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砂漠の果て(第20部「虚像」)

第二十部「虚像」


―第61章―偏見―2:コンセルヴァトワール


Prejudice 1963 Paris


アルブラートはベッドの上に起き上がったまま、項垂れると、深い溜息をついた。時刻はもう午前3時近かった。街路の明かりが少し開いたカーテンから漏れていた。パリの街は夜中も若者たちで賑わっていた。彼は、その明かりが煩わしく、カーテンをきちんと閉めると、再びベッドに横になった。

 ここが自分にとって、全くの異国であることが辛くてたまらなかった。故郷であるベツレヘムに帰りたいと思った。自分を何も偽ることのない、真に自由な暮らしを望んで止まなかった。だが、自分には故郷など何もない、故国と呼べるものが何もないのだと改めて思い起こした。

国を持たぬ民族というものは、パレスチナ人以外にもいる―南アフリカの黒人や、南北アメリカのインディオ......すべて、自分たち以外の外部の人間によって、土地や国を奪われ、奴隷のような立場に置かれてきた......だが国を奪われた上に、殺戮を怖れ、定住すべき場を持たないのは今ではパレスチナ人ぐらいじゃないか......

 だが彼は、今自分の置かれた状況は、自ら強いて作り出したものだと考えると、なぜアラブの民族性が失われることを怖れるのかと自嘲した。

何を今更......アラブを捨てる覚悟でパリに来たんじゃないか......!アラブ世界を懐かしいと思うこと自体、どうかしている―もうフランス国籍も取ったし、名前まで変えたんだ......俺は―俺は―フランス人として生きているんだ......アラブ世界のことなど一切関係ない―!

 また、彼は自分が育てなければいけない二人の幼子のことを考えた。

それに、アリにもアザゼルにも―俺がパレスチナ・アラブであることは一生の秘密なんだ......あの子達のためにも、俺はフランス人としてここで一生を過ごす―そうでなければならない......そのためには―アリにはあの「碧水晶」は16になるまで絶対に見せてはならない......あのアブドゥルカリームの言ったことが本当なら、アリには俺の怖ろしい過去が見えてしまうからな......

 アルブラートは、あの碧水晶には自分の過去が映らないということが有難かった。だが、同時に、将来の自分や身内、知人の運命が映ることは、興味深いのを通り越し、何か畏怖感のようなものを抱かせた。

アザゼルがギリシャの暗殺集団に狙われている以上は―いつ、何が起こるか分からない......そのためにも、半年毎にあの水晶をみることを今後絶対に忘れてはならない......俺がムカールの―アレクサンドルの友人だったことや、あのオルガ・エレーナと話をしたことなどは、アイオロスの密偵に既に知られていることだろうか......?ザキリス先生とムカールが親しい間柄だったことなどは、大丈夫だろうか......?

 彼は、眠れないまま、自分の行動に落ち度がなかったかを考え続けた。それでも、自分がザキリスの養子になり、ギリシャ系フランス人として名を変えたことや、アザゼルの名をも変え、自分の養女としたことまでは、敵に知られていないはずだと確信した。

ザキリス先生とムカールが知り合いだったことは、それは当然、アイオロスは知っていたはずだ......先生は、アテネでも、カイロでも、大公妃と直接会って、「ムカール・アル・モハメダウィという青年がきっとあなたのご子息に違いない」と、写真を見せて話をしたんだろう―それをアイオロスの密偵が聞き逃すはずがない......だから、大公妃は「モハメダウィという名はもう敵に知られている」と、あの子爵夫人に話したんだな......

 もう夜中も過ぎ、時刻は午前3時半を過ぎていた。それでもアルブラートは、アザゼルの身の上に危険がふりかからないかどうかを、懸命に過去を手繰り寄せ、必死で確認しようとしていた。

密偵がついていたのは―まずはあの大公妃、そしてザキリス先生になんだ......それなら、先生は、ムカールの最も親しい友人として、俺の名も大公妃に話したに違いない......でも俺は、カイロでレコードが売れて、顔が知られていたにせよ、敵の標的外のはずだ―ムカールが亡くなる3日前の金曜日―あの雨の日―俺は大公妃をホテルに迎えに行って、タクシーに乗った......俺が大公妃と親しく接触したのはあの日だけ―外部から見ても、あのほんのタクシーの中の数分間だけだった......

 彼は、そのタクシーの運転手がアイオロスの一味だったら、と考えた。

いや―それでも、敵が狙っていたのは大公妃から聞き出せるアザゼルの情報だけだったはず......だから、俺のことは―「アルブラート・アル・ハシム」なんて人間のことは、彼らには問題外だ......その俺が、アザゼルがアルメニアに引き取られた後、ザキリス先生の養子になった......そして今度はパリに来た俺がアザゼルを養女にし、俺もアザゼルも名を変えた......「ザキリス」というギリシャ名も、ありふれている―アイオロスは先生のことまで詮索しやしない―きっと大丈夫だ......

 翌日は、昨夜遅くまで起きていたために、アルブラートはピアノに向かおうとしたが、すぐにくたくたに疲れてしまい、まったく練習ができなかった。彼がリビングのソファに辛そうに横になっていると、午後の散歩を終えたマリーが子供たちを昼寝させた後、心配そうに昼食を運んできた。

 アルブラートは細やかに世話をしてくれるマリーの横顔を見ながら、可憐な細い白い花を思い浮かべた。彼女は美人ではないが、明るい金髪と、和やかな碧色の目から醸し出される人柄の温かさに魅かれるのだと彼は思った。

 「お食事のあと、お夕食までお休みにならなくては......お体に触ります」

 彼は頷き、体を起こしたが、食事をせずに、静かにマリーを見つめていた。マリーは不思議そうに彼を見たが、彼の優しく誠実な眼差しに、やがて顔を赤らめた。



 「......なぜそんなに私をご覧になってばかりいらっしゃるんですか」

 「いえ......いつも子供たちの世話をして頂いて、とてもありがたく思っているんです......あなたがあの子たちの事実上の母親代わりとなって下さっているので......」

