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砂漠の果て(第13部「深淵」)
第十三部「深淵」
―第40章―天国への階段―2
大公妃は、自分からムカールの方へかがみこむと、彼によく似た温かな、落ち着いた口調でささやいた。
「お体の具合があまりよろしくないのでしょう―どうかお座り下さい」
ムカールは立ち上がったが、再び眩暈に襲われた。彼はソファーにそっと座り込んだが、先月のような息苦しさを感じ、右手を項垂れた額に当てた。
ややあって、苦しさが治まり、大公妃を見ると、彼女は向かいのソファーに腰掛け、心配そうに彼を見つめていた。
青年は、実際に見ると、まだ若々しく、まるで双子の姉のように見える彼女に奇妙な懐かしさを覚えながら、吸い込まれるように相手を見入っていた。大公妃は彼を正面からじっと見つめていたが、静かに呟いた。
「......大理石のような肌をしているわね......黒曜石のような瞳の美しいこと......」
ムカールはそれを聞くと、急に目を反らした。彼の中で、自己を否定する嫌悪感がとぐろのように渦を巻いていた。
そんなこと......もうどうだっていいじゃないか......!なんでこんな俺を人は賞賛するんだ......壊疽でこんなに醜く喰い荒らされた体―それももう屍になっていくだけの......こんな俺のことなんか......!
ムカールは右手を膝の上で震えながら握り締め、何か言おうと口を何度か開きかけたが、何と言えばよいのか戸惑うばかりだった。大公妃は彼の言葉を待っていたが、やがて自分から話を切り出した。
「......私がドクターとお知り合いになったのは、15年前、ヨルダンの難民キャンプででした。私は息子がさらわれた後、ユダヤ人強制収容所や、ギリシャやトルコの孤児院―イスラエルの戦地近くや各地の難民キャンプなど......ありとあらゆる所を、この20年間探し回りました......その最中、ヨルダンのアンマンがイスラエルの爆撃を受け、私は右肩に重傷を負いました。その時助けて下さったのが、ドクターだったのです」
ムカールは、再びこの女性をじっと見ると、なぜか急に哀しく切ない気持ちに襲われた。彼は、心持ち声を震わせながら、ようやく口を開いた。
「私は......あなたのことや、故ギリシャ王の話を、詳しくドクターから伺いました―けれども、あまりにも突然のことで......正直なところ、とても信じられないのです......私は16年間、レバノンの安宿で調理師をしていた者です―何の教養もなく、学校にすら行ったことがありません―あなたのご身分は高く、仮に私などが―あなたのご子息などと申し出ては、あなたのご名誉にかえって傷がつくだけです......ですから......私には、人違いとしか思えません......ご子息はどこか他に―きっと......きっとおられます」
夫人は、その言葉に気が挫けそうになった様子だったが、涙ぐみながら、静かに彼に話しかけた。
「今あなたがおっしゃったようなことは、この20年間、いろいろな方から繰り返し耳にしてきました......中には、本当に息子のアレクサンドルと思われる子もいましたが―皆、見当違いでした......今のあなたほど、私の息子と思われる方は、もはやこれ以上いらっしゃいません......私は、身分も何もかもかなぐり捨てて、息子を探し続けたのです......どうか私をひとりの個人としてご覧になって下さい」
ムカールは、彼女の言葉に心打たれた。彼は、真剣な表情になると、しばらく夫人を真っ直ぐに見つめていたが、ふと思い出したように、こう尋ねた。
「......私のほんの幼い頃の思い出の中に、天井の高い、美しい白い部屋と、そばにいつもいてくれたある女性の方が残っているのです―私は、いつも窓から青い海を見ては、その人から『あの海はエーゲ海だ』 と教えてもらいました......もしかしたら、その方は―あなたでしょうか......」
夫人は、彼のそばに跪き、その右手をそっと握り締めた。彼女は、青年の片腕を失った姿が痛ましく、涙が頬を伝って流れ落ちた。
「ええ......そうです......息子のアレクサンドルは、3歳の頃から、エーゲ海を地中海を混同しては、私に繰り返し尋ねていました......私はいつも息子に『あの海はエーゲ海よ』 と教えていたのです」
ムカールはそれを聞いて、深い溜息をつくと、目を閉じた。彼は涙ぐんだ瞳で、夫人を静かに見つめ直すと、彼女の手を優しく握り返した。
この人は―本当に俺の母親なのか......あの記憶がこんなにぴったりと合致するなんて......
大公妃は、懇願するように、青年を見上げた。
「私が生まれた1915年に、母はジェノサイド* で惨殺されました......私たちの家は、エレヴァン* の郊外にありましたが、いきなりトルコ人が攻め込んできたのです―父はまだ赤ん坊だった私だけを連れて、いち早く馬車に乗り込み、ペルシャへと逃亡しました―私たちはテヘランの叔父の元に身を寄せましたが、10歳違いの兄と、祖父とはシリア砂漠へと連行され、その途中で命を奪われました......父も心労で早くに亡くなり、私の肉親はもう息子一人しかおりません」
......あのアルメニア人大虐殺で、この人は生き延びたんだ......俺はトルコの孤児院でアルメニア人と言われて虐待されていた―だからずっと―俺は母親はアルメニア人で......とうにトルコ人に殺されたと思ってきたんだ......
