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すずかぜのように
カンタ君のこと (自分のために)
カンタ君はお腹でドリュドリュ元気に動くようになり、産休に入り助産院と病院に通うのが楽しみで夫も家族も幸せでそんな感じで予定日を迎えた。でもなかなかカンタ君は出てこず、予定日から一週間と二日過ぎた土曜の夜に破水。ついにきた!と助産院に連絡すると様子を細かく聞かれ、陣痛がまだついていないから今夜はゆっくり横になって朝になったら来てください。といわれた。破水をしたらすぐに入院と思っていたのでちょっとひょうしぬけしつつも嬉しくて寝付けず、書こうと思いつつ書けていなかったバースプランを一人わくわくしながら丁寧に書いてそれから寝た。破水はちょろちょろという感じだった。
朝になってまだ陣痛軽いから大丈夫だよ。と試験勉強のための学校へ夫を送り出し、私はタクシーで助産院へ向かった。陣痛がまだお腹がすこし張る程度で軽いからわりと落ち着いていて、助産院についたときも「おはようございますー!」って感じで余裕だった。
助産院の1階の和室はさわやかな朝日が満ちていて上の階では陣痛が始まっている人がいて、私はその静かでおだやかな空気のなかでソファにもたれてNSTをお腹につけて静かにしていた。だいぶ出てきた記録用紙を助産婦さんがチェックしていて一言、「赤ちゃんの心音が下がっていますね。ちょっと先生を呼んできます」と二階へあがっていった。降りてきたS先生は記録用紙を見て「病院へ行きましょう」と。私はまだ事の事態が把握できていなくて「え?先生、私ここで産みたいんです」って。陣痛も軽かったし全然余裕なのになんで?って気軽な気持ちでいた。でも先生は私に「この陣痛の波で本当は心音が上がらなくちゃいけないのに、赤ちゃんの心音は下がっている。これでは危険があるから病院へ行きましょう」と優しく伝え救急隊に電話を始めた。私は用意された布団に横になり救急隊に電話をしているS先生をみていたら急に現実を理解し始めて、涙があふれた。不安で泣いたのではない。心配で泣いたのではない。不安や心配という気持ちがわいてくるほどその時の自分はまだ何もわかっていなかった。ただ先生とスタッフがあわただしくしているなかで、私は明るい日差しとやわらかいお布団の上にいて何かがおかしいんだと思うと涙が止まらなくなった。
泣いている私に優しく先生は付き添ってくださり、私は病院にいくなら今まで見てもらったS病院が良いと先生に伝えた。先生はそうねとS病院に電話をしてくれたが、救急のお産は受け付けていないと断られる。先生は私のお家はどちらでも近いから助産院提携の緊急搬送先のNとKどちらが良いか聞かれるけるけどわからない。先生はKは看護婦さんが皆優しいからK病院にしましょうとやさしくおっしゃって私は御願いしますと言った。先生が優しく手を握ってくれていて落ち着いたので私は夫に電話を入れK病院にこれから搬送されると伝えた。夫は大丈夫か?これからすぐに向かうからと電話を切った。
しばらくして救急車が到着。そのころには私はすっかり落ち着いていて、先生と一緒に表へ出ると救急隊員のおじさんがストレッチャーを押してきて「歩かないでくださいっ!!ここに横になって、いきまないでっ!」って言うものだから、陣痛も弱く、お産の実感がまだきていない私はおかしくなっちゃってかぶってきた帽子で顔を隠して笑いをこらえて救急車に乗った。
K大学病院に着くと何人かのスタッフに囲まれ、緊急搬送口からストレッチャーでガラガラガラと手早く運ばれるとさすがに緊張してきて、身体をこわばらせた時に「こんにちは、これから担当させてもらいます助産師の××です。」と一人の看護士さんが凛としながらも笑顔で挨拶をしてくれてとてもありがたがった。診察室に運ばれあれよあれよと着替えさせられ、あっというまにNSTがついて先生がエコーをとってへその緒は首に巻いていないと説明してくれた。しばらく様子をみましょうと個室に移された。
助産院のS先生は夫がくるまでずーーっと付き添ってくださった。その間、助産院で陣痛がついている人の様子を何度も電話で確認をとりながら、、後で看護婦さんが言っていた、助産院から搬送されてきた場合、助産院のスタッフはすぐに帰ってしまう人ばかりだと。
