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石清水八幡宮の頓宮の西側、神應寺の山門の南側に、大きな五輪塔があります。五輪塔かつて石清水八幡宮の宮寺として存在した「極楽寺」のものと言われています。しかしお寺は廃寺となり、五輪塔のみが残ったそうです。同上比較する物がないので、写真ではなかなかその大きさが分かっていただけないかもしれませんが、現地の説明板によると、高さ約6メートル、下側の四角い石(地輪)の一辺が2.4メートルだそうです。普通の人の背丈だと、地輪の上まで届かないくらいですね。「航海記念大石塔」の碑尼崎の商人が中国(宋)との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難から逃れることができたので、そのお礼に建立したと言われており、そのため、「航海記念塔」とも呼ばれているそうです。五輪塔には刻銘がなく建立の起源がはっきりしていないため、このほかにも、鎌倉時代の武者の慰霊のための武者塚だとか、行教律師(石清水八幡宮を宇佐八幡宮から勧請した人)の墓だとか、いろいろな説があるようです。
2010年11月28日
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神應寺の本堂をあとにして、神應寺の奥の院である不動堂へと向かいました。一般には「杉山谷不動尊」とか「谷不動」と呼ばれています。案内表示ここは「男山散策路」のひとつ、「こもれびルート」に沿っています。一人で山の中に入っていくには、不案内で心許ないのでやめておきますが、機会があれば「鳩ヶ峯」にも行ってみたい気がします。ところで杉谷山不動尊へは、神應寺の山門には入らずに、谷川沿いに上っていくルートもあります。参道の鳥居谷川沿いの参道左側の谷を流れるせせらぎを眺めながら、坂道を上っていきます。両側には「南無大聖不動明王」と書かれた幟が並べられています。同上途中、神應寺から降りてくる坂道と合流します。同上途中で左の谷川へと降りていく道がありました。入口には鳥居があります。右の階段を上がると不動堂です。「二の丸 引面」この先には「ひきめの滝」と呼ばれている小さな滝があります。ひきめの滝(写真奥)ここは修験の場です。ときには滝に打たれて修業されている姿を見ることがあるのでしょうか。静けさの中にかすかに水音がしていました。不動堂正面の階段を上がったところに不動堂があります。「厄除け不動」として信仰されているそうです。そばに「由来」と書かれた石碑がありました。それによると、平安時代の初期に悪鬼が出没し、人々を悩ませていたところ、弘法大師(空海)が法力によって悪鬼を封じたといいます。そして不動明王を安置し、諸人を護ったということです。一説には、八幡神を男山に勧請した行教律師が男山の鎮守として建立したともいわれています。昭和10年(1935年)の山津波で倒壊流出しましたが、不動明王の像には傷すらつかなかったといいます。その後、昭和48年(1973年)、新しい不動堂が再建されました。不動明王は秘仏で、60年に1回、開帳されるそうです。それが今年の3月だったそうで、次は2070年! もう生きてないだろうなあ。
2010年11月27日
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神應寺の山門を入ると階段です。神應寺の山門内同上神應寺のポストがあって、階段の左側にはなにやらレールらしきものがありますね。これで荷物などを搬送するのかもしれません。本堂階段を上がると、境内の庭に出ました。鐘楼梵鐘ここを訪れたときはまだ青々としていた木々ですが、いまちょうど「紅葉まつり」の時期です。境内にはイロハモミジがあって、きっときれいなんでしょうね。今年は11月27日(土)~28日(日)だということです。寺宝の数々が公開されるそうなので、賑わっているかもしれませんね。書院から三川合流が見渡せるそうで、お茶席(有料)もあるとのことです。
2010年11月26日
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お久しぶりですね。このところ、仕事で缶詰状態になっております。まだまだ山積みですが、たまには息抜きも必要です。さて、八幡市駅まで戻ってきたので、駅の周囲をもう少し散策しようと思います。神應寺の石標石清水八幡宮の一の鳥居前を右手に進むと、「神應寺(じんのうじ)」と書かれた石標があります。この石標には、「谷不動尊 弘法大師作」「国宝 行教律師之像」「桃山御殿建築物」「淀屋辰五郎石碑」と、いろいろと書かれています。いきなり「?」がたくさん出てきましたが、少しずつ片づけていきましょう。神應寺にはたしかに「行教律師座像」がありますが、これは重要文化財の指定を受けています。石標には「国宝」と書かれているのに、なぜに?現在の「国宝」は、昭和25年(1950年)施行された「文化財保護法」によって指定されます。それまでは、国宝も重要文化財もみな「国宝」だったということです。指定の基準が変わっただけで、べつに国宝から格下げされたわけではなさそうです。「桃山御殿建築物」は何を指すんでしょうね。書院は伏見城の遺構と伝えられているそうですから、これのことかな? でも伏見城ですかあ?? よくわからん。「淀屋」とは、江戸時代の大豪商で、先物取引で財を成しました。