蘇芳色(SUOUIRO)~耽美な時間~

Lately



僕は、ベッドの上に一人取り残されていた。白いシーツは、荒れ狂う波のように、僕を押し流そうとする。
そう、彼女は行ってしまったのだ。永遠に。
僕はぼんやりと、彼女と出会ったときのことを思い出していた。

あれは半年前のこと。僕は駆け出しの俳優で、2本目の映画を撮影しているところだった。
2年前にドラマでデビューし、翌年には初めて映画にも出た。端役ではあったが印象に残る役だ。封切り後、いろいろなメディアに取り上げられ、僕は少し有頂天になっていたのかもしれない。
2本目の映画ということで、演技に驕りの気持ちが出てしまっていたのだろう。その日は何回もNGを出し、監督にこっぴどく怒られてしまった。
「おい、新人!そんなに演技をするのが嫌だったら、とっととオーストラリアに帰っちまえ!!」

僕は小学3年生のとき、家族とともに韓国からオーストラリアに移住した。大学もオーストラリアの学校を選んだ。しかし卒業後、どうしても俳優になりたくて、韓国で就職する姉についてきたのだ。
滑り出しは好調だった俳優の仕事も、だんだん苦労が多くなってきた。それだけ自分が、演技に対して真摯な気持ちになってきたのだともいえるが、まだまだ僕は未熟だった。
監督の言葉に傷つき、意気消沈して現場の隅で座り込む。
そのとき、目の前に白い紙コップが差し出された。コーヒーの香りが、僕の縮こまった心をほぐしていく。
紙コップを持っているのは、地味な格好の女性だった。誰だろう?スタッフの一人だろうか?
彼女は無言で僕に紙コップを握らせると、何も言わずに背中を向けて行ってしまった。
落ち込んでいた僕にとって、下手な慰めの言葉を掛けられるより、1杯の熱いコーヒーがどれほど心にしみ込んだことか。
僕は、彼女が誰なのか気になった。

翌日も、その翌日も、僕は撮影現場で彼女の姿を探した。彼女は見つからなかった。
我慢できなくなって、僕はスタッフの一人に彼女のことを尋ねた。
「あの・・・おとといこの現場にいた地味な女性、知りませんか?」
「え?地味?それだけじゃわかんないよ。名前は?」
「知りません」
「なんか特徴あるの?」
僕は一生懸命に彼女の姿を思い出そうとした。
「えっと、長い髪を後ろで1つに束ねていて、化粧は濃くなくて、めがねをかけてます」
「う~ん。それだけじゃ、わかんないな・・・。女優は化粧が濃いけど、女性スタッフはみんなノーメイクに近いからな」
結局彼女のことは何もわからなかった。

その日、僕は友人たちと久しぶりに飲みに行った。撮影現場の緊張も、友人たちとの屈託のない会話でほぐれていく。お気に入りのJAZZクラブ「チョンニョンドンアンド」で彼らと、くつろいだ時間を過ごした。僕はいい気分で彼らと別れ、家路を急ぐ。
店を出て歩いていると、ぶつかってくる女性がいた。どうやらかなり酔っ払っているらしい。僕は倒れそうになった女性の顔を見て驚いた。
僕が探していた人だ。あの時と違い、濃い化粧をして、長い髪はかるく巻いて肩にかかっている。そして香水の香りがした。
胸の鼓動が高鳴り始めた。いったいどうしたって言うんだ!?
「ダイジョウブですか?」
僕は声をかけた。
彼女はとろんとした目で僕を見上げ、ふふふと笑った。
「馬鹿にしないで。ちゃんと歩けるわよ!」
そういうと立ち上がろうとした。しかしすぐ足元から倒れこむ。僕は彼女を支えながら歩いた。
「あの、僕送ります。家、どこですか?」
「家?」
「ええ、貴女が住んでいる家ですよ。帰る場所です」
「帰る場所・・・そんなものないわ」
そう言って彼女は意識を失った。

