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砂漠の果て(第10部「宣告」)
第十部「宣告」
―第32章―死神―2
イブン・ムハンマッドは、いきなりアルブラートに銀色に光るピストルを差し出した。彼はそれを見て、ゾッとした。
「あのジャハールはまだ12歳だ。13までは『アシュバル』 として聖戦のための訓練をさせている」
「アシュバル?どういう意味だ―あんな小さな子に戦闘の訓練をさせているって言うのか」
「そうだ。アシュバルというのは『若獅子』ということだ。14からはフェダーイーンだ。大人の戦闘員の仲間入りだ」
アルブラートは「フェダーイーン」という言葉を聞いて、寒気がした。彼は、差し出されたピストルを、相手に押し戻すと、黙ってコーヒーを飲み干したが、手が震えていた。
「あんたはもう充分フェダーイーンとして戦える。あんただって難民キャンプで育って―捕虜収容所に捕まっていたんじゃないのか」
彼は、相手を見据えると、忌々しげに言った。
「それはあんたの言う通りだ。俺は15から16まで捕虜収容所にいたんだ―でも、もうそんなことは忘れたいんだ。だからピストルは要らない。もうイスラエルとの戦いに巻き込まれるのはごめんなんだ」
「そんな弱腰で俺たちの国ができると思っているのか―あんたはイスラエルが憎くないのか。仇を討ちたくはないのか」
アルブラートはきっぱりとした激しい口調で言い放った。
「憎い?憎いのは当たり前だ。でも争い事はもう嫌なんだ―俺はゲリラ活動なんかしたくない―ただ静かに暮らしたいだけだ......!あんたは今フェダーイーンと言っただろう―でも俺はレバノンでゲリラと見なされて、治安部隊に右足を撃たれたんだ......!もう俺のことは放っておいてくれ!」
イブン・ムハンマッドは諦めたようだったが、最後にこう言った。
「あんたも随分と冷めているんだな―でも俺は親友のイブン・ラシドが忘れられないんだ。ラシドは捕虜収容所で、イスラエル軍の命令で母親を殺さなければならなかったんだ―あいつはそれに耐え切れずに、とうとう自殺してしまったんだ......同胞がこんな目に遭っていて、それでもあんたは戦いたくないと言うんだな」
アルブラートはそれを聞いた途端、喉を絞められたような息苦しさを感じた。彼は黙って席を立つと、急いで外に出た。傘は店の中に置き忘れていた。雨が降りしきる中、彼は足を引きずりながら、一刻も早く、この喫茶店から逃れようとした。
彼は雨に足を取られて、それ以上歩けなくなった。今のイブン・ムハンマッドの言葉が心臓の奥深く突き刺さった。彼は歩道に膝をつき、壁に頭を押し付けるようにして、雨に打たれながらうずくまった。
母親を殺して......それに耐え切れずに自殺しただなんて......
でも俺は母さんを殺して......それなのに生きているじゃないか......
なんて俺は卑怯なんだ......
母さんの命を奪って―自分はアイシャと幸せになろうだなんて......
急に彼は腕を引っ張られた。見上げるとムカールだった。
「お前―何してんだ。足が痛いのか。いくら暖かくても風邪引くぞ」
アルブラートはびしょ濡れのまま、アパートの入り口の階段まで彼と一緒に帰った。家に戻ろうとせずに、階段の所で座り込んで顔を覆っているアルブラートを見て、ムカールはまた彼が何かをきっかけに、過去に苦しんでいるのだと敏感に察した。
「何かまたあったんだな......遠慮せず俺に言えよ」
アルブラートは肩を震わせながら、今の店での話を告げた。ムカールは驚いた風だったが、静かに落ち着いた口調で言った。
「母親を殺したそいつも命令でやったんだろう―でもそいつが自殺したからって......お前が何も罪の意識に駆られる必要はないんだ」
「でも俺は自分で自分を許せない―生きている資格もない......
母さんを殺しておいて......自分はのうのうと生きているなんて......」
ムカールは顔を覆っている彼の手を掴むと、自分を見るようにと言った。
「馬鹿だな、お前は―お前は、そんな酷い目に遭っておいて―自分を責めるのか―責めるのはお前にそんなことをさせたイスラエル人じゃないか―いいか、お前がこうやって生きているのは、亡くなったお前の母さんの遺志だ―お前だけは幸せになって、その天性の才能を活かすようにという遺志なんだ......絶対に自分を責めるな。お前は卑怯でも何でもないんだ」
アルブラートは、母にそっくりな彼をじっと見つめていた。青年の言葉は、母の言葉のように思えた。だが彼の視線に耐え切れなくなり、目を反らしてうなだれてしまった。
ムカールはちょうどほぼ1年ほど前の、アルブラートの告白を思い出した。
どんなに言い聞かせても......
こういう心の深い傷は癒えないんだな......
時折発作的に―こんなに大きな罪の意識に襲われる......
アルラートはどうなるんだろう......もし俺がいなくなったとしたら......
誰が俺の代わりに彼を支えるんだ―アイシャか、ドクターか......?