五代目の「辰五郎」は八幡の地に住んでいたそうです。しかしあまりに贅沢な生活をしたために幕府に取り潰されてしまいました。その辰五郎の墓が神應寺にあるようです。ちなみに大阪の「淀屋橋」は淀屋が架けた橋です。谷不動尊は、「杉山谷不動尊」のことです。神應寺のさらに奥にありますので、あとで行ってみようと思います。さらに奥へと進むと、右手に山門が見えてきます。神應寺山門同上神應寺は貞観2年(860年)、宇佐八幡宮から石清水八幡宮を勧請(かんしょう)した行教律師が応神天皇を祀るために建立した寺と言われています。調べていくと、「はじめは應神寺といった」が、「天皇の号をはばかって神應寺と改めた」という記述が見受けられます。応神天皇は3世紀後半から4世紀にかけての天皇ですから、天皇の号がはばかられるのであれば、なぜ最初から「神應寺」にしなかったんでしょうね。山門の奥には階段が続いています。ここも階段かあ。でも、せっかく来たんですから入ってみましょう。
2010年11月21日
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ずいぶん長い間、石清水八幡宮の話で引っ張ってましたが、そろそろ下山しようと思います。本殿から裏参道へ裏参道に注ぐ西日裏参道の石段裏参道の階段は555段。表参道より段数が多いだけに、どんどん下っていく感じがします。石清水社との分岐点石清水社や松花堂跡との分岐点です。今度は裏参道を通って、まっすぐに八幡市駅へと向かいました。裏参道(太子坂)徐々に日が傾きかけてきました。鬱蒼と茂る木々が、少し重い雰囲気になってきました。表参道より急な坂や階段が続きます。同上一気に階段を降りて、頓宮近くに出ました。石段の続く裏参道の坂道は「太子坂」と呼ばれています。明治維新まではこの坂の途中に聖徳太子像を祀る「太子堂」があったそうです。
2010年11月11日
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石清水社の近くに、瀧本(たきのもと)坊という宿坊の跡があります。瀧本坊跡先日ご紹介した松花堂昭乗が「松花堂」に移るまでは、瀧本坊の住職としてここに住んでいました。書の達人で「松花堂流」とも「瀧本流」とも呼ばれていたそうです。今月(2010年11月)4日、八幡市の教育委員会は、瀧本坊跡で「山腹のがけに突き出した構造の茶室の礎石が見つかった」と発表したそうです。1630年ごろ、昭乗が小堀遠州(江戸時代前期の建築家で茶人)とともに茶室「閑雲軒(かんうんけん)」を造ったという記録が古文書にあるそうで、今回見つかった遺構はその「閑雲軒」のものと断定したとのことです。礎石から建物の床まで推定で最大6.5メートルとのことで、斜面から突き出た様相はまさに「空中茶室」だったようです。残念ながら、閑雲軒は瀧本坊と共に1773年に焼失しました。瀧本坊はその後再建されましたが、閑雲軒は姿を消したままでした。上の写真はこの発表前に撮ったものですが、後ろのほうでは発掘作業をしていたのかもしれませんね。(参考) → 毎日新聞記事へ
2010年11月08日
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松花堂跡から元の道に戻り、さらに上っていくと、「石清水社」の社殿が見えてきます。石清水社石清水社は、石清水八幡宮の摂社で、もともとは男山山中から湧き出る清泉を神として祀ったのが起こりだと言われています。今でも岩間から清水が湧き出ているそうです。鳥居をくぐったところにある建物(上の写真の左側)は「石清水神水舎」です。ここに「石清水井」という井戸があります。さらに右手の石段を上がったところにあるのが本殿です。石清水井は、筒井、藤井、山ノ井、閼伽井とともに八幡五水(男山五水)と呼ばれます。その中でも石清水井は特に尊ばれ、皇室や将軍家の御祈祷の際にはこの霊水を山上の本宮に献供していたと言います。筒井筒井は一の鳥居を入ったところ、頓宮の北門前にあります。藤井藤井は、頓宮の南門の外、高良神社の鳥居の左側にあります。山ノ井山ノ井は、すでにご紹介したように、相槌神社の右脇にあります。閼伽井(あかい)はどこにあるのだろ? 閼伽井坊という宿坊があるようなので、その近くにあるのかもしれません。もう少し調べてみます。
2010年11月07日
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石清水八幡宮の表参道の途中にある「影清塚」から先、表参道を離れて階段を上っていきました。 表参道を離れて、、、階段を進むと、途中で右に大きく折れ曲がる場所があります。そこから分岐して左へ行く細い階段がありました。分岐する階段「史跡 松花堂およびその跡」の石碑この場所にはかつて、松花堂昭乗(しょうかどう・しょうじょう、1582もしくは1584~1639)が晩年に住んだ「松花堂」と呼ばれる「方丈」があった場所です。「史跡 松花堂およびその跡」「文部省 昭和32年7月1日指定」と刻まれた石碑が建っています。「方丈」の意味は1辺が1丈(約3メートル)ほどの正方形、あるいはその広さの部屋という意味で、それが転じて住職が住む部屋という意味もあります。庵(いおり)という言い方のほうが分かりよいかもしれませんね。松花堂昭乗は江戸初期の僧侶で、堺の出身です。