 「私は以前はパリ市立病院で看護婦をしていました。幼児病棟で―もともと子供好きなものですから。でも、小さな子供たちが亡くなったりするのを見るのが辛くなって......病院を辞めたんです。それで、たまたまこちらの先生のお宅で、音楽と子供が好きな家政婦を求めておられたので、こちらで働かせて頂くことになったんです」

 「そうですか......あなたには、人種的偏見というのがないんですね」

 「人種的偏見......?」

 「僕や僕の子は......結局アラブ人だし......アデールの母親はモロッコのベルベル人だし......白人の人々の中には、こういう有色人種の東洋人を、まるで蛇のように毛嫌いする人だっている......そういった感情など全くなく......僕の子供たちを育てて下さる―そういうあなたに感謝したくて......」

 「まあ......人は皆平等ですもの―人種で差別するなんて、とんでもないことでしょう―あなたのお坊ちゃまもお嬢さまも素晴らしく可愛らしくって、毛嫌いどころじゃありませんわ」

 「では、あの子たちを愛して下さるんですね」

 「もちろんですとも」

 「それでは......僕のことも―何の偏見もなく、一人の人間として見て下さいますか」

 マリーはまだ25歳で、独身だった。自分よりも若く、知的な美しさに輝く整った顔立ちの、この才能豊かな青年からこのように言われると、日頃から抱いている慕情が熱い想いとなり、口から迸り出そうになった。

 だが彼女は自分の立場を考え、そんな熱い気持ちは何も告げまいとした。

 「......私がアルベール様に偏見を抱くわけがございません―あなたは非常に聡明で、優れた才能をお持ちです。あなたは、私などが本来ならお近づきになれないほどの立派なお方だと......そう拝見しています」

 アルブラートは、彼女の心を見抜き、女性を惑わすようなことを言ったのではないかと反省した。

 「いいえ―その......僕はそんな賛辞を受けるほどの者でも何でもないんです......僕があなたに言いたかったことは、そんな特別なことではなく......一般的に、僕は、独立した個々の人間の一人と見なされるべきかどうか―そういうことです......才能のあるなしで、人は人を立派だと思うべきではないと......そうではありませんか」

 「それも一つの事実です......でも、才能のある人は、それを存分に誇って良いと―その才能を世に認められるべきだとも言えますもの......才能がもしアルベール様に何もないとしても、あなたは人から愛されるお方でおられますから......」

 マリーはそう言いながら、彼に対する愛情で胸が高鳴り、声が震えた。アルブラートは今では完全に、彼女の気持ちを理解し、それを遠ざけようと、わざと自己を卑下するような口調で呟いた。

 「......僕が人から愛される......?そんな要素があると思っていらっしゃるんですか―僕は......人から愛されるどころか、人を愛する資格など無いんです......一人の女性を愛する分際でもない......むしろ、女性を不幸にするような人間です」

 「......なぜ......そんなにご自分を責められるんでしょう......?何の根拠もありませんのに......」

 「僕は―あなたのように年上で落ち着いた人を愛していたら幸福だったかもしれない......でも―死んだ妻はまだ若すぎて......16で結婚したんです。彼女は年齢の割には分別があって、僕よりも勝気で、自由奔放な性格で......それにお転婆で、勇気があった―その勇気が逆に分別の無さを招いて―危険な場所に赴いて、事故に遭ってしまった―

僕は、彼女を制御することができなかった......無口で、弱虫だったから......でも妻を愛していたんです―それなのに、幸福にできなかった......要するに、僕は無力な―つまらない人間ということです......」

 彼は、こう言いながら、アイシャへの愛と彼女の無残な死が再び記憶から呼び覚まされ、テーブルの上に置いた手が小刻みに震え出した。マリーは、この青年がまだ若い妻を年末のカイロのテロ事件で失ったことを、デュラックから聞いて知っていた。彼女は、彼を哀れに想い、思わず彼の震える右手にそっと自分の手を重ねた。

 アルブラートは、自分の褐色の肌に触れるマリーの白い手を見つめた。なんと自分の肌は黒いのだろう、そしてマリーの手はなんと白く美しいのだろうと思った。彼は、女性の存在というものは、なんと優しく慰められることかと感じ入った。だが、マリーとの結婚などは考えられなかった。また、彼女に思わせぶりなことを今後、口にしてはならないと考えた。

 彼は、沈鬱な表情でマリーを見つめ、首を振った。マリーは慌てて手を引っ込めた。

 「失礼しました......あなたの手があんまり震えておられたので......」

 「いいえ、僕はどうかしていました―死んだ妻の話などして......ご心配おかけしました......もう大丈夫です。夕食後にレッスンをしますから―」

 アルブラートは、昼食後、いったん眠り、夕食後に自室でヴァイオリンのレッスンをした。彼は練習の途中、マリーの白い手を思い浮かべていた。

マリーは俺のこんな褐色の手に触ることが嫌ではないんだろうか......白人が東洋人を嫌がるのは、すべてこの肌の色なのに......彼女は本当に偏見などない、優しい人なんだ―彼女が俺を愛していることはもう分かっている......でも俺はアイシャを愛しているから―あの人を妻としても、それはアイシャの代わりに過ぎない......そうなると、マリーを不幸にしてしまう―だから、これからも、俺は誰とも二度と結婚などできないんだ......