S先生はカンタ君が生まれてから私がK大学病院に入院中にもお土産を持ってお見舞いに来てくださって、ずっとお産をお願いする人として心を開いていた人だったから、だから母がお見舞いに来ても泣かなかったけど、S先生が来てくださったときは顔をみた瞬間、張り詰めていたものがきれて号泣してしまった。本当にあの助産院でこの先生に診てもらってよかったと今でも思っているし、心のそこから感謝している。
夫が病院に到着して「なんか大変なことになっちゃった」なんて話していると男の先生が部屋に入ってきて「微妙な下がりなのでとりあえずまだそんなにあぶなくはないけれど、心音が下がっているのは良くないことだからなるべく早く切って出したほうが良いと思うんですよね」とかなりイライラした調子で伝えられた。その様子と切って出しちゃったほうがという言葉に私はいやな感じを受けて何も言えなかった。でも、この先生がイライラしていた意味が今ならわかる。私はまったく状況を理解できていなかった。私は緊急搬送されてきた患者で、先生は子供と母体の命に対して責任がある。お産は何があるかわからないという症例をたくさん先生は見てきているだろう。私はお産というリスクをあまりわかっていなかった。そういう人間が手術はできるだけしたくない。待てるならもう少し待ちたい。といえば先生はイライラするだろう。私が逆の立場なら同じだと思う。人の命がかかっているのだ。それでも待ってくれた先生はすごいと思う。結局そして私は帝王切開になったわけだけど、一ヶ月後検診で私が「本当にありがとうございました」と伝えたときの先生の笑顔の前のホッとした一瞬の表情は忘れられない。
心音がそれほどひどく下がっているわけではないので、先生は子宮口との開きと心音をみながら経過を見ることにしてくださった。そのうちだんだんと陣痛がついてきて私も普通にいられなくなってきた。助産婦さんが「痛かったら泣いても良いんですよ」と腰をさすってくれる。夫も励ましてくれた。でも陣痛が付くたびにNSTの心音は微妙に下がる。一度だけすごく下がったときがあったみたいで、部屋には夫と二人でいたのだけれど、突然ナースがバタバタバタと数名入ってきて、「お母さん腰をあげて、このクッションにもたれて!」って四人くらいに体勢を変えられた。私は陣痛の痛みで必死でそれを楽にしに着てくれたのかと思っていたけれど、監視していた心音がひどく下がったからカンタ君を楽にするために来てくれたのだと後で夫から聞いた。
再度、先生が子宮口をチェックしにきてこの陣痛でまだ開きが5cmになっていないからこれ以上がんばると赤ちゃんが大変だから手術にしましょうと言われた。もう私は次々にくる陣痛の波で「はい」と言うしかなく、頑張りたかったけれどもうカンタ君もつらくなるだけだと思った。そこからまたあれよあれよと処置室のようなところへ運ばれて台に移動しようとするのだけど陣痛の波が短くて動けない。助産婦さんが波が引いた時にうまく誘導してくれる。スタッフが手術の同意書を何枚も持ってくるのだけど、陣痛が痛くてまともに対応できない。「お母さん、指借りますよ。」と指にインクを付けられて次々に同意書にサインの代わりに拇印を押される。その時はもうされるがままって感じだった。
そのあと麻酔をかけるのに横になって丸まってといわれるのだけど、これも陣痛でとてもできない。でもどうにか腰に麻酔をかけてもらって、そうしたらすうっと陣痛が消えた。
手術は痛かった。巨大なマジックテープをバリバリバリバリ!!ってはがす感じ。カンタ君が私の顔元に運ばれてきた。白い脂が全身をおおっていて、顔の部分だけきれいに拭き取られていた。泣いてはいなくてふやーっと目を閉じていた。私がおでこにチュッとキスをしたら先生がすぐに連れて行った。カンタ君に会えてうれしいとかより、カンタ君おつかれさま。先に休んでいてね。という気持ちだった。
手術が終わってからのいろいろな記憶に時系列がない。担当の看護士さんがとてもいい人で術後は辛かったけれど、その中ではとても優しく快適に看護してもらった。良い看護婦さんだった。NICUで保育器に入ったカンタ君の前でカンタ君の主治医が帝王切開で生まれたので、産道を通る時に肺がしぼられてお水が抜けるという過程をふんでいないので、肺にお水が残っていて呼吸がすこし苦しいので三日ほど様子を見ます。これは帝王切開で生まれた赤ちゃんは皆そうなので心配しないでください。と説明を受けたのを記憶している。一週間くらいは産褥熱でもうろうとしていたし、三日を過ぎてカンタ君に呼吸器がついても辛い悲しいというより必死だった。毎日カンタ君に会いにNICUに通った。