ムカールは、この女性が自分に酷似していること、マラシュの孤児院での手首の切断、物心ついてからアルメニア人と言われてきたこと、そしてまた幼児期の記憶のことを再び考え合わせ、もはやこれ以上の証拠はないと信ぜざるを得なかった。
「......今の私の願いは、ただひとつしかありません―あなたに、私を母と認めて頂きたいのです」
彼は、震える声で、必死に乞い願う夫人の姿に心を深く動かされた。彼は夫人の手を自分の頬に当てると、その温かみを忘れまいとするかのように、しばらくじっと目を閉じていた。その目から、涙がしたたり落ちた。
アルブラートは、ムカールが泣いているのを初めて見た。
ムカールは溢れる涙をこらえ切れなかった。長い間、孤児院での怖ろしい記憶のために閉ざされてきた母親の面影が、今はっきりと甦った。それは、まさに今目の前にいるオルガその人だった。
この人は......やっぱり俺の母さんなんだ......
ああ......!どんなに母さんは辛い目に遭ってきたことか......ただ俺一人を探して―20年間も......今認めるんだ......! 認めないと......
彼は、「認めます」という言葉が今にも口をついて出そうになった。だが、今認めても、母とはいずれ死別せねばならないとの思いがよぎった。彼は、傍らに座るアデルを見た。アデルは深い悲しみに満ちた目で、彼を黙って見つめていた。
いやだめだ......!認めてしまうと―アデルを余計に苦しめることになる......アデルをこれ以上苦しませたくない......!
ムカールは、母への思慕を振り切るように、大公妃をしっかりと見据えると、苦悩の色を黒い瞳に滲ませながら、途切れがちに言葉を繋いだ。
「......私から......あなたをお母様と認めることはできません―何よりも―科学的な証拠がないのです......幼い時の記憶をつい口にして、申し訳ありません―ですが、こんな大事なことを......記憶を根拠に認めることは―私には......とても不可能なのです......」
* ジェノサイド:民族大虐殺。第一次大戦中、1915年からオスマン・トルコの青年トルコ党によるアルメニア人大虐殺が始まり、犠牲者は250万以上と言われた。
* エレヴァン:アルメニアの首都。
オルガは一瞬、絶望的な表情になったが、青年の手をもう一度、震えながら握り締めた。
「......科学的な―科学的な証拠......?」
「ええそうです......私とあなたとが血縁関係にあるという―客観的な証拠です......でも現在の医学では―それを立証するのは困難でしょう」
オルガは、ムカールの先程とは打って変わった毅然とした態度に愕然とした。彼女の心は再び迷路の中にさ迷い込んでいった。だが、まじろぎもせずに彼をじっと見つめるその様子は、やはりムカールの人を見る時の癖と寸分違わなかった。
「......あなたのおっしゃることはよく分かります―では......これも証拠とはならないでしょうね」
彼女は、息子がさらわれる前日に来ていた服の胸に、ゲオルギオス2世の紋章を縫い付けてあったことや、裏地にグルジャーノフ家の宝石を縫いこんであったことを話した。だがムカールは、そういうものは何も手元にないと言った。
「......私は孤児院では―いつもボロボロの服を着せられていました―私がその立派な服を着ていたとしても、院長がすぐに取り上げたに違いありません......髪も1年に1回、腰の辺りで切ってもらうだけでした。だからすぐにかかとまで髪が伸び放題になっていました......院長は、孤児たちが逃げ出そうとしても、その長い髪をひっつかんで―狭い部屋に押し込み、鍵をかけていたのです」
オルガは目に涙を浮かべながら、彼の話を聞いていたが、やがて握り締めていた手を彼からそっと離した。彼女は傍らのアデルと、すやすや眠っているアザゼルをじっと見た。
「あなたには......こんなに初々しい奥様と、天使のように愛らしいお子様がいらっしゃるのね......私は、あなたの幸せなご家庭を壊すつもりはありません......ただ、あなたに一目お会いしたくて......かえってご迷惑をかけてしまいました......でも、もうお会いすることは......二度とないのでしょうか」
ムカールは、苦しそうな表情を浮かべ、しばらく無言だったが、きっぱりと言い切った。
「......申し訳ありませんが―私はもうあなたにはお会いできません」
大公妃は泣き濡れた顔を拭いもせずに、すっと立ち上がった。その佇む姿はアテナイの女神の威容を漂わせていた。哀しみに暮れておりながらも、彼女には尚も気高い優美さが備わっていた。
オルガはムカールにそっくりの黒い宝石のような目で、彼を黙って見つめ続けた。だが静かに目を伏せると、部屋の入り口へと歩み出した。
ザキリスが椅子から立ち上がり、彼女の手を取ろうとしたが、オルガは急に踵を返し、再び青年の方を振り向いた。その取りすがるような視線が、ムカールの心を貫いた。彼女は思わず腕をムカールの方へと伸ばしかけた。
どう言われようとも......私は信じている......この人をおいてアレクサンドルはいないと―ああ......!我が子をこの腕いっぱいに抱きしめることができたら......!
