みなさまこんばんみ( ´_ゝ`)ノヤッハロー
(※以下は管理人の妄想と曖昧な記憶で構成されていますので、
フィクションとしてお読みください)
さて、 明日の「原爆の日」を前に思う
ところありまして
こんなタイトルで日記を書くことにしました。
子供の頃、
「どうして原爆は東京じゃなくて広島、
長崎に落とされたんだろう?」
と、ずっと疑問に思っていました。
我が家には「太平洋戦争」という名の全20巻くらいの図鑑というか
百科事典のようなものがあって、自分はそれをよく読んでいた。
そこには 「アメリカは原子爆弾を落とす都市をいくつか候補を上げていたが
どこでもよかった。当日は小倉に落とそうとしていたが、たまたま気象条件が悪く
長崎に落とすことになった」
みたいなことが書かれていた(気がする)。
しかし、これにはなかなか納得できなかったのです。
威力を誇示するならいくら焼け野原でも
東京に落とした方がいい
と思えたのです。
その疑問に何となく自分なりの答えが見つかってきました。
~~~~~~~
時は1945年8月。
大日本帝国は、アジアでの陸海共に局地戦に敗れ、輸送網を失い
すでに戦争の大義名分である大東亜共栄圏を失っていました。
迎撃不能な高高度を飛行し本土空襲を繰り返すB29爆撃機になすすべなく
焦土と化す本土。すでに日本は風前の灯火でした。
そんな終戦を目前に、
日露戦争に敗れたロシアが漁夫の利とばかりに
日本に宣戦布告する情報が入ります。
これに困ったのはアメリカ。
アメリカは自国開発したプルトニウムを使った原子爆弾と
先に降伏したドイツから入手したウランを使った原子爆弾。
二発の異なる原子爆弾の炸裂実験場を模索していました。
もちろん敗戦直前の日本に落とすつもりですが、
ロシアが宣戦布告して、北方から本土上陸となれば
戦後の線引きが非常に厄介になる。
そして最悪なのはもしもすぐに日本が降伏してしまえば
折角の原子爆弾実験ができなくなってしまう。
アメリカとしては、原子爆弾の威力を世界に示し
冷戦後の力関係を圧倒的有利にしておきたい算段もあったのです。
アメリカは急ぎました。
原爆投下後の観測がしっかりできるところ=まだ空襲被害の少ない所を
ピックアップしました。
その中には前出の小倉や長崎、広島の名がありました。
そして、自分は今ならばこう思うのです。
「アメリカは原子爆弾の被害状況の観測を
日本自身にさせようとした」
すでに東京は大空襲で焼け野原。
となると 観測させるのは「呉」「佐世保」の鎮守府がうってつけ
だ。
大日本帝国海軍が、敗戦濃厚な戦いにおいて
一貫して 士気の拠り所
にしたのは
他でもない 戦艦大和
でした。
その 武蔵を沈め、大和を沈め
。
もう携えた白旗をただ揚げるだけになっていた日本に
アメリカは…
残された、この「大和」を建造した 鎮守府「呉」
と
大和型「武蔵」を建造した 「佐世保」
の両鎮守府から
見えるところ (事後観測できるところ)
に
原子爆弾を落として見せつけ、
心の底から絶望させて、
日本に引導を渡そうとしたのではないのか?
これはもう戦争ではなくて
アメリカにとっては「戦後」だったのだと思う。
戦後アメリカが日本を管理しやすいように
ロシアの干渉を受けないように
先を見越した作戦だったのだと思う。
ロシアの対日宣戦布告は8/8。
しかし、ロシアが何かをする前にアメリカは動いた。
そうして類を見ない大惨事を引き起こす
2つの悪魔のような爆弾は次々に落とされた。
自分にはどうしても
原子爆弾を落とすのが「どこでもよかった」のだとは
思えない
のです。
(以上妄想おわり)
今年も2つの原爆の日。終戦記念日がまもなくやってきます。
英霊の魂と失われたたくさんの命を悔やみ、
ご冥福をお祈りいたします。
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