をくりかえしているのを見る。
一般的に、突く拳の威力を増すためには、引き手は強く後方へ引かなければならない。
なのに、無造作に後方に手を伸ばして攻撃したり、防御したりしている。

引き手は、攻撃の手の威力をぶれさせる。
片手が攻撃の手と何の関係もなく空中に静止してくれていると、攻撃の手はその静止しているところを基準にするので、素早く、確実に働くことができる。

防御の場合もしかり。
意が手に伝わり、反応するときに片手の動きに邪魔されずに防御するほうの手が確実に動くなら、防御もまた素早く正確なものとなる。

単鞭もまたしかり。
同様の理屈である。





型から学べ~~~陸上での泳ぎ方



もはや、太極拳の套路が実際に打撃、関節、投げ技など、実際に使うことのできる技術の集積であることは常識になりつつある。
空手における型も、試合では反則技になってしまうが、数々の実戦的な技のエッセンスのかたまりであることも多くの人達が認識している。

そのうえで個々の技をとりだして、ばらばらに分解して磨く、分解組手、あるいは、析拳、あるいは対錬と、武術のエッセンスをあばきだし、発見し、磨きをかける作業に余念がない。

しかし、自由に打ち合うなかで、一手めは、技になっても二手めは手打ちになってしまうという事実にぶちあたる。
何回やっても、二手めには技にならない。
必ず二手めは無意識の反応になってしまうからだ。

そこで反省する。
まだ個々の技が未熟なのだと・・・・・。
あれほど、個々に技をとりだして研究し、熟達してもまだ足りないのだ、実戦に耐え得る腕前ではないのだと・・・。

ふと思いついて、型の組み立てどおりに、やみくもにやってみる。
そうすれば、何かわかるかもしれないと思う。

型の順番は、防御してから攻撃だ。
相手が攻撃してくるまで待つ。
一手めはそれでO・K!
二手め、あれ、攻撃してこない。
攻撃してくるまで待つ。
やっと攻撃してくれた。
しかし、想定外の運動線での攻撃!
思わず手足が動いた。
力みが手に出た。
手打ちになって、ただ相手の身体の表面を叩いただけ・・・・。
こんなはずじゃない。
次の攻撃を待つ。
だって、型の組み立てかたはそうなんだもん。
ああ、やっと次の攻撃!
あれ、めちゃくちゃにぶんまわしてきた。
次から次へと、相手の攻撃があふれだしてくる。
おい、おい、違うよ!
あんたが攻撃してきたら、次はおれが防御するんだ。
それから、おれが攻撃!
あんたの攻撃はそれからだ。
順番を間違えてもらっちゃこまる。

でも、相手はそんな約束守ってくれないから間合いをはずす。
おもわず力でたたき落とす。
はじく!
相手はぶんまわす。
こちらは、こわくなって逃げる。
技もくそもない。
こちらは、やけくそでローキック!
相手もまけじとローキック!
みんなテレビでおなじみだ!

キックボクシングよりもみにくい血みどろのどつきあいだ。

やがて、みにくい戦いは終わり、反省する。

まだまだ、からだが無意識に技を繰り出すまでに到っていない。
もっと、ひとつひとつの技のレベルをあげていかなければいけない。

しかし、そんなはずはないわけだ。
ひとつひとつ技をかければ、あんなにきれいにあいては術中にはまる。

それなのに、なぜ自由に打ち合うと身体から術が出てこなくなるのか?

それは、術から術への連結がうまくいかないからだと思う。
術から次の術への連結動作が間違っていれば、二手めの術は消えてしまう。

術は、現れるものだ。
現すものではない。

現れるには、現れるための条件が整わなければいけない。
その条件とは、身体の運び方だ。
身体の泳ぎ方と言ってもいいかもしれない。

剣には剣の道筋があり、拳には拳の通る道がある。

これは、個々の技を取り出して吟味し、熟達することによってわかってくるものだ。

しかし、身体の泳ぎ方を学ぶためには、型を分解していろいろ工夫しても身につけることはできない。
なぜなら、型のなかの防御から攻撃に移る動作にその教えが隠されているからだ。