だが自らの希望はもう叶えられないと悟った彼女は、望みを振り切り、ザキリスに手を取られて、部屋を静かに出て行った。
翌日の昼過ぎだった。アルブラートは午前中の仕事を終え、帰宅の途についていた。ちょうどスークの入り口付近で、彼はばったりアデルに出会った。無言で通り過ぎようとする彼女を、彼は慌てて引き止めた。
「ちょっと待って―アデル......!ムカールは今日は仕事に行った?」
「なぜそんなこと訊くの?」
「いや......昨日はムカールは体調が悪そうだったから......」
アデルは少しためらっていたが、不安げに呟いた。
「彼は今日は仕事は休みよ......時々息苦しいんですって―昨夜は一睡もしなかったみたいだから......」
アルブラートは心配になり、なるべく急いでアパートに帰った。
彼は自分の家に帰らず、いきなり3階の呼び鈴を鳴らした。中からアザゼルの泣き声が聞こえたが、何の応答もなかった。アルブラートは再度、ベルを鳴らした。ようやく、疲れた顔のムカールがドアを開けた。
ムカールは黙って、アルブラートを部屋に通した。ムカールはぐったりとベッドに横になると、しばらく目を閉じていたが、弱々しい声でこう言った。
「......アジーにミルクをやってくれよ......テーブルの上に......哺乳瓶があるから......」
アルブラートは慣れない手付きで、アザゼルを抱き上げると、椅子に座り、赤子の小さな唇に哺乳瓶をあてがった。ムカールはその間、苦しそうに息をしていた。アルブラートは不安でたまらず、アザゼルがなんとか落ち着くと、静かにベビーベッドに寝かせ、急いで青年のそばに行った。
彼は、ムカールの発作が治まると、じっとその姿を見守った。アルブラートの頭の中に、昨日の大公妃とムカールの対面の場面が思い浮かんだ。
「......ムカール......なぜあの人とはもう会わないだなんて言ったんだ―もう分かっていたんだろう......あの人が本当の母さんだって......」
ムカールはアルブラートを無言で見上げた。彼は力なく言葉を押し出した。
「......ああ......もう充分分かっていたよ......あの人は間違いなく俺の母親だって......エーゲ海の記憶が一致した時から―もう本能的にそう感じていた......あの人の顔も思い出したよ......俺のそばにいてくれたのはいつもあの人だったって......」
「じゃなぜ......?会うことを拒否するんだ?あの人は20年も息子を探してきたんじゃないか」
「......アデルのためだよ......アデルは―俺が大公妃を母親と認めたら......俺とアザゼルはアルメニアに連れて行かれると......そう信じ込んでいる......身分違いだからだな......彼女はそれを怖れている―俺はアデルを失いたくない......だから断ったんだ......医学的な証拠だなんて―まったくのこじつけさ......でも仕方がなかったんだ......」
ムカールは、アルブラートに頼んで、娘を抱いてそばに寝かせてくれと言った。アルブラートは言われた通りにアザゼルを抱き上げた。まだ首の座らない赤ん坊を抱くことは、彼には全く不慣れなことだった。小さなアザゼルは、ひ弱で壊れやすいガラス人形のように思えた。だがその小さな体が全身で脈を打ち、温かく、生命力に溢れていることを肌で感じ取った。
こんなに小さくても......この子は生きている―ぱっちりと黒い瞳を開けて―何かを考えている......こんなに小さいのに、この子はもうひとりの人間として―立派に生きているんだ......
ムカールはアザゼルを傍らに寝かせてもらうと、愛おしそうに、桃色の柔らかな頬や、白い小さな額を撫ぜ、また生え際から所々波打つように伸びている金髪を優しくかき上げていた。
「医学的......科学的証拠か―我ながら馬鹿な......呆れ返るようなことを言ったもんだな......」
「何が......?何がそんなに馬鹿なことなんだよ」
「だってアジーを見れば一目瞭然じゃないか......この子の金髪は、俺がギリシャやトルコの混血だっていうれっきとした証拠じゃないか......俺がどこの馬の骨だか分からなくても―少なくともアラブじゃない明確な証明だよ......それを......さも偉そうにもったいぶったりして......俺はまったく間が抜けてるな」
アルブラートは彼らのそばに立っていたが、膝が痛み出したために、傍らの小椅子に腰掛けた。
「ムカールは......いつも自分のことを 『馬鹿だ』 って言うけれど―それは悪い癖だよ。一体今までに、その台詞を何回言ってきたと思うんだ?俺はもう聞き飽きたよ......そういうの」
「ああ......そうだな......毎日言ってるかもな......『聞き飽きた』か―でもお前もよく言うな......お前って奴は―気が強くって―優しい奴だな」
ムカールは少し微笑んで、右手をアルブラートの方に差し伸べた。アルブラートはその手をぎゅっと握り締めた。ムカールも握り返したが、ほとんど力がなかった。アルブラートは彼のその手が、昨日は涙で濡れていたことを思い出した。彼は、青年が、昨日のことで思い悩んでいるのだと察した。
「......俺はアデルを選んだんだ......でもその代わりに、あの人を犠牲にしてしまったんだな......今、あの人はとても不幸なんだろうな―俺は残酷なことをしてしまったんだ......あの人は......息子を20年間も探し続けたのに......その息子の 『アレクサンドル』 が希望の光を奪ってしまったんだ......息子の俺が母親を不幸にして―自分の幸福を守ろうとしたんだから......」
ムカールの途切れがちなこの言葉の最後に、アルブラートはぎくりとした。彼は、声にならない声で、青年に問い返した。
「息子が―母親を不幸にして......自分の幸福を守る―だって......?」
「そうさ......あんな自分勝手な言動で......結局はあの人の唯一の望みを絶ってしまった......でも―もう済んでしまったことだ......もうすべて......」
ムカールは傍らのアザゼルの温かみと、アルブラートに手を握ってもらっている安心感から、うとうととし始め、やがて眠りに落ちていった。
アルブラートは、全身冷水を浴びせられたような寒気を感じ、震えながら、自分の手を彼の右手から離した。その時、玄関のドアが開き、アデルが買い物から帰ってきた。
アルブラートは玄関に向かうと、彼女の荷物を持ってやり、部屋の中に置いた。アデルは不安げな様子で彼を見上げた。
「ずっと......そばにいてくれたの?あの人はどう......?」
「......たった今眠ったところだよ」
「アザゼルは?あの子泣いて困ったでしょ......?」
「いや......ムカールに頼まれて―俺がミルクを飲ませた―今ムカールのそばでおとなしく寝ているから......じゃあ俺帰るよ」
玄関のドアを開けて出て行こうとするアルブラートを、アデルは呼び止めた。
「待って、アルブラート......いろいろありがとう......お礼を言うわ」
「......別にそんなこといいよ。それよりアデル―もし彼の容態が急に悪くなったら―すぐに俺の家か、仕事場に連絡してくれよ」
アルブラートは階段をゆっくり降りて行ったが、踊り場に着くと、気分が悪くなり、床に座り込んでしまった。彼は両膝を腕で抱え、顔を埋めながら、息が詰まりそうな圧迫感を覚えた。
「母親を不幸にして―息子が幸福になる」......それをしたのはムカールじゃない......彼のしたことは苦しい選択の結果に過ぎないんだ......
