温泉三昧

「娘が残した9冊の日記」(一部省略)


                                植木誠(教研学習社代表)2005年7月

 22年前、11歳だった娘の亜紀子は「ママ、ごめんね……」という言葉と9冊の日記帳を残し、この世を去りました。3歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に費やした彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。しかし私の胸の中に去来したのは、罪悪感以外の何ものでもありませんでした。
 当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、22年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、私の赴任先も例外ではありませんでした。昼間、学校で生徒指導に奔走し、ヘトヘトになって帰宅すると、娘が一晩中、薬の副作用で嘔吐を繰り返す。あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで大変だった」と入院先での容態を聞かされる。「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」と心の中で叫んでいました。そしてある日、妻にこう言ったのです。
「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命仕事をする。経済的に負担をかけないようにするから、任せておけ」
 もっともらしく聞こえるでしょう。しかし本心は「逃げ」でした。
 彼女を失い、初めて治療に関して「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。俺は罪人だ。
 もういまさら遅いけれども、彼女の8年の闘病生活と向き合いたい。その思いから、娘が残した9冊の日記帳に手を伸ばしたのでした。
「12月2日(木) 今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。今までやったことのない検査もいろいろありました。でも、つらかったけど全部そのことを乗りこえてやってきたこと、やってこれたことに感謝いたします。これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。きっと本当にそうだなと思います。もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います」
「2月10日(木) 早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。また、いつも自分のことしか考えている子にしないで下さい」
 点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は乱れていました。
 あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、その日は検査や治療で忙しかったらしく、夕方私が病院に着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。
「きょうは忙しくてできなかった」と妻に言われ、一瞬ムッとした顔をしましたが、娘はそれを見て、「ママやってあげて。私のことはいいから」と言ったのです。
 私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。そうして教職を辞して出版社を設立、娘が残した日記をまとめ出版したのです。各マスメディアが取り上げてくださったおかげで反響を呼び、映画化もされました。たくさんの激励のお手紙をいただき、それを励みに今日まで毎年1冊ずつ彼女が残した日記を出版し続けることができました。

 先日、私の講演もついに100回目を迎えましたが、その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った小学校でした。遥か後輩にあたる子どもたちが、「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。
 私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、どんなことがあっても続けていかなければならないという気持ちを新たにしました。


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