書道、絵、茶道に優れた才能を持った人で、寛永三筆の一人と言われるほど書に秀でていました。かつては男山四十八坊と呼ばれるほどたくさんの宿坊があったそうです。明治維新直後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によりほとんどが無くなりましたが、松花堂は移設されました。現在は2キロほど南にある場所にあり、「松花堂庭園・美術館」として一般公開されています。松花堂の跡「土間」昭和57~58年(1982~83年)に行われた発掘調査で遺構が確認され、それをもとに復元されたのが上の写真です。一番手前が「土間」、その先が「茶室」です。写真ではなかなかお伝えできませんが、かなりこじんまりとした敷地です。松花堂の跡地上の写真で、右奥が松花堂の敷地です。中央の柵で囲まれたところが「中露地」と呼ばれる庭の部分です。井戸井戸もありました。上部は金網状のフタで覆われています。
2010年11月05日
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石清水八幡宮の表参道を上っていくと、「大坂」の手前、景清塚から右に入っていく道があります。「景清塚」の碑表参道の分岐地点上の写真、左手への道(「本殿」と書かれている)が、現在の表参道です。右手への道(「松花堂跡・石清水社を経て本殿」と書かれている)は、近世に現在の表参道ができる以前の参道だということです。「旧・参道」階段が始まる直前、小さな石造りの橋があります。「駒返橋(こまかえりばし)」の碑橋といえば橋ですが、小さな溝の上に渡された石の板、といったところです。松花堂跡へと続く階段上の写真で、一番手前の石が「駒返橋」です。縁の石がほんの少し高くなっていますが、これが「橋」とはなかなか気付きませんよね。では、表参道をそれて、松花堂跡を見に行きましょう。
2010年11月04日
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石清水八幡宮の表参道の「七曲り」の階段下に、「相槌神社」が建っています。 相槌神社同上かつては一般の参拝者は、二の鳥居から「神幸橋」を通るルートではなく、ここから七曲りの階段を上っていくことになっていたようです。もともと、相槌神社も石清水八幡宮の摂社だったそうで、江戸時代には七曲りの階段の途中にあったようですが、現在は独立した神社だそうです。ところで、鳥居の額には「三条 小鍛治 相槌神社」と書かれています。鳥居額「鍛治」は辞書的には「鍛冶」ですが、昔から混同して使われていて、日本の町名にも両方が存在します。ネットで調べていても、どちらが正解なのか、単なる誤用なのか、判断がつきません。よって以下では「鍛冶」とします。この三条小鍛冶(さんじょうこかじ)とは、平安時代の中頃(10世紀ごろ)に活躍した刀工、宗近(むねちか)のことです。京都三条に住んでいたことから三条宗近とも言われます。謡曲「小鍛冶」の中のストーリーでは、一条天皇(在位986年~1011年)の勅命で、稲荷神の化身である童子と共に槌を打ち、名刀を作り上げたことになっています。この相槌を打った稲荷神がこの相槌神社に祀られているということです。またそのときに、相槌神社の右にある「山ノ井戸」の水を用いたとも言われています。「山ノ井戸」一方、『平治物語』や『源平盛衰記』などには、源満仲(913年~997年)の命を受けた筑前国(いまの福岡県)の刀鍛冶が、男山にこもって神託をさずかり、二振の神剣を作って献上したという話が載っているそうです。これが源氏代々の宝剣、「膝丸(ひざまる)」と「髭切(ひげきり)」だというのですが、その真偽は不明のようです。ちなみに、京都市東山区には「合槌稲荷神社」があります。宗近が住んでいた近くにあり、同じ話が由緒として残っているようです。ただしそのときに作った刀の銘は「小狐丸」だそうです。
2010年11月03日
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石清水八幡宮へ歩いて詣でるには、表参道と裏参道が一般的ですが、南側からのルートもいくつかあります。そのうちの一つが、最近散策路「せせらぎルート」として整備された道です。男山の南東の谷沿いに下っていき、京阪バス・走上り(はしあがり)バス停にたどり着きます。せせらぎルートの案内表示「湯谷門」跡かつてこの場所に門があった跡です。散策ルートは、ここから階段を下っていくのですが、訪れたとき、ここを通る人の姿はありませんでした。階段の下に続く道はなんとなく寂しげでしたので、降りていくのはやめました。仲間と散策するなら楽しいかもしれません。石標「右 なら かうや みち」と読めます。奈良や高野山へと続く道です。
2010年11月02日
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「景清塚」からしばらく、ほぼまっすぐの坂道が続きます。「大坂」と呼ばれている坂道です。「大坂」ひたすら山の上を目指して歩いていきます。急な階段があって右手に御茶屋が見えてきたら、あと少しです。最後の階段階段を上り切ったところが、前にご紹介した神馬舎です。表参道の道案内ここからまっすぐに本殿へ続く道があります。
2010年11月01日
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