「分かったな......俺の言葉を忘れるなよ―また何かあったら何でも俺に言うんだ。それから、この街には最近そういうゲリラのアジトが多いから気をつけないと、すぐに巻き込まれるぞ。ちょっと俺の部屋でコーヒー飲んで行けよ。服もびしょ濡れじゃないか―俺の服を貸すから」
ムカールは、アルブラートの沈鬱な雰囲気は、すぐに敏感なアイシャに伝わると注意した。彼らが3階に上がると、アデルが驚いたようにアルブラートを見た。アデルのお腹はすっかり大きかった。
ムカールの服は、アルブラートには大きめだったので、彼はシャツやズボンの裾を折り曲げた。ムカールは、アデルにコーヒーを頼むと、奥からタオルを持って来てやり、彼に渡した。ムカールは、2年前の秋に、サイダで初めて出会った時みたいだと笑った。
「アルラート。ほら、お腹に触ってみろよ。赤ん坊が動くのが分かるだろう。可愛いよな―この子は俺たちの声がもう聞こえているんだ」
アルブラートは、アデルのお腹にそっと触れてみた。途端に、小さな生命が活発に足を動かすのを感じて、驚いた。
ムカールはソファーに座ってコーヒーを飲むと、微笑みながら言った。
「アルラート。こうやって人間は生まれて来るんだな。皆かけがえのない命なんだ。皆それぞれ違う個性や才能を持って生まれて来るんだ」
アルブラートが自分のアパートの部屋に戻ると、アイシャが駆け寄り、彼に抱きついて来た。
「帰りが遅くて心配してたの―昼食が冷めてしまったわ」
彼女は10日後に目の手術を控え、いつもよりも不安が増し、神経質になっていた。アルブラートは、腕時計を見て、もう1時半だったのに気がついた。彼は、アイシャの顔をじっと見つめると、熱い気持ちが込み上げて来た。
アルブラートは彼女を強く抱きしめると、そのまま一緒にベッドに倒れるように横になった。彼はアイシャの体の鼓動を感じながら、彼女に接吻した。アイシャは、彼が涙を流していることに気がつき、驚いて体を起こした。
「どうして泣くの―?何かあったの......?」
「なんでもない......このまま幸せが続けばいいなって思って......」
アイシャは、彼がいつもと違う服を着ていることに気がついた。
「ねえ、どうして服を着替えたの......?あの人の服じゃないの」 「雨に足を取られて転んで......びしょびしょになったんだ。だから服を借りたんだ―それだけだよ」
「着替えならここにもあるのに―あの人と話があったの?」
「うん......たいした話じゃないよ。翻訳の仕事の相談だよ」
アイシャは、アルブラートが話をごまかしていることに気がついたが、それ以上は尋ねなかった。彼女は、まだ濡れている彼の髪を撫ぜながら、呟くように言った。
「ねえ......私には嘘をつかないって約束して。言いたくないことは言わなくてもいいわ。でも―何かをごまかすのは止めてね。それでも、私を心配させないためなら―それもいいわ」
アルブラートは、なぜそんなことを言うのかと彼女に訊いた。アイシャは少し笑って、ムラートは声の調子で嘘か本当かが分かるからだと言った。
彼女は彼の頬に触れながら、静かにささやいた。
「あのね......今頃訊くのも変だけれど―ムラートの肌はどんな色?」 「俺の肌?褐色だよ―お祖父さんがジプシーだったから、それに似たんだ......きっと」
「じゃあ目はどんな目なの?」
「俺の目は......母さんに......母さんによく似てるって......小さい頃から言われてた......」
アルブラートは、自分から母親のことを口にするのが苦痛だったが、アイシャにはその辛さを隠そうとした。
「アイシャ―手術が成功したら、俺がどんなか分かるだろ」
「そうね。でも......今聞いたことが当たるかどうか、手術の後に確かめてみたいの」
アルブラートは、その晩、奇怪な夢を見た。雨が激しく降る中、空から何か光る物が次々と落ちて来る。水溜りにかがんで拾うと、それは銀色の短銃だった。彼はひとつ短銃を拾うと、目の前にいる誰かに狙いを定めた。それはイブン・ムハンマッドだった。
彼は、引き金を引くことに快感を覚えた。だが、弾は外れてしまった。悔しさにもう一度、撃とうとすると、目の前の人物はムカールに変わった。アルブラートは怖ろしくなり、短銃を遠くに投げ捨てた。だが、短銃は、まるで生き物のように、何度も何度も彼の手に吸い付いてくる。
彼は逃げ出そうとするが、足が重くて走れない。突然、誰かが彼から短銃を奪い、ムカールに射撃を浴びせた。アルブラートは叫ぼうとしたが、声が出ない。ムカールはどんなに撃たれても、平気な様子で、彼に近づいて来る。だが次の瞬間、彼の足元には、粉々に砕け散った青い宝石のかけらが散らばっていた―
アルブラートはあまりの恐ろしさに、ベッドから跳ね起きた。まだ夜中だった。すぐそばには、子供時代と同じように、アイシャが静かな寝息を立てていた。
なぜムカールを撃つ夢なんか......
