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『パレスチナとは何か』―歴史と現代の考察

パレスチナとは何か


What is Palestine?★


―その歴史と現代のパレスチナ問題―Part 1


1.【 創作の動機 】


1.  私は現在、 「パレスチナ」 という、日本人には理解の難しい問題を背景に、小説を書いている。しかし最初に断っておきたいことは、私はパレスチナを舞台背景に選んでいるが、全体を貫く主題は、 「人生とは何か」 ということである。

  また、パレスチナに限らず、世界中で、常に戦争やテロが起きている現状を考え、その戦火を潜り抜けて生きようとする主人公を通じて、 「戦争を糾弾したい」「平和な世界を希求したい」 という私個人の願望が、創作の原動力となっている。

  そういった意味では、創作の舞台背景は、特に「パレスチナ」でなくても良かった。私は宗教問題による紛争などで、戦火に巻き込まれる人々の、平和と幸福を求める姿を描きたい。

  だから、「チェチェン問題」や、今世紀初頭の「アルメニア人大虐殺問題」や、「アイルランド紛争」や、「ホロコースト」などをテーマに小説を書いても良いと思っている。

  また、戦争に限らず、メキシコ・シティなどの貧民街でのストリート・チルドレンの話を小説にしてみたい願望も持っている。


2. だが、私が20歳の頃、ヨルダンのパレスチナ難民キャンプが、イスラエル軍に襲われた事件がおきた。 「サブラ・シャティーラ難民キャンプ大虐殺事件」 である。その事件は、罪のない人々の命を、途方もない残虐な方法で奪ったものであった。

  おびただしい遺体の写真が、新聞に掲載された。普通、日本の新聞は、遺体の写真は生々しいためか、掲載しない傾向にある。だが、この時ばかりは凄まじい写真が掲載された。その事件は、私にとって衝撃を与えた。

  私は、その事件をきっかけに、学生の頃から日記帳に小説を書き始めた。今となっては、なぜ主人公の名前を 「アルブラート」 にしたのか忘れてしまった。また、私が中東に魅かれ、アラブ世界に惹かれた源には、19歳の時に観た映画 『アラビアのロレンス』 があったことは間違いない。

  私は「アラビアのロレンス」に魅了され、 英文学者中野好夫氏の『アラビアのロレンス』 を完読した。また、 ロレンスの自伝『知恵の七柱』 を原書で買い求め、こつこつと翻訳もしたが、そのうち挫折した。フランス語に夢中だった頃は、ロレンスの自伝の一部をフランス語に翻訳さえした。(今、その日記帳は紛失している。)

  もう一度、調べないと分からないことは山積みの状態であるが、このイギリス人将校ロレンスが中東問題に関わったことから、現在のパレスチナ分割案の基盤ができたように覚えている。


3. 私が現在、 物語の主人公にしている「アルブラート」という少年の原型 は、映画『アラビアのロレンス』に登場する二人の少年をミックスさせたものではないかと、今になって、おぼろげながら思い出す。その二人の少年は、無名に近かったが、演技が生き生きとし、魅力と活力に溢れていた。

  私はその二人を観たさに、映画館に15回も足を運んだのだった。折りしも シルクロード・ブーム であり、インドに魅かれる日本の多くの若者は、今度はシルクロードに憧れを馳せ始めた。今、問題になっている、イラクは、昔は 「チグリス・ユーフラテス河」 の流れる、古代四代文明のひとつとして、人気を博した。

  イラクの首都バグダッドは、有名な 『千夜一夜物語』 の舞台となった街である。それが、今、戦火に荒廃し、美しい面影など微塵もない。常に戦車や兵士の姿がテレビに映し出される、埃の舞う殺伐とした風景に変わり果ててしまった。

  私は、そのような現状に心を痛めつつも、自分の中に膨らむ想いを、何とかひとつの作品として仕上げたいという願望が強くなった。そこで、 「戦争によって心に深い傷を背負いながらも、真の幸福と魂の救済を求めて生きる音楽家」 という主人公のイメージを核とし、創作のための構想を練りながら、現在筆を進めている。

  私には、大まかに「パレスチナ」の歴史の概要しかない。 その歴史は複雑で、多種多様の民族や国家が交錯している。 だから、私自身、不明な所だらけなのだ。

  もっと資料を集めるべきだが、現在、手元にある資料は、 朝日新聞社刊『パレスチナ』(笹川政博著:朝日選書16) と、 岩波新書刊『中東情勢を見る眼』 のみである。それらを基に、分かりやすくパレスチナの歴史をまとめてみたいと思う。