病室ではポラロイドで撮ったカンタ君の写真を並べてずっと見ていた。呼吸器が入っても、まだなんとなく帝王切開だったから。と、すぐに良くなって退院できるという気持ちが強かった。だからおっぱいを絞り出すのにも泣く事はなかった。ただ早く良くなるよう必死だった。一週間を過ぎてMFICUから一般の産科病棟に移ると、気持ちにも余裕が出てきて、普通に新生児室に並んでいる赤ちゃんをみるとカンタ君の状況がどういうことかわかってきて泣いた。辛かった。面会時間はずっとカンタ君のそばにいた。
産褥熱がなかなか下がらず、予定よりだいぶ入院がのびていたけれど、カンタ君にすぐ会えるから退院は延びて欲しかった。でも熱が下がり、点滴のラインが抜け、ご飯も食べれるようになって私の退院が決まった。
カンタ君はずっとNICUで呼吸管理が続いていた。三日経って一度抜管を試みたけれど、苦しくなって再度送管になっていた。その時の診断は後鼻腔狭窄。鼻の通り道が狭く、鼻で呼吸する赤ちゃんには狭いだけで息が苦しくなってしまうとの事で、CTの写真を見せてもらうと確かに左の通り道が狭くなっていた。口呼吸ができるようになれば呼吸器ははずれるから大丈夫。と説明があった。私も夫も家族も皆、呼吸器がついている理由がわかって少しだけ安心できた。カンタ君はNICUの出入り口付近から一番メインの患者のようなNICUの奥の場所に移っていた。
退院してからは母が泊まりにきてくれ、すべての身の回りの世話をしてくれた。おっぱいをしぼる時間になれば蒸しタオルと消毒した哺乳瓶を用意して起こしてくれた。母乳も一滴ずつ乳首からすくう感じだったけれど、母乳がほんの少しでも哺乳瓶にたまれば凄い!と励ましてくれた。私はおっぱい搾って、寝て、ご飯食べて、着替えて毎日カンタ君がいるNICUに通った。屍のように歩いていたと思う。(笑)
そんな生活の中で、電子レンジで哺乳瓶を煮沸消毒していた母が、哺乳瓶を取り出した時に熱湯がはじけて顔面に熱湯を浴びてしまうという事があった。右半分が真っ赤になって、キッチンでお水を顔にかけながら母は大丈夫と冷静を装っていたけれどただ事じゃなくて、自分のせいでこんなことにと取り乱して、ごめんなさいごめんなさいと泣きじゃくった。すべてが恐ろしかった。カンタ君がここにいないのも母がやけどをおってしまったのも、私のせいだと。母は泣いている私を「これからカンタにもこういう事がおこる。その時に母親が泣いている暇はない!しっかりしなさい!」としかりとばした。結局、わたしが母を看病して、やけどは大事にいたらず今では「火傷を負った母が大丈夫な私を叱りとばし、病人の私が(お腹の傷も癒えていなかった)母を看病する」というあべこべな事になってたよね。と笑い話になっているけれど、本当に最悪だった。後日、父から聞いたら母はやけどの跡が顔にのこってしまったら私が母の顔を見るたびに罪悪感が残ると思い、痕が残ったら整形しようとまで覚悟したらしい(笑)
けれど、悪い事って本当に重なるんだなぁと思ったのは、その日母の顔を冷やし、やけどが落ち着いてからカンタ君に会いに出かけると、いきなりの雷雨で雷がとても近く大きな音で鳴り響いた。傘をさしても洋服はびしょびしょで、駅までの道を歩きながら、もうここで雷が私に落ちてもなんか納得しちゃうなぁ。という気分だった。でも夏のひとときの雷雨でNICUに着いた時にはびしょぬれの洋服はすっかり乾いていたし、しかも病院到着まえのバスの中から大きな虹が見えた。ぼーっとバスに乗って窓の外を見ていたらバスの中で皆が虹を見つけて歓声が上がったのと同時に、私の目にもきらきらとした虹が飛び込んできた。忘れられない嘘みたいな一日だった。
NICUには面会時間はずっと入り浸りで、はじめは迷惑だろうか?と思ったが、自分の息子に会う為に遠慮なんてしている場合じゃないと気持ちを奮い立たせた。そのかわりスタッフの皆とは気持ちよくつきあえるように努力した。主治医は女の先生でとても良い先生だった。私はこの先生でなければもっと辛かっただろうし、汎下垂体機能低下症という疾患を抱えたカンタ君との育児生活は180度違って辛いものとなっていたと思う。主治医はカンタ君だけでなく、わたしと夫というカンタ君の家族丸ごと救ってくれた。