 暖かな日差しが暑い夏日となりつつある5月初旬になった。デュラックは、音楽院に入学願書を受け取りに行かなければ、とアルブラートに言った。

 「君はパリに来てこの3ヶ月、ほとんど外に出ていないし、音楽院を見学するいい機会だろう。私が練習室やコンサートホールを案内するから、一緒にどうかな」

 アルブラートは、一人で行けると思ったが、デュラックが中を案内すると言うので、大人しく承諾した。彼はきちんとしたスーツで正装し、家から5分ほどの音楽院へと出かけた。中に入ると、近代的な外観とは異なり、荘重な壁画で彩られた天井画や、古代ローマ風の彫刻で飾られたロビーが広がっていた。

 彼は何となく緊張しながら、氏の方を振り向いた。

 「あそこの硝子窓が受付だから、願書を受け取りに行っておいで。私はここの椅子で待っているから」

 アルブラートは、開け放ってある硝子窓から、中を覗いた。誰も受付にはいなかった。彼は思い切って、人を呼んだ。すると、銀髪の若い女性が対応に出てきた。その女性は、アルブラートを胡散臭そうにジロジロと眺め回した。

 「何の御用でしょうか」

 「あの......8月に実施される入学試験の願書を頂けませんか」

 「受験されるのは、まさかあなたではないでしょうね」

 受付係の冷淡な口調に、彼は一瞬ひるんだが、丁寧な口調で応じた。

 「いいえ、私が受験します」

 「東洋人の方の受験は、本学院ではすべてお断りしております。お引取り下さい」

 アルブラートはもうこの女性に対して何も言えなかった。ただ、屈辱と惨めさだけが頭の中を回転していた。だが、その対応を見ていたデュラックが、素早く窓口に近寄り、厳しい口調で命じた。

 「君じゃ話にならん―事務長をここへ呼びなさい!」

 女性は慌てて、言われたとおりにした。間もなく、事務長とおぼしき男性が奥から出てきた。

 「事務長、あの受付係の応対はひどすぎるね―ほんの5日前の教授会で、私は学院長に申し出たはずだ。『偏見を打ち破り、才能を持つあらゆる者に本学院で学ぶ機会を与えてこそ、真の新たな伝統が築かれる』と―この音楽院で学ぶ者に対して、白人だ東洋人だといった区別は、もうない筈だ。学院長もその私の提案を許諾した。君はこの話を聞いていないのかね」

 事務長は、横柄な態度でデュラックを見た。

 「ええ、その教授会の決議案は存じております。しかし、教授、つい2日前に、学院長が直に私をお呼びになり、『先日の教授会の決議案は、まだ保留にしておく。窓口に来る受験生で、西洋人以外の者は断るように』とおっしゃったものですから」

 デュラックは忌々しげに舌打ちをしたが、事務長に命じた。

 「保留というのなら、まだあの案が決定される余地はあるということだな。とにかく、この秋にここに入学したい学生がひとりいるんだ。願書を一部渡してもらいたい」

 氏は、事務長が仕方なさそうに取り出した封書を受け取ると、椅子に座り込み、一部始終を聞いていたアルブラートの所に戻ってきた。アルブラートが心配そうに床に視線を落としているのを見て、デュラックは何でもないと励ました。

 「どうもここの連中は頭が固くってね。君が気にすることは何もない。君は正々堂々としていなさい。じゃあ、練習室とホールを見てみようか」

 彼は氏に連れられて、2階に続く階段を昇った。階段は円状に輪を描いていた。アルブラートには、その階段が永遠に続き、自分を見下しているように思われた。

 デュラックは、2階に上がってすぐ右の練習室を空けた。

 「足は痛まないかね」

 「いえ......これくらいなら大丈夫です。でも30分以上歩いたり、立ち続けていると膝が痛んで来て......試験の時、ヴァイオリンを座って弾くことは許されますか」

 「それは私がかけ合って何とかできる。ここはヴァイオリンの練習室だ。ほら、そこの窓から私の家が見える。これだけ近かったら、君の足への負担はそうひどくはないと思うが......」

 アルブラートは、恩師の思いやりある言葉に、先程の嫌な思いが少し薄らいだ。ここが、10代の後半から憧れて来た音楽院の練習室なのだと思うと、音楽への熱い想いがこみ上げて来て、ひと時、幸福な気持ちに浸ることが出来た。

 だが、そんな気持ちも、急に入室してきた人物によって、あっけなく打ち砕かれた。

 「おや、デュラック教授。講義が休みの日でも、ご来校とは熱心な。今日はまた一風変わった下僕をお供においでとは」

 「下僕......?藪から棒になんてことを言うんだ。この若者は私の下宿生だ。下僕などではない、ギュスターヴ。彼は私の遠縁で、ギリシャ系でね。ピアノ科教授の君が、今に絶賛せざるを得ないほどの才能の持ち主なんだ」

 ギュスターヴと呼ばれた40歳ほどの教授は、目が灰色で、白っぽい金髪だった。黒い瞳で、ブラウンの髪をしたデュラックとは全く対照的だった。アルブラートは、ギュスターヴを見ていると、急に収容所の大佐を思い出し、気分が悪くなった。

 「ギリシャ系ね。ギリシャと言っても、あそこはアラブ人との混血が多い。ギリシャはヨーロッパの一部などではない。アフリカ北部とほとんど変わらない。そんな野蛮な血を引いた者がピアノに触れること自体、この学院が穢れる―君はそう思わんのかね」

 すると、デュラックは激昂した調子でギュスターヴに迫った。

 「馬鹿を言うな!芸術に人種も国境もあるはずがない!この学生は―この音楽院の歴史を塗り替える、稀に見る天才なんだ!私は20年ここで教えて来て、こんなに優れた才能の持ち主と出会ったことがない!学院中の者が、彼に賞賛の声を贈る―いや、ヨーロッパ中が、世界中が彼を黄金と認める―君は彼に、いつもの退屈なレッスンをしていればいい―彼自身が、すぐさま君を必要としなくなる―やがて君は彼を師と仰ぐだろう―それほどの才能なんだ!」