でも俺は......母親を―母さんを不幸にするどころか―命を奪ってしまったんじゃないか......!それも―自分の......自分の意志で......!俺は自分で引き金を引いた―あの時のあの感覚......あの気持ちを......今でもはっきりと覚えている......ああ......!この悪魔......!この人殺しめ......!
―第41章―赤い河
アルブラートの心は混沌を極めていた。母に向かって銃砲を放った、あの瞬間の凄まじい響きが、今再び彼の頭の中で甦り、鋭い音で鳴り響いていた。まだ昼間だというのに、辺りが暗闇に包まれているように思われた。その闇の中から、彼は、自分でも分からない何らかの答えを手繰り寄せようともがいていた。すると、アイシャの姿が浮かんできた。
アルブラートは、アイシャのことを想うと、よけいに苦しみが募った。彼は、矢も盾もたまらなくなり、アイシャに真実を告白せねばならないという想念に襲われた。それは、ほとんと強迫的な観念だった。
......なぜアイシャは何も俺に尋ねないんだ......
母さんがどこで―どうして死んだのかを......それとも何か感づいているんだろうか......?誰かが本当のことをアイシャに言ったんだろうか......?
まさかムカールが―いや、ムカールが「あのこと」を彼女に話すわけがない......彼はそんな人じゃない......
それでも―アイシャが何も俺に訊こうとしないのは―苦しくてたまらない―これ以上耐え切れない......!
アルブラートはやおら立ち上がり、アイシャにすべてを打ち明けようと、踊り場の手すりにしがみついた。その手すりの硬く冷たい感触が、わずか3年前の1月、母に向けて引き金を引いた、あの時の金属的な重みと凍えるような冷たさを彼に思い出させた。
このままでいいはずがない......親を殺した以上は......理由が何であっても自首すべきなんだ......アイシャに本当のことを告白すべきだ......殺人者の俺とアイシャは―結婚なんかすべきじゃない―今......今すぐ......!アイシャに話すんだ......そして彼女とはもう―別れた方がいいんだ......
だがアイシャと別れることなど、実際不可能なのだと、彼は自ら悟っていた。彼は、13階まで続く、長い階段を見上げた。アルブラートは自宅に向かわずに、階段を昇り始めた。
いっそのこと......13階から飛び降りたら......?そうすれば―すべてが楽になるじゃないか......こんな苦しみを抱えて一生を過ごすことなど―もう嫌だ―苦しい......苦しい......!
彼が5階にさしかかったその時、3階の方から、低く静かにカーヌーンの音色が聴こえてきた。アデルが、ムカールを起こさないようにと、そっとステレオでテープを聴いているらしかった。アルブラートは、その曲を弾いているのが自分であるということが信じ難かった。
どうして......母さんを殺したこの手でカーヌーンなど弾けるんだろう......?こんなに血にまみれた忌まわしい指で......
どうして俺は......曲のイメージを心に想い描いて―演奏することができるんだろう......?
アルブラートは、自分の演奏と、アイシャの優しく、包み込むような繊細な歌声を聴くうちに、青年の言葉を思い出した。
「自分を責めるな―お前には何の罪もないんだ」
ムカールは懸命になって、彼にこう言い聞かせていた―
「お前がこうして生きているのは、その天賦の才能を活かして幸せになるようにという、お前の母さんの遺志なんだ......俺の言うことが分かるか」
アルブラートは目を堅くつぶりながら、青年のその言葉に必死にすがりつこうとした。
俺は今までムカールに甘えてきた......今もそうだ......でもこの苦しさを話すのは彼しかいない......それでも―具合の悪いムカールと今、こんな話はできない......アデルがそばにいて全てを知ってしまう......
ムカールの言葉はどこも間違っていない......それでも......罪業の念が悪魔のどす黒い爪で―どうしても俺の心臓を鷲掴みにして喰い込んでくる......一体なぜなんだ......?
俺はムカールさえ生きていてくれたら―この罪の意識を追い払うことができるんだ......そうだ......彼さえ生きてくれていたら......!