カンタ君は二度目の抜管でも苦しくなり再度呼吸器がつき、吐きやすいとミルクのチューブが十二指腸までになり、その為に胃の解放のチューブがまた入り、そこからは緑色の胆汁が絶えず戻ってきていて小さな顔はチューブとそれを固定するテープ、呼吸器を振り切らない為に頭を固定するヘアバンドでほとんどを埋め尽くされていた。それでもうっすら目をあけたり、ほんのわずかに変わる表情に必死に話しかけた。抜管してから会いにいった時にまた呼吸器がついているのが目に入った時は泣いた。チューブが増えた時も泣いてしまった。何度も泣いた。カンタ君がどうなってしまうのか不安で不安でおかしくなりそうだった。このまま一生呼吸器は外れないのかと思った。ネットでの情報検索もはじめはいたずらに不安が増すだけだと思って控えていたけれど、こらえきれずに調べ始めてしまった。疑問はすべて先生に聞いた。先生はどんな質問でも繰り返し繰り返し真剣に丁寧に説明してくれた。呼吸器をつけたカンタ君は主治医がいないと抱っこすることができない。どんなに忙しくても主治医は毎日NICUに来てカンタ君を抱っこさせてくれた。面会終了時間に間に合わない時は「あと少しでNICUに帰れるからお母さん待ってて。」と電話を入れてくれて、大急ぎで帰ってきてカンタ君を抱っこさせてくれた。
どんどんカンタ君のむくみがひどくなり、別人のようになってしまい、力もなくなってしまっていたカンタ君に会うのが恐ろしくて辛くて耐えられなくて、どうしても会えないと寝込んでしまった日が一日だけある。代わりに夫が仕事を休んでカンタ君に会いにいってくれた。その時主治医はお手紙をわたしに書いて夫に託してくれた。一生の宝物だ。本当に泣いてばかりいたけれど、NICUで撮った写真のわたしはどれも笑顔で楽しそうに移っている。全部主治医のおかげだ。
カンタ君、甲状腺刺激ホルモンが出ていない事がわかったのでホルモン補充を開始したと三度目の抜管の予定日に主治医から説明があった。甲状腺は新生児マススクリーニングで正常と結果が出ていてホッとしたのを覚えていたので主治医に確認すると、東京都のマススクリーニングでは上限値しかチェックしないので正常と出るが、カンタ君は刺激ホルモンがまったく出ていないのでスクリーニングは正常となり、でも刺激されないので結果甲状腺が働いていなかった。と説明される。主治医は私たちには呼吸の説明しかしていなかったが、抜管も二回試みてもだめだったし、長引いている黄疸が気になっていて、スクリーニングは正常とでているが基本に戻って再度検査をしてみようということになり、検査したところビンゴ!となったらしい。続いて下垂体から出ているホルモンがすべて低値と結果が出る。チラーヂンS開始から一週間後、コルチゾールの補充も始まった。今回の抜管時にのどのむくみを取る為に点滴でステロイドを使用する予定だったが、下垂体疾患に気づかないまま使用していたら大変な事になっていたらしい。カンタ君が生まれて二ヶ月目、三ヶ月に入る直前の頃だった。
それからは先生の口からどんどん新しい言葉が出てきて必死に説明を聞き、帰宅してはネットで調べた。カンタ君はホルモンの補充が始まってからめきめきと良くなり、どす黒く色黒だと思われていた肌の色は副腎のせいだったらしく色白のきれいな肌色になり、元気もでてきてむくみもすっきりととれた。活気が出過ぎて、狂ったように頭を振ったりしていて、ちょっと心配だったけれど、それでもめきめき目に見えて調子が良くなっていく姿が何よりもうれしかった。そして延期になっていた抜管がようやく試みられた。前回、再送管になっていたので、抜管した当日よりも、一日目、二日目、三日目と大丈夫、大丈夫、大丈夫!!と日が経つにつれて喜びが充実していった。抜管して二日間もった時は安心して腰が抜けそうだった。
