江戸東京ぶらり旅

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老中と側用人

江戸時代の老中,側用人ってどんな役職なの?


 「 老中 」とは,江戸(徳川)幕府の公務員の中でも将軍の次に偉い立場の役職なんです。でも語源はわかりません。それで,これほど偉いのは経験のあるお年寄り,「老人の中」から選ばれた人,ということで「老中」と呼ぼう,ということにしておきますね。

 この老中は,現代なら首相に相当するかな? お給料が10万石程度の実力ある譜代大名(徳川家と親戚関係にある大名ですかね)から選ばれたのですよ。幕府を維持するための重要な役職,政治を一手に任されている立場だから,徳川と無関係な人を任命するわけにはいかない。

 それで,老中はリーダーシップを発揮しなければならない。老中の定員は4~5名,月交代で一人がこの役目を担当。たった一月で業績をあげなくてはならないのだから大変。でも,権力が一人に集中して,どこかの知事のように「入札妨害」などやられては困る。重大な事柄については,だから一人の判断に任せないで老中みんなで相談したのですね。このような制度では,この下にいる役人たちの能力が高くないといけませんね。上がどんどん代わっても,びくともしないように。現代の役人主導による政治と似ていますね。

 臨時的な場合ですが,老中の上にさらに役職が置かれることもあったのですよ。どんな場合なのでしょうね。それで老中の上の立場だから「 大老 」,老人中の老人,大老人といった感じですね。いかにも偉そうですね。首相の上の立場だから,もと首相経験者でしょうかね。老中もやりにくかったのではないでしょうか。




 「 側用人 」とは,将軍のお側にぴったりとついて,将軍の用事をこなす人,といった意味あいがありますね。だから「側用人」と名前がついたのかどうか。将軍と老中の間の連絡調整係という仕事をしました。まあ,現代なら官房長官といったところですか。でもこの側用人の立場をうまく利用すれば,将軍も老中も思いのままに動かせますね。面白い立場ですね。

 側用人の役職を置いたのは五代将軍の綱吉さんから。自分のお気に入りを任命するのは当然。側用人,身分の上では老中より下なのですが,それなら側用人なんか置く必要がないよね。将軍は自分の考えを,老中にあれこれ言われないで実行するにはいいシステムですね。「私の好きな犬を粗末に扱ってはならぬ。それに私は戌年であるぞ。君,宜しく頼むよ」なんて言ったのか。



 牧野成貞とか後に川越藩主になった,そして六義園の造営を行った柳沢吉保は綱吉さんの側用人として活躍しましたね。それもそのはず,自分の地位のために,妻妾を綱吉さんに差し上げたのですからね。もらう方ももらう方ですが。このあたりのお話は,別の日に。


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