家庭保育室太陽

家庭保育室太陽

支援あっての自立(地域生活)


やっと50になったのは19歳の年でした。
現在、療育手帳はB2(軽度)を持っています。
例え能力が50だとしても足りない50は、人の支援があればいいのです。
足の悪い肩に車椅子が必要なように、知的障害者には車椅子の役目は人なのです。
豊かな人生は障害の思い軽いで決まるのでなく、回りにどれだけ「知って理解し工夫する人」がいるかにかかっています。重度ということは、ニーズが沢山あるということで、沢山の支援があれば自立可能です。地域には多くの人が居ます。

作業所設立運営

義務教育の後、どうしても「高校へ行きたい」と言う徹之の熱い思いに回りは動かされ、定時制高校にチャレンジしました。
(思いを育てる事が大事。思いが成功の鍵)
高校は夜ですから、基本的生活習慣を崩したくないので、日中活動の場として、地域作業所「あおぞらハウス」を作りました。(平成元年)。
作業所の仕事として、日々地域の方と交流の出来るサービス業「八百屋さん」を選びました。
八百屋の店頭や、配達で、地域の方に本人たち個々の顔を覚えていただき、更に「就労の拠点」と位置づけた「あおぞらハウス」から地域の商店や企業に就労させたいと思いました。
職員が、就労のパイプ役「ジョブコーチ」となって支援して、徹之の公務員も含めて、地域の商店や企業に16名が巣立ちました。

グループホーム設立運営

「あおぞらハウス」で日中の活動の場は確保できました。
「暮らしの場も地域の中に」が必要になってきました。
あおぞらハウス設立当時、入所施設が満員で、参加していた人が、その後「自分が亡き後を考えると心配で、施設に空きができたので入りたい〕ということだったのです。でも、本人は〔行きたくない。嫌だ」となりました。
本人の地域で行きたいという思いを尊重して「グループホーム」を作ろうと言う事になったのです。
平成3年にグループホーム「あおぞら」ができました。
現在3つのグループホームを運営しています。
しかし、哲之にはグループホームも当たり前の生活の場ではなかったようです。
2軒目のグループホームに入居して半年でかれは退去しました。
徹之は自分が選んだ相手と「明石徹之ファミリ^をつくります」宣言をしています。
措置された人とではなく、自分で選んだ人と生活するのが当たり前なわけ出す。
まさに「個々にあった生活」です。

サポートセンター「あおぞたの街」(NPO法人)設立運営

個々にあった生活をするために、予算が少なく職員の待遇や保証の無い「作業所」や「グループホーム」だけでは、「地域で一生涯安心して」など到底保障できません。
地域の中で、家族が倒れることなく、本人も家族も、安心して豊かな生活が送れるように支援する、又親が高齢になったり、親が倒れたり、親亡き後も
(入所施設にあづけなくてもいいように、)今当たり前の生活を継続するためには、24時間365日見守ってくれる、困った時に助けてくれる、そんな支援が不可欠です。
そんな支援システムが不可欠です。
将来を見通した支援システムが必要なのです。

親として、我が子に、少しでも豊かな幸せな人生が送って欲しいと願いから
地域にそれらの場を作ってきました。
親が元気なうちに、我が子の心に寄り添って、
「一生を通して地域生活が出来る支援の見本」でありたい。
しかし、「社会福祉の基礎構造改革」の理念に反して、福祉経済には多くの困難が有ります。
「地域生活支援システム」の経済基盤は軟弱といわざるを得ません。


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