実際の戦いにおいて、今自分が防御したから、次は攻撃する番だとか、次はあなたの番だなんてやっているわけがない。

お互いにひたすら攻撃あるのみだ。

たとえ、一手目は、防御にまわっても、それは相手の体勢を崩すためであり、そこへ攻撃、それでもだめなら次の攻撃、それでもだめなら次、次、次、徹底的な攻撃で相手を肉体的にも精神的にもつぶしていくのが
武術の本当の戦い方だと思う。

しかし、型の順番はいつもこうだ。
防御の次は攻撃、攻撃の次は防御、そのくりかえしくりかえし・・・・・。

やはり、型は使えないのか?
所詮は形骸化した骨董品にすぎないのだろうか?

しかし、型を行ずれば、身体は泳ぎ出す。
理屈はぬきにして、からだは泳いでいく。
実戦的であろうとなかろうと型を行えば、身体はスムーズに気持ちよく泳いでいく。
その技が防御であろうと攻撃であろうと、次々に身体から力が溢れ出し、それが大河のように流れていく。



本当は、型の中の技と技のつながりかたにはとても重要な教えが隠されており、攻撃と防御の区別などなく、身体がたえまなく術を現象させることができるように組み立てられているのだ。
つまり、身体の泳ぎ方を教えている。



防御の技を攻撃技に応用すれば、隙間なく相手に襲い掛かる竜巻のようになり、手打ちや力みもなくなり技が次々と現れ、力が相手を飲み込んでしまう。
それを一気に行えば、手数も少なくて済み、相手もわけがわからぬうちに戦う気力をなくしてしまうだろう。

防御の技を攻撃技に応用することによって、実戦の場面でも型と同じ流れを身体に呼び込む。
そうすれば、からだは泳ぎ出し、技が次から次へと現れる。

型のなかのひとつひとつの技を吟味し、身体のしくみやからくりをつくるのも大切だが、それだけではなく、この技の次にはどうしてこの技がくるのだろう?その次はどうしてこの技なんだろう?と考え、研究して身につけることも重要な稽古のひとつである。

伝統武術の型の中身には、無駄なものなどひとつもないのだ。






ん~ん、なんて言ったらいいか・・・・。



太極拳のあのオーソドックスな技だって、あのう、そのつまり、上段攻撃を受け流して中段攻撃を膝の前で払い、中段の掌打を打つあの技だって、手順をまったく変えずに中身だけ替えてうごくなんてことは、あたりまえのようにできなきゃいけない。

なんていうか、中身がJYAZZだったり、ロックだったり、ポップスだったり、ラップだったりして、手順だけはまったく変えずに技をかける。
まるで、即興の音楽を楽しむように決まりきった動きで相手を制す。

心がはずむ。
音楽が頭をかけめぐる。
きまぐれな遊び心がはじけてきっちりとした原理原則をもてあそんで動く。 

稽古をしていると、なんとなくそんな感じになっていく。
神経が冴え渡り、一番大事な意識に無防備さが覆いかぶさってくる。





太極拳と健康法



健康法で太極拳をやる場合でも、武術として正しい動きを学ばなければ、健康法にはならな

い。

しかし、武術として正しい動きが、必ずしも健康にいいとは限らない。

太極拳というものは、武術として修練していて、その副産物として健康法にも応用できるとい

うもので、健康法として最初から取り組むのには適していないと思う。

健康法としてやっていた人が、武術としての太極拳にも興味を持ち、武術をかじったぐらいの

程度で、健康法としての太極拳が手に入るかというと、それは疑問だと思う。

なぜなら、武術としての基本は、推手の真似事をした程度では身に付かないからだ。

武術としての基本も身についていないのに、どうしてそれの応用で健康法ができるというの

か?