仕方なく、彼女を僕の部屋につれて帰った。ベッドに寝かせる。眠っている顔を眺める。泣いたのだろうか、頬に涙の後があった。
「・・・・のバカ・・・」
なにやら呟いている。寝言だろうか。
僕は彼女の涙の後に、人差し指を沿わせた。
彼女は辛い恋をしているのだろうか?僕はそっと彼女の額にキスをした。

翌朝、彼女は僕の淹れたコーヒーの香りで目を覚ました。どこにいるのか、すぐには理解できなかったのだろう、きょとんとした表情で僕を見た。
「ここは・・・?」
「おはようございます。昨日“チョンニョンドンアンド”の前でぶつかったんですよ。かなり酔われていましたよ。お送りしようと思ったのですが、家がわからなかったので・・・」
「貴方は?」
「この前、撮影現場でお会いしましたよね」
彼女はしばらく僕の顔を見て考え込んでいたが、少ししてニコリと笑った。
「ああ、監督に怒られてしょげかえっていた坊やね」
“坊や”の一言が、僕の胸に突き刺さる。彼女から見れば、僕は坊やにしか見えないのか。
「あの・・・何もしてないわよね?」
彼女の言葉に、僕は耳まで真っ赤になった。
「そ、そ、そんなことはしていません!」
彼女はいたずらっ子のように笑って、
「そんなことって、どんなこと?」と言った。
「どんなことでもいいです。さ、コーヒーが冷めますよ」
僕は動揺していることを彼女に悟られないように、注意深くコーヒーカップを渡した。

彼女が僕の部屋に泊まってから、僕たちは急接近した。彼女は自分の話は一切しないが、演劇や映画などの知識はとても豊富だった。僕は乾いた土に水がしみ込むように、彼女の知識を吸収していった。
お互いが休みの日には、映画を見に行ったり、美術館に行ったりした。2人で過ごす時間は、僕にとってかけがえのないものになっていった。

僕たちが付き合うようになって3ヶ月が過ぎた頃、閉館時間ギリギリの美術館にモネ展を見に行った。僕も彼女もモネの「睡蓮」が好きだった。
僕は淡い青に染まる「睡蓮」の絵に見とれていたが、彼女はモネの晩年の「睡蓮」の前で立ち尽くしていた。
晩年のモネの作品は、激しい色使いで見るものを圧倒する。青に輝く「睡蓮」と違い、形も定まらない深紅の「睡蓮」だった。
「なんだか恐いみたいだね」
その「睡蓮」の前で、僕が呟く。彼女は赤い「睡蓮」から眼を離さずに言った。
「晩年のモネは目を患ったのよ。だからこんな色使いなの。でも私はモネの心がわかるわ。抑えようとしても噴き出してくる、自分の心の中の感情をどうもできなかったんだわ。そしてそれをキャンバスにぶつけているのよ」
僕は彼女が遠くにいるように感じた。思わず彼女の肩を抱く。
「さ、もう閉館時間だよ。出よう」
誰もいないフロアーを通り、美術館の扉を押して外に出る。綺麗に整備された庭にも、人影はなかった。
「どうしたの?なんだか怒っているみたいよ。もう手を離して、痛いわ」
彼女の言葉に、僕は・・・。

美術館の庭にそびえたつイチョウの大木に彼女の背中を押し付け、彼女の唇を奪った。
初めは驚いていた彼女だが、すぐに僕のキスを受け止めてくれた。僕は唇を離し、彼女の瞳を見つめる。彼女はまっすぐに僕を見つめ返す。
2人とも無言で、歩き始めた。行き先はわかっている。僕の部屋だ。彼女を抱きたい。もうこの気持ちは抑えられない。彼女の手を握りしめ、僕は自分の部屋に向かっていた。