  だが、物語の中には、あまり史実を盛り込みたくはない。史実を題材にしたセミ・ノンフィクションとは言え、詳細な史実により、かえって、 小説の中の「人物像」が崩れ、その描写が死んでしまう ような気がするからである。だから、私自身、あまり史実の羅列とならないように書いているというのが現状であることを明記しておきたい。(2006.3.14)


≪ 関連リンク ≫
●パックス・ジャパニカーナ
●ウィキペディア百科事典


2.【 18歳までの足跡―480キロの旅 】


The Whole Map of Palestinian Region★


1.  物語の主人公は、生まれてから18歳(1960年)までの間、地中海東部を転々としている。 彼の生誕の地ベツレヘムは、エルサレム(イスラエル領内)からわずか5キロほどしか離れていない 。彼はパレスチナ人だが、上の 地図(1974年)には「パレスチナ」という国はない

  では「パレスチナ」とは、どの地域を指すのだろうか。古来、様々な国々が地中海東部を支配してきた。だが、要点を言えば、地図上では、 北はレバノン、南はエジプト領シナイ半島の間の地域を「パレスチナ地方」という わけである。現在はこの地方は、 「イスラエル」 となっている。


2.  ここで主人公の18年間の足跡をまとめると、次のようになる。 (地図上で、●のマークがついた場所が、主人公の辿った地である。)

 ―1942年1月6日: ベツレヘム に生まれる。
 ―1944年(2歳):両親と共に死海西岸 エイン・ゲディ に逃れる。                ―1946年(4歳): 初めてカーヌーンを弾く

 ―1947年1月(5歳):父 バシール 死去(33歳)。母と共に赤十字に救出され、 クムラン (ヨルダン国内)のアシュザフィーラ難民キャンプに移り住む。
 ―1948年(6歳):教師 タウフィークと娘アイシャ (2歳)に出会う。                 ―1950年(8歳):タウフィークから英語を学ぶ。

 ―1954年(12歳):ユダ砂漠を越え、 アジュルーン 渓谷(ヨルダン)のアルジュブラ難民キャンプに移転。
 ―1955年(13歳): 英語を修得 。英語の詩や物語に興味を持つ。タウフィークより音楽院進学を勧められる。 

 ―1957年(15歳):3月、 タウフィーク死去(32歳) 。英語で詩を書き始める。7月、 キャンプがイスラエル軍に占領される ナザレ (イスラエル国内)近郊のベト・シェアン捕虜収容所に捕えられる。アイシャ(12歳)、国連部隊により救出され、 クネイトラ (シリア国内)国連軍病院に収容される。

 ―1958年1月(16歳):イスラエル軍の命令により 母マルカート(34歳)を銃殺 。その直後シリア連合軍により、収容所から救出される。肺炎に冒され ガリラヤ湖 (シリア)の病院で療養生活を送る。

 ―1958年7月: フランス語に興味を持つ ベイルート (レバノン国内)の音楽院入学を志望。
 ―1958年12月:元シリア音楽院教師 ロベール・デュラック にフランス語を師事。

 ―1959年(17歳):7月、 フランス語を修得 。ガリラヤの病院を退院、 ダマスカス を経てベイルートに出発。イスラエル軍の線路爆破により、 ザハレ (レバノン国内)の農園に滞留。 サイダ 音楽院への入学を志望。

 ―1959年10月:農園の主婦 ハダナ からカーヌーンを譲られる。10月中旬、サイダに出発。 ホテルの調理師 ムハバイール(ムカール)(24歳) と出会う 。ホテルのサロンで 本格的にウードとカーヌーン奏者として働き始める

 ―1960年(18歳):3月、ムカールと共に「海の城」を訪れる。初めて地中海を見る。音楽院入学を断念。 ムカールに母の殺害を告白
 ―1960年4月:ムカールの影響を受け、フランス語の詩集に興味を持つ。ポール・エリュアールの詩に魅かれる。

 ―1960年7月:ギリシャ人外科医 ウィリアム・アザズ・ザキリス と出会う。 カイロへの亡命を決意 。7月29日、治安部隊により右足を狙撃される。 アイシャ(15歳)と3年ぶりに再会