それに彼を撃ったのは俺じゃなかった......
じゃいったい誰が彼を撃ったんだ......?
アルブラートはなぜこんな夢を見たのかとしばらく考えていた。昼間、ゲリラ・グループのアジトなどに迷い込んだからかと思い出したが、何か不吉な予感がしてならなかった。
10日間は瞬く間に過ぎ、アイシャの手術の日を迎えた。アイシャは不安に怯えていたが、アルブラートは、包帯が取れた後のことを楽しみにしておいでと励ました。
彼女の手術は朝の10時から2時間ほどの予定だった。その間、落ち着かないため、アルブラートは、ムカールの仕事部屋に行って、待つことにした。ムカールは黙って、フランス人患者宛の書簡を翻訳していたが、不意に仕事の手を休めると、向かいに座っているアルブラートに話しかけた。
「アルラート。毎週月曜日に、ドクターが俺を診察するのは知っているだろう。昨日、急にドクターが、これから毎週1回はペニシリンを打つって言い出したんだ。どうしてかな―どこも調子は悪くないのに」
彼の不安は、すぐに感じやすいアルブラートに伝わった。彼は10日前に見た夢を思い出したが、不安を打ち消すように、こう言った。
「ペニシリンって―抗生物質だろ。ムカールみたいな手術を受けた後は、熱を出すこともあるんじゃないかな......先生の治療を受けているんだから、何も心配ないよ」
「ドクターは 『発熱の予防のためだ』 と言ってたんだ―でも、ペニシリンは、あれは壊疽の進行を抑えるために使うんだ......まさか、壊疽がまた広がっているんじゃないよな」
アルブラートは、唇を噛み締めて、黙って首を振った。彼は、自分自身に、大丈夫だ、心配ないと言い聞かせながら、不安を打ち消そうと、そばにあった書簡を何気なく手に取って見た。
その途端、その手紙の差出人の名前に目が留まった。
「オルガ・エレーナ・バシリエフスキー」......? この名前は、あの日記帳の写真の女性と同じじゃないか......
でもあの写真は「オルガ・エレーナ・グルジャーノフ」だった......
「もう20年も息子を探している」だって......?
この二人がもし同一人物だとしたら、この人は......?
彼は、その女性の写真が、ムカールにそっくりだったことを思い出した。だが、ムカールは、自分には似ていないと、問題にはしなかった。彼は、複雑な気持ちで、その手紙を元の場所に戻したが、ムカールも彼に、その手紙のことをこう言った。
「その手紙、不思議だろう。その女の人は、アテネにいるんだな。去年の12月頃、ドクターがアテネに出かけたことがあるだろう。ドクターの知り合いなんだな―でもプライベートなことだから、俺はドクターには何もそれについて尋ねたことはないんだ」
アイシャの手術から2週間経った。彼女の手術は成功し、今日は目の包帯を外す日だった。アルブラートは朝から、初めての人に会うように、胸をときめかせていた。彼は格子縞のシャツに黒いジーンズをはいて、病院に出かけた。
彼が病室に入ると、ちょうど医師が彼女のそばにいた。アルブラートは緊張した気分で、彼女の手を取ると、そばの椅子に腰掛けた。病室にはムカールも様子を見にやって来ていた。ザキリスはそっと包帯を外すと、静かに目を開けるようにとアイシャに言った。
アイシャは目をほんの少しずつ開けた。アルブラートはそのわずかな数秒が長く感じられ、思わず彼女の手を強く握りしめた。アイシャが目を完全に開けると、医師が問いかけた。
「どうですか―見えますか」
彼女の目に、ほんやりと、格子縞模様のシャツが見えた。彼女は、まばたきしながら、自分の手を握るアルブラートの手に目をやった。それから、視線をまっすぐに、アルブラートの顔に向けた。
今では、視界がはっきりとして来た。アイシャの目に、やや褐色の、艶やかな肌をした、整った顔立ちの若者の姿が飛び込んできた。彼の目は黒く美しく、華やかだった。誠実で優しい、感受性の豊かな大きなその目は、彼女を心配そうに見つめていた。
「ムラートなの......?」
「そうだよ―アイシャ。見えるんだね」
アイシャはうなずいて、涙をこぼした。
「やっぱり当たったわ......本当に思った通りのムラートだったわ......きれいな目をした私のムラートだったわ......」
アルブラートは涙を浮かべながら、彼女に鏡を渡した。
「ほら、鏡を見てごらん―映っているのがアイシャなんだ。アイシャはこんなに髪が長くて......こんなに美人なんだ」