アルブラートは、膝の痛みを抑えながら、よろめくように階段を降りて行った。ズボンのポケットには、アイシャのために買った風邪薬が入っていた。2階の自宅に戻り、アイシャの姿を見ると、今しがた苦しんでいた、自殺の苦悩の重圧感が徐々に薄らいでいった。アイシャは、彼にとって生命の源であり、暖かな大地だった。
居間の僅かに開いたレースのカーテンから、明るい午後の陽射しが射し込んでいた。アイシャは長く波打つ黒髪を束ねずに、白に青の幾何学紋様が刺繍されたワンピースのまま、ベッドで眠っていた。アルブラートは、彼女の薔薇色の愛らしい寝顔に、全身に再び血が巡り始めるのを感じた。
彼女は窓際にあるアルブラートの机で、何かを書いていたらしく、英語とアラビア語の辞書と、一冊のノートが開かれたままだった。そこには、まだ書き慣れない拙い英語で、賛美歌の一節が書かれてあった。
神よ ご覧下さい
御身の大いなる血 聖なる肉から創られた輝かしい御子たちが 苦しめられ 卑しめられ 命の灯を吹き消されたこの時を
神よ ご覧下さい
彼らの美しい体が滅ぼされ 無残にも引き裂かれ
聖なる河を赤く染め
とめどなく 声もなく 流れていくこの姿を
おお神よ われらの心を 魂をお救い下さい
希望を抱いて生きていた われらの命を
おお神よ どうぞ御身の偉大なる清らかな御手で
われらの亡骸を洗い清め 輝ける復活の日をお与え下さい......
アルブラートはその詩句に、己の苦悩もまた洗い清められ、救われるような心地がした。アイシャは彼が帰って来たことに気づき、そっと起きると、後ろから彼の背中をいきなり叩いた。アルブラートが驚いて振り向くと、アイシャは可笑しそうに笑った。
「ムラートったら全然気がつかないんだもの。私のノートを読んでいたの?」
「ああ......だいぶ英語がきれいに書けるようになったんだね......
......この詩は―自分で考えたの?」
アイシャはそう言われて、ノートを手に取った。黒く長い睫毛に縁取られた、透き通った彼女のブラウンの瞳が一心に文字を追っている、端正で理知的な横顔を見つめながら、アルブラートは、アイシャが、だんだん彼女の父親のタウフィークに似てきたと思った。
あどけなさの残るその瞳で、アイシャはアルブラートを見つめた。
「この詩は私が考えたんじゃないの。シリアのクネイトラで覚えた歌よ。よく神父様に連れられて、病院の近くのアルメニア人の教会に行った時に聴いたレクイエムの一節なの......ラテン語で歌われていたけれど、神父様がそれを英語で説明して下さったの。それを忘れないうちにと思って―英語で書いてみたのよ。私、風邪が治ったら、これを歌うわ。ムラート、伴奏してくれるでしょ?」
彼女はこう言うと、喉を痛めないように、声量を抑えながら、自分の書いた唱句を口ずさんでみせた。簡素だが、悲劇性の強い美しい旋律が繰り返されるのを聴くうちに、アルブラートの心には自然とウードのメロディーが沸き起こった。
二人はノートを手に、ソファに並んで腰掛けた。
「いい曲だね―でも、なぜシリアにアルメニア教会があったんだろう......この 『聖なる河』 って何のこと?」
「ほら―昨日、ムカールが、あのきれいな女の人と話していたでしょう。私は、フランス語の会話はあまりよく分からなかったけれど......
確かあの人、『家族がシリア砂漠に連れて行かれて、途中で殺された』と言っていたわね......神父様は、ジェノサイドで生き延びた人たちがシリアに定住して、アルメニア教会を建てたのだと教えて下さったの。『聖なる河』って―シリアからイラクに沿って流れている、チグリス・ユーフラテス河のことですって」
「じゃあ......その虐殺で亡くなった人たちのためのレクイエムなのか......ユーフラテス河が赤く染まるほど―そんなに怖ろしい数の人々が死んだのか......」
「ムカールならジェノサイドのことをよく知っていると思うわ。彼は歴史に詳しいもの。あの人......アルメニア人なんでしょ」
「え......?ああ―あの女の人は......そうだ―彼の本当の母親だよ―アイシャも見ただろ......あんなにムカールにそっくりなんだから―父親は......もう亡くなったけれど......ギリシャ王か......だから彼は、ギリシャ人とアルメニア人の混血なんだ。アラブじゃない」
「ねえ......ムラートも純粋なパレスチナ人じゃないのね」
「どうして......?」
「だって、自分で言ったことがあるじゃない?『お祖父さんがジプシーだった』って......そのお祖父さんは、アルメニア人との混血なんでしょう、ね?私ね、昔、父さんから聞いたのよ。『ムラートのお祖父さんはジプシーとアルメニア人の混血なんだよ』って」
「先生が......?アイシャにそう言ったの......?なぜ先生が知っていたんだろう」アイシャは少しためらうように答えた。
「......きっと......ムラートのお母さんが......父さんに話したんだと思うわ」
アルブラートの脳裏に、12歳の秋から、約三年間暮らしたアジュルーン渓谷の広々とした光景が甦った。彼はその頃のことを想うと、母とタウフィークが今もなお元気で生きているような、狂おしいほど切ない気持ちになった。だが、母のことには極力触れず、祖父のことに想いを馳せた。
「12歳の秋に......お祖父さんのことを教えてもらったんだ......