3.   主人公アルブラートは、この南北に細長い地域を流浪している 。その行程は、ほぼ 480キロに及ぶ。ベツレヘム―死海―ヨルダン国内の難民キャンプ―イスラエルの捕虜収容所―シリアの病院―レバノンのサイダ―というように。なぜこのようなルートを辿ることになったのかと言えば、 彼がパレスチナ難民であると同時に、音楽家を志していた からでもある。

  彼の放浪の人生には、私自身の人生が反映されている。自ら創作した架空の人物の心は、私自身の心でもある。まさに 「人生とは旅のようなもの」("Life is like a voyage.") という諺を、身を持って体験した私が、人生の辛さ苦しさ、そして喜びと希望といった感情を、 「国を持たず様々な地を彷徨する」 パレスチナ人アルブラートという架空の人物のヴェールを通して語っている―そんな感じがする。

  昔、日記に書き綴っていた小説の原案を、今、読み返してみると、登場人物が勝手に話し、行動し、作者のブレーキがきかないまま、中途半端で終わっている。現在の小説の中でも、ある程度、 登場人物は自由気ままに話をし、私の思いも寄らない行動を取っている 。彼らに自由な振る舞いをさせる時は、私の気持ちも自由になっている。

  だが、10年以上の時を経て、復活させたこの物語には、以前と異なり、 story という枠組み がはめられている。その枠組みの中で、彼らが自由に人間らしく生きる姿を描く時もまた、私の心は解放されている。(2006.3.15)



3.【 パレスチナ・ゲリラ 】


The Confession of the Truth★


1.  昔、私が小学生の頃、よく 「ハイジャック」 という言葉を聞いた。「飛行機が悪者に乗っ取られる」ということを聞いて、飛行機は墜落こそしなかったが、私はとても怖ろしい印象を受けたことを覚えている。

  それらの犯行は、たいがいが、 「パレスチナ・ゲリラ」 によるものだと報道された。だから、私の頭の中では、 「パレスチナ=ハイジャック」 という図式が出来上がっていた。

「ハイジャック」の言葉の由来 は、Wikipedia 百科事典によれば、次のように書いてある。

  ― 駅馬車強盗が、駅馬車の御者を呼び止める時に 「Hi, Jack!」 (やい、おめぇ)と声をかけた事から来ていると言われ、現在に至っている。したがって、対象が船でも車でも、 乗り物を乗っ取る行為はすべて「ハイジャック」である

  だが、この「ハイジャック」との言葉は、和製英語ということらしい。この和製英語が、欧米に逆輸入され、今では、 英語圏の人々も "hijack" もしくは "highjack" という単語を、名詞にも動詞にも使っている 。(広辞苑)

  ― ...日本においては「よど号ハイジャック事件」の際に、 「Hi」を「高い」という意味の英単語「high」と間違えて、「高い所を飛ぶ=飛行機」の意味 ととらえ、 「Jack」を乗っ取りの意味としてとらえた ため、その後「バスジャック」、「シージャック」、「カージャック」、果てには放送電波を乗っ取る「電波ジャック」まで 多数の「ジャック」を使った和製英語 が生まれることになった 。(Wikipedia)


2.  ところで、私が耳にした「ハイジャック事件」の詳細は、実は以下のようなものだったらしい。

  ― 1960年代後半―1980年代前半にかけては、 パレスチナ解放人民戦線(PFLP) や日本赤軍などの極左過激派によるハイジャックが頻繁に起きるようになった。

  ―1973年7月20日: 「被占領地の息子たち」と自称するパレスチナゲリラ と日本赤軍の混成部隊が、アムステルダム発東京行きの 日本航空のボーイング747型機をハイジャック し、リビアのベンガジ空港に着陸。人質を解放後同機を爆破し、犯人はリビア政府の黙認の元逃亡した。
(Wikipedia)

  この 「1973年7月20日 日航ジャンボ機ハイジャック事件」 が、私が子供の時にニュースで聞いたものだったのかも知れない。その後、同年10月6日、 「第四次中東戦争」 が起こった。これは、 「エジプト軍がスエズ運河から、シリア軍がゴラン高原から、イスラエル占領地区に向かって、同時に攻め込んだ」 (『パレスチナ』より)ことで勃発した。

  この 「第四次中東戦争」を引き金に、日本では原油の値が高騰 し、いわゆる 「石油ショック」 が起きた。私はまだ小学生だったので、わけがわからず、 トイレットペーパーを買いに殺到する主婦の姿 を面白いとだけ思っていた。だが、その危機感が我が家にも迫って来たので、「何だか大変なことになったみたい」と思ったことを覚えている。