―第62章―栄冠の光


The Light of Glory


ギュスターヴは、デュラックの怒りに燃える黒い瞳を見ても、何とも思わない様子だった。彼は、押し黙って二人を見つめるアルブラートをちらりと見やった。アルブラートは、この教授が上背ががっしりとし、灰色の目が冷たい光を放っているのを見ると、ますます捕虜収容所のアルバシェフの姿と重なり、思わず目を反らした。

 ギュスターヴはこの若者が大人しく、押しの強い所はどこもないと見て取り、侮蔑した口調で彼に話しかけた。

 「君の大先生は、昔から変わったことが好きでね―要するに、オリエント趣味に固執しているんだ。以前、10年間もシリアに滞在して以来、ますますその変てこな趣味に磨きがかかったらしい。君のような、アラブ人ともギリシャ人とも訳の分からない者を下宿させることからして、それがよく分かる。ロベール・デュラックと言えば、この音楽院をプルミエ・プリ* で卒業し、10年間管弦楽団のコンサートマスターを務めたほどの英才なんだ―だが今私は、ロベールが気の毒でならない。奇妙な東洋趣味が骨の髄まで染み込んで、ついに頭にまでその病気が回ったかと思うとね」

 そしてギュスターヴは、嘲笑うような表情で口元を歪め、デュラックを皮肉った。

 「それでは私は失礼しよう。ロベール、歴代の学院長をしのぐほどの優秀な芸術家の君が絶賛する、あの毛色の変わった生徒が入学試験に挑むのが楽しみだな。私のピアノは退屈だろうが、君もあんな者を相手にしている以上は、私の演奏以上に腕が落ちているんだろう―まあ、学院中の笑い者にならないことを祈っているよ」

 ギュスターヴが練習室を出て、廊下を去って行く足音さえ、アルブラートには忌まわしかった。彼は眩暈がし、そばにあった長椅子に座り込んだ。いつもの発作が起こる兆しを感じ、慌ててポケットをまさぐったが、今日は薬を入れて来ていないことに気がついた。

 彼は吐き気がし、額や背中に汗をかき、手が震えた。だが、デュラックに発作のことを悟られまいと、両手を強く握り締め、今起きた出来事を必死で忘れようとした。デュラックは、アルブラートの顔色が悪いのを見て、今日はもう帰った方がよいと判断した。

 帰宅すると、アルブラートは居間のテーブルに腰掛け、項垂れたまま、震える両手を尚も堅く握り締めていた。居間のピアノのそばで、アザゼルがアリを相手に人形や積み木で遊んでいたが、アルブラートの姿を見ると、嬉しそうに駆け寄ってきた。

 「あの積み木、見て、見て。お城なの。アンリが王様、アデールがお姫様」

 彼は無言で、アザゼルを見つめた。2歳2ヶ月になったアザゼルは、言葉の発達が早く、ますます顔立ちがムカールに似て、生きた人形のように美しく愛らしかった。アリは、つたい歩きをしながら、父親のそばに寄って来た。アルブラートは、無垢な幼子たちを見ていると、不思議と気分が和らいで来た。

 彼は、アリを膝の上に抱き上げた。アザゼルは、そばにあった椅子を彼の隣に押してくっつけ、その上によじ登り、ちょこんと座った。彼女は小さな頭に白いレースのリボンをつけ、服も同じようにレースでできた可愛らしいワンピースを着ていた。アルブラートは、その姿を見て、アザゼルが本当にギリシャ王家で暮らしている娘のように思えた。

ヨーロッパ人はギリシャをヨーロッパと認めない―アラブ人との混血が多いからか......俺はアラブを忘れるためにこの国に来て、ギリシャ系と人に名乗って生きていこうとしている......それでも、ギリシャもあのように「野蛮だ」と切り捨てられては―どうやって幸福を得ることができるんだ......?

 デュラックは、マリーに紅茶を運ばせ、テーブルの向かいに座り、彼と子供たちとを思案げに見つめていた。

 「少しは気分は治ったようだね―さっきは真っ青で驚いたよ。今日は嫌な目に遭わせてしまって申し訳ない。だがあの音楽院すべての人間が、人を貶めるような下劣な連中ばかりじゃないんだ。それに、真に熱心に学び、その才能を更に磨き上げれば、あの学校ほど努力が報われる所はない。世界が認める最高の音楽院だからね―まあ、安心していなさい」

 アリは父親の胸に顔を押し付けて、眠ってしまった。アルブラートは息子を眺めながら、複雑な気持ちで相手の話を聞いていた。デュラックの励ましの言葉に、彼はようやく顔を上げ、師の目をじっと見つめた。その深く澄んだ湖のような見事な黒い瞳に、悲哀感が湛えられているのを見ると、デュラックは5年前、初めてアルブラートと出会った日を思い出した。

あのガリラヤ湖のほとりの病室で、彼は私を待っていた......マフムード・アル・クフィーヤという介護士が「フランス語を習いたいというパレスチナ人の少年がいる」と、教会にいた私に依頼に来た......ほっそりとした賢そうな顔立ちの、まだ16歳の少年が、ベッドに起き上がって私を待っていた―私がアラビア語で名を尋ねると、物静かな口調で「アルブラート」とだけ答えた......この瞳は、あの時とまったく同じだ......私は彼のことは、それ以外何も知らない―私が知っているのはあの時からのアルブラートだけで、それ以前のことは一切知らないんだ......

 デュラックは、パレスチナ人が戦後辿った数々の悲劇を、若い頃からいやというほど耳にして来た。この自分の教え子が、どんなに恐ろしい苦しみを味わったかを推し量ると、外見だけで人をさんざんなじる、あのギュスターヴが憎くてたまらなかった。それでも彼は、自分の信念は、このアルブラートの稀有な才能とともに、音楽院の古びた気風を打ち破ると確信していた。

* 「プルミエ・プリ」(premier pris) : 1等賞



私の母は、アルジェリア人だった......フランス人官僚の父は、母を単なるハレムの情婦として買い、そして私が産まれた―私たち親子を見捨て、父はフランスに帰って行った―私は10歳までアルジェで育った......母は悲嘆のうちに病死し、私は独りパリに来て、父を探し当てた―だがもともと妻子を持つ父は、私を息子と認めず、アルルにいる叔父のオーギュスティーヌに私を預けた......幸い、叔父はヴァイオリニストで、私に音楽を教えてくれた―だから、今の私があるんだ......