ヴァイオリニストで、アルベルト・ローランという人だったって―俺の名前は、もしかしたら、お祖父さんの名にちなんでつけられたのかもしれないな......」
「『アルベルト』をアラブ風に『アルブラート』って?素敵ね」
「......なぜ......お祖父さんはジプシーとアルメニア人が両親だったんだろう―何か―アルメニア人の歴史と関係があるのかな......まだどこかで生きているのかな......でも俺は―お祖母さんは二人ともパレスチナ人だったんだし......父さんもそうだったんだし......とにかく俺は―パレスチナ人以外の何者でもないよ」
アルブラートは、今のアイシャとの話は、母の血筋に直接触れる内容であるということが苦痛になり、話題を変えようと試みた。だが母方の祖父のことを知りたいという気持ちが頭をもたげた。アイシャは、彼の艶のある、透明感を帯びた褐色の肌と、彼の母であるマルカートによく似た黒く美しい瞳をじっと見つめていた。
彼女は、マルカートのことには敢えて触れまいとしながら、それでもこの若者に流れる異国の血を考えざるを得なかった。
「でもムラート......ムラートには豊かな音楽の才能があるでしょう。お父さんは有名な演奏家だったんだし......お祖父さんはヴァイオリンが得意だったんでしょ。それにアルメニアの音楽も素晴らしいもの......
ムラートとムカールが何となく似ているのは、二人ともアルメニア人の血を受け継いでいるからかもしれないわね」
アルブラートは、サイダのホテルで、調理師のファハドに「お前はムカールに似ているな」と言われたことを思い出した。
「まさか......同じアルメニア系だからって―俺と彼とは段違いだよ―どこも似ていないじゃないか」
「目がよく似ているのよ......自分じゃ分からないんでしょ?」
「でもアイシャだって言っていたじゃないか......ムカールのことを『怖いぐらいに美しい』ってさ」
アイシャはにっこり笑って、彼を見た。
「そうね、ムカールは本当に魔性のようにきれいな人だけど、陽気で優しいから好きよ。でも......やっぱり私は、ムラートの素朴な美しさの方がずっと好きよ―私がこの世で一番心から愛せるのは―ムラートしかいない。ムラートは、もっと自分に自信と誇りを持った方がいいわ」
アルブラートの仕事場に、ムカールが緊急入院したとの知らせが入ったのは、その日の午後7時過ぎだった。
電話は医師からだった。ザキリスは、オルガ・エレーナが、まだレストランの近くのホテルに滞在中であると告げ、アルブラートに、彼女を迎えに行って欲しいと依頼した。
大公妃が宿泊しているホテルは、レストランから歩いて10分ほどの、ロイヤル・ホテルだった。アルブラートは、7時半で仕事を終えると、オペラ座広場を横切って、ロイヤル・ホテルに向かった。外は激しく雨が降っていた。
痛む膝では、急いで歩くこともできず、ホテルに着いた時は、彼はびしょぬれだった。アルブラートは、黒の長袖のシャツに、黒いジーンズを身につけていた。もう4月の終わりであるのに、病院からの知らせと、今から一人で大公妃に会わねばならないという緊張感で、全身が凍るように冷たかった。
大公妃の部屋は、ホテルの最上階の奥だった。彼は、エレベーターを降りると、もう歩くのが辛くなり、近くにあった椅子に座り込んだ。彼は、昨日、ムカールが「二度と会うことはできない」と彼女に返答したことを考えた。
でも彼は本当は―あの人を母親だと認めている......ただアデルのことを考えて......でもアデルの考えは間違っている―
あの人が、生後1ヶ月の乳児と母親を引き離すような人だろうか......自分の子と引き離される辛さは、あの人には充分理解できるはずなんだ......
アルブラートは、去年の夏、サイダの街で、ムカールが危険を冒してアイシャを連れてきてくれたことを考えると、今度は自分こそが、ムカールの
ために彼の母親を連れて行くべきだと思った。
彼は数分して立ち上がると、大公妃の部屋に向かった。彼女の部屋を静かにノックすると、中から「お入り下さい」と返事があった。アルブラートはそっとドアを開け、部屋の入り口に立った。外出の用意をしてそばにやって来たオルガは、長い髪を背に垂らしたままだった。その彼女を見て、アルブラートは雷に打たれたように立ちすくんだ。
この人は......母さんじゃないか......!母さん生きていたんじゃないか......!......いや......母さんのはずがない......でもなんてよく似ているんだ......まるで生き写しじゃないか......