3.   「パレスチナ・ゲリラ」という武装集団 は、最初は、1953年8月、エジプトのナセル大統領の呼び掛けで結成された、 主にパレスチナ難民からなる部隊 である。

  この 「パレスチナ・ゲリラ」が生まれるきっかけは、同年8月、イスラエルが ガザ地区 * の難民キャンプに攻撃を加え、合計20人の非武装のアラブ人を殺した」 ことにある。これがイスラエルによる最初の(アラブに対する)組織的な報復攻撃だったということである。(参照:『パレスチナ』)

  笹川政博著『パレスチナ』によれば、以下のように説明されている。

  ― ナセル大統領はこの頃から、パレスチナ・アラブによる発作的なテロ行為がイスラエルとの戦争を引き起こすことを恐れ、テロ行為を取り締まると同時に、パレスチナ人や、エジプト軍人の中の強硬派を懐柔するため、 エジプト正規軍の中に「フェダーイーン」部隊を設ける

  ―( フェダーイーンとは「身を犠牲にする者」という意味 )...フェダーイーン部隊は志願者を難民の中から募り、エジプト軍が訓練したうえ、1955年に最初の攻撃を行なった



4.  ところでパレスチナのゲリラ部隊として、 パレスチナ人自ら組織を結成し、活動を始めた のは、今は故人となった ヤーセル・アラファート氏 率いる 「ファタハ:FATAH」 である。

  この組織の最初は、 1950年代半ば頃、ガザ地区の青年たちにより結成された小さなグループ だった。彼らは後に、カイロ大学やベイルートのアメリカ大学などに学び、クウェート(アラビア半島)で初めて組織を結成」した。(参照:『パレスチナ』)

  それに対し、別の組織が台頭して来る。それが、 「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」(Popular Front for the Liberation of Palestine) である。このグループは、先ほどの「ハイジャック事件」の主犯グループであるらしい。設立者は ジョージ・ハバシュ氏 (George Habash, 1926年8月2日~ )であり、彼はパレスチナの「解放運動」指導者であると同時に、医学博士である。(Wikipedia 参照)

  Wikipedia によれば、以下のように説明されている。

  ― ロッド(リッダ:現在イスラエル)でギリシャ正教の一家に生まれた。 一家は第一次中東戦争 (1948~1949) で難民となる 。彼はベイルートアメリカン大学で医学生となり、 1950年代からパレスチナ「解放」運動に共鳴する ようになる。

  ―マルクス・レーニン主義の革命理論を盾に、 1967年「パレスチナ解放」組織「PFLP」を結成 。イスラエルによる西岸・ガザの主権が始まる以前の 1960年代から1970年代にかけ、多くのハイジャック・テロを煽動・指揮 した。



5.   PFLP の同志には、クリスチャンが多かった らしい。 レバノンの首都ベイルートの学生グループが中心となってできた ということから、それはうなずける。レバノンは長らくフランスの委任統治領下にあったが、1944年完全独立した。だが、 他の中東諸国と異なり、イスラム教徒以外に、キリスト教徒が議会の圧倒的多数を占める国 であるからである。

  そこで、彼らは 「回教徒が圧倒的多数の FATAH よりも近代的感覚を持っていた」 とのことである。彼らの信条は 「パレスチナの解放は、アラブの統一を通じてのみ達成できる」 というものであり、 「アラブの総力を投入しない限り、パレスチナの革命は有り得ないとするもの」 だった。

  これに対し、FATAH は、 「アラブ諸国の内政には干渉しない」 という路線であったので、同じパレスチナ解放をスローガンに掲げていながら、組織的信条は明確に対立していた、とのことである。(以上『パレスチナ』より)

  イスラエルによって、土地や国を奪われ、難民となったパレスチナ人たちが、今度は自ら集結し、イスラエルと戦おうとするのは、やむを得ないことである。だが同じ理想の人々が、思想的に分裂したり、果ては「ゲリラ」や「テロ」活動を行なってまで、自らの主張を通し、国を取り戻そうとする姿は痛ましい。

  また、パレスチナ人というと「テロ」や「ハイジャック」に結びつけてしまう結果となった、その原因には、 ユダヤ人が、パレスチナ地方に住んでいたアラブ人を追放し、イスラエルを建国したことにある 。ユダヤ人の歴史と、パレスチナ人の歴史とが複雑に絡み合った結果、現在の両者の悲劇的対立があると言えるのではないだろうか。(2006.3.18)