アイシャは鏡で、生まれて初めて自分の姿を見た。彼女は白い頬がほんのりと赤く染まり、珍しいものを見るように黙って自分の姿に見入っていた。彼女は長い黒髪を、2本の三つ編みにして、背中に垂らしていた。
鏡を手にしている彼女に、ムカールが声をかけた。
「おめでとう、アイシャ」
アイシャは、彼を見上げた。途端に彼女は驚いたような表情になったが、すぐに顔を赤らめて、微笑んで見せた。
ザキリスは、1週間ほどはアイシャに外出は控えた方が良いと言った。
「しばらく家にいて、物を見るのに慣れてから、少しずつ街を歩いてみるのがいいでしょう―良かったですね、アイシャ」
アイシャは医師をじっと見つめ、子供らしさの残る声でお礼を言った。アルブラートも、ザキリスに丁寧に礼を述べた。
「本当に......先生にはどんなに感謝しても足りません―この手術代は、必ずお支払いします」
「いえ、私はあなたからお代は頂きません。これは私のささやかな善意と受け取って下さったら結構です」
「でも僕も、先生のおかげで職に就けたんです。貯金も少しはできましたから......こんなにいつもただで手術をして頂くのは申し訳なくて―」
ザキリスは微笑んで、少し考えていた。
「本当に、あなたのその感謝のお気持ちだけで充分すぎるほどですよ。
でも、どうしてもお礼をしたいと言うのなら―私はこれから土曜日はいつもあなたの演奏を聴きにレストランに行きます。それで、私が報酬をあなたから受け取ったということにして下さい」
アルブラートはアイシャを連れて、アパートに戻った。アイシャは、自分のアパートの室内を、珍しそうに眺めていたが、ふとアルブラートの机にたてかけたウードとカーヌーンに目が留まった。
「これがムラートが昔から弾いていたウードだったのね......でもカーヌーンは違うのね」
「ああ......カーヌーンは......それは農園の人から譲ってもらったんだ。父さんのカーヌーンは......キャンプが占領された時に失われてしまって......」
アイシャは、居間のテーブルの椅子に腰掛け、改めてアルブラートをつくづくと眺めた。
「ムラート......背が高いのね―手足がすらりと長くて―子供の時からそう感じていたけれど......本当に見えるようになるなんて思わなかったの......誰よりも最高に素敵よ」
アルブラートは彼女のそばに腰掛けると、感極まった様子で、黙って彼女の手を握った。
「ねえ......私が9歳の時、とてもきれいだよって誉めてくれたでしょ......あの時、私、嘘つかないでって泣いたわよね」
「ああ―あの遺跡のそばで......そうだったね」
「私、ムラートに甘えてたのね―ムラートはいつも本当に優しくしてくれたから......ごめんなさい、ムラート」
アルブラートはアルジュブラ難民キャンプのことを思い出した。もう7年も前のことだったが、そのことをまだアイシャが覚えていたことに驚いた。
「そんな昔のこと、謝らなくてもいいよ。アイシャはあの時は―感じやすい年頃になりかけていたんだ......それに自分の姿が見えなくて辛かっただろ―だから、あんな風に泣いたりするのは当たり前だよ」
アイシャはにっこり笑ったが、ちょっと考えて、いきなりこう言った。
「ねえ、あの人......怖いわね」
「あの人って―ムカールが?怖い?彼は本当に優しくていい人だよ」
「そういうことじゃなくて......怖いぐらいに美しい人ね―だから私、あの人を見た時、すごくびっくりしたわ......普通の人とは違いすぎるから......神様でもあんな人は創造できないほどじゃないかって思って―」
アイシャは、内心、ムカールの持つ美しさや気高さが、幼い頃から感じ取っていたマルカートに驚くほどそっくりだと思っていた。また、青年の「怖いほどの美しさ」に、彼がもしかしたら短命なのではないかと、ほとんど本能的に感じ取ったが、そのことは、アルブラートには言うまいとしていた。
―第33章―さらわれた息子
アイシャが退院して、2日後のことだった。ムカールが仕事場で熱を出した。彼はそのままザキリスの病院に3日ほど検査のために入院することになった。心配するアデルに、医師は、手術の後はこうした症状がたまに出るが、大したことではないと言って、安心させた。
だが検査の結果、ザキリスは、青年の肺の一部が壊疽となっていることを見い出した。アデルの出産は2週間後の予定だった。医師は、このことは、ムカールにもアデルにも話すことができないと思った。
やはりアルブラートしかいない......
彼はどんなに苦しむことか―でもアイシャがいる......
あの娘が彼の支えになるかも知れない......