健康法という意味で最初からやるのなら、気功法のほうが適していると思う。

健康法としての太極拳が、気功法とセットになってカルチャー教室で教えられているのをよく

見るが、なにか不自然な感じがする。

セットにするなら、武術としての太極拳と気功法をセットにしたほうが、しっくりくると思う

のだが・・・・。

しかし、武術としての太極拳を極めようと思ったら、修練のある段階から、気功法ですら自分

の筋肉や骨格の邪魔になる。



あくまでも、私だけの考え方にすぎない。





未来型健康法



太極拳は、未来型健康法です。

世の中高齢者社会です。
医療が発達してきて、これから先、日本人の平均寿命も増えていくでしょう。
しかし、せっかく長生きしても寝たきりで何も好きなことができないで命だけつないでいくような老後は、だれも望まないと思います。

寝たきりの状態になる原因は、内臓疾患、あるいは循環器の疾患だけではありません。
転んで骨折して、そのまま他の病気を続発して寝たきりになる方たちも多いのです。
骨粗鬆症などで、骨が弱くなっているところに強い力が加われば、あっけなく骨折することもあります。たとえば、道を歩いていてつまずいて、その瞬間に骨折して、そのうえ転倒して地面に体を打ち付けたときに別の場所も骨折するなんてことは、ざらにあります。

これらの骨折を防ぐためには、転ばないようなバランス感覚と、少しの衝撃で折れてしまわないような強い骨を作ることが必要です。
そのほか、メタボ対策のためのダイエット、血行を促進するための筋肉の発達維持をうながす運動が必要となります。

太極拳は、有酸素運動で内臓脂肪を減らし、中腰でゆっくり動くことによって下肢の筋肉、骨格を強化します。人間の筋肉の70%は、下半身にあります。それらの筋肉を鍛えることによって静脈の血行を促進させ、心臓の働きをスムーズにします。
ゆっくり動きながら体のすみずみのまで意識をはりめぐらせるので、脳が活性化し、認知症の予防にもなります。

今、格闘技やスポーツをやるにはきつくなってきた年代の方たちに是非お勧めしたい。
昔鍛えこんだ身体だからといって安心はできません。
まだまだ老後なんて先のことだなどと油断しているうちに、老化はいつのまにか始っています。とくに格闘技系で活躍した人たちに多いのが肥満です。
現役のときは、運動量が一般人よりはるかに多いので、大量の食物をとっても身体内部に問題は起きません。
しかし、現役を引退したとたんに運動量は減り、急に肥りだす。
現役時代の胃袋は、まだ大きいままで、おおせいな食欲だけは衰えないからです。
そうなってくると、さまざまな内臓疾患が起きてきて治療しなくてはならなくなります。
しかし、ダイエットが大事、運動が大事だと思っていても、仕事でストレスがたまり、休みの日は家でゴロゴロしていたい・・・・動きたくない・・・・というのが実情でしょう。
そうなると、メタボにむかってまっしぐら・・・。
寝たきりの老後が待っているわけです。

そのような事態にならないために役に立ってくれるのが太極拳です。
ゆっくり全身に気を巡らせることによって、集中力がつきます。
深い呼吸をしながら、軽い汗を流すとストレスも解消されます。

これからの高齢化社会・・・。
太極拳こそ、人類の未来を明るいものにしてくれる健康法といえるでしょう。






健康法の腰、武術の股。



太極拳の腰は第12胸椎と第1腰椎の間に設定する。

このことは、太極拳の書籍によく出てくるので、知っている人は多いと思う。
しかし、ここを腰に設定するのではなく、股に設定してここから2本足がでていると設定している人は少ないと思う。

この設定を使って前進、後退をすると重心が左右にぶれなくなり、間合いを詰めるとき、間合いをはずすときに、相手の反応をにぶらせることができる。

武術において、相手に対して正対し、相手が突いてきたとき、この想像上の股から出ている足を一歩下げながら、同側の手で手前斜め下方に流すように押さえると、相手の身体は前のめりに崩れる。当然顎は前に出るので、そこに突きを入れると相手はその攻撃を避けることができない。

第12胸椎と第1腰椎の間の使い道は、多様で、なかなか使い勝手がよい。
健康法では、腰の役目をして、背骨の柔軟性を維持し、そのまわりの筋肉を使うので、上半身の柔軟性を維持するのに役立つ。
武術においては、股の役目をして、そこから生えている足を防御の手の動作に合わせて進めたりさげたりすることにより、相手の態勢を大きく崩したり、反応を鈍らせたりするのに役立つ。

