ターザンひでおのHP

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その2(アメリカ編1)


の語学学校に入ることにした。テキサス州の州都オースチンである。州都と言っ
てもこじんまりした町で自然が多く音楽が盛んで、当時はまだ治安も良かった。
とても好きな町だ。当時は良く友人たちとダウンタウンで夜中まで遊んだ後、徒
歩で家まで30分くらい歩いて帰ったものだった。うわさによると最近は治安が
悪くなっているようだ。

こんな片田舎なので日本人は全く居ないだろうと思っていたが、思ったよりも居
た。なかにはブルライディング(牛に乗るロディオ)をやりに来たという奴や、
ブルースギターをやる為に来たという奴もいて、結構、みんなで夢を語り合った
りして楽しかった。アメリカという国は自分の夢を自由に語り合えるような雰囲
気になるから不思議だ。日本に居た時はこっぱずかしくて語れなかった。

私も人に「何しにアメリカ来たの?」と聞かれると「宇宙飛行士になりたいん
だ!」と答えていた。そのおかげで学校の先生から、大学の教授なんかを紹介し
てもらい、「どうしたら宇宙飛行士になれるか?」なんてことを聞きに行ったり
した。今思うとアメリカに着きたてのあの語学力でよく行ったものだ。いろいろ
な人に聞いて回ったが、結局、「アメリカで宇宙飛行士に応募できるのは、アメ
リカ国籍の人間だけだから、アメリカ人と結婚する気が無いんだったら、日本の
宇宙飛行士プログラムに応募しなさい。」との事だった。

とは言っても、日本の宇宙飛行士の募集条件は理系の大学を卒業後、2年の実務
経験との事なので、この時点では私は応募資格はなかった。それに、この時はア
メリカの自由な雰囲気と生活がすっかり気に入ってしまい、例え宇宙飛行士の道
へ繋がっていなかったとしてもアメリカの大学院に行きたいと思い始めていた。

大学院入学のための最大のネックはTOEFLのスコアだったので、私はひたす
ら英語の勉強をしながら、様々な大学院に願書を出した。その結果、1年後にN
Y州立大学バッファロー校に入学を認められた。

話は前後するが、私はアメリカに住んでたころホームシックにはかからなかった
が、カルチャーショックはかなり受けた。

まず、言葉が通じない。日本でそれなりに勉強してきたつもりだったので日常生
活くらいはできると思っていたのだが、テキサスの地元の人達はCNNニュース
のようなクリアーな英語は話してはくれなかった。当時は車を持っていなかった
ので、車を持ってる友人と一緒に行動するとき意外は、バスを利用していたのだ
が、バスの乗り降りさえも言葉が通じず苦労した。まるで何もできない子供に戻
った気がしてひどく落ち込んだこともあったのを良く覚えている。

そういえば、車を買う金は無かったので自転車を買ったのだが、自転車置き場に
鍵付きの鎖で巻きつけて止めておいたのだが、一晩で盗まれた。その時はじめて
同じ寮に住んでるアメリカ人が自転車を自分の部屋の中まで持ち込んでいるのに
気がついた。

アメリカが車社会だと痛感したのは、土曜日に町外れのショッピングモールに行
こうとしたときに、そのモール行きのバスに乗ったのに途中で「ここが終点だ」
といわれて降ろされたことがあった。土曜日はバスの便が少なくモールまで行か
ないのだという。日曜日にいたっては完全に運休らしい。一番利用者が増えるは
ずの土日にモールに行かないということは、大抵の人は車を持っているというこ
とを意味していた。

結局、私は友人と二人で真夏のテキサスの日差しの中をモールまでとぼとぼ2時
間かけて歩いた。良くのたれ死ななかったものだ。そういえばその時、はじめて
自動販売機というものが全く存在しないことに気がついた。アメリカでは路上に
自販機を設置することは「盗んでくれ」と言っているに等しい事を意味するよう
だ。おかげでほんとにのたれ死ぬところだった。帰りはどうやって帰ったか覚え
ていない。また、これを気に友人が車を買う決意をしてくれたので、その後は快
適な生活だった。ちなみに横断歩道というものもほとんど存在しなかった。歩行
者用の設備が比較的整っているのはNYやロス、サンフランシスコの中心部のみ
のような気がする。

あと、驚きだったのはアメリカは以外にサッカーが盛んなことだった。公園に行
けばかならずサッカーゴールがあり、良く中国系やラテン系、アラブ系の人達と
一緒に草サッカーをやったものだ。アメリカの子供たち(幼稚園児ぐらい)のサ
ッカーチームも良く試合をしていた。

しかし、一番の驚きは、女の子が気軽に声をかけてくれることだった!といって
もあいさつ程度なのだが。通学途中にめちゃくちゃ美人のブロンドの女の子が歩
いていて、思わず見とれていると”ハイ!”なんて声をかけてくれる。あるとき
はバスに乗ってきたおねーさんがこれまた美人で、またまた見とれていると、笑
顔を投げかけてくれる。あの頃の俺にもっと英語力と勇気があれば、俺の人生は
もっと違っていたことだろう。今頃、ブロンドの奥さんと子供に囲まれてアメリ
カでのほほんと生活していたかもしれない。

話が、大分それたが、私は大学院に行くために大好きなオースチンを後にし、バ
ッファローへと引っ越すことになった。(つづく)


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