青年が入院して3日目の土曜日の晩だった。医師は、アルブラートの演奏するレストランに、夕食に出かけた。演奏の終わった7時に、ザキリスは、彼の控室を訪れた。アルブラートは普段着に着替えて、帰る用意をしていた。彼は、約束通りに医師がレストランに来たことに、少し驚いた。
「今日はちょっとあなたにお話したいことがあって―アパートに少しお邪魔しても構いませんか」
アルブラートはうなずいたが、きっとムカールの病気のことだろうと思った。彼は医師と並んで、しばらく無言で歩いていたが、ふとこう尋ねた。
「あの......先生はなぜ僕に―いろいろ親切にして下さるんですか」
「私は医学生の時、大戦中に出征しましてね。ギリシャでドイツ軍と戦いましたが、その時―捕虜になったドイツ人の少年兵がいました。ちょうどあなたと同じ年頃の、18歳ほどの兵士でした。私は、上官の命令で―命乞いをするその少年兵を撃ち殺してしまったのです......そのことが戦後もずっと苦痛でね」
アルブラートは医師の話に、自分の怖ろしい記憶が甦った。だが動揺する心を抑えて、医師に悟られまいとした。
「私はその時まだ27歳でした。戦後、結婚しましたが、子供に恵まれませんでした―そのことは、私は、戦争でまだ20歳にもならない兵士を殺してしまったことの罰ではないかと思えてならないんです......ですからあなたが私の息子のように思えるんですよ、アルブラート」
アルブラートは黙って聞いていたが、静かな口調で訊いた。
「他にも同じような年頃の人はいるのに......なぜ僕を息子と思って下さるんですか」
「あなたには何か―その年頃に見合わない、何か大きな苦悩や孤独が......目の表情に浮かんでいるんです。それにあなたは素晴らしい音楽の才能に恵まれていて―それで私はあなたに惹きつけられるんでしょう、きっと」
二人はアパートに着いた。もう7時半だった。アルブラートはドアを開けて、医師を先に中に通した。アイシャは、急な医師の来訪にちょっと驚いたが、慌てて挨拶をした。彼女は真紅の、大きな花柄のワンピースを着ていた。袖口や、スカートの裾に、華やかなフリルがついていた。その服は、彼女の退院祝いに、アルブラートが選んで買い求めたものだった。
彼女の表情は、目に光が宿ってから、以前よりも更に生き生きと輝いていた。ザキリスは、まるで部屋の中に、赤い花が咲きこぼれているかのように感じた。アルブラートは、自分でコーヒーを入れると、医師を居間の方に案内した。居間には、ソファーとテーブルの他に、ベッドと机が置かれてあった。
アルブラートはアイシャと、隣の食堂で、夕食を済ませると、医師の待つ居間に行った。ザキリスは、彼の机の上に聖書があることに気がついた。彼は、アルブラートに、その聖書を借りた。
「珍しいですね―聖書は。あなたはキリスト教徒なんですか?」
「いいえ、僕はキリスト教徒じゃありません。それはヨシュアから譲ってもらったんです―僕が英語の勉強が好きだからって」
「ヨシュア―ああ、あの人ですか。あの人は、ムカールの身内ですか」
「彼に身内はいませんでした―孤児院にいたぐらいですから......名前もなかったそうです。あのホテルの前の主人の、モハメダウィに拾ってもらって名前をつけてもらって......17歳まで育ててもらったそうです」
「去年の7月に、初めて診察した時に、彼が確かこう言ってましたね―『子供の時に、孤児院の院長に手首を斧で切り落とされた』 と......そのことについて、あなたは何か他に聞いてますか」
アルブラートは思い出しながら、呟くように答えた。
「その院長は、彼を 『アルメニア人め』 と罵って......いつも殴ってばかりいたそうです......彼はそれで、自分の母親はアルメニア人だったに違いないと言ってました......彼は歴史を調べて、今から50年ほど前に、トルコがアルメニア人を大虐殺したことを知ったそうです―だから、自分は孤児院で虐待されたんだと話してました」
「じゃあ、彼はアルメニア人かも知れないんですね......でもなぜ手首を切り落とされるなどという―そんな酷い目に遭ったんですかね」
「そのトルコ人の院長は、狂信的なイスラム教徒で......彼は孤児院を逃げ出そうと、院長の部屋からお金を10クルシュほど盗んだところを、見つかってしまったそうです......だから......『盗みを働いた手は切り落とす』 というコーランの教義通りのことを、9歳の彼にしたそうです」
「そんなことを子供にするとは―ひどいものですね......ところで、私は実は、ある方から頼まれたことがありまして―この女性ですが、この方は行方不明になった息子さんをずっと探しておられるのです」