  ★ ガザ Ghazza :エジプト北東端、地中海南東沿岸の パレスチナ地方にある都市 。イスラエルのテル・アビブから約60キロ南。エジプト領シナイ半島とイスラエルの国境に近い。

  ★ 「ガザ地区」 :ガザは古来、通商・軍事上の要地であったが、このガザ及びその周辺の土地を含むガザ地区は、 1967年以来、イスラエルが占領 1994年、ヨルダン川西岸とともに、パレスチナ人自治地域 となる。



4.【 イラクのパレスチナ人 】


The Lovers



1.  もうほぼ1年前の出来事になってしまったが、朝日新聞で、 「イラク在住のパレスチナ難民が誘拐され殺害される」 という記事を読んだ。

パレスチナ人は、イスラム教ではスンニ派の人々が多い 。イラク内では、多数派を占めるシーア派が、スンニ派の人々を実生活の上で、あらゆる手段で不利な立場に追い詰めようとしている。そんなことから、スンニ派の人々はシーア派に敵意を抱き、シーア派の人々のモスクを破壊したり、過激な行動に走る。そのため、更にスンニ派の人々はシーア派から睨まれ、窮地に陥る......という悪循環の状況であるらしい。

 2.  現在のパレスチナ自治政府内でも、穏健派と過激派が対立し、昨年、過激派の「ハマス」が政権を掌握した。 ハマスは、スンニ派である。そのため、国際社会からの、パレスチナへの人道的援助は除外される危険性がある ということである。

 すべてのパレスチナ人がスンニ派であるかどうかは分からないが、彼らはただ宗教上、そちらの立場にあるだけで、大半の人々はイラク内でもひっそりと暮らしている。それでも、シーア派を襲うスンニ派の宗徒は、すべてシーア派には「敵」なのである。そこで、 「スンニ派のパレスチナ難民も、シーア派モスク爆破に加担しているのではないか」 という疑いを持たれてしまった。

 3.   ただでさえ社会的弱者のパレスチナ難民を、シーア派が誘拐し、身代金を請求する。法外な金額を支払っても、誘拐された難民の人々は、必ず惨殺された遺体で発見される 。こんなことから、イラクから、パレスチナ人が次々と逃げ出した。

 彼らは、隣接するヨルダンに入国しようとしたのだが、ヨルダンでは、難民がどっと詰め掛けては土地が無くなる、などの理由から、彼らを国境付近でせき止め、入国を拒否している。それで、 イラクから逃げてきたパレスチナ難民は、ヨルダン国境の砂漠地帯で、「再難民化」している 、という状況なのだそうである。

4.  私はその新聞記事で、帰って来ない両親の、色あせた結婚写真を報道陣に見せている、7歳ほどのパレスチナ人少女の、哀しそうな大きな眼が忘れられない。 イスラム教の、シーア派とスンニ派の違いはよくニュースになる 。この両者の区別は難しいが、ほんの微妙な相違から互いに反発しあっているような印象がある。

 要するに、 両者共に、「人類が破滅に至りつつある時、この世に救世主が出現する」という考えまでは同じ なのである。(ちょうど、キリスト教のように。)しかし、その救世主の「出現の方法」が微妙に異なる。

シーア派は、「救世主」は人間界に降臨するが、姿を見せない、という神秘的な思想である 。対して、 スンニ派は、「救世主はこの世に降臨し、他の人間として生まれ変わった上で、存在してくれる」とのような考え だそうである。

5.  要するに、 スンニ派は「現実的」(「救世主」自体が「非現実的」なのだが)で、クリアな思想なのだ 。宗教をあくまでも「神秘的」ヴェールで覆いたいシーア派には、スンニ派の考えが許しがたい。それで、両者は激しく対立している。

 だが、つい最近の報道で、その両派の対立によるテロ事件で傷ついた人々のために、次々と献血に訪れるイラクの人々を見た。献血をする人々の中には、シーア派もスンニ派も入り混じっている。ある男性は、 「対立しあっているのは、ごく一部の人々。シーア派もスンニ派も同じ人間だ。私たちは理解しあえる」 と語っていた。

 このような良識ある人々ばかりなら良いのだが、それにしても、スンニ派というだけで、何も罪はないのに、 イラクを逃げ出さなければいけなかったパレスチナ難民は、いったいその後どうなったのだろうか 。(2007.4.1)

≪ 関連リンク ≫ ●パレスチナ情報センター


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