 デュラックは、自分の要望は奇しくも父に似たため、アラブ人との混血であることを人に知られずにいるのであって、心の故郷はむしろアラブにあると思いながら育った。だが両親共にパレスチナ人であり、しかもアラブ世界と決別するために、パリにいる自分のもとに来たアルブラートには、自分の出生は言うまいと心に決めていた。

あのオリエント系の人種を嫌悪するパリ音楽院を、私は最初は嫌いでたまらなかった―しかし、音楽への憧憬は人一倍強かった―だからこそ、私は、あの音楽院で最高の成績を取り、歴史に名を残すような演奏家になり、外国人差別に凝り固まった音楽院の伝統に風穴を開けることを決意してきたんだ......アルブラートの苦心や才能は、決して無駄にしたくない......!

 「食欲がないようだね。少しは食べなさい。食事の後、私の部屋に来なさい。願書の書き方を教えるから―今日は、レッスンは休んでもいいからね」

 だが、アルブラートはしっかりした口調で答えた。

 「いいえ、レッスンは1日でも無駄にできません。どうかよろしくご指導下さい」

 アザゼルは、小さな手を伸ばし、彼の腕にしがみついた。彼は、アリやアザゼルの体の温かみを直に感じながら、先程音楽院で受けた言いようのない屈辱感に憤りを覚えた。

外見や肌の色......そんなもので、どうして人間の優劣を決めることができる―?この子たちには西洋人の嫌うアラブやアフリカ人の血が流れている......でも、この小さな体の熱い脈動をも、どうして否定できるだろう?人を人種で卑しめる連中には、この生命の美しさそのものを愛したことなどないんだ......

 アルブラートは、昼食を済ませて、子供たちをマリーに預けると、2階の自室で30分ほど休憩した。彼は、発作が起きかかったにも関わらず、それが子供たちの顔を見ることで落ち着いたことが有難かった。あの嫌なギュスターヴという教授が、入学試験で自分を審査するのだろうかと思うと、たまらなく嫌だったが、敢えてあの教授のことは考えまいと努めた。

彼は、ベッドから起き上がり、同じ2階の奥にあるデュラックの部屋の戸をノックし、静かに部屋に入った。机で調べ物をしていたデュラックは、顔を上げ、黒味がかったブラウンの髪をかき上げると、彼を見て微笑んだ。アルブラートは、なぜかデュラックを見ると、不思議な懐かしさを感じた。

先生はフランス人なのに......どうしてだろう―なぜだかカイロにいた時と同じ気分にさせられる―先生の黒い瞳のためかな―それとも、先生が昔、10年間もシリアに住んでいたと知っているせいかな......

 「願書の書き方だがね―そう難しいものではない。まずここに、君の名と生年月日、年齢、住所と国籍を記入しなさい。住所は私の住所でいい。国籍は―君は一時、ギリシャ国籍だったが、フランス国籍に変わったから、それを書けばいい」

 アルブラートは、自分の名を、こうして公の書類に「アルベール・アドニス・ザキリス」と書くことにまだ抵抗があった。

自分の本当の名はこうではないと分かっていながら、改名した名を書く......この名は俺じゃない―そんな気分になっているのを揉み消して、生まれた時からこの名であったように、改名した名を書く......

 こんなのは、虚像だな......俺はアラブ人であることを人に知られたくない―それに、ギリシャの暗殺集団に、アザゼルを狙われたくない―だから、改名した名を書くしかない......でも心の底では、この名を本当に愛していない―俺は、自分を偽って、虚像として生きていくしかないのか......


 「それから、君はヴァイオリン専攻を希望している。試験では、3曲演奏しなければいけない。今年の必修は、『ヴァイオリン協奏曲』―チャイコフスキーだね。その下に、<自由選択2曲>とある。そこに、好きな曲を2曲記入しなさい」

 アルブラートは、少しの間迷っていたが、『ツィガーヌ―モーリス・ラヴェル』『タイスの瞑想曲―ジュール・マスネ』と書いた。

 「あと、副専攻を選ぶこともできる。君はピアノも得意だろう。両専攻共に全曲首席で合格すれば、ピアノも学ぶことができる。それに、3年後、両専攻共に首席で卒業すれば、学費はすべて返金され、パリ音楽院管弦楽団のコンサートマスターに選ばれ、世界4大音楽コンクールに無料で招待されるという栄冠を掴むことができるんだ」

 「世界4大音楽コンクール......?」

 「まずは、モスクワのチャイコフスキー国際コンクール、ワルシャワのショパン国際ピアノコンクール、それにパリのロン=ティボー国際コンクール、そしてデンマークのカール・ニールセン国際音楽コンクールだ。私は、君ならきっと全てをグラン・プリで勝ち抜くと思うね」

 アルブラートは、そんな力が自分にあるのだろうかと訝りながら、副専攻のピアノの記入欄に目を通した。ピアノの必修曲は、リストの『ピアノソナタ ロ短調』だった。彼は、ピアノと聞くと、ギュスターヴの灰色に光る不気味な目を思い出したが、それを頭から振り払うように、自由課題曲の欄に何を書こうかと無理やり考えた。あれこれ考えた末、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』と、ショパンの『幻想即興曲』を選んだ。