ザキリスはそう言いながら、鞄からある1枚の写真を取り出した。アルブラートは、その写真を見て驚いた。それは、あの日記帳の写真の女性だった。
「この方は、オルガ・エレーナ・バシリエフスキーとおっしゃる方で、アルメニア大公妃でおられる方です。もとは、今はもう故人となられたギリシア王ゲオルギオス2世のお妃でもあった方です......この方は父方に、トルコ人の方がおられたので、正式に王妃と認められませんでした―しかし、お世継ぎのおられなかったゲオルギオス2世のご長男をお産みになりました」
アルブラートは、「ゲオルギオス」という名前に、聖書の中に挟んであった古い新聞記事を思い出した。
「そのご長男は、アレクサンドルというお名前です。そのお子様は、お母さまがトルコ系アルメニア人でしたから、正式に王子と認められないままでした。トルコは、昔、オスマン・トルコの時代、ギリシャを占領し、多数のギリシャ人が殺害されたので―ギリシャ人はトルコ人を嫌っているんです」
アルブラートは、手を固く握りしめて、話に聞き入っていた。
「ゲオルギオス2世は、仕方なく、オルガ様を女官として、ご長男とともに、アテネの宮殿の1室に住まわせておいででした。1941年に、ナチスがギリシャに侵攻した際に、王は英国への亡命を余儀なくされました。その混乱の最中に、突然アレクサンドル様が何者かに連れ去られてしまったのです」
アルブラートは緊張した表情で思わず訊き返した。
「連れ去られた―?誘拐されたということですか」
「そうです。その時アレクサンドル様は6歳でした。1年あまりの警察の捜索の結果、犯人は王政反対派の一味であって、そのお子様はトルコに連れ去られたということが分かりました。トルコのどこなのかを突き止めるのに、更に数年かかりましたが......やっとマラシュという街の郊外の修道院であることが判明しました」
アルブラートは、そのマラシュという地名が、モハメダウィの日記帳の冒頭に出て来ることを思い出した。彼は、つと立ち上がって、机の引き出しにしまっておいた日記帳を取り出した。そして、そのノートの最後の頁の女性の写真をザキリスに見せた。
「先生の持って来られたその写真の女性の方は―このノートの写真の女性と同じ方でしょうか」
医師は驚いて、その通りだと答えた。
「この方は独身の時はグルジャーノフというお名前だったのです。グルジャーノフ家は、アルメニアでも由緒ある家柄で......でもこの筆跡はどなたのですか」
「ムカールを9歳の時、マラシュで発見して養父となった、モハメダウィのものです......これは亡命の前の日に、ヨシュアが記念に僕にくれた日記帳です―ムカールを助けてから、彼が17歳になるまでの間の記録が書かれてあります。僕はこれを、彼に譲ろうとしましたが、昔のことは思い出したくないと言って、受け取りませんでした」
医師がその日記帳を読むのを、アルブラートはしばらく黙って見つめていたが、遠慮がちに尋ねた。
「僕はその女性の写真を見て―ムカールに瓜二つなのにとても驚きました......でもムカールは 『自分には似ていない』 と言いましたが......
先生はどうお考えですか―その方は、もしかしたら彼の......彼の母親なんでしょうか」
ザキリスは、ばらばらになったパズルのピースを合わせるように、言葉を選びながら、慎重に語った。
「こういうことは、確実な証拠のないことなので......断定しかねますが―ただ、私が今思っていることは......あの青年がこの方と瓜二つだということです。それに―彼がトルコのマラシュで発見されたということと......彼自身がアルメニア人だと言われていたことで......この方のご子息は、もしかしたら彼なのかも知れないということです」
アルブラートは、ムカールが、「孤児院にいた前はどこかのお城に誰かといたような夢を見る」と言っていたことを思い出し、医師にその話をした。
「そうですか―でも夢だけでは証拠になりませんね。ただ、ゲオルギオス2世は、国家警察に依頼し、お子様の6歳の時の写真を手がかりに、その修道院の院長に、アレクサンドル様のその後の行方を尋ねました―院長は、その写真と似た男の子は、窃盗の罰で、左手首を切り落として、街中に捨てたと答えたそうです―それが、もう1947年のことで、お子様が誘拐されてから6年も経っていました......その後、王は心臓発作で急逝されました」
アルブラートは、夢とも現ともつかぬこの話に、不思議なお伽話を聞くような気がした。
ムカールが窃盗のために、左手首を切断されて―
アルメニア人で―トルコの孤児院にいた......
ギリシャ王の息子もまったく同じ運命を辿っている......
しかも、彼がこんなにこの女性とそっくりだということは― それだけで、もう充分な証拠じゃないか......