オルガは、黙ったまま茫然としている若者を見て、驚いた様子だった。
「......まあ......!こんなに濡れて......!あなたが迎えに来られるなんて......ちょっとタオルで髪だけでも拭いていって下さいな」
彼女は自分でタオルを奥から持ってくると、アルブラートの髪を、まるで母親のように丁寧に拭ってやった。アルブラートは、ムカールにそっくりな彼女から、雨に濡れた髪を拭いてもらうと、レバノンで青年と初めて出逢った日を思い出した。また、遥か遠い昔、ユダ砂漠で、母から汗をショールで拭ってもらった時の感触が甦った。
彼は、子供のように髪を拭いてもらうのが恥ずかしくなり、彼女を見つめると、首を振った。タオルを受け取ると、自分で髪や顔を拭き、そのタオルを握り締めたまま、相手を見ることができずにいた。
アルブラートは、オルガと二人でいるのがとても耐えられなかった。だが、何とか震える声を抑えながら、やっとの思いで用件を伝えた。
「あの......ドクターから電話で知らせを受けて......お迎えに参りました......ムカールが容態が悪くて入院したと......」
「ええ、それは私も伺いました―でもあの方は―私にはもうお会いできないとおっしゃっておりましたし―私がお見舞いに伺ってもよろしいのでしょうか」
「ムカールは......今日の昼間、はっきりと言いました―『あの人は本当の母親だ』と......『もう充分分かっている』と......だから、彼はあなたに本当は......お会いしたいのだと思います」
オルガはためらっていたが、ずぶ濡れで迎えに来てくれた少年のことを思いやると、一刻の猶予もならないと感じた。二人は階下に降りると、正面玄関に向かった。その時、少年が右足を引きずるように歩いているのに彼女は気づき、急いでタクシーを呼び止めた。
「......アルブラート......でしたね。あなた、その足は......?」
アルブラートは彼女をちらりと見やったが、母に瓜二つのこの女性を見るたびに、胸の奥が刃物で切り開かれるようにキリキリと痛んだ。また同時に、手足が雪の中を歩いているかのように冷たく凍りつく感じがした。それは、吹雪が唸りながら吹き荒れるナザレの荒野の氷雪地帯を踏みしめている、三年前のあの時の残酷な冷たさだった。
「これは......レバノンにいる時、治安部隊にゲリラと見なされて狙撃されたんです......僕は―僕は......パレスチナ人なので......」
「ああ......それであなたは、あの方とカイロに亡命されたそうですね―ドクターがそうおっしゃってました」
二人は病院に着くと、すぐにムカールの病室に入った。青年は、酸素吸入と点滴を受けた状態で、眠っていた。そばにいたザキリスは、アデルは赤ん坊と今育児室で休んでいると言い、二人を別室に連れて行った。
そこは病棟の奥の応接室だった。医師は、部屋の明かりをつけると、二人に椅子に座るよう勧めた。ザキリスは、おもむろに腰を降ろすと、意を決したように話し出した。
「......今は彼はあんな様子ですが―実は、今朝から何も食事を受けつけないのです。以前、お話しましたが―敗血症が完全に悪化してしまいました......もう彼の左肺は完全に壊死状態です......まことに残念ですが―彼の命はあと1週間もありません」
―第42章―神の玉座―1
アルブラートは、いきなり足元の穴から真っ直ぐに落ち、今は深い、光の無い地下道を、鈍重な足取りで歩いていた。高く黒い天井のどこかから、長く深い溜息と、短い嗚咽が聞こえてきた。ザキリスの低い声と、オルガの苦しげな問いかけが、かすかに響いてきた。
「......ご本人は......このことを―もうご存知でしょうか......」
「私はなかなか......彼にお話しすることができないでおりましたが―明日、本当のことを申し上げねばと思っております」
「......奥様は―どうなさってます......?」
「アデルが出産を控えた頃から、彼の病状がはっきりしたので......私はよけいに真実を告げることが叶いませんでした......ですが、夕方、彼の入院の後、思い切って話をしました―彼女はヒステリー症状に陥って、長い間泣いた後、気絶してしまいましたので......安定剤を点滴しながら、別室に寝ています―子供は、育児室で、看護婦が面倒を見ていますが......」
「......お気の毒に......なんて不幸な......せっかくお会いできましたのに......あんな立派な方は―もう二度とこの世に存在いたしません......でもあの方は―私を母と認めて下さったそうですね......それだけでも私は慰められます」
「......ムカールが......奥様をお母様と......?」
「ええ―先ほど、アルブラートがお話下さいました」
ザキリスは、石のように体を硬くしたまま、虚ろな表情のアルブラートを見やり、彼の名を呼んだ。アルブラートは、ハッと我に返ると、小刻みに体を震わせながら医師を見つめた。彼の顔はすっかり蒼ざめ、まるで死人のような顔色だった。
「大丈夫ですか―アルブラート......辛いでしょうが、これが現実なのです―私に彼を救う力は、もう無いのです......あなたの大事な友人を、むざむざ見殺しにする結果となって―私は何と言っていいのか......」
アルブラートは、目を伏せ、両手を膝の上で固く握り締めた。その後、かすれた声で医師に返答したが、自分でも、何を言っているのか分からなかった。
「......もう―いいんです......僕、こんなぐしょ濡れで―もう帰ります......明日―ムカールと話ができますか―」
医師は、10分位なら良いと答えた。アルブラートは、そのまま立ち上がると、黙って部屋を出て行った。
それから、どうやって自分のアパートに辿り着いたのか、全く覚えていなかった。彼の帰りが遅いのを心配して待っていたアイシャが、驚き、慌ててタオルと着替えを持って来た―そのことは微かに覚えていたが、後は何も分からなくなった。
翌朝、アルブラートは目が覚めたが、昨夜のことが頭の隅に、何かの燃えかすのように黒く燻っていた。彼は、そのことに意識を集中しようとしたが、本能的な何かが、事実を遮ろうとした。ただ、機械的に服を着替え、食事もとらずに仕事に出ようとする彼を、アイシャが急いで引き止めた。
「待って......ムラート!朝食もとらないの?」
「......仕事に行かなきゃ......」
「昨夜も食事をしてないじゃないの......仕事は無理よ」