このように太極拳において、武術と健康法がリンクすることは、意外と多い。
深く研究されるべきだと思う。






正のサイクルを作りだす。



太極拳を1週間の生活サイクルに取り入れましょう。

朝早く起きて太極拳を行う。
新鮮な空気のなかで実にすがすがしい気分になります。
またこの気持ちよさを味わいたい。明日もやろう。

ところが、サラリーマンのみなさんはそんなに簡単にはいきませんね。
朝早く起きるには、夜早く床につかなければなりません。
早寝早起きが毎日続けられるほどサラリーマンの世界は甘くありません。
連日の残業、夜のお付き合い、1日の終わりには、疲れ果ててなんとか少しでも寝ていたい。
朝早く起きるなんてとんでもない!

しかし、せめてみなさん、1週間に1度だけ早起きすることはできないでしょうか?
残業続きといっても1日ぐらいは都合がつくでしょう。
週休2日制なら、その土日の2日、朝やれば合計週3日できます。
その土日のうちどちらか太極拳教室に行って仲間と一緒に稽古すれば、運動量もさらにUPします。

いかがですか?
こんな感じで週3日やれば、太極拳の健身効果も期待できます。
また、太極拳が面白くなってくれば、なんとか時間をやりくりしてでも毎朝やりたいと思うようになります。
そうすれば、運動~食事~仕事~睡眠のサイクルが整ってきて、からだの調子も良くなってきます。
正のサイクルがまわってくるのです。
そこまでいかなくても、週3回行うことによって生活にリズム感が出てきます。
そうすると忙しいだけで無味乾燥になりがちな毎日が楽しくなってくるものです。

いわば、太極拳は生活に正のサイクルを作り出すための道具と言えるでしょう。
サラリーマンのみなさん、是非チャレンジしてみてください!






NEW WAVE 太極拳



太極拳は、今や中国の偉大な文化遺産というだけではなく、世界人類の健康をまもるための健身法といえるだろう。

おおげさなことを言うと思われるかもしれないが、私はある太極拳の本と出合ってそのような考えを持つようになった。

「太極拳と呼吸の科学」「はじめての呼吸法」楊 進 雨宮隆太 橋 逸郎 3氏の共著によるものである。
太極拳を医学的見地から分析している画期的な本だと思う。
私はこの本から多くのことを学んだ。
経絡、気、ツボ、そういった中国医学的に分析した本は、今までなんどか目にしたことがあるが、くわしく説明してあればあるほど、漠然としたイメージしか残らないものが多かった。
しかし、上記2冊の本は、西洋医学の基本から説明されていて、さまざまな太極拳の効用が解説されており、非常にわかりやすい。是非、太極拳愛好家のみなさんにお勧めしたい本である。

ただ、逆腹式呼吸の解説で丹田の概念が出てこないので、このへんは私の考える呼吸法とは違うような気がした。

それはともかくとして、これからの太極拳は、その中国の神秘的なベールを脱いで、科学的に検証され、未来型健康法として長く伝えられるだろう。
そのための大きな流れをつくる役割を果たすのが、上記2冊の本であり、著者の楊氏、雨宮氏、橋氏の太極拳であろうと思う。

私も、まだ生理学と解剖学を学びはじめたばかりだが、3氏を見習い、知識を吸収して自分なりの太極拳を創り出していきたいと思う。




脱メタボ~太極拳のススメ



遊離脂肪酸は、運動の際、エネルギー源として利用され、中性脂肪が増えるのを防ぎます。
逆に使われないと肝臓に運ばれ、中性脂肪として蓄えられます。血中に中性脂肪が増えれば、動脈硬化を引き起こします。

したがって、遊離脂肪酸を使った運動をすれば、中性脂肪が減り、動脈硬化を防ぐことができます。

しかし、どんな運動でもいいかというと、そうではありません。
はっ、はっ、はっ、はっ、というような激しい息遣いになるような運動や、筋肉トレーニングなどは、遊離脂肪酸を使わず、グリコーゲンを使うので、中性脂肪を減らすことはできません。