彼は、医師がテーブルに置いた聖書を手に取ると、中に挟んであった古い新聞記事を取り出して、医師に見せた。ザキリスは、ナチスのギリシャ侵攻のこんな古い記事は珍しいと言いながら、その記事の端に書き留められた謎めいた言葉に興味を示した。
汝 さ迷いたまうな おおゲオルギオスよ 輝けるギリシャの王よ 汝の息子はここにいる
「この筆跡は......日記帳のものと同じですね。あの青年の養父だったモハメダウィという人の......この人は、ムカールがギリシャ王の息子であると、ほぼ確信しているような書き方をしていますね―確信しながらも、確実な証拠もなかった......それに、この人は彼を息子として溺愛していた......だから、敢えて証拠まで探すこともなかったんでしょう」
アルブラートは、ムカールの類い稀な威厳や気品は、きっとこの女性の美しさと、ギリシャ王家の血筋を受け継いだものに違いないと思い、また、そうであってもおかしくないと感じた。
「確実な証拠はなくても、トルコの―しかもマラシュ郊外の孤児院で、手首を切断されたなどというケースは滅多にないことではありませんか......それで、先生は―このバシリエフスキーという方に、彼を引き合わせるおつもりでしょうか」
「そうですね......この方が強く望んでおられることですし......彼が少しでも―少しでも元気なうちに―実現させねばと思っています」
アルブラートはアイシャと顔を見合わせた。アイシャは何か確信しているような表情で、彼をじっと見た。
「少しでも元気なうちに......?それは―どういう意味ですか」
ザキリスは、決意を秘めた顔で、彼の目を見ながらはっきりと話し始めた。
「私が今から申し上げることは、彼には決して話すまいと思っていることです―アルブラート......あなたにしかお話できないことなのです......実はムカールは、先日の検査で肺壊疽に罹っていることが分かりました」
アルブラートは、自分の耳を疑った。
「肺壊疽......?肺に―壊疽が......?どうして......」
「私は昨年の夏に、彼の左腕を切断しました。内心、彼の免疫力に心配がありましたが、あの手術は奇跡的に成功しました。その後も、彼は順調でしたが、1ヶ月ほど前の診察で、彼が敗血症に罹っていることを発見したのです―彼は、9歳以降、何回も高熱と壊疽に苦しんで来ましたね......それで、既に―細胞の再生能力や免疫力がゼロに近い状態になっていたのです」
医師の話を聴くうちに、アルブラートは耳鳴りがして来た。アイシャがそばで、彼の手を握りしめていることにも気がつかなかった。
「敗血症というのは―免疫力の低下によって、白血球が異常に増える病気です。これに罹ると、壊疽もまた起こりやすくなります。昨年の手術が、残念なことに、体内にまた壊疽を発症させる引き金となってしまったのです」
「それじゃ......その壊疽を―また手術すれば......」
アルブラートはこう言いながらも、自分の声ではない気がしていた。
「それが......そのことも考えましたが、もはや手術が、壊疽を更に増幅させる原因となりかねないのです―今壊疽となっている左肺の一部を除去しても、すぐにまた今度は、肺全体が壊疽となります......手術をしなくても、壊疽はスピードの速い感染症ですから......いずれ心臓も冒されてしまうでしょう―そうなれば、もう終わりです」
ザキリスの姿は、もはや見えなかった。ただ声だけが、白い靄の中から響いてくるようだった。
「まことに残念ですが―私の手には、もう負えないのです―彼の命は......よくもってあと半年か......最悪の場合はあと3ヶ月でしょう」
その言葉を聞いた途端、アルブラートの目の前に、荒涼とした赤い砂漠が突然広がった。その砂漠から、きらきらと光る物が自分を目がけて幾つも飛んできた。それはピストルだった。彼は、そのピストルをよけようと、身をかがめた。すると、赤い砂漠は天に昇って行った。遠くから、アイシャの悲鳴が聞こえた。
アルブラートは、気がつくと、ソファーに倒れ込むように、横になっていた。アイシャが、彼のそばにひざまずき、手をしっかり握り締めていた。彼はゆっくりと体を起こすと、しばらく何が起こったのか、考えていたが、先ほどの、医師の宣告を思い出した。彼は額を押さえ、深い溜息をついたが、ザキリスの言葉が信じられなかった。
もう夜の9時を回っていた。ザキリスは彼のそばにかがむように、膝をついて、心配そうに彼を見守っていた。
「あなたに辛い思いをさせて―私は何とお詫びを言ったらいいのか......でも、これは最後の選択でした。ムカールに......死の宣告はとてもできません。彼は陽気な人ですが、死を非常に怖れています......それにアデルももうすぐ出産です―私は悩みましたが―アルブラート、あなたしかお話する人はいませんでした」
アルブラートは、以前のようにパニック状態にはならなかった。彼は、じっと黙っていたが、医師を真っ直ぐ見つめると、やや震える声で答えた。
「先生が......僕に話して下さったのは―僕を信頼されていらっしゃるからです―そのことでお詫びだなんて、とんでもありません......
僕はこのことは彼には話しませんから―もう動じません―彼の......
彼の死を......最後まで見届ける覚悟は......できています」
アイシャは、医師を見送るために玄関の小さなポーチに出た。ザキリスは彼女の、愛らしいが、強い意志を秘めた瞳を見ながら、この娘なら大丈夫だと感じた。
「アイシャ―あなたは気性のしっかりしたお嬢さんです。私の手術を、去年手伝ってくれた時からそう思っていました―アルブラートは感じやすいだけに、内心、ムカールの死を正面から受け止めることができるかどうか、まだ分かりません―彼は、何か深い大きな苦悩を抱えているんです......」
「大きな苦悩......?ムラートが......?」
「それが何かが私には分かりませんが―今、彼を精神的に支えることができるのは、アイシャ、あなただけです。どうか彼の力になってやって下さい」
アイシャが部屋に戻ると、アルブラートはソファーに座り込み、体を震わせながら、両手で頭を押さえていた。
アイシャは、そっとそばに寄り、彼の強く波打つ黒髪を、静かに撫でた。彼女は、彼が、無言で涙を流しているのを見て、たまらなくなった。アイシャは、しばらく黙って、彼の隣に座っていた。
彼女は静かな声で、彼に話しかけた。
「ムラート......あの人が―ムカールが......亡くなるかもしれないことが......あなたにとってどんなに辛いか―私にはよく分かるわ......