「......ムカールが死ぬんだ......だからもう......食事はいい......」
アイシャは、少年のように乱暴に、彼の腕を引っ張ると、食卓に座らせた。そして、黙って彼の前にミルクとパンを差し出した。アルブラートは彼女をぼんやり見つめると、ミルクだけ飲んだ。
「ムカールがもうすぐ死ぬから......あなたも死ぬの......?」
アイシャは泣き声で呟いた。アルブラートは、無言で立ち上がり、職場に出かけた。アイシャは慌ててヴェールをまとい、彼の後について行った。
9時になると、アルブラートはいつものように彼女と舞台に立った。アイシャは彼が心配でたまらなかったが、昨日彼と話し合ったレクイエムを歌い出した。アルブラートは、茫然自失となっているのが嘘のように、ウードを美しく奏で始めたが、その曲が終わった途端、指がこわばったように動かなくなった。
アイシャは、舞台袖にいたオーナーのジャハルに、彼の様子がおかしいことを話した。舞台の幕を降ろすと、ジャハルは二人を楽屋に連れて行った。彼は、昨夜の病院からの電話の件を思い出した。
「アルブラート、どうしたんだね―昨日、何かあったのかね」
「......友人が危篤で......もう......助からないんです......」
アルブラートは涙も流さず、ただ単調に答え、オーナーを見つめた。彼の目の表情には生気が失せ、深い絶望と怖れが満ちているのを見たジャハルは、今日はもうアルブラートは演奏は無理だと悟った。
「指が動かないか......それは多分心理的なものだな―私は君に強制はしないよ。仕事は当分休んだらいい。君たち二人のおかげで、このレストランも有名になったんだ。私は君たちを商売道具に使っているわけじゃない。
今は辛いだろうが、アルブラート......きっとまた君の指が治ることを祈っているよ」
少年の目の前には紺碧の海が広がっていた。後ろを振り向くと、長く高い階段が、大きな白い建物へと続いていた。階段の上には、母親が立っていた。まだ幼い少年は、急いで母のもとへと階段を駆け上がった。少年は、母に抱きつくと、背後の光景を振り返った。それは、見渡す限り、広く輝く碧い海に囲まれた、白い街並みだった。
「ねえ、あの街はなんて言うの?」 母は、アテネだと答えた。
「じゃあ、あの海は......?......地中海なの?」
「地中海じゃなくて、エーゲ海よ。もう冷えてきたからお部屋に戻りましょう」
少年は、母と共にいつもの部屋に戻った。窓からは、アテネの街並みが遥か下方に見えた。彼は、この建物が、非常に高い丘の上に建っていることを感じた。
「ねえ......どうしてこの家はこんなに大きいの?お城なの?」 「そうよ。もうすぐお父様がお見えになるから、ここでお待ちなさいね」
やがて、長い廊下を歩く足音が聞こえ、父が入ってきた。父は、ギリシャ語の基本読本を手にしている少年を力強く抱き上げた。
「1週間に1度しか会えないというのは寂しいな。お前は本当にお母様に似て、賢く美しい子だな―身分なんて私には余計なものだ―自由に3人で暮らしたいよ」
ムカールは、ハッと夢から覚めた。それはいつも見る夢だった。ぼんやりと夢の味を思い出していたが、いつの間にか自分は病棟のベッドに寝ていることがわかった。酸素吸入のマスクが外れていたが、息苦しさは今はなかった。
あの夢は正夢なのか......5歳の頃の記憶があのように夢になって現われるのか......
だが彼は、病室の入り口付近に、誰か見知らぬ男性が、立派な椅子に座り、こちらを哀しげな目で見つめているのに気がついた。その男性は、金髪に青い目をし、黄金の絹のローブをまとっていた。
ムカールは何か怖ろしくなり、目を反らしたが、その人物はゆっくりと立ち上がり、彼のベッドのそばに近づき、低い声で話しかけた。
「......お前は母に会ったそうだな......アレクサンドル......私もお前にどんなに会いたかったか......今度は私と一緒に行くんだ」
男は彼の右手を引っ張ろうとした。ムカールはぞっとし、声を出そうとしたが、金縛りにあったように、身動きがとれなかった。それでも必死で抵抗すると、男の影は急に薄らぎ、体がふっと軽くなった。
気がつくと、そばに医師がいた。ムカールは汗をかき、走り回った後のように、息を切らしていた。医師は彼の汗を拭うと、酸素マスクをあてがった。ザキリスは、彼に食事をとれるかと尋ねたが、彼にはもう起き上がる力がなかった。
ムカールは、しばらく無言で目を閉じていたが、やがて目を開けると、視線を真っ直ぐにザキリスに向けた。彼は、途絶えがちな声で、医師に問いかけた。
「......先生......どうか教えて下さい......もう......私は......もう......長くないんでしょう」
ザキリスは、この場に及んでも、真実を告げるのにためらう自分が情けなかったが、ようやく、苦しみぬいた、だが厳粛な表情で話を始めた。
「......あなたはもともと免疫力が激減していました......そこで、この2月に敗血症に罹り―昨年の腕の手術痕が、皮肉なことに―再び壊疽に侵されましたので......とうとうそれが肺に広がり......左肺が今では完全に壊死に陥っています......あなたは―あと―わずか数日しかもたないでしょう......」
医師の言葉を聞いて、ムカールはおぼろげに、先程現われた不思議な男性は、故ギリシャ王の亡霊だったのだと悟った。すると再び、死に対する恐怖が心の奥底からふつふつと沸き起こり、あと数日で命が絶たれることへの衝撃で、全身がわなないた。それでも、たった一人で死んでゆくわけではないと自分に言い聞かせ、唇を震わせながらも、この事実をなんとか受け止めようとしていた。
「.......死ぬ時は......苦しみますか......」
「あなたの場合は......吐血が始まったら―もう覚悟して頂かなければいけません―聴覚は残りますが、視覚と声帯がやられます......しかし意識は最期まで明瞭ですので......相当苦しまれることは―もう疑いありません」
ああ......!死ぬのが怖ろしい......!でも苦しみを切り抜けたら楽になれる......なぜこうなったんだ......もとを辿れば―誘拐されて......孤児院で手首を切断された時から......俺には死神がまといついて来たんだ......それでも―子供も産まれて......幸せに暮らしたかったのに......
●Back to the Top of Part 13
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