白いシーツの上で、僕たちは抱き合った。彼女の柔らかい肌に唇を這わせる。彼女の吐息が僕の髪にかかる。胸が締め付けられるようだ。
彼女の白い胸も、くびれた腰も、形のよい足も、すべて僕のものだと思った。
「サランヘ(愛している)」
僕は何回も何回も彼女の耳元で囁く。
彼女に包まれて、僕は息が止まりそうなほどの快感を味わった。彼女は乱れた髪を気にしながら、僕に体をゆだねる。
またあの香水の香りがした。
「・・・何?」
僕が彼女のうなじに鼻をつけていると、彼女が聞いた。
「この香り・・・」
「ああ、これね。ちょっと男性っぽい香りでしょ」
そういえばそうだ。彼女の体臭と混ざり合っていたので、ほどよくセクシーだと思っていたのだが、そういわれると男性の香りのようだ。
「何ていう香りなの?」
僕の問いに、ちょっと考えながら彼女は答えた。
「アルマーニのアクアディジオプールオムよ」
その日から、僕の部屋にはアルマーニのアクアディジオプールオムが置かれるようになった。
彼女と僕は同じ香りをさせて、何度も愛し合った。


彼女との夢のような時間も終わりを告げるときが来た。
ある日、撮影現場に行くと、スタッフたちがざわめいている。
「どうしたんですか?」
僕の問いに、男性PDは興奮した面持ちで言った。
「監督の家が大変なことになったんだよ。」
「え?大変って?」
「昨日、監督の家に愛人が押しかけていって、手首を切ったんだとよ。監督、腰抜かしたらしいぜ。そりゃそうさ、離婚寸前といってもまだかみさんがいるもんな~」
僕はなぜか胸騒ぎがした。昨日から彼女と連絡が取れないのだ。僕は彼女の名前も住んでいるところも知らない。
1度彼女に名前を聞いたことがあった。彼女は微笑みながら答えた。
「名前なんて、ただの記号でしょ?なくちゃ不便かしら?じゃケナリとでも呼んで」
それ以来、何度彼女のことを聞いても、一切教えてくれなかった。わずかに僕が知っているのは、彼女の携帯電話番号だけだった。それが昨夜から応答なしなのだ。

それから数日、僕は落ち着かない日を過ごした。何度電話をかけても応答がない。もちろん僕の部屋に彼女が来ることもない。不安に押しつぶされそうになったある夜、彼女から電話がかかってきた。
かなり疲れた声だった。ただ「ごめんなさい」とだけ言って、あとは黙ってしまった。
「会いたい」
「・・・今は会えないわ」
「どうしても会いたい。でなきゃ、僕の方が変になってしまう」
「もう少し待って」
「嫌だ。今すぐ会いたい。どうしても」
頑固に言い続ける僕に、彼女は受話器の向こうでため息をついた。
「わかったわ、今からそっちへ行くから」
小さい音を立てて、電話が切れた。

彼女のヒールの音が廊下に響く。僕は急いでドアを開ける。げっそりと痩せた彼女が立っていた。
彼女の左手首には、包帯が巻かれていた。それを見て、僕は頭に血が上った。
やっぱり彼女は監督の愛人だったのか?
包帯を見つめる僕の視線に気づいた彼女は、かすかに笑いを浮かべた。
「バカでしょ」
「どうして?」
「もうどうにもできなくなったの。私、自分の気持ちが・・・」
「僕のことを愛してくれていたんじゃなかったの?」
「・・・ごめんなさい。貴方のことは好きよ。でも・・・」
「愛じゃないというの?」
「私、愛されたかったのかもしれない。辛い恋を長い間していたから」
僕は夢中で彼女をベッドに押し倒し、唇をふさいだ。
彼女は抗いもせず、ただ目を見開いて空を見つめている。僕が握った左手首の包帯に血がにじむ。
僕は力なく、彼女から体を離した。彼女の心の中に、僕はいない。
彼女は立ち上がり、「お別れね」とだけ言って出て行った。

僕は白いシーツの上で、溺れてしまう。ただ一人で。




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