ホルモン補充が始まって初めて主治医が体調を崩し、お休みで会えない日ができた。それまでの三ヶ月間、毎日NICUで会っていたのでNICUの小児科医はお休みがないくらい忙しいものなんだと思っていたけれど、それはカンタ君の為だった。カンタ君も一生懸命戦っていたけれど主治医も必死にカンタ君と一緒に戦っていたのだと気がついた。めきめきとカンタ君の調子が良くなってからは主治医は定期的にお休みがきちんとあった。本当に良い先生に巡り会えて良かった。命の恩人ってこういう事かと実感した。
それからカンタ君はNICUからGCUに移り、めでたく退院した。お正月をGCUで迎えたがGCUには長期入院した赤ちゃんとの自宅での生活が不安な親の為に、赤ちゃんとの生活に慣れるために一緒に生活できる個室が一つ用意されていて、その個室を利用させてもらい親子三人で新年を迎える事ができた。夫とカンタ君と三人で川の字になって寝る事ができて、うれしくて幸せだった。
退院の時はやっぱり泣いた。でも先に泣いたのは主治医のN先生だった。それで耐えていた私は号泣。うれし涙と絆ができていた病院スタッフとの別れの悲しい涙と、感謝の涙といっぺんに流れた。うれし涙と感謝の涙はそれまで生きてきて初めて流した涙だったかもしれない。
ホルモンの疾患の場合、徐々に症状が進行するため発見が遅れる事が多いそうだ。新生児の場合、どこかおかしいと新生児科医はまず、早急に手を打たなければ死に至ってしまう外科の疾患を探し出す。カンタ君も呼吸が苦しかったため気道を外科的にしらべ、胆道や腸などそういった身体の構造を先生は調べていた。呼吸が苦しいのは鼻腔が閉鎖しているからと診断ははっきりしていたし、マススクリーニングでの結果もすべて正常と結果が出ていた。それでも数値だけでなく、つねにカンタ君の様子を観察して下垂体疾患を見つけた主治医は素晴らしいと思う。まさにN先生の手腕で見つかったのだと思う。ネットで相談したクレチンのH先生もこのケースでいえば早期発見でしょうといわれた。今かかっている内分泌の主治医もその後、入院してしまった時の担当の先生も同じことをいわれていた。
甲状腺ホルモンは新生児時期から足りないと知的障害を屏息してしまう。重度の場合、生まれて二週間以内に補充されなければ知的にダメージが残るらしい。カンタ君はまったく出ていなかったので重度で、補充が始まったのは三ヶ月に入る前で、はじめは知的障害という事実にショックをうけた。それでも他の先生の話を聞くたびに、カンタ君の発見は早かったという。だから今では幸運だったのだと思えるようになった。そして甲状腺のホルモンよりも、副腎のホルモンは命にかかわるため、本当に命そのものが危なかったのだ。
汎下垂体機能低下症という疾患を抱えたカンタ君は健康な身体を持っている人たちからみたら不幸なのかもしれない。カンタ君も大きくなったら自分自身をそう思う時がくるかもしれない。
でも、振り返ってみると助産院で微弱な陣痛の時から心拍を下げてカンタ君は私を大学病院に運んでくれたのだと思っている。心拍が下がった理由は分からないそうだ。下垂体の問題でも鼻腔狭窄のせいでもないらしい。とするとやっぱりカンタ君が知らせてくれたのだとしか私は思えない。もし、心拍が下がらなくそのまま助産院で出産していても、呼吸が苦しくてすぐに病院にカンタ君だけ搬送されてしまい、わたしと離ればなれになってしまっていただろう。そして助産院でなく普通の病院、NICUがない病院で帝王切開だったとしても結果、カンタ君だけ搬送されていたはず。そしてN先生に巡り会えなければ、もしかして下垂体の疾患の発見はもっと遅れていたかもしれない。
だからカンタ君がもし自分を不幸だと思った時は、あなたは自分でちゃんとSOSサインを出してママを病院に運んでくれた賢い子なのだよとお話をしようと思う。カンタ君がママのお腹のなかに来た時から私は大事にカンタ君を育ててきた。だから、下垂体の疾患は何が原因かはわからないし、自分を責めることもせずに前をみてカンタ君を育てていこうと思う。そう思えるようになったのも、いつも優しく前向きな夫と、一言も責める事なく母親になった私を全面的にバックアップしてくれた私の親、夫の親のおかげだと思う。
本当にたくさんの人に支えられた。助産院のスタッフ、大学病院の看護士さん達、先生たち、家族、とってもとってもありがとう。カンンタ君の命は元気に育っています。
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