 デュラックは、彼の書き上げた願書に目を通して、これで良いと言った。

 「ショパンやラヴェルなら、君の得意とするところだから、大丈夫だろう。後は、チャイコフスキーとリストだな。リストは、『ピアノの魔術師』と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなせた。だが君も楽譜の初見の早さはリストに劣らない。このリストのピアノソナタは、ピアニストの必修科目でね―演奏時間は30分もある。でも、君ならリストを超えることができるだろう」




 アルブラートは、早速その日から、リストの『ピアノソナタ ロ短調』を練習し始めた。30分と長い曲であったが、デュラックの言った通り、彼は楽譜の初見をほんの40分ほどで終え、すべてを暗譜してしまった。だが、実際に弾き始めると、途中で指が引っかかり、何度も同じ箇所を繰り返さなければならなかった。

 「どうしたんだ―この小節は、もっと力強く―ノン・ストップで階段を駆け上がるように素早く弾かないと意味がない。いや、そうじゃない―どうしたんだね、運指法がまったくなってない」

 デュラックに注意されればされるほど、アルブラートは同様のミスを繰り返し、今までどんな曲でもなめらかに見事に弾きこなしていたのが嘘のように、全く曲が前に進まなかった。デュラックはきっぱりと、やや厳しい口調で言った。

「もういい。弾くのを止めなさい。今日の君はどうかしている。この曲は、難曲といっても、今までの君にはこの第一楽章ぐらいは楽にこなせるはずなんだ。アルベール、君の心に何かが在る―それらが混沌として、出口を見出せずに君の心をかき乱しているんだ。頭の中を整理しなさい。そして、私に話してみなさい―君の心にある何かを」

 アルブラートは、鍵盤から指を離し、両手を膝の上に置くと、しばらく黙っていた。彼は、自分の心にある何かが漠然とし、自分でもはっきりとしなかったが、やがて、師の方を見ずに、静かに口を開いた。

 「......僕のこの外見に対する劣等感―入学を拒絶されるのではないかという不安感......この国に来て本当に良かったのかという戸惑いです......」

 デュラックは、やはり今日、音楽院に行った時に受けた彼の屈辱感がまだ癒されていないのだと思った。彼は椅子を持ってくると、アルブラートに、自分と向き合うように座らせ、そして自分は別の椅子に座ると、若者をじっと真正面から見据えた。デュラックは、いきなりアルブラートの両手を包み込むように強く握り締めた。

 「君は―その外見に劣等感を持つ必要などない......私は、5年前、初めて君に出会った時も、そして今この瞬間も、こう思っている―『何という黄金の輝きだろう―何という秀逸な知性の溢れる面立ちだろう』と......!君のこの手は世界中にただひとつの秘められた財宝だ―君の肌は、ファラオの厨子のように金色に美しく光っている―この私の手に通う血の熱さは、君という宝を慈しむ愛情の証なんだ......君の両手に通う血の熱さは、類稀な才能の証なんだ......!これを忘れないでいて欲しい―分かるかね、分かるかね、アルベール!」

 アルブラートは、こんなにも熱意を持って自分を大事に想ってくれるデュラックの深い愛情に心打たれた。だが、もし自分に音楽的才能が皆無だったら―ふと、そんな疑問が頭をもたげた。彼は、口ごもるように相手に問いかけた。

 「先生は......そんな風に僕を大切にして下さいます―でも......もし僕が―ありきたりの人間だったら、こんなにまで僕を導いて下さっていたのでしょうか......」

 「君は......その存在だけで人を魅了する美しい人格の持ち主であり、愛さずに得られない容貌の持ち主なんだ―たとえ君自身がそう思っていなくとも、私にとっては、君という存在は愛すべきものなんだ―君が私の死んだ息子アンリに似ているからだけじゃない......君には、不思議と私と似通ったものを感じるからなんだ......音楽という共通の趣向を通り越した、もっと深い共感を君に抱いているんだ」

 「......この僕が、音楽院の教授でおられる先生と似通っているだなんて―そんなことは有り得ません」

 「いいや―私には分かる。君と私には、同じ血が流れている―そんな気がしてならない―入学が拒否されるという不安も、君には無縁だ。君は、私の家に下宿して、私の指導を受けている以上は、入学試験では、私は君に評価を与えることはできない。だが、私は、ヴァイオリン科とピアノ科の教授だ。君の試験に立会い、そして君が万が一、不利な立場に陥った時には力になることが充分可能だ」

「不利な立場......?」

 「そう、君は今日経験したように、人種的偏見で低い評価を受けてしまう可能性があるかもしれない―その時に、私が審査員に正しい真っ当な意見を述べて、軌道修正する権利があるということなんだ。それに、君は―」

 デュラックは彼を真っ直ぐ見つめたまま、きっぱりと言い放った。

 「この国に来て良かったかどうかという困惑は無用だね。君には、誰が何と言おうと、立派な音楽家になる素質は火を見るより明らかだ。それから、私は4年前に君とダマスカスで別れた際、もう君と直接会うことはないと思っていた―それなのに、奇遇にも、カイロに住んでいた君はパリで私と再会し、同じ屋根の下で暮らすようになった。

 私は、息子を亡くし、妻も息子の死を悲しんでその1年後に心臓病で亡くなった。独り暮らしの私に、君は可愛い子供たちと共に喜びを与えてくれている。『この国に来て良かったか』だなんて、私には辛い一言だよ―どうか、この美しい国を愛するようになっておくれ」



―第63章―喝采の嵐―1


Tempest of Applause



デュラックのこれらの強い激励の言葉は、アルブラートの心に温かなぬくもりを与えた。彼は、自分自身の存在に少しずつ自信を取り戻しつつあった。それは、レッスンにすぐ現れた。

 デュラックが嘆いたリストのピアノソナタを、彼は、その日のうちに第一楽章を完璧に弾きこなすことができた。その自信は魔法のように、彼の才能を再び目覚めさせ、煌びやかで複雑な音色を、自然の神秘な躍動のように美しく奏で、指の細やかで素早い動きにも、もはや揺らぎはなかった。