呼吸がみだれない程度の有酸素運動をゆっくりと時間をかけて行うと、遊離脂肪酸が使われ、中性脂肪を減らすことができます。

まさに太極拳は、その条件を満たす運動だと思います。

また脂肪細胞から分泌されるアディポネクチンというホルモンがありますが、これは悪玉コレステロールを減らし、動脈硬化を防ぎます。
しかし、運動しないで内臓脂肪が増えてくると分泌量が減ってきます。
また男女間で分泌量に差があり、男性のほうが女性よりも少ないことがわかっています。

つまり、女性よりも男性のほうがメタボになりやすいということですね。

太極拳というと女性の美容と健康のため・・・・・といったイメージがありますが、
こういった意味では、運動不足の中年男性に是非お勧めしたい運動です。





太極拳的健康法定義



健康とは、すなわちメタボから遠ざかることです。
肉体的には、それでOKだと思いますが、それを行うには、精神的なことも関与してきます。
もっと考えれば、生きがいがあって毎日生き生きと暮らしている人には健康がついてくるということも考えられるでしょう。

多くの人たちが、丈夫で長生きしたいと思うのは、幸せな人生を送りたい、自分のやりたいことをやってから人生を終わりたいと思っているからです。。
健康はそのための手段です。
しかし、えてして不思議なことにいつのまにか目的と手段が逆転してしまっている人もいます。

あまり神経質に健康のことを気遣っていると、人間関係にも支障をきたし、そこからのストレスでかえって不健康になってしまいます。

私が考える健康的な生活とは、日々を健康法でがんじがらめにするのではなく、健康法は、あくまでもコンディショニングの道具と考え、まわりの人たちとも人間関係を維持し、自分の好きなこと、やりたいことにエネルギーを注ぎながら生活することです。

朝、起きたら太極拳をやる。

これは1日の始まりに心身のバランスを整えるためのコンディショニングです。

きのう飲みすぎて2日酔いで気持ち悪くてできなかったら、その次の日の朝でもいいのです。
残業続きで寝るのが夜遅くなってできなかったら、土日の週末の朝にゆったりと行えば、一週間の疲れもストレスもふっとびます。
仕事で一日中机の前に座って、肩が凝っているなら、仕事が終わって夜寝る前にやるのでもいいのです。

みなさんの生活のメインは健康法を行うことではないはずです。
メインは、やりがいのある仕事をすること、生活をまもること、家族の支えになること、子供たちを健やかに育てること、生きがいを持って幸せな人生を過ごすことでしょう。

体調は揺れ動くものです。
いつでも100%体調がいいなんて人はいません。

右に偏りすぎたら、左、左に偏りすぎたら右というふうにバランスをとっていくこと。
このときのバランスをとるための道具が健康法です。
そして、こうやってバランスが崩れ、それを治し、またバランスが崩れ、またそれを治し・・・・これを繰り返していくことが健康的に生きるということではないでしょうか。

健康法とは、そのように役立てていくべきものだと思います。






太極拳的身体



解剖学的には、腕は肩甲骨まで含みます。
太極拳の発勁には肩甲骨が大きく関与していますが、化勁では、広背筋の付け根が関与します。広背筋は、背骨の下部から上部にむかって広範囲についており、停止部は上腕骨を内側から外側へ巻き取るようにして終わっています。
つまり、太極拳の腕は広背筋の付け根まで含みます。
相手の攻撃を受け流すとき、腕だけで受けるのでは、相手の重心を崩すまでには至りません。
広背筋の付け根から腕だと思えば、防御する瞬間、その部分、すなわち腰と背中が同時に動くことになります。腰と腕がつながっていれば、重力を引き受けている腰が重りとなり、腕を軽く相手の腕に添えるだけで大きく崩すことができます。

脚も胸から生えているとイメージすれば、自分の重心を平らに運ぶことができます。
そして一歩進むにしても下がるにしても、前に出した自分の腕に重心が乗りやすくなり、これも相手を大きく崩すための役割をはたします。

したがって太極拳の身体というものは、腕は背中から腰まで続く広背筋からはえていて、脚はみぞおちからはえている奇妙なものになります。
しかし、その性能は、ゆっくりに見えて速く、弱く見えて強い。
不思議な身体能力を備えることになります。

この理論は、「身体革命」伊藤 昇著 (BABジャパン)を参考にさせていただきました。
是非、みなさんにご一読をお勧めします。




























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