だってあの人は......マルカートによく似ているもの......そうなんでしょう......?何か―苦しんでいることがあったら......私に言って......
私じゃムラートを助けることはできないの......?」
アルブラートは、何も言葉にならなかったが、ようやく彼女の方をじっと見つめた。彼の視界に、ベルベットの真紅のドレスに身を包んだアイシャがまるで花園のように飛び込んできた。彼は、彼女の、今まさに花開かんとしている純粋で無垢な美しさに心打たれた。同時に、自分は望みが多過ぎる―贅沢過ぎるのではないかと感じた。
「アイシャはそばにいるだけでいいんだ......それだけで俺は救われるんだから......」
彼はこれだけをようやく言うと、尚も苦しみながら考え込んだ。
ほんの4年前は何も無い生活だった......
それが今は―ちゃんとお金も服も家も食べ物もある......
ほんの2年前はアイシャさえ生きていればいいと思っていた......
だからムカールが死ぬことで―苦しむことなんかないはずなんだ......
だが再び、2年前の17歳の秋に、レバノンであの青年に出会ったことを昨日のように思い出した。あんなにも母に似た彼に、なぜ出会ってしまったのかと考えたが、あの時、彼に会わなければ、今の自分はなかったのだと思うと、辛くてならなかった。
ようやく苦しみながら引き出した結論は、ちょうど母の死を否定していた16歳から17歳の時のように、ムカールの死など有り得ないと、完全に彼の死の宣告を否定することだった。
そうなんだ―彼が死ぬわけがない.......
本来ならギリシャ王の地位を約束されていたはずの彼が......
俺にもこれ以上の罰が下るはずもない......
彼が生きてさえいれば―俺も罰を受けなくて済むんだから......
アルブラートは、現実を否定することで、自分にふりかかる精神的災禍から完全に逃れ去ろうとしていた。
アイシャは深刻な表情で考え込んでいる彼の横顔を見つめながら、彼の手をそっと握り締めていた。彼女は、自分の存在が、彼にとって何なのかがはっきりせず、戸惑っていた。
「ムラート......私はムラートの何なの?......ただそばにいて、きれいな服を着て―歌を歌うだけの人形なの......?」
アルブラートは首を振って、少し驚いたように彼女を見た。アイシャは黒い澄み切った瞳に真摯な表情を浮かべていた。彼は彼女の黒い瞳の中に吸い込まれそうになるのを感じた。
「なぜそんなことを言うんだ―アイシャは俺の人形なんかじゃない......ちゃんと立派な理性と精神を持ったひとりの人間じゃないか.....
ただの人形を俺が愛したり―結婚したいだなんて思うわけないじゃないか......アイシャは俺にとって、命の灯火なんだ......」
「命の灯火......?私がムラートの......?」
「そうだよ―4年前の夏にアルジュブラのキャンプが占領されて......
焼き払われて......犠牲者が200人以上だったのに、アイシャは奇跡的に生き延びることができたじゃないか......ヨルダン川に沿って逃げたと話してくれたね......でも、どうやって占領されたキャンプから脱出できたのかは、以前訊いた時、怖ろしくて話せないって言ってたね」
アイシャは目を伏せて、黙っていた。アルブラートは彼女の髪を細く長い指で静かに解きほぐしながら、アイシャの肩を抱きしめた。
「怖ろしいことは話さなくっていいんだ......俺にも怖ろしくて話せないことがある―でも......それは―いずれ話さなければならないことなんだ......アイシャには誠実でいたいと思う......でも......」
彼の声はだんだん低く、震えるように戦慄き始めた。
「あの先生は......俺の目に深い苦悩があると言っていた......
アイシャ―俺の苦しみは......イスラエルの捕虜収容所のことなんだ......俺はそこで......地獄を見たんだ......そのことはアイシャにはとても言えない......アイシャを信用していないわけじゃない―ただ―話すと......
自分自身がバラバラになりそうで......アイシャが粉々に砕けそうで......今はとても―とても話せないんだ......」
アルブラートはやっとの思いでここまで話し、くたびれ果てたようにベッドに近づくと、そのまま横になり、眠ってしまった。もう夜中の12時だった。
アイシャは、アルブラートにそっと毛布を掛けた。彼女は、服を脱いで、パジャマに着替えると、彼のそばに、静かに横になったが、なかなか寝つかれなかった。
アルブラートは始終、寝言や夢にうなされていた。アイシャは、時折、彼が苦しそうに、「母さん―母さん」と母を呼び、「どうか許して―母さん」と呟くのを聞いていた。
やっぱりムラートの大きな苦しみの原因は―
ムラートのお母さんの―マルカートの死なんだわ......
ムラートはきっとそばにいて......
つぶさにマルカートが亡くなるのを目の当たりにしたんだわ......
その死は―きっと怖ろしいことだったに違いない......
それをムラートが私に話して聞かせるのは......
とてつもなく苦しいことなんだわ......
もし話してくれたとしても―私は彼を支えることができるかどうか―
分からない―自信がない......
●Back to the Top of Part 10
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