 デュラックは満足したように微笑んだ。

 「君はこの曲を完成させた暁には、きっと『リストを超えたピアニストの出現』と認められるに違いない―やはり私の目に狂いは無かった」

 翌日、デュラックは、残りの楽章を練習することと、入学試験に必要な音楽理論の口頭試問のための参考書を読むことを指示し、音楽院の講義に出かけた。アルブラートは、デュラックの書棚に目を通し、膨大な楽譜や書物の中から、『ヨーロッパ19世紀ロマン派音楽理論』を見つけ出した。

 だが、その本を取り出した際に、隣の本との隙間から、何かがはらりと舞い落ちた。彼は、腰をかがめてそれを拾い上げた。それは、アルジェリア風の衣装に身を包んだ、非常に古い女性の写真だった。裏には「アルジェの思い出と共に 1925年」とアラビア語で書かれてあった。

 アルブラートは、ここ数ヶ月、目にしていなかったアラビア語に突き上げるような懐かしさを感じたが、なぜデュラックがアルジェの女性の写真を持っているのか不思議に思った。その女性の傍には、まだ7歳ほどの幼い少年も一緒に写っていた。彼には、その少年が心なしか、デュラックに似ているように見えた。

 しかし、1925年頃と言えば、アルジェリアはまだ仏領の最中であり、アルジェに旅行したり、アルジェで生まれたフランス人は多かったのだと考えた。

フランス人には、アルジェは身近な街なんだ......これは、きっと先生の知り合いか親戚の人が、アルジェに旅行した際の記念写真なんだろう―先生は、今から38年前と言えば、まだ7歳か8歳だったんだろうし......

 それでも、その写真の少年の年齢と、38年前のデュラックの年齢がほぼ一致していることに奇妙な印象を抱いた。写真の表の隅には、フランス語で、「サイード・アル・ガサン」と小さく書かれてあった。彼は、この少年の名前なのだろうと思ったが、書棚にあった、他人の大事にしている写真をあれこれ詮索するのは良くないと思い、元の位置に戻しておいた。

 デュラックの書斎は、象牙色の、複雑だが美しい木目模様の壁に、同じく象牙で彫刻された机と応接テーブル、それに深みのある紺碧色の椅子とソファーが置かれ、全体に白と青とで統一された、落ち着いた部屋だった。書棚の向かいには、アップライトピアノが置かれてあり、ピアノの上には亡くなったという氏の息子アンリの写真が飾られてあった。

 アルブラートは、16歳ほどのその少年の写真を見て、やはり少し自分に似ていると感じた。フランス人の少年と、アラブ人である自分が似ているというのも、不思議に思ったが、すぐに、「自分はアラブだ」との考えを振り切った。しばらくその写真を眺めた後、彼は青いソファーに腰掛け、本を読み始めた。

 『ヨーロッパ19世紀ロマン派音楽理論』―U・A・オジェ著―

「バッハに代表される古典派を覆し、ヨーロッパにロマン派の新たな息吹を吹き込んだのは、フランツ・リストであり、またその系統を受け継いだのは、『ピアノの詩人』と称されるフレデリック・ショパンであった―」

 彼は、この本を読むうちに、リストもショパンもフランス人ではないが、現在はヨーロッパ中で尊敬され、愛される音楽家であることを改めて感じ入った。また、リストがその優れた才能にも関わらず、ハンガリー人であるために、パリ音楽院に入学を拒絶されたことを初めて知り、驚いた。

コンセルヴァトワールという所は、妙な学校だな......かつて入学を拒否した音楽家の作品を、現在ではピアノの魔術師と絶賛し、入学試験の曲目にもするなんて......

 また、ショパンが故郷ポーランドのワルシャワを離れ、望郷の念を終生抱きつつ、数々の名曲を作曲したと書かれてあるくだりに、思わず悪寒が走った。

ああ、そうだ......ポーランド人だとは知ってはいたけれど......ワルシャワか......ワルシャワ......!ああ......!何て嫌な響きの街の名だろう......!

 アルブラートの心に、わずか6年前の、捕虜収容所での独房の光景が甦った。そこで、看守のアーロンが、「俺の生まれはワルシャワだ」と言った時の、あの恐ろしいまでの心細さと不安、凍るような独房の湿った空気を思い出した。

あそこで、捕虜になった時から、人生のすべての歯車が狂い出した......いいや、違う......イスラエル軍がキャンプを占領した時から......いいや、違う......もっと昔......イスラエル人がパレスチナ人を追い出した時から......!

 彼は、思わず本を閉じ、目をぎゅっとつぶった。こめかみが激しく痛んだ。再び目を開けたが、部屋の中は真っ暗だった。彼は、ぎょっとし、一瞬、視力を失ったのかと思い、目をこすった。すると、そこはいつも通り、デュラックの書斎だった。座りながらも、くらくらとし、安定感がなかったが、自分は今はパリにいるのだ、恐ろしい過去は過ぎ去ったのだと必死に自身に言い聞かせた。

馬鹿だな......!イスラエル人のことを考えるなんて......ショパンは、ポーランド人なんだ......あいつらとは全然関係ないんだ......ポーランドという国は―強国ロシアに蹂躙されながらも、ショパンという偉大な音楽家を生んだ国じゃないか......俺は、ショパンの曲を愛して―毎日弾きながら、いつも彼の曲に新しい感動を覚えて―それで幸福なんじゃないか......忘れるんだ、嫌なことは......!

 アルブラートは、その本を読むのを途中で止めたまま、気持ちを落ち着けようと、ピアノに向かった。彼は、静かにノクターンを奏で始めた。弾きながら、ショパンが祖国をロシアに支配された怒りと悲しみから「革命の曲」を作曲したことを思い出した。彼は、ショパンのその心に共鳴し、百年以上前に病没した異国の作曲家の魂の中に溶け込んでいった。



 アルブラートはノクターンを1曲弾き終わると、心の乱れが嘘のように消え失せているのを感じ、音楽の、人の苦しみを癒す優れた魔力に、今更ながらに感銘を受けた。彼は、ピアノの音色を、このわずか3ヶ月ほどですっかり愛するようになった自分が不思議でならなかった。

 やや安堵感を覚えつつ、続けてリストのピアノソナタ2楽章を弾き始めた。その音色は美しく冴え渡り、彼の指からは、宝石のような音の煌きが屋敷中にすべらかに流れていった。だが演奏の途中で、急に書斎のドアが開き、アザゼルがひょっこり顔を出した。

 アザゼルは、彼の膝によじ登り、楽しそうにピアノの鍵盤を叩き始めた。アルブラートは、アザゼルのこの温もりは、ムカールの温もりなのだと思うと、亡き友人にそっくりなアザゼルが愛しくてたまらなかった。

 やがて慌てたような足音がし、マリーが書斎に入って来た。

 「まあ、申し訳ございません。お嬢様には、お父さまのお勉強中は、お邪魔をしないようにとお教えしているのですけれど―」

 すると、アザゼルは急に泣きべそをかきだした。

 「ピアノ、ピアノ弾きたいの、お父さまと一緒に弾きたいの......お父さまと一緒にお出かけ、したいの......お外で遊びたいのに」

 アルブラートは、いつもは行儀良く、マリーのいうことを聞くアザゼルが、こんなに泣くのを初めて見た。彼は、そう言えば、自分はパリに来て以来、レッスンに明け暮れて、子供たちと接する時間は食事の時だけだった、と思い直した。彼は、アザゼルを抱きしめ、頬ずりしてやりながら、マリーに少し微笑みかけた。

 マリーは戸惑いながら、アザゼルが、いつも遊ぶリュクサンブール公園で彼のヴァイオリンを聴きたがることや、大きなホールでピアノなどの演奏を聴きたがっていることを告げた。

 アルブラートは、戸外に出ることにためらいがあったが、自分が人目を気にしていると、子供たちもいずれそうなってしまうだろうと考えた。

 「......それなら、今度の日曜日に、先生の車でその公園に行って、この子たちにヴァイオリンを聴かせます。それに、入学試験は―確か、音楽院のコンサートホールで一般公開ですから、子供たちを連れて来て下さい」

 彼は、アザゼルに優しく話しかけた。

 「お父さまはピアノやヴァイオリンのレッスンばかりしているけれど、アデールがピアノが好きなら、時々弾いてもいいんだよ。お食事のあと、これからは一緒に少し弾いてみようね。ピアノ、好きなの?」

 アデールは、泣きじゃくっていたが、アルブラートの優しい声に嬉しそうに頷いた。彼女は頬を赤くし、紅潮した表情で、愛らしい笑顔を見せた。一部金色がかっていた彼女の髪は、今ではほとんど金髪が勝り、緩やかな波となって背中へと伸び、小さな頭を冠のように飾っていた。それでもくっきりとした鮮やかな目鼻立ちと、気品ある黒曜石の瞳はムカールそっくりだった。

 「こうやってお二人を拝見していましたら、お嬢様は本当にお父さまによく似ておられますこと」マリーが感心したようにこう言った。

 「この子が僕に......ですか?」
 「ええ。お顔立ちが美しくて、うっとりするほどですもの」

 「この娘の本当の父親は......僕とは似ても似つかぬほどの、優れた容貌の持ち主でした。まるで彫刻のように鋭利な端正な面立ちで―それでいて、慈愛に溢れる眼差しで......だから、僕とこの娘とはあまり似ていませんよ」

  アルブラートの頭の中では、アザゼルはすなわちムカールだった。

 彼は、他人がなぜムカールと自分が似ていると言うのか、よく分からなかった。彼は、サイダの調理師ファハドにも、またアイシャからも「似ている」と言われたことを思い出した。だが、それらの思い出はすぐにかき消した。

 アルブラートは、次の日曜日、デュラックに頼んで、マリーや子供たちと共に、リュクサンブール公園へと車で出かけた。晴れた気持ちの良い日だった。
瀟洒な白亜の宮殿を取り囲む芝生やベンチには、様々な人々が5月の陽射しを楽しんでいた。彼は、パリに来て初めて、ゆったりとした戸外の開放感を味わうことができた。自分が歩いていても、誰も振り返ったり、指差したりしない。音楽院見学の際に悩んだ、「差別されている」という、息詰まるような閉塞感は、単なる被害妄想に過ぎなかったのだ、とさえ思えた。

 アザゼルは、宮殿の左手の森の入り口の芝生に、楽しそうに寝転んだ。アリは、1歳年上の幼い姉に手を取られて、ダンスの相手をさせられ始めたが、いつものことらしく、はしゃぎながらくるくると回り、甲高い歓声を上げて喜んだ。マリーは微笑んで、いつもこの辺りで手作りのランチをとるのだと言った。アルブラートは、子供たちの無邪気な明るさに心が和み、芝生に腰を降ろすと、ゆっくりとヴァイオリンを弾き始めた。

 その豊かな甘い音色は、徐々に深みを帯び、広場や公園、また森の奥へと広がっていった。聴く人の心をとらえる、すすり泣くような悲哀感や高揚した胸のときめきさえも、見事に表現され尽くし、最後は温かな愛情の余韻を残して静かに終わった。その途端、周囲で感嘆の溜息と共に、大きな拍手が沸き起こった。いつの間にか、公園中の人々が、彼の周りに集まっていたのだった。皆が喝采を惜しまず、アンコールの声が何回も上がった。

 デュラックは、アルブラートに笑って励ました。「ほらごらん。君がちょっと演奏しただけで、この熱狂ぶりだ。君は、パリの人々をこんなに魅了している―これで、自分に